ナイル川はアフリカ大陸東北部を北に流れ地中海に注ぐ長さ6,650kmの大河で、この下流域に紀元前3800年ごろ古代エジプト文明が生まれ、紀元前3150年ごろエジプト古王国が築かれました。
ナイル川沿いの遺跡群
紀元前2200年頃にはその南のヌビアにクシュ王国が建国され、クシュはエジプトのトトメス1世によって滅ぼされましたが、紀元前900年頃ナパタで再興し、紀元前747年にはエジプトに攻め込んでエジプト第25王朝を築きました。
エジプトはペルシア帝国の支配を経てプトレマイオス朝のもとで独立を回復しますが、紀元前30年クレオパトラ7世の時にローマ帝国の皇帝直轄地となります。
395年ローマ帝国が東西に分裂してエジプトは東ローマ帝国領となり、4世紀から5世紀にかけてキリスト教が普及しますが、639年イスラム帝国に征服されイスラム化しました。
古代からナイル川は7月にエチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こし、この洪水が砂漠気候で少雨のエジプトに肥沃な土壌をもたらしました。
洪水と云っても毎年決まった時期に起こる穏やかなもので、この時期を知るために世界最古のシリウス暦が作られ、洪水後に農地を元通りに配分する測量術と幾何学が発達しました。
古代のエジプトはナイル川の第一急流までの間が河川交通で結ばれており、エジプト文明が盛んになるにつれてその影響力は徐々に次の急流にまで伸びていきます。
第12王朝期には第二急流のすぐ下流にまで達し、冬季は季節風を利用して帆掛け船で川を遡行することができ、現在でもファルーカと呼ばれる帆船が利用されています。
アビドス遺跡の壁画の船列 3,800年前
16世紀にヨーロッパとの交流が始まり青ナイル川周辺の地理が知られ、1615年ポルトガルのイエズス会の修道士ペドロ・パエスがタナ湖を発見、1770年にスコットランド人の探検家ジェームズ・ブルースによりタナ湖が青ナイル川の源流であることが確認されました。
白ナイル川の源流は不明のままで白ナイル源流の探索はヨーロッパ人のアフリカ探検の主要なテーマとなり、1858年にイギリス人のジョン・ハニング・スピークがヴィクトリア湖を発見しました。
実はアフリカ内陸部に金や象牙の交易路を持っていたアラブ人交易商の1160年頃の地図にヴィクトリア湖が描かれており、ナイル川の水源であることも示されていましたが、ヨーロッパには伝わっていなかったのです。
スピークはこの湖をイギリス女王の名を取って「ヴィクトリア湖」と名付け、ナイル川の水源だと信じましたが確証には至らず、ヴィクトリア湖より南にあって大西洋にそそぐコンゴ川の水源であるタンガニーカ湖をナイル川の源流であると考えたバートンとの間で、大論争が起きました。
1862年スピークはヴィクトリア湖北岸から大きな川が北へ流れ出していることを確認し、この流出地点の滝をリポン滝と名づけナイル川の源流の謎は解けたと考えましたが、サミュエル・ベーカー夫妻が1864年アルバート湖を発見し1866年に発表したためさらに混乱しました。
アルバート湖はナイル川の上流部に位置していて、流入する水の大部分はヴィクトリ湖からなのですが、エドワード湖からセムリキ川も流れ込んでいて、湖の北からアルバートナイルが流れ出しています。
デイヴィッド・リヴィングストンがこの論争を受けて探検に乗り出しましたが、源流の確定に至らずに客死しました。その跡を継いだヘンリー・モートン・スタンリーは1875年ヴィクトリア湖のリポン滝を確認したのち湖を周回して、ヴィクトリア湖がナイル川の源流であることを確定しました。
ヴィクトリア湖には多数の流入河川がありますが、ヴィクトリア湖に流れ込む最長の川はルワンカゲラ川で、その支流でもっとも長いルヴィロンザ川がナイル川の最上流とされます。
白ナイルと青ナイル
ヴィクトリア湖は標高1134mで赤道直下のサバナ気候により降水量が多く、ナイル川への流出口にはオーエン・フォールズ・ダムが建設されて発電しています。
ヴィクトリア湖から500km下流でキオガ湖とマーチソン・フォールズを経て標高619mのアルバート湖に至ります。アルバート湖から南スーダンに入り急流を一つ越えると首都ジュバです。
ジュバからは勾配が非常に緩やかでノ湖で支流のバハル・エル=ガザル川が合流し、そこから先は白ナイル川と呼ばれます。
このあたりはスッドと呼ばれる大湿原で、大量の水分が蒸発して流量が激減し、スーダンのハルツームで青ナイル川と合流します。スッドの出口であるマラカルから800km先のハルツームまでの標高差は12mしかなく非常に流れが緩やかで、ハルツームを過ぎて80km地点に北から6番目の急流が出現します。
ここからエジプトのアスワンまでの間は急流が舟運を拒んできました。第6急流の北200kmには古代のクシュ王国の都のメロエがあり、さらにその北ハルツームから300km下流のアトバラでアトバラ川が合流します。
これより北は完全な砂漠気候でナイル河谷を除いては人が住んでいません。第4急流付近にはメロエ以前にクシュの都であったナパタがあり、2009年メロエダムが完成し大規模な発電を開始しました。エジプトに入るとアスワン・ハイ・ダムとそれによって出来たナセル湖があり、ナセル湖の長さは550kmに及びます。
アスワン以北が古くからのエジプトで、幅5kmほどのナイル河谷に人が住みアスワンからカイロまでが上エジプトで、この区間はほぼ一本の河川ですが、北西へと流れる支流があってカイロ南西にファイユーム・オアシスを作りカルーン湖に注ぎ込みます。
カイロから北はナイル川三角州が発達している下エジプトで、アレクサンドリアからポートサイドまで240kmの幅を持ち、多くの分流が地中海に注いでいます。
ナイル川は全体を通して流量が非常に大きく変化し、上流のアルバート湖付近の流量は1048㎥/秒、南スーダンのサッド湿地では蒸発により流量が大きく減少し510㎥/秒となります。
サッド湿地を下りマラカルで合流するソバト川は流量の変化が大きく、増水期の3月には680㎥/秒で渇水期の8月には99㎥/秒です。増水期にはソバト川に多くの浮遊物が流れ込み白ナイルの語源となっていますが、合流点付近の白ナイル川の流量も1218㎥/秒から609㎥/秒の範囲で変化します。
その後ハルツームで青ナイル川、アトバラでアトバラ川が合流し、アトバラより下流では砂漠気候の乾燥地帯を流れるために、蒸発による影響を大きく受けます。
1月から6月にかけての乾季の青ナイル川の流量は約113㎥/秒で、アトバラ川は雨季以外にはほとんど流量がなく、ナイル川の流量は白ナイル川からのものが7割から9割を占めます。
エチオピア高原の雨季にはアトバラ川も青ナイル川も流量が増大し、8月の青ナイル川の流量は5,600㎥/秒以上となり、ナイル川の流量の8割から9割を占めます。
青ナイルは標高1,800mのタナ湖から短い距離で急激に高度を下げるため、河床を侵食し大量の堆積物を下流にもたらします。この土は肥沃で洪水時にエジプトに堆積し農産物の富をもたらしてきました。
アスワン・ハイ・ダム建設以前のアスワンでの流量は増水期には渇水期の15倍に達しましたが、1971年のダム建設後のダム下流の水量は年間を通じて一定です。
アスワン・ハイ・ダム
ナイル川の源流が確定されるとヨーロッパ列強がこの地域に手を伸ばし始め、エジプトに強力な利害を持つイギリスがとくに熱心でした。ナイル上流が他の列強に支配されると、ナイルの水に頼るエジプトが甚大な被害をこうむる可能性があったからです。
こうした中でエジプトの圧政に耐えかねたモスリムのムハンマド・アフマドが1881年にマフディー戦争を起こします。1882年にエジプトを保護国としたイギリスはチャールズ・ゴードンを派遣しましたが、1885年にハルツームが陥落しゴードンも殺害され、マフディー国は現在のスーダンの領域まで領土を拡大し、イギリスは一時スーダンからの撤退を余儀なくされました。
エジプト最南端の赤道州の総督エミン・パシャはドイツ人で、彼を救出する名目でイギリスとドイツがそれぞれ軍を派遣しますが、イギリス軍が1889年にエミン・パシャを救出したものの赤道州政府は消滅しました。
ヘルゴラント=ザンジバル条約は、1890年にイギリスとドイツの間で結ばれた条約です。ドイツが北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊、およびドイツ領東アフリカのダルエスサラームの海岸を獲得し、ケニア海岸沿いにある小さな保護領ウィトゥランドをイギリス領東アフリカの一部とすることを認めたものです。
これによりナイル上流域はすべてイギリスの勢力範囲となり、ヴィクトリア湖周辺のブガンダ王国、ブニョロ王国、トロ王国、アンコーレ王国といった国々と条約を締結し、1894年にウガンダ保護領が成立しました。
このころのイギリスはイギリス植民地でアフリカを南北に縦断する政策を掲げ、フランスはアフリカ大陸最西端のダカールからサヘル地帯を次々に植民地化して、フランス植民地によるアフリカ横断を狙いました。
この二つの政策はファショダで衝突しフランスが譲歩して撤退、ナイル川流域のイギリスの覇権が確立され、流域のほとんどがイギリスによって一体的に統治されることになりました。
1922年にエジプト、1956年にスーダン、1962年にウガンダがイギリスから独立しますが、ウガンダやスーダンでは内乱や紛争が絶えず、1955年から1972年の第一次スーダン内戦、1983年から2005年にかけての第二次スーダン内戦が起き、2005年の和平合意に基づき2011年に南スーダン共和国が独立しました。
エジプトでは1901年にアスワン・ダムが建設され、治水能力が大幅に向上しましたが洪水を完全に阻止するまでには至らず、1952年からガマール・アブドゥル=ナーセル大統領がアスワン・ハイ・ダム計画を推進し1970年に完成させました。
アスワン・ハイ・ダムはナイルの洪水を完全に防止し、これまで洪水期に使用できなかった広大な土地の使用が可能になりました。1998年にナセル湖からの送水によって2,250km2の農地が開発され2003年に完成します。
アスワン両ダムの発電量は当時のエジプトの発電量の半分近くに及び、湖の出現によってこの地域の漁業も盛んとなりました。
しかし一方でアスワン・ハイ・ダムの建設に伴い、アブ・シンベル神殿やヌビア遺跡など貴重な古代エジプトの文化遺産がダム湖に沈むため、遺跡の高台への移転を余儀なくされています。
イシス神殿
ダム建設により水没する運命となり高台に移築
洪水がなくなりナイル川が運んで来る肥沃な土壌が農地に届かなくなると大量の肥料が必要となり、ナイル川下流地域では灌漑による塩害の発生や土砂の流出などに悩まされ、エジプト政府はこの対策をせまられています。
その南にあるスーダンでも1920年代から始められたゲジラ計画や1966年のロセイレス・ダムなどの建設で水利用と開発が進みました。ゲジラ計画は青ナイル川のセンナールダムから大規模な幹線水路を引き込み肥沃なハルツーム南のジャジーラ州を灌漑するもので、白ナイル水系にも1937年にジェベルアリダムを建設して水を引きました。
最終的に灌漑水路の総延長は4,300km、灌漑エリアは8,800 km2におよぶ大規模なものになり、スーダンは1930年代に世界有数の綿花生産国になって小麦などの生産も向上し「アフリカのパン籠」と呼ばれるようになりました。
スーダンのオマル・アル=バシール大統領は2009年に白ナイル川と青ナイル川の合流するハルツームの北にメロウェダムを建設しましたが、ナイル川の水は周辺諸国にとって貴重で、とくにエジプトはナイルの水への依存率が97%(1996年)に達するので激しい争奪戦の的になっています。
1929年にはエジプトと、エジプトと共同でスーダンを統治していたイギリスの間で水利協定が結ばれて両国間の水配分が決定され、エジプトは自らの水の利用に影響する上流での河川開発事業で拒否権を保持することが認められました。
1959年にはスーダンとエジプトの間で新たな水利協定が結ばれ、ナイルの年間水量840億m3のうち蒸発分100億m3を除いた555億m3がエジプト利用分、185億m3がスーダン利用分と決定されました。
この配分や既得権はエジプトにとって非常に有利なもので上流域諸国に不満が高まり、1999年2月にナイル川流域イニシアチブが流域9か国によって結成され、ナイル川の総合開発や水資源の配分について総合的に話し合う場となりました。
上流域の不満は大きく2010年5月には「ナイル流域協力枠組み協定」という新協定が提案されましたが、これは他国に影響を与えない範囲で自国内の水資源を自由に使えるようにするもので、下流に当たるエジプトとスーダンは水の割当量減につながるとして拒否します。
ナイル川流域諸国
一方上流域にあたるエチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニアはこれに参加し、さらに青ナイル川の上流で一番多くの水量を支えているエチオピアはグランド・エチオピア・ルネサンス・ダムの建設を推進し、両陣営間の対立が表面化しました。
特に問題になっているのはエチオピアが2011年から建設している総工費45億ドルの「グランド・エチオピア・ルネサンスダム」で、同国は6年でダムを満杯にする方針を立て2020年7月から貯水を始める意向を示しました。
アフリカ連合が調停に入り2020年は貯水を終えましたが、2021年も貯水の意向を示したことで揉め、ナイルの水争いが全面決着に至るかどうかは不透明です。
いずれにしてもエジプトに古代文明をもたらしたのは、ナイル川下流の毎年の定期的な氾濫がもたらした肥沃な土地であったことに間違いなく、チグリス川、ユーフラテス川流域で同時代にシュメール文明が栄えたのも、人の定住に及ぼす川の重要性を示すものでしょう。