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黒船来航(日米和親条約締結)

2021-06-10 06:14:52 | 日記

 

嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航

「日米和親条約」は1854年(嘉永7年)江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約です。日本側全権は林復斎大学頭、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーで、この条約で日本は下田と箱館を開港し鎖国が終りを迎えました。

アヘン戦争における清国の敗北が我が国に詳細に伝えられている中で、日本人漂流民7人の送還のために来航したアメリカのモリソン号を浦賀や薩摩で砲撃した事件がおこり、幕府は1842年(天保13年)「異国船打払令」を「薪水給与令」に改め、外国船が日本に寄港した際には必要な食料や薪水を与え、速やかに退去させる方針に変えました。

幕府はこの方針の変更を諸外国に伝えるよう長崎のオランダ商館長に要請しましたが、対日貿易を独占していたオランダは1851年まで諸外国に知らせることはしませんでした。

老中水野忠邦は狭い江戸湾で敵艦が封鎖行動に出れば、江戸の消費量の6割の物資を運搬している廻船が江戸に入れなくなることを恐れていました。1845年4月17日鳥島やその周辺海域で遭難した日本の漁師22人を救助したアメリカのマンハッタン号が浦賀に入港し、幕府は長崎に限っていた漂流民の受け入れを例外として浦賀で行いました。

1849年4月アメリカのプレブル号が長崎に来航し、オランダ商館経由でアメリカ漂流民14人を引き取りました。アメリカ海軍省が議会に提出した尋問調書では「捕鯨船内より長崎の半年間のほうが待遇ははるかに良かった。食べ物は十分にあり、衣類も冬物と夏物をもらい、屋敷牢はかなり自由だった。」と報告されています。

老中首座の阿部正弘は1850年のオランダ商館からの「別段風説書」で、北太平洋で操業する捕鯨船主らのロビー活動によりアメリカ議会では日本の開国の議論が起きていることを承知しており、1852年の報告で翌年春以降にペリーに率いられたアメリカ軍艦が江戸にくることも報告されていました。

1852年夏このことは阿部から有力譜代大名に知らされ、同年暮には外様の雄藩である薩摩の島津斉彬にも知らされました。幕府はペリー来航の地を浦賀か長崎と想定し、長崎中心としていたオランダ通詞の配置を換えて浦賀奉行所の体制を強化しました。

1853年(嘉永6年)7月8日フィルモア米大統領の命を受けたペリー提督は6月6日に首里城を訪問し、6月14日に小笠原諸島の父島を訪問した後、蒸気外輪フリゲートのサスケハナ(旗艦)、ミシシッピ、帆走スループのプリマス、サラトガの艦隊を率いて浦賀沖に現れ、大統領の国書を渡すことが目的であることを伝えました。

旗艦 サスケハナ号

幕府は艦隊の長崎回航を強く求めましたが、ペリーが「要求を拒否するなら国書を渡すために強力な武力をもって上陸する」と回答したため、7月12日久里浜で国書を受け取る旨を伝えます。

7月14日ペリーは久里浜に上陸、大統領の開国・通商を求める親書およびペリーの信任状と書簡を渡し、7月17日翌年の再来を予告して江戸湾を去り琉球へ向かいました。

マシュー・カルブレイス・ペリー提督

アメリカの国書には日本と国交を結ぶために使節を送ること、アメリカに侵略の意思がないこと、アメリカの国土が大西洋と太平洋をまたいでいること、アメリカの蒸気船が18日で日本に至ること、日本が鎖国状態を時勢に応じて変更すべきであること、多くのアメリカ船がカリフォルニアから清国に向けて出航していること、捕鯨船も日本近海に多く出漁していることが書かれてあり、難破船の乗組員の救出、アメリカ船への水や食料の補給、通商の開始の3つの具体的な要求項目が掲げられていました。

翌1854年2月13日7隻の艦船が再び来航し横浜沖に停泊しました。蒸気船はポーハタン号(旗艦)が加わって3隻になり、艦隊は後に2隻が加わり9隻になりました。

幕府は当初要求された項目に対し具体的な回答をしない方針でしたが、3月4日難破船の乗組員の救助と食料・水・薪の補給を認めることに方針を変え、通商の開始は徳川斉昭の強い反対のため見送ることにしました。

3月4日幕府は横浜村に応接所を設置し約1か月にわたる協議の末、3月31日に全12箇条からなる日米和親条約を締結し調印します。日本側の実務担当者は林大学頭でした。

ペリーが英文版に署名しましたが、林は英文版には署名せず、林、井戸、伊澤、鵜殿の応接掛4名の署名・花押のある日本語版1通を渡しました。オランダ語版は通訳森山が署名した日本のものと通訳ポートマンが署名したアメリカのものが交換され、漢文版は通訳松崎の署名・花押のある日本のものと通訳ウィリアムズが署名したアメリカのものが交換されました。

日米和親条約の英語版原文

双方が同じ版に署名したものは1通もなく、正文を何語にするかの交渉は日米間で行われませんでした。幕府側が譲歩したのは下田、箱館の2港の開港だけで、開国に強く反対する国内の勢力を抑えることはできましたが、この条約の第11条は和文と英文で内容が異なっており、この違いが後にハリスが下田に到着した際に大きな外交問題に発展します。ペリー艦隊は6月25日に下田を去り、帰路琉球へ立ち寄り琉球王国と通商条約を締結しました。

下田了仙寺

下田条約が締結され、暫定的なアメリカ人休息所として設定された

日米和親条約の抜粋は以下の通りで、条約の中で日米間に相違が生じていたのは第11条でした。

第2条 下田(即時)と箱館(1年後)を開港する。この2港において薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。

第3条 米国船舶が座礁または難破した場合、乗組員は下田または箱館に移送され、身柄受け取りの米国人に引き渡される。

第10条 遭難・悪天候を除き、下田および箱館以外の港への来航を禁じる。

第11条(和文)両国政府が必要と認めたときに限って、本条約調印の日より18か月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる。

第11条(英文)両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18か月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる。

アメリカは当時東アジアとの貿易のために太平洋航路を必要としていました。当時の蒸気船では十分な燃料を積み込むことができず、水、食料についても補給が必要で、脚気や壊血病の防止、乗組員が満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給が必要で、補給のための寄港地として日本の港が必要でした。

ペリーは日本との交渉のために漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズと、オランダ語通訳アントン・ポートマンを乗艦させていました。フィルモア大統領の親書は漢文およびオランダ語に翻訳され、日米和親条約も日本語、英語に加えて漢文版、オランダ語版が作成されて内容の確認が行われています。会話による交渉はオランダ語が中心で、親書受け渡しの儀式にはポートマンのみが参列していますが、文書による交渉では漢文が併用されました。

日本側でもオランダ語通詞の堀達之助は多少の英語ができ、2回目の来航時には長崎でラナルド・マクドナルドから英語を学んだ森山栄之助が第1通訳となっています。米国から帰国していたジョン万次郎は徳川斉昭にスパイ疑惑の讒言をされて交渉には参加していません。

条約の日本語批准書原本は幕末の江戸城火災により焼失し、オランダ語の批准書原本のうちアメリカ合衆国が持ち帰ったものがアメリカ国立公文書記録管理局で保管されています。2004年(平成16年)には日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へ条約批准書のレプリカが贈られました。

日米和親条約付録の下田条約の交渉が了仙寺で行われ、付録条約の交渉は日本側全権林大学頭、江戸町奉行井戸対馬守、下田奉行伊沢美作守、都築駿河守らとペリー提督の間で行われました。

5月13日両者会見の日アメリカ側は祝砲を轟かせ、大砲4門を先頭に軍楽隊演奏にのって300人の水兵が剣付き鉄砲を肩に了仙寺まで行進し、下田の人々を驚かせました。5月22日了仙寺で下田条約が調印され、25日に条約書の交換が行われます。

下田条約は日米和親条約の規定に基づく下田、箱館2港の開港にあたっての細則定めたもので13か条から成り、この付録条約の内容には米船員の上陸場所、欠乏品供給所、異人休息所(了仙寺、玉泉寺)、洗濯場、立入許可区域、鳥獣の捕獲禁止、商品取引の管理、死亡者の埋葬(玉泉寺)、港内水先案内人の設置等の細目が決められていました。

下田条約と呼ばれる条約は2つあって、もう1つは1857年(安政4年) 6月17日伊豆下田調印された日米和親条約の付属協定で、安政3年日本に着任したアメリカ総領事 T.ハリス下田奉行井上清直らの間で結ばれたものです。

後者の下田条約では下田、箱館の開港細則をさらに拡大して居留地権限について定め、特に領事裁判権制度が樹立され、新たに長崎を開港することや両港のほか長崎開港に関する細則もこの協定で定められました。
アメリカ人の下田・箱館の居留を許可すること、アメリカと日本の貨幣を同種同重量(金は金、銀は銀)で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収することなどが定められた全5か条から成っています。とりわけ第4条で規定された領事裁判権は翌年締結された日米修好通商条約にそのまま取り入れられ、以後の各国との不平等条約に受け継がれることになります。

 

黒船来航(日米修好通商条約)に続く。

 

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