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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

母親からしか受け継がないミトコンドリアDNA

2022-08-18 06:15:53 | 日記

2019年9月山梨県道志村のキャンプ場で女児が行方不明になった事件で、2022年4月23日付近の山中で子供の後頭部とみられる人骨が発見され、4月26日複数の部位の人骨のほか、失踪当時女児が身に着けていたものと特徴が一致する運動靴・靴下・ハイネックシャツなどが相次いで発見されました。

5月12日の最初に発見された後頭部とみられる人骨のミトコンドリアDNA鑑定で、母親との間に「母系の親族関係が存在することに矛盾はない」とされ、5月14日には肩甲骨とみられる骨について染色体DNA鑑定を行った結果、検出されたDNA型が女児のDNAと一致することが確認されました。

通常DNA鑑定というと染色体DNAの鑑定を指すので、ミトコンドリアDNA鑑定での「母系の親族関係が存在することに矛盾はない」とはどういうことなのかお分かりでない方が多かったと思われます。

生物の教科書に載っているミトコンドリア

ミトコンドリアは真核生物の細胞内にあって、エネルギーを産生して細胞の活発な活動を支える役目をしており、核のDNAは両親から受け継ぎますが、ミトコンドリアのDNAは卵子に入った精子のミトコンドリアが選択的に排除されるため、ミトコンドリアDNAは母親からしか子孫へ遺伝しません。

母親が娘を生み、その娘が女児を生まない限り、男子を何人産んでも母親のミトコンドリアDNAはそこで途切れてしまいます。同じ母系の人はまったく同じミトコンドリアDNAを持つので、他の母系の人とは鑑別ができますが、同じ母系の人同士の個人鑑別はできません。

ミトコンドリアは1細胞あたり100個から2,000個程度含まれ、生体は運動をする際に筋肉を収縮させるための多くのエネルギーを必要としますが、このエネルギーの大部分がミトコンドリアによる有酸素性エネルギー代謝により作り出されます。いろいろな運動でトレーニングを続けると骨格筋や心筋のミトコンドリアが適応して、エネルギーの更なる供給や疲労耐性を向上します。

犯罪の現場で毛髪が見つかっても自然に落ちた毛髪では、染色体DNA鑑定のできる組織が残っていないことがありますが、ミトコンドリアDNAのサイズは1万6千塩基対ほどで、30億塩基対もの核DNAと比べると格段に小さく、ミトコンドリアDNA鑑定が可能なことがあります。古い人骨にもミトコンドリアDNAはたくさん残っていて復元が可能なので、1980年代からミトコンドリアDNAによる人類集団の系統解析が行われてきました。

核DNAによる人類集団の系統解析も行われてきましたが、日本やアメリカなどの研究機関が参加した「ヒトゲノム計画」で、2003年に核DNAの解読が終了したと発表されたにも関わらず、実はゲノムを構成する塩基配列30億対のうち、およそ8%は正確な解読ができていませんでした。

2022年3月31日アメリカの国立ヒトゲノム研究所をはじめ大規模な研究グループが、これまで技術的に解読困難だった部分も含め、完全な遺伝情報のデータベースを作成した論文を科学雑誌「サイエンス」に発表、20年遅れでやっと完全に解読されたため、今後、各方面の研究に大いに役立つと思われます。

これまでのミトコンドリアDNA と核DNAの分析を組み合わせた人類の系統解析の例として、南アメリカのコロンビア人のミトコンドリアDNAはほぼすべての人がモンゴロイド系の特徴を持っていましたが、Y染色体はほぼすべてがヨーロッパ系コーカソイド(特にスペイン人)に特徴的なタイプのみでした。

逆に東ヨーロッパの諸民族のミトコンドリアDNAはほぼすべてコーカソイド系でしたが、Y染色体及び核DNAにはモンゴロイド系の特徴を持っている人々が少なからず発見されました。これらは征服者の男性と被征服者の女性の混血によることを意味します。

人類が最初に「出アフリカ」を果たした時から、約5万年にも及ぶ人類の移動経路を明らかにするために、Y染色体やミトコンドリアDNAなどの遺伝子データを用いた研究が続けられていて、興味ある結果が蓄積されつつあります。

日本列島の旧人類の歴史は12万年前まで遡れますが、現生人類が現れたのは4万年から3.5万年前です。「縄文時代」は1万6,500年前から3,000年前までで、北海道から琉球列島までの日本列島の縄文人は遺伝子解析で均一な集団で、他の30の人類集団と比較して日本列島人としての特異性を示します。

北海道縄文人・北海道続縄文人・東北縄文人のミトコンドリアDNAの解析で、北海道縄文人で観察されたハプロタイプは4種類だけで、N9bと呼ばれるタイプが64%を占めますが、現代の本土の日本人で観察されるハプロタイプは10種類以上になります。

日本人のハプログループの割合

東北縄文人のD4は現代日本人では高頻度に出て来ますが、北海道縄文人ではまったく出てきません。北海道で見られるG1bは東北では見つかっていません。関東縄文人は北海道縄文人と東北縄文人の多くが占めていたN9bとM7aを低頻度に保有していて、この縄文の3集団にはN9bとM7aが共通するDNAとして観察されます。

N9bとM7aはアムール川下流域のシベリア原住民に多く、日本人より高頻度です。琉球ではM7aが25%の高頻度で見られ、8%から10%の本土とは際立った特徴を示し、沖縄での頻度が世界一高いのですが、台湾先住民族にはまったく見られません。

この遺伝子型が地球上に出現したのは2万2千年位前とされますが、縄文時代前期の青森県東道の遺跡で確認されていて、N9bとM7aは縄文前期までに北海道を通って東北まできていたと考えられます。

アムール川下流域での最大勢力はY1で、この頻度が一番高いのはニブフと呼ばれる人たちで3人に2人が持っています。現代のシベリア先住民を代表するA、C遺伝子型は不思議なことに北海道、東北の縄文人にはまったく見られず、Y1、A、Cは現代の日本人には低頻度に見られますが、Y1の頻度が日本列島現代人の中で最も高いのがアイヌです。ちなみに、このY1、A、Cといったタイプは縄文時代以後にユーラシア大陸北東部で勢力を広げていました。

N9bが誕生したのは2万2千年くらい前で最終氷河極相期の少し手前の年代です。北海道縄文人、東北縄文人は遅くとも縄文の前期までには大陸から流入して、北海道、東北に濃密に分布し、関東地方にも低頻度に分布したことが分かっていて、ユーラシア大陸北東部の旧石器時代人の遺伝子型を色濃く保持したまま、北海道に隔離されてしまった旧石器時代人の子孫と考えられます。

関東地方まで南下している以上、北方系の細石刃を持った人たちがシベリアから北海道に入り本州まで南下し、そのまま北海道、東北地方の縄文人の主体を成したのではないかと想像されますが、在地のナイフ形石器群を持っていた人たちが当然いたわけですから、そうした人たちと混血しながら後世の日本人を形成していった可能性があります。

その在地型日本人の遺伝子型の1つが M7aです。M7aの分布は琉球で世界一の高頻度です。現代人について頻度を調べた結果では、沖縄から北に行くに従ってだんだん頻度が下がってきます。この遺伝子型は南方から日本列島に流入し、南から北に向かって分布範囲を広げていったことが想像されますが、縄文人3集団の中でM7aの頻度が一番高いのは東北地方縄文人で、関東地方縄文人よりも頻度が高く、台湾先住民や中国南部の人々にM7aがまったく見られないことから、簡単に南から日本列島に流入し、北に向かって勢力を広げたとは云い切れません。  

縄文時代の3集団はN9bとM7aを共有しています。北海道と東北はD10を共有し、東北と関東は D4を共有しています。しかし北海道と関東ではN9bとM7a以外に共有する遺伝子型はないのです。各地域の縄文人は地域ごとにある程度の遺伝子型を共有しながら、距離が離れるに従って遺伝的にも少しずつ疎遠になっている傾向があるのかもしれません。

結論として、北海道、東北地方はユーラシア大陸北東部の辺縁であって、北海道、東北地方の縄文人は日本列島に渡ってきたユーラシア大陸北東部の旧石器時代人の子孫です。稲作をもたらした人びとが日本列島の縄文人と混血して、本州、四国、九州が大和民族となったのが弥生時代ですが、北海道には弥生時代はなく、縄文時代から続縄文時代に移行します。

日本列島の縄文人がオホーツク文化を持ち込んだ人びとと混血したのは5世紀以後です。アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比では、日本列島固有のハプログループD1a2aが87.5%と大半を占めますが、これは琉球民族で50%弱、大和民族で30%ほどです。アイヌは北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC2を12.5%持っています。

母系の系統を表すミトコンドリアDNAの系統解析では、北海道縄文人にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されています。このうちN9bの頻度分布は64.8%と非常に高く、N9bはアムール川下流域の先住民に高頻度で保持されています。またD10はアムール川下流域の先住民ウリチにみられます。G1bは主に北東アジアにみられるハプログループGのサブグループで、カムチャッカ半島先住民に高頻度にみられます。

以上の遺伝子解析の結果から、大和民族は弥生時代に渡来して米作を広めた人びとが日本列島古来の縄文人と混血して成立しますが、北海道では縄文時代から続縄文時代に移行していて弥生時代がありません。北海道から琉球列島までの日本列島の縄文人は均一な集団で、アイヌは5世紀以後にオホーツクから渡来した農作をしない人びとが列島古来の縄文人と混血して成立したものです。

2008年(平成20年)アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議案が国会で可決されましたが、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」に単に追従しただけで科学的根拠に基づくものではなく、アイヌは我が国の先住民族ではありません。

日本人の祖先については強い関心がもたれていますが、遺伝子解析では1万6,500年前の我が国の縄文人が他の30の人類集団との比較で、日本列島人としての特異性を示すことが分かっていますから、我が国の紀元を神話によって僅か二千七百年に限るわけにはいかないでしょう。

大阪大学の岡田随象教授(遺伝統計学)の研究グループは、日本人集団15万人のミトコンドリアゲノムの情報を用いて、疾患、臨床検査値、食生活習慣などの99の形質との関連を調べ、筋逸脱酵素、腎機能、肝逸脱酵素、バセドウ病といった形質とミトコンドリアゲノムの配列が関係していることが判明しました。今後ミトコンドリアと疾患との関わりなどの解明が加速していくと考えられます。

 

 

 

 


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天璋院篤姫と皇女和宮(2)

2022-08-04 06:18:47 | 日記

万延元年(1860年)10月18日孝明天皇は和宮の降嫁を勅許し、中山忠能らが縁組御用掛に任ぜられて和宮付女官の選定に入り、宰相典庭田嗣子、命婦鴨脚克子らが選定され、母方の従姉妹に当たる大納言典侍橋本麗子が嗣子らと共に上臈となりました。

文久元年(1861年)4月19日和宮は内親王宣下を受け、親子(ちかこ)と諱(いみな)を賜ります。世上には「降嫁は幕府が和宮を人質にとるのが目的で、久我らは天皇を騙して幕府の計画を手助けしている」との噂が出て、孝明天皇は10月17日岩倉具視と千種有文に「和宮について江戸に下向し老中と面談して事の真偽を確かめるとともに、和宮の意向が叶うようにせよ」と命じます。

10月20日和宮一行は中山道を江戸へと向かいます。行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列は50km続き、御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されました。

和子内親王中山道大行列

11月15日和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入ります。21日岩倉、千種は老中の久世広周、安藤信正に「幕府は和宮を人質に天皇に譲位を迫る」との風説について詰問、幕府に二心が無いことを示す将軍自らが書いた誓紙を朝廷に提出するよう求めました。

12月11日和宮は江戸城本丸大奥に入ります。江戸到着から1か月近くを要したのは、御所風の遵守という点で和宮側と幕府、大奥側の調整が難航したためです。13日将軍家茂は和宮降嫁に関して幕府に二心の無い旨の誓紙を書き、岩倉らはこの誓書と老中の副書を持って京に戻りました。

この頃には庭田嗣子の書状で、和宮の江戸での状況は孝明天皇の知るところになっていました。「和宮の御所風の暮らしをとの要望がほとんど守られていない、父仁孝天皇の年回忌のための明春の上洛が和宮や女官たちが江戸での暮らしに慣れていないとの理由で延期を要請された、天璋院が和宮に様々な無礼を働いた、和宮と自分達に宛がわれた部屋は暗くて狭い、大奥の女中たちと折り合いが悪く和宮が涙したこともある」などと書かれていました。

文久2年(1862年)2月11日和宮親子内親王と徳川家茂の婚儀が行われます。それまでの将軍の婚儀とは異なり、和宮が征夷大将軍よりも身分の高い内親王であるため、嫁入りした和宮が主、嫁を貰う家茂が従という立場になりました。

その後京都には尊王攘夷を唱える志士が集まり、朝廷は島津久光に市中の警備を依頼します。朝廷の信頼を得た久光は自身が構想する幕政改革案「将軍が諸大名を率いて上洛し国事を議する、沿海5大藩の藩主を大老に任じて国政に参加させる、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任じ将軍の補佐にあたらせる」の3か条を朝廷に献策し、朝廷はこれを幕府に求める勅使大原重徳を江戸に派遣します。

勅使一行は6月7日に江戸入りし、大原は幕府へのものとは別に和宮宛の勅書を持参し、それには「天皇の思召しと行き違いが無い様、3か条の要求は和宮から将軍に伝えるように」とあり、6月13日に和宮は勅書の写しを将軍に手渡しています。7月1日幕府は3事策を受け入れました(文久の改革)。

8月に入ると京では攘夷を一向に実行しない幕府への批判から、天皇の攘夷親征を期待する声が強まりました。同時に和宮の降嫁に尽力した公卿、女官「四奸二嬪」への反発が強まり、久我、岩倉、千種、富小路敬直が蟄居・辞官・落飾、前月に関白を辞していた九条も重慎み・落飾となりました。堀河紀子、今城重子は辞官・隠居・落飾を命じられます。

10月12日朝廷は幕府に攘夷を督促するため、三条実美、姉小路公知の両名を勅使として派遣しました。11月27日両勅使は将軍に対面、12月5日攘夷実行について説明するため上洛する旨の返答書を受け取ります。これに先立つ11月23日幕府は和宮の呼称を「御台様」から「和宮様」へ改めました。

文久3年(1863年)2月13日家茂は江戸を出立し、和宮は家茂の無事を祈り24日から増上寺で御百度を踏んでいます。家茂は2月19日に二条城に入り、3月7日に参内、11日には孝明天皇の加茂行幸に供奉しました。4月11日の石清水八幡宮への行幸には風邪による高熱を理由に欠席しましたが、5月10日攘夷を実行する旨の奉答書を出さざるを得ませんでした。6月16日に家茂は海路江戸に帰還します。

8月18日「八月十八日の政変」が起こり、孝明天皇、会津藩、薩摩藩など幕府への攘夷委任を支持する勢力が、攘夷親征を目論む三条実美ら急進的な尊攘派公家と長州藩を朝廷から排除します。この政変で過激な攘夷・条約破約を唱える勢力が京都から追放され、29日家茂に対し再び上洛せよとの孝明天皇の内意が出ました。12月27日家茂は海路を京へ向けて出立し翌年5月8日帰府しました。

元治元年(1864年)7月19日、八月十八日の政変で都を追われた長州藩が御所を襲撃する「禁門の変」が起こります。8月2日家茂は長州征伐の命を下し、長州藩は事変の責任者を処分し藩主父子が謝罪文を提出して事態は一旦収束しました。しかし12月15日長州藩の政変で尊攘派が再び政権を握ったため、家茂は自ら長州征伐に乗り出し慶応元年(1865年)5月16日和宮の見送りを受けて品川から海路大阪へ向かいました。

9月16日アメリカ、イギリス、フランス、オランダの軍艦が通商条約の勅許と兵庫開港を求めて兵庫に集結し、幕府の奏請を受けた孝明天皇は10月5日に条約を勅許します。条約勅許の報を受けた和宮は11月1日「攘夷の実行を条件に徳川家に嫁いだのに、条約が勅許されては歴代の天皇、当今様(孝明天皇)に申し訳ない」と攘夷の叡慮を貫徹するよう朝廷に要請しています。

長州征伐は9月21日に勅許を得たものの、薩摩藩の出兵拒否などもあって開戦は延期されていました。翌慶応2年(1866年)4月大坂城の家茂が体調を崩し、6月には食事も進まなくなり、和宮は湯島の霊雲寺に病気平癒の祈祷を命じ、医師も蘭方医から漢方医に変えるよう手配して大坂に向かわせ、孝明天皇も典薬寮の医師を派遣しています。

7月20日家茂が大坂城で亡くなって7月25日訃報が江戸に届き、老中から家茂の継嗣は遺言通り田安亀之助でよいか和宮の意向が問われました。和宮は「時勢を鑑みて幼い亀之助ではいかがなものか。確かな後見人がいればよいが、そうでなければ然るべき人物を後継に立てるべき」と答えます。

老中板倉勝静らも一橋慶喜を第15代将軍に立てるべきと判断し、和宮は亀之助が成長した暁に慶喜の跡を継がせればよいとしました。7月28日幕府は朝廷に慶喜の徳川宗家相続と征長出陣の許可を求め29日勅許されますが、戦況は幕府の敗色が濃厚となり9月2日に終結しました。和宮は慶喜に攘夷の実行を願う書状をたびたび出しますが慶喜は黙殺します。

12月9日和宮は落飾し「静寛院宮」と改めました。12月25日孝明天皇が崩御し、和宮は1年余りの間に母、夫、兄を次々と失うことになりました。

慶応3年(1867年)1月9日明治天皇が践祚すると、橋本実麗、実梁父子ら、孝明天皇の勅勘を蒙って参内を止められていた公卿たちが復帰し、佐幕派で占められていた朝廷の顔ぶれは大きく変わります。5月8日明治天皇は摂政二条斉敬に和宮の帰京の方策を講ずるよう内旨し、6月に入ると朝廷と幕府の間で内交渉が始まりましたが交渉は進みませんでした。

10月に入って和宮から「攘夷のために下向したが、その甲斐も無くなった。これ以上、外国人が徘徊する江戸にいては朝廷の威信を汚すことになるので善処して欲しい」との要請があり、明年1月中旬までに上洛させることで決着します。

10月14日将軍徳川慶喜は大政奉還し、列侯会議を主導する形で徳川政権の延命を図りましたが、薩長両藩と手を結んだ朝廷内の討幕派は12月9日王政復古の大号令を発し、慶喜に辞官と領地の返上を求めました。この同じ日に和宮を京都に迎えるため公卿を江戸に派遣する旨が布告されます。

慶応4年(1868年)1月3日鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が勃発し、戦いに敗れた慶喜は12日に軍艦「開陽丸」で江戸へ戻りました。江戸城で軍議が開かれ、議論百出で大勢は主戦論に傾きましたが、既に朝廷への恭順の意を固めていた慶喜は和宮に取り成しを頼みます。

1月15日慶喜は天璋院の仲介で和宮に面会、自身の隠居と継嗣の選定、謝罪の伝奏を願いましたが、和宮は謝罪の件のみを引受けました。和宮は天璋院と相談して征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王には土御門藤子を、東海道鎮撫総督橋本実梁には上臈玉島をそれぞれ歎願の使者として差し向けます。

和宮の歎願書を携えた土御門藤子は2月8日に京に到着しました。その頃朝廷では徳川征討を主張する西郷隆盛らの薩摩藩と、外国の干渉を懸念して徳川家への寛大な処分を唱える岩倉らの公家が対立し結論が出ずにいましたが、次第に厳罰論が優勢になり2月15日に東征大総督有栖川宮熾仁親王の進発が決定しました。

3月1日土御門藤子は「願いの儀については朝議を尽くす」とだけの朝廷の返書を持って江戸に帰ります。返書とともに持参した実麗の文に副えられた正親町三条実愛の書状の写しには、謝罪の道筋が立てば徳川家の存続は可能とありました。3月2日一橋茂徳、田安慶頼の歎願書を大総督熾仁親王に届けることになり、和宮は歎願書を直接熾仁親王に見てもらえるよう橋本実梁に頼んでいます。

3月5日勝海舟が西郷隆盛に面会に赴く旗本山岡鉄舟に託した手紙には、慶喜の恭順の意を解さぬ士民が決起した場合統御の術がなく、和宮様の尊位は保ちがたいとの文言があります。9日山岡は駿府で西郷隆盛と会い、江戸城の開城、徳川慶喜の謹慎、幕府海軍の武装解除など、徳川家存続に向けた具体的な条件を引き出すことに成功しました。これを受けて13日江戸高輪の薩摩藩邸で勝と西郷が会談します。

後年、勝は「この日は和宮様について、皇女を人質にとろうなどという卑劣な考えは微塵も無いので安心されたい。その他のことは明日とだけ言って帰宅した」と述懐していて、翌14日の会談で勝は山岡の持ち帰った条件に添う形で恭順の意を示した歎願書を渡し、西郷もこれを受け入れて江戸城の無血開城がなりました。

3月18日和宮は徳川家の家臣たちに向け徳川家存続の朝廷の内意を知らせ、今は恭順謹慎を貫くことが徳川家への忠節になると書付を出し、幕臣達の説得にあたりました。3月20日朝廷は慶喜の助命と徳川家存続の処分を決定します。和宮は朝廷に徳川家への寛大な処分に対する御礼状を書いています。

閏4月12日和宮は橋本実梁に徳川家の城地、禄高について、家臣の扶助が継続できる禄高と国替えの宥免を願う直書を出します。新政府は副総裁三条実美に全権を委任し、三条は29日に亀之助の徳川宗家相続のみを許可し、城地、禄高の決定は先送りしました。徳川家の駿河国移封と所領70万石の通達があったのは上野戦争終結後の5月24日です。

徳川家の処分が終了すると、新政府は和宮に延びていた上洛を願い出るよう促しました。和宮は「徳川家の経済状況や江戸の市民感情を考えると、こちらからは願いを出しかねる。適当な名目を立てて朝廷から上洛を命じて欲しい」と希望しました。

明治2年(1869年)1月18日和宮は東海道を京都へと向かい、2月3日京都に帰着し聖護院に入り、24日に参内して明治天皇と対面します。明年の仁孝天皇二十五回忌まで京都に逗留することが徳川家に布告され、聖護院の屋敷が栄御殿と改称されます。明治3年(1870年)1月25日和宮は念願だった仁孝天皇陵への参拝を果たしました。

和宮はその後も京都に在住しましたが、甥の明治天皇や伯父の実麗らの勧めもあり、明治7年(1874年)7月に再び東京へ戻りました。麻布市兵衛町にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院、徳川家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになりましたが、この頃より脚気を患い、明治10年(1877年)8月元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めで箱根塔ノ沢温泉へ向かいました。

9月2日脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で亡くなります。31歳の若さでした。政府は葬儀を神式で行う予定でしたが、家茂の側に葬って欲しいとの和宮の遺言を尊重して仏式で行われました。墓所は家茂と同じ東京都港区の増上寺です。

芝の増上寺にある和宮の宝塔

島津家が篤姫を入内させ、朝廷が和宮を降嫁したのは、いずれも幕府からの申し入れが先行したものですが、徳川幕府の終焉に当たってこの2人の将軍御台所はともに大奥での生活が短かったのにもかかわらず、徳川家の人間になり切って篤姫が江戸城を戦火から救い、和宮が慶喜の助命、徳川総家の駿河国移封と所領70万石をもたらし、幕府直参の生活を確保しました。島津家や天皇家との結び付きがいかに強かったにせよ、御台所であったこの2人は、女性ならではの凄い裏の力をよくも発揮したものだとつくづく思わされます。

 


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