樋口季一郎(ひぐち きいちろう)は1888年(明治21年)8月20日生まれの陸軍軍人で、最終階級は中将です。淡路島出身で歩兵第四一連隊長、第三師団参謀長、ハルピン特務機関長、第九師団長等を歴任、第二次世界大戦終戦時には第五方面軍司令官兼北部軍管区司令官でした。
北部軍司令官時代の樋口季一郎中将 昭和18年頃
樋口は第二次世界大戦の直前、ドイツによる迫害から逃れたユダヤ人避難民に、満洲国を経由して上海を目指すことを認めた「ヒグチ・ルート」で知られています。
第二次世界大戦ではアリューシャン列島のアッツ島で麾下の部隊が初の玉砕を遂げましたが、キスカ島の部隊の奇跡的な完全撤収に成功したことでも知られました。
終戦の玉音放送後の8月18日千島列島北端の占守島に強行上陸してきたソ連軍を大本営の停戦命令に違反して撃退し、ソ連軍の北海道占領を遅らせて日本国の南北分断を未然に防ぎました。
樋口は1902年(明治35年)大阪陸軍地方幼年学校に入学、1909年陸軍士官学校に進み、東京外語学校でロシア語を徹底的に学びます。陸軍士官学校(21期)を優秀な成績で卒業し、1918年(大正7年)陸軍大学校卒業(30期)、1919年歩兵大尉に進級して参謀本部附となり、同年12月「シベリア出兵」中の派遣軍司令部附ウラジオストク特務機関員として、ロシア系ユダヤ人の一家に下宿しました。
以後、満洲、ロシア方面の部署を巡り、1925年公使館駐在武官としてポーランドに赴任しました。ポーランドの暗号解読技術は当時世界一とされていて、樋口と共に暗号解読技術習得のためポーランドに留学した陸軍の百武晴吉らを、下宿先のユダヤ人がよく世話してくれたと云います。
1935年(昭和10年)8月ハルピン第三師団参謀長、1937年3月参謀本部附となりベルリンへ出張。8月2日陸軍少将に進級、ハルピン特務機関長に着任しました。
ハルビン特務機関長時代の樋口
1937年撮影
1937年12月26日第1回極東ユダヤ人大会が関東軍の認可で開催され、陸軍はユダヤ通の樋口と安江仙弘大佐を派遣しました。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチスドイツの反ユダヤ政策を激しく批判し「ユダヤ人追放の前に彼らに土地を与えよ」と述べ、列席したユダヤ人の喝采を浴びます。
翌1938年3月ドイツの迫害から逃れたユダヤ人たちが、シベリア鉄道でソ満国境のオトポール駅まで来ました。目指すのは上海の米国大使館でしたが、上海に到るには満州国を通過しなければなりません。満洲国外交部は日独防共協定を意識してユダヤ人に入国許可を出しませんでした。
極東ユダヤ人協会の代表アブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口は、窮状を見かねて、即日、ユダヤ人達へ食料と衣類、燃料の配布、要救護者の治療を実施し、ソ連出国の斡旋や上海租界までの移動の手配をしました。樋口は満鉄総裁松岡洋右に直談判し、満鉄の列車で18人を脱出させます。
杉原千畝がリトアニアのカウナス領事館で、ナチスドイツの迫害で欧州各地から逃れてきた難民に外務省の訓令に反して大量のビザを発給し、6,000人のユダヤ人を救った話は有名ですが、その2年前のことです。
この「ヒグチ・ルート」での脱出に頼るユダヤ人難民は増え続け、東亜旅行社(現日本交通公社)の記録では、ドイツから満洲里経由で満洲へ入国した人数は1938年の245人が、1939年には551人、1940年には3,574人に増えています。
樋口ルートを経由した難民は2万人とも云われますが、樋口の書いた原稿には「彼らの何千人かが満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」とあったのに、芙蓉書房出版の「回想録」では何故か二万人になっていて、これが難民の実数に混乱をきたす原因になったと指摘されています。1941年の記録は欠けていて、正確な人数は把握できませんが数千人と推定されます。
樋口はポーランド駐在武官当時、日本人の誰も行ったことのないコーカサス地方を旅し、チフリス郊外のある貧しい集落で偶然呼び止めた一人の老人がユダヤ人で、樋口が日本人だと知ると家に招き入れました。
樋口にユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日露戦争に勝利した日本こそがユダヤ人を救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴えましたが、樋口はオトポールのユダヤ人難民の報告を受けた時、その出来事が脳裏をよぎったと述懐しています。
このヒグチ・ルートは日独間の大きな外交問題となり、リッベントロップ独外相からの抗議で、陸軍内部でも樋口に対する批判が出て、関東軍では樋口の処分を求める声が高まりました。
樋口は関東軍司令官植田謙吉大将に自らの考えを述べた書簡を送り、関東軍司令部に出頭した樋口に参謀長東条英機中将は理解を示して不問とし、ドイツからの再三の抗議を人道上の当然な配慮によるものとして撥ね付けました。
第二次世界大戦開戦翌年の1942年(昭和17年)8月1日樋口は北部軍司令官として、北東太平洋の陸軍を指揮することになります。アリューシャン列島はアメリカ領ですが、アッツ島、キスカ島の2島は、当時、日本軍が占領していました。
アリューシャン列島
1943年に入るとアメリカ軍が反攻に転じます。大本営はこの状況を把握しても南方に多大の兵力を投入している状況下で、アメリカ軍の両島の奪回作戦に増援部隊を送ることは、地理的にも兵力的にも不可能でした。
1943年5月12日アッツ島にアメリカ軍が上陸を開始します。21日大本営はアリューシャンの放棄を決定、アッツ島守備隊の玉砕とキスカ島守備隊の撤収を決めました。
5月29日アッツ島守備隊は我が国初の玉砕を遂げましたが、キスカ島では5月27日から6月21日の間に延べ18隻の潜水艦で820名を救出し、7月27日13時40分濃霧をついて救出艦隊がキスカ湾内に侵入し、一時的に霧の晴れる幸運も加わって、キスカ島守備隊5,200名を僅か55分で収容することに成功しました。
機密の撤収作戦に必要な濃霧が発生する天候を待ち続け、1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも作戦を強行しなかった海軍の指揮官、木村昌福少将の冷徹な判断が奇跡を呼び起こしたのです。
救出艦隊は守備隊を身軽にするために携行している小銃まで投棄させ、ピストン輸送に使用した大発も回収せず、収容時間を短縮してキスカ湾を全速で離脱し、再び深い霧に包まれた空襲圏外に脱出しました。
木村は総合的な判断から収容時間は1時間が限界とみて、兵士の収容を迅速にするためすべての兵器の海中投棄を陸軍に求め、樋口は大本営や陸軍省上層部の決裁を仰がず、独断で承認しました。当時の陸軍兵士にとって、小銃に刻まれた菊の御紋章は命より大切なものだったのです。
キスカ撤収後にこのことを知った陸軍上層部は海軍に抗議しようとしましたが、木村、樋口と2人の陸海軍現地司令官の決断が、撤退作戦成功の重要な鍵だったと認識されるに至りました。8月15日米軍は大兵力でキスカ島に上陸作戦を敢行しましたが、日本軍はもぬけの殻です。
樋口は同年10月2日札幌三越で開催された「忠烈山崎部隊景仰展」会場を訪れ、自らが玉砕を命じざるを得なかった藤田嗣治の「アッツ島玉砕」の戦争画に見入っていました。
1944年(昭和19年)3月10日樋口は第五方面軍司令官として、南樺太と千島列島を担当地域に置き、1945年2月1日北部軍管区司令官を兼務します。我が国の降伏の直前の8月10日ソ連が対日参戦しました。玉音放送の翌16日大本営はやむをえない自衛戦闘を除き、戦闘行動を停止するよう全軍に命じます。
第五方面軍を指揮していた樋口はその命令後も、南樺太でのソ連軍への抗戦を命じて戦闘を継続させます。樋口はソ連による日本本土占領を懸念していたのです。
8月18日午前1時千島列島北端の占守島(しゅむしゅとう)にソ連軍が侵攻してきました。その報告が樋口の下に届くと、樋口は占守島の第九一師団に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と、侵攻したソ連軍への反撃を命じます。大本営の停戦命令を無視した独断命令でした。占守島の日本軍は武装解除のため、既に、戦車の武装を外すなどの作業を終えていました。
千島列島
占守島には米軍の侵攻に備えた第九一師団と、精鋭の戦車連隊が置かれていて、戦車第一一連隊長は「戦車隊の神様」と云われた池田末男少将でした。様々な機材をすでに取り外してしまった戦車の再装備に時間がかかりましたが、池田隊長は準備のできた戦車から順次発進させます。
午前6時戦車隊は「池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。祖国の弥栄を祈る」と全員死を覚悟した電報を打ち、上陸したソ連軍への攻撃を開始します。戦車隊は27両の戦車が大破、池田隊長以下96名が戦死しましたが、ソ連軍も1,000名以上の死体を残して退却しました。
樋口から第九一師団司令部宛に「18日午後4時をもって全面停戦」の指令があり、8月21日降伏文書の正式調印が行われました。日本側の死傷者は600名、ソ連側の死傷者は3,000名でした。
当時占守島には日本にただ1つ残った日ロ漁業の缶詰工場があって2,500人が働き、400人の女子工員がいました。堤不夾貴師団長と世話役の大尉は、何としても女子工員を無事に北海道に送り返すと決め、18日午後4時半空爆を避けた霧の中で20数隻の漁船に分乗した女子工員を、北海道に向けて送り出すことに成功しました。
ソ連のスターリンは日本が降伏文書に署名する前に、ヤルタで密約があった樺太と千島列島に加えて、北海道も占領して既成事実化する積りでした。16日スターリンは留萌から釧路以北の北海道占領をトルーマン米大統領に要求して拒否されていますが、南樺太の第87歩兵軍団に北海道上陸の準備を命じています。
しかし樋口の独断による占守島の抗戦でソ連の千島列島占領が遅れ、北海道侵攻までには至りませんでした。北海道占領を断念したスターリンは28日、北海道上陸を命じた南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島に至る千島列島全域を占領させ、現在に至っています。
樋口が陸軍随一の対露情報士官としてソ連の北海道占領の野望を見抜き、独断で抗戦を命じていなければ、我が国の南北分断が実現していたことでしょう。スターリンは極東国際軍事裁判で樋口を「戦犯」に指名します。
世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知し、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かしてロビー活動が始まったと云われます。日本を占領していたGHQのダグラス・マッカーサーは、ソ連からの引き渡し要求を拒否し樋口の身柄を保護しました。
ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会の幹部には、オトポールで樋口に助けられた難民が幾人かいて、樋口救出運動を展開したのです。
樋口自身がこの救出運動を知ったのは戦後5年を経てからでした。1950年アインシュタインが来日して東京渋谷のユダヤ教会でユダヤ祭が開催された際、樋口夫妻が招待されて幹事役のミハイル・コーガンが演壇でスピーチを始めます。
このコーガンはハルピンで開催された極東ユダヤ人大会で樋口の護衛を務めた青年で、世界ユダヤ協会が樋口救出運動に乗り出していたという驚くべき事実を述べました。
続いて1948年のイスラエル建国に当たり、国家建設と民族の幸福に力を貸してくれた功労者を永遠に讃えるための「黄金の碑」を建立しましたが、樋口の名と「偉大なる人道主義者、ゼネラル樋口」の一文が、その碑の上から4番目に刻まれていると伝えたのです。
コーガンの話が終わると講堂を埋め尽くしたユダヤ人たちは「ヒグチ」「ヒグチ」と連呼し、拍手と歓声は鳴りやみませんでした。
樋口は1946年に小樽市に隠棲。過去は語らず、アッツ島玉砕の絵の前で毎朝、戦死者の冥福を祈っていました。1970年に東京都に転居した後10月11日に死去、墓所は神奈川県大磯町の妙大寺です。
歴史は一人一人の行為の集積の上に成り立つのですが、偉大な人物の存在が歴史の方向性を決めていきます。日本民族は樋口の存在を誇りとして後世に伝えて行くべきでしょう。