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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

ジョン万次郎

2021-05-27 06:20:40 | 日記

ジョン万次郎は1827年(文政10年)の生まれで、14歳の時漁船で遭難しアメリカ捕鯨船に救われてアメリカ本土に渡り、英語や航海術を身に着けてアメリカ人には「ジョン・マン」(John Mung)の愛称で呼ばれ、帰国後は「中浜万次郎」を名乗って、江戸末期から明治にかけてアメリカと日本で活躍した人物です。

中浜万次郎

1880年(明治13年)頃

万次郎は土佐国幡多郡中ノ浜村(現土佐清水市中浜)で貧しい漁師の家の次男として生まれ、万次郎が9歳のとき父が亡くなり母と兄が病弱であったため幼い頃から働いて家族を養い、寺子屋に通う余裕もなく読み書きはほとんどできませんでした。

10歳の頃中浜浦老役の今津太平の元へ下働きに出ましたが、漁師になることを強く望み、母の計らいで宇佐の筆之丞の元で漁師修行することになりました。

1841年1月27日(天保12年)14歳になった万次郎は、早朝の宇佐浦で足摺岬沖の鯵鯖漁に向かう漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込みます。仲間は船頭の筆之丞(38歳、後に伝蔵と改名)、筆之丞の弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく弟の櫓係の五右衛門(16歳)、もうひとりは櫓係の寅右衛門(26歳)の4人でした。

万次郎達は足摺岬の南東15㎞ほどの沖合で操業中突然の強風で航行不能となり、船ごと吹き流されて5日後伊豆諸島の無人島の鳥島に漂着、この島でわずかな溜水と海藻や海鳥で143日間生き延びました。1841年6月27日ウィリアム・ホイットフィールド船長のアメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号が島に立ち寄り万次郎達が救助されます。

足摺岬のジョン万次郎と仲間達の記念碑

波濤を背に生き延びようとする遭難中の万次郎(右端)と4名の漁師

当時の日本は鎖国中のため故郷へ帰るすべはなく、捕鯨船に乗ったままアメリカへ向かわざるを得ませんでした。11月20日ホノルルに寄港して万次郎を除く4名は宣教師Gerrit P. Juddの計らいで船を降り、寅右衛門はハワイに移住し、重助は5年後に病死、筆之丞と五右衛門はのちに帰国を果たしました。

万次郎はホイットフィールド船長に頭の良さを気に入られたせいもありますが、何よりも本人が希望して捕鯨船員としてアメリカ本土に向かいます。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚きました。

1843年5月7日ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、捕鯨の一大拠点であったアメリカ東海岸のマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港しました。この航海でグアム、ギルバート諸島、モーレア島、ホーン岬などを経由しています。

アメリカ本土に渡った万次郎はニューベッドフォードの隣町の、ホイットフィールド船長の故郷であるフェアヘーブンで、船長の養子のようにして暮らすことになりました。

ウィリアム・ホイットフィールド船長

1843年にはオックスフォード・スクールで小学生に混じって英語を学び、船長がスコンチカットネックに移ったため、スコンチカットネック・スクールに通い、1844年にはフェアヘーブンのバートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。彼は寝る間を惜しんで勉強し首席となりましたが、民主主義や男女平等など日本人にとって新鮮な概念に触れる一方で、人種差別も経験しました。

学校卒業後、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスが船長になった捕鯨船フランクリン号にスチュワードとして乗り組み、1846年から数年間捕鯨船員として過ごしました。このとき大西洋とインド洋を経由してホノルルに寄港し別れた仲間と再会しています。また琉球の小島にも上陸しましたが帰国は果たせませんでした。

この航海でボストン、アゾレス諸島、カーボベルデ、喜望峰、アムステルダム島、ティモール島、スンダ海峡、ニューアイルランド島、ソロモン諸島、グアム、マニラ、父島、ホノルル、モーリシャスなどに行っています。

1849年9月再びニューベッドフォードに戻りホイットフィールド船長と再会した後、帰国資金を得る目的でゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ向かい、数か月間金の採取に励みました。

そこで資金を得た万次郎はホノルルに渡り土佐の漁師仲間と再会、知己であった宣教師で新聞発行者のSamuel C. Damonの協力で、1850年12月17日上海へ向う商船サラ・ボイド号に購入した小舟の「アドベンチャー号」を載せ、伝蔵や五右衛門と共にハワイを出航しました。

年が明けて1851年(嘉永4年)サラ・ボイド号が琉球に近づくと、3人はアドベンチャー号に乗り移って上陸に成功、薩摩藩に服属していた琉球では英語で取り調べを受けたり地元住民と交流した後に薩摩に送られます。

鎖国中に海外から帰国した万次郎達は薩摩藩の取り調べを受けますが、薩摩藩は中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問しました。

斉彬の命で藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術を教え、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷の越通船を建造しました。斉彬は万次郎の英語や造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校「開成所」の英語講師として招くことになります。

万次郎らは長崎に送られ、長崎奉行所などで9か月間尋問を受けました。踏み絵によってキリスト教徒でないことを証明させられ、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られて土佐に向います。

高知城下でも吉田東洋の取り調べを受けましたが、その際の万次郎の供述を河田小龍が記録し、後に「漂巽紀略」としてまとめました。2か月後に帰郷が許され漂流から11年目にして故郷に帰ることができましたが、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられて藩校「教授館」の教授に任命され、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えます。

中浜万次郎の航海(1850年)

嘉永6年(1853年)7月8日ペリーが来航し17日に去りましたが、翌春の黒船再来航への対応を迫られた幕府はアメリカについての知識を必要とし、7月25日万次郎は幕府に召聘されて江戸へ向かい旗本の身分を与えられます。

その際生まれ故郷の地名「中濱」の苗字を授けられて江川英龍の配下となり、江川は万次郎が長崎で没収された文物を取り戻しました。勘定奉行川路聖謨が万次郎に訊ねたアメリカ事情は「糾問書」にまとめられています。

1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に英会話書「米対話捷径」の執筆、「ボーディッチ航海術書」の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働き、この頃大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいます。1854年(安政元年)幕府剣道指南団野源之進の娘鉄を娶りました。

英米対話捷径

当時英語をまともに話せるのは中浜万次郎ただ1人で、ペリーとの交渉の通訳には最適でしたが、水戸斉昭からスパイ容疑を持ち出されて通訳から下ろされ、日米和親条約の締結に向けては陰ながら助言や進言をして尽力しました。

万次郎はホーン岬、喜望峰を回って太平洋、大西洋の各所を巡り、アメリカ本土の石造りの市街地、鉄道や汽船の発達を熟知したことで、我が国が開国を要することを痛感していました。

当時は鯨油が今日の石油の役割を果たしていて、西太平洋でアメリカの捕鯨船が活躍するためには補給基地と遭難時の対策が不可欠なのも承知しており、いつの日か日本に国を開かせたいと書かれた万次郎の英文の手紙がアメリカに残っています。

万次郎が幕府に黒船来航のアメリカの真意は捕鯨船団の補給基地の確保であり通商が目的ではないことを説いた結果、ペリーとの交渉の初めに林大學頭が開港を切り出し、ペリーも通商に拘らずに和親条約の締結に向かったと云われます。この結果開港されたのは箱館と下田の2港でした。

1860年(万延元年)万次郎は日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節団の1人として咸臨丸に乗り、再びアメリカに渡ります。船長の勝海舟は船酔いがひどくて指揮を執れず、万次郎と技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉が船内の秩序保持に努めました。日本人の乗員も船酔いで、艦の運用はジョン・ブルック指揮下の5名のアメリカ人乗員が代行しました。

サンフランシスコ到着後は使節の通訳として活躍し、帰路ホノルルでSamuel C. Damonと再会しました。福澤諭吉と共にウェブスター英語辞書を購入し持ち帰ります。

1860年 桑港碇泊中の咸臨丸

1861年文久元年)12月幕府は外国奉行水野忠徳小笠原諸島に派遣し、小笠原が日本領であることを宣言します。小笠原のアメリカ人やイギリス人と面識がある万次郎も同行しましたが、忠徳の帰府後は松濤権之丞が残って八丈島からの移民とともに小笠原諸島を管理しました。

1862年(文久2年)万次郎は豪商平野廉蔵の出資で買い取った外国船「壹番丸」で捕鯨を行う許可を幕府に求め、翌年小笠原諸島近海で鯨2頭を捕獲しましたが、1863年5月1日たまたま権之丞が外国人をはじめて逮捕するホーツン事件が起こり、権之丞と逮捕した外国人を載せて5月11日に横浜に帰港します。

1864年からは鹿児島に赴任し薩摩藩の開成所の教授になり、1865年に長崎で薩摩藩が船舶5隻購入した際の交渉をしています。1866年(慶応2年)土佐藩の開成館設立にあたって教授となり英語、航海術、測量術などを教え、後藤象二郎と長崎や上海へ行き土佐帆船「夕顔丸」などを購入しました。

1867年(慶応3年)には薩摩藩の招きを受けて鹿児島に赴き、航海術や英語を教授しましたが、同年12月倒幕の機運が高まる中で江戸に戻りました。維新後の1869年(明治2年)明治政府により開成学校(現東京大学)の英語教授に任命されています。

1870年(明治3年)普仏戦争視察団員として、大山巌らと共に欧州へ派遣されます。8月28日グレート・リパブリック号で横浜発、9月23日サンフランシスコ着、鉄道を利用して10月28日にニューヨークに行き、ここでフェアヘーブンに寄り恩人のホイットフィールド船長と再会し、身に着けていた日本刀を贈りました。

11月にロンドンに着きますが、発病したため英蒸気船ダグラス号でスエズ運河を通り東回りで帰国しました。帰国後に軽い脳溢血を起こし数か月後には日常生活に不自由しないほどに回復しますが、以後は静かに暮らします。1898年(明治31年)71歳で亡くなり、1928年(昭和3年)正五位を追贈されました。

江戸時代の知識人の中には陽明学者の中江藤樹や蘭学者の平賀源内など下級武士や庶民出身の人たちもいますが、万次郎は当時米国を肌で知っている唯一の日本人でした。封建的な身分制度を超えて一漂流民の経験と見識から幕府に開国を決断させ、日本建国以来の危機を救うことになったのです。

 


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お蔭参り

2021-05-13 06:12:09 | 日記

「お蔭参り」(おかげまいり)は江戸時代に起きた伊勢神宮への集団参詣で、数百万人規模のものが60年周期で3回おきました。土地に縛り付けられた百姓の旅の規制が厳しかった江戸時代でしたが、伊勢神宮参詣の旅はほぼ無条件で通行手形を発行してもらえました。

伊勢名所図会

我が国の国家体制は681年の天武天皇の律令制定の詔に発し、689年の飛鳥浄御原令を経て701年(大宝元年)の大宝律令で完成し、6年に一度の造籍・班田収授、50戸1里の里制、国・評(郡)の地方行政組織、軍団・兵士制などの支配体制が整いました。

人民は良・賤(せん)に大別され、農を担う良民は戸籍に登録されて班田収授の対象となり、土地に縛り付けられて租庸調の納税義務を負い、その下に戸籍に登録されない賤民がいました。

都と地方を結ぶ官道が整備された一方、官民の移動を規制する関が設けられ私用で関所を越えるには所属する官司・国司・郡司に「過所」(通行証)の交付を受ける必要があり、自由な往来は出来ませんでした。

近江国から他国へ行き来する抑えの位置に逢坂関、鈴鹿関、不破関の三関を設け、異変が起きるとこの三関を遮断する固関(こげん)が行われ、鈴鹿峠から東が東国で東海道の足柄関、勿来関、東山道の碓氷関、白河関、北陸道の念珠関が設置されます。

中世には律令制が崩壊して武家、荘園領主・有力寺社などがそれぞれ勝手に関所を設けて関銭を徴収するようになり、通行税が中世の交通の最大の障害になりました。戦国時代には戦国大名たちの支配領域が広がったために関所の数が減りましたが、天下を統一した織田信長は関所を全廃します。

江戸幕府は再び関所を設け「入鉄砲と出女」を厳しく検問しました。入鉄砲は江戸に流入する武器の取り締まりで、出女は人質である大名の奥方が江戸から脱出するのを見張るものです。

武士の通行手形の発行は領主で、町人や百姓の場合は在住地の名主などでしたが、女性の関所の通過には厳しい規則が定められ「関所通行手形」(女通行手形)が必要でした。

この手形は幕府の御留守居役が発行する「御留守居証文」とも云われるもので、女性の素性や、旅の目的と行先、髪形、顔・手足の特徴などが細かく記載され、この記載内容と一致しなければ関所は通れませんでした。

女交通手形

男性は原則手形無しでも関所を通れましたが、多くの旅人は関所での面倒な取り調べを避けるために手形を持参しました。通行手形は大家や旅の途中で旅籠屋の主人に書いてもらうものもありました。旅の目的が寺社の参詣や湯治の場合だけは例外で「お伊勢さん」への参拝が全国的に流行しました。

伊勢神宮の正式名称は地名を冠しない「神宮」で、他の神宮と区別するために「伊勢神宮」が使われます。神宮には天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼びます。

下宮

内宮

神宮は神明造という古代の建築様式を受け継ぎ、式年遷宮が20年に一度行われます。神宮は皇室の氏神である天照坐皇大御神を祀る皇室との結びつきの強い神社です。

遷宮の図

「お蔭参り」(おかげまいり)は江戸時代に起きた伊勢神宮への集団参詣で、数百万人規模のものが60年周期で3回おきました。伊勢までは江戸から片道15日、大坂から5日、名古屋から3日、陸奥国釜石からは100日かかったと云われます。「抜け参り」とも呼ばれたお蔭参りの最大の特徴は奉公人が主人に無断で、子供が親に無断で参詣できたことです。

伊勢神宮は中世の戦乱で領地をすっかり荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃しましたが、お蔭参りのきっかけを作ったのは神宮で祭司を執り行っていた御師(おし)たちです。百姓に豊受大御神への信仰を広めるため各地で野良仕事に役立つ伊勢暦を配り、豊年の祈祷をし、伊勢神宮へお参りするよう布教しました。

お伊勢参りの説話で一番多かったのは「おふだふり」です。村の家々に神宮大麻(お札)が天から降ってきたと云うもので、これは伊勢信仰を広めるために御師がばら撒いたようです。

百姓の旅の規制が厳しかった江戸時代でしたが、伊勢神宮参詣の旅はほぼ無条件で通行手形を発行してもらえました。善光寺や日光東照宮の参詣なども同じで、在住地の町役人・村役人または菩提寺に通行手形を申請しました。

商家では天照大御神が商売繁盛の守り神、農家では豊受大御神が五穀豊穣の守り神であったことから、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合、親や主人はこれを止めてはなりませんでした。また親や主人に無断で旅に出ても、伊勢神宮のお守りやお札を持ち帰ればおとがめなしになっていました。

十返舎一九の「東海道中 膝栗毛」では江戸神田の弥次郎兵衛と喜多八がつまらぬ身の上に飽きて、厄落としにお伊勢参りの旅に出て東海道を伊勢へ、さらに京都、大坂を巡ります。

二人は讃岐の金比羅さまに参詣、安芸の宮島を見物、そこから引き返して木曾街道を東に向かって善光寺に参り、草津温泉を巡って江戸に帰りますが、2人は道中で失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを引き起こします。名所、名物の紹介に終始した従来の紀行ものとは異なり、旅先での失敗談や庶民の生活、文化を描いていたので絶大な人気を博しました。

十返舎一九の滑稽本「東海道中 膝栗毛」

お伊勢参りは庶民が一生に一度はと願う夢になりましたが、大金の旅費を用意するのは難しく、そこで生み出されたのが「伊勢講」です。講の参加者は定期的に集まってお金を出し合い、それを代表者の旅費にしました。代表者は「くじ引き」で公平に決められ、選ばれた者は農閑期に二、三人で連れ添って道中しました。

参拝者は盛大に見送られ、道中を観光し、伊勢では代参者として祈りを捧げ、土産として御祓いや新しい品種の農作物の種、松阪や京都の織物、伊勢近隣や道中の名産品、最新の物産などを買い込み、無事に帰るとお祝いが行われました。江戸時代の人々に、貧しくとも一生に一度は旅行ができる夢を与えたのはこの伊勢講です。

伊勢講の代表者は伊勢に着くと、自分達の集落担当の御師の世話になります。御師たちは宿坊を経営していることが多く、御師が豪華な食器に載った山海の珍味や歌舞でもてなし、農民が使ったことがない絹の布団に寝かせるなど代表者を飽きさせませんでした。

参拝の作法を教え、伊勢の名所や歓楽街を案内して回りましたが、豊受大御神が祀られている外宮を先に参拝し、天照大御神が祀られている本殿の内宮へ向かうのがしきたりでした。

代表者は講で集められたお金で伊勢にゆくので、土産を持たずには帰るわけにはいきません。当時最新情報の発信地であったお伊勢さんで知識や技術を仕入れ、流行を知り、見聞を広げて帰りました。

神宮の神田には全国から稲の種が集まっていて、参宮した農民は品種改良された新種の種を持ち帰ることができ、最新の柄の織物や農具の唐箕(とうみ 手動式で風をおこして籾を選別する風車)、芸能(伊勢音頭に起源を持つ歌舞)などを実物や口頭、紙に書いた旅の記録として各地に伝えました。

1705年(宝永2年)は本格的なお蔭参りの始まりの年で、2か月間に330万~370万人がお伊勢さんに参詣しました。本居宣長の「玉勝間」によると4月上旬から1日に2~3千人が松阪を通過しました。

歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」

1771年(明和8年)4月11日宇治から女、子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断で離れ、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりで、松阪ではピーク時には道を横切るのが難しいほど大量の参詣者が通ったと当時の日記に書かれています。

参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃し、初めは集団ごとに幟に出身地や参加者を書いていたのが段々と滑稽な幟や卑猥な幟が増え、お囃子も老若男女がそろって卑猥ごとを並べ立てるようになりました。

街道沿いの物価は高騰し、白米1升50文が相場のときに4月18日には58文、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がり、わらじは5月3日に8文だったものが5月7日には13~15文、5月9日には18~24文に急上昇しました。

信心の旅であるため街道沿いの富豪による施行も盛んで、無一文で出かけた子供が銀を持って帰ってくることもありましたが、施しを受ける方は徐々に感謝もしなくなり金をもらうだけの目的で加わる者も出てきました。

1830年(文政13年 / 天保元年)の文政のお蔭参りは60年周期の「おかげ年」が意識されて、参加人数は大幅に増えました。何故か参詣にひしゃくを持って行き、外宮の北門に置いてくるのが流行りました。江戸時代の総人口はほぼ3千万人ですが参詣者が427万6,500人で総人口の7割になります。経済効果は86万両以上で、物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されています。

明治時代に入ると古代の律令制の官制に倣って神祇制度が復活し、伊勢神宮は全国神社の頂点の神社と位置付けられる一方、御師は正規の神職ではないため1871年(明治4年)御師職が廃止されて、お伊勢参りの熱は冷めていきます。

明治以降は国民の旅行制限がなくなり、鉄道や汽船など交通網の発達で明治の終わりから大正の初めにかけて国内観光が盛んになりましたが、我が国が極東に位置する島国のため、第二次大戦前の船便による海外旅行は一部富裕層に限られました。

敗戦後の占領下では海外旅行がGHQと日本政府に強く規制されて、私用の旅行は不可能でしたが、1964年海外旅行が自由化された時点では高度経済成長によって国民の所得が増えていた上、空路の利用が可能になっていました。その当時知り合いの誰かが海外へ向かう際には、羽田で盛大な見送りをしたものです。

その後ジャンボなどの大型ジェット機の登場でツアー会社による大型団体旅行が企画され、特定の団体のツアーも、個人が参加するツアーも、すべてツアー会社任せで、参加者はパスポートと身の回りのものを用意すればよくなりました。

一方インターネットで情報を得て自分ですべてを企画し、単独で行動する旅行者も増えていて、世界中で日本人観光客がいない観光地を探すことが難かしくなったと云われます。

2020年に始まったコロナの感染が全世界に一挙に広まったのは如何に国際間の交流が盛んなのかを示すものでしょうが、2021年春の状況ではいつになったらコロナ騒ぎが治まり世界中での旅行の制限が解除されるか、まったく見当がつかない状況が続いているのはご存知の通りです。

 


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