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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

続縄文文化と擦文文化

2020-07-09 06:15:13 | 日記

今から2千数百年前に米づくりの技術をもった人びとが西日本にやってきて、本州に弥生文化が広がり縄文文化が終わりを迎えます。この人びとは中国の長江付近からきたようです。

弥生文化の人びとは弥生式土器を用い青銅や鉄などの金属の道具も使っていて、縄文文化の人びとは弥生文化の人びとと混血しながら現在の日本人の祖先になったと考えられています。

弥生文化は西日本から広まって東北地方まで達しましたが、北海道の人びとは米づくりをせず、縄文土器を使い続け、縄文文化を発展させていきました。しかし本州との交易によって縄文時代にはなかった鉄器を手に入れ、狩猟、漁労、採集の技術が発達しました。紀元前数世紀から7世紀ころまで北海道で続いたこの文化を「続縄文文化」と呼んでいます。

続縄文文化の初めのころ、北海道には南西部と北東部で異なる文化が広がっていました。南西部には道南の恵山(えさん)から名付けられた「恵山式土器」を用いる人々がいて「恵山文化」と呼ばれています。

続縄文文化前半の恵山文化の土器。

北海道博物館所蔵

恵山文化は多くの貝塚を残していて釣り針やモリなどがたくさん見つかり、海の漁労に依存していたと考えられますが、有珠モシリ遺跡からは南海産のイモガイ製貝輪が発見され、本州と交流があったことが分かります。

北東部では道南とは異なる土器が使われ、副葬品として「コハク玉」が用いられました。芦別市の滝里安井遺跡には4,000個の道内最大のコハクの首飾りがあり、サハリン産のコハクも見つかっていて北方と交流があったと考えられています。

続縄文文化の後半には北海道全域に「後北式土器」が広がり、この土器は東北地方や新潟県にも広がっていて、続縄文文化が東北地方北部にも伝わっていたことが分かります。

続縄文文化後半の後北式土器

北海道博物館所蔵

余市町のフゴッペ洞窟では1〜4世紀ごろの岩に描かれた刻画が見つかっています。小樽市の手宮洞窟で見つかったものも同じ刻画だと分かりましたが、この岩面に刻画を描く文化がどこからきたのかは謎のままです。

余市町のフゴッペ洞窟刻画

5世紀になるとそれまで北海道に住んでいた人びとの文化とは大きく異なる文化をもつ人びとが、サハリンから北海道のオホーツク海沿岸にやってきました。この人びとの文化を「オホーツク文化」と呼んでいます。

このオホーツク文化は日本海沿岸にも広がり奥尻島にも遺跡がありますが、遺跡は沿岸部に限られ、内陸部には見つかりません。オホーツク文化の人びとはクジラやアザラシなどの海獣をとり、イヌやブタを飼い、大陸や本州と交易を行っていました。

海岸近くに集落をつくり、地面を五角形あるいは六角形に掘り下げた竪穴住居に住み、遺跡からは帯飾り、軟玉、小鐸、鉾などが見つかっています。これらはアムール川中下流域の靺鞨文化(4~9世紀)、同仁文化(5~10世紀)の遺跡から見つかるのと同じものです。

オホーツク式土器

ところ遺跡の森所蔵

クマの彫刻品

トコロチャシ跡遺跡出土 ところ遺跡の森所蔵

同じころ本州文化の影響をうけた北海道特有の文化が成立します。縄文土器と石器が使われなくなり、本州の土師器に似た土器と鉄器が使われます。この文化を「擦文文化」(さつもんぶんか)と呼びますが7~12世紀ごろまで続きました。

擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6~7世紀)、東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半~8世紀)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期のもの(9世紀)に大別されます。また青森県五所川原窯で作られた須恵器も北海道各地から出土しています。

擦文土器

札幌市K-446遺跡出土 札幌市埋蔵文化財センター所蔵

擦文時代の集落は狩猟や採集に適した住居の構え方をしていました。秋から冬にかけてサケ、マスなどをとる時期には、常呂川や天塩川などの河口の丘陵上に構築したカマド付きの四角い竪穴住居の大集落の本拠で過ごし、他の時期は川の中流より奥に作った狩猟のための集落で過ごしたと考えられています。

伊茶仁カリカリウス遺跡の竪穴住居跡
擦文時代の集落として最も規模が大きく2549軒の住居跡がみつかっている

標津町ポー川史跡自然公園

擦文文化の人々は河川での漁労を主に、狩猟と麦、粟、キビ、ソバ、ヒエ、緑豆など栽培した雑穀を食料にしていました。擦文時代に普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などの加工用の道具としたと考えられています。斧、刀、装身具、鏃、釣り針、裁縫用の針など様々な鉄製品が用いられ、銅鏡や中国の銅銭も見つかっています。これらの金属器は主に本州との交易で手に入れたもので、北方経由で大陸から入ってきたものもあります。

鉄製の鋤(すき) 北海道博物館所蔵

このころの北海道は東北地方と盛んな交流があり、交易によって鉄製品が急速に広まり、鉄を加工する野鍛冶の技術ももたらされました。東北地方のものとよく似た江別市や恵庭市の末期古墳では、本州産の鉄器の副葬品が見つかっています。

オホーツク文化(5~9世紀)と擦文文化(7~12世紀)は8~9世紀ごろに融合して、10世紀になるとオホーツク文化と擦文文化の両方の特徴をもった土器がつくられます。この土器を「トビニタイ土器」と呼んでいます。

トビニタイ土器

羅臼町飛仁帯出土 北海道博物館所蔵

住居も両文化の特徴をもち、遺跡は海岸だけでなく擦文文化と同じく内陸の河川沿いにもみられるようになりました。オホーツク文化の人びとが擦文文化に近い生活に移っていったことを示しています。

13・14世紀になると道南には和人が住み着くようになりました。また陶器や鉄鍋が広がって土器がつくられなくなります。住居は竪穴住居から平地住居になりカマドから炉にかわります。このように北海道の文化は北からの人びと、南からの人びとが異なる文化を相互に受け容れたものになりました。

擦文文化は北海道を中心として11世紀から13世紀に終末を迎えたようですが、10世紀から11世紀にかけては本州の北緯40度以北にも擦文文化圏が広がったとする見解を複数の研究者が示しています。
10世紀半ば(平安時代中期)から12世紀のはじめ(平安時代後期)には、北東北地方から樺太にかけて環濠集落・高地性集落が多数見られることから、これを「蝦夷」(えみし)から「蝦夷」(えぞ)への転換時期とする見解が出されています。

アイヌ文化にはオホーツク文化と擦文文化の両方の要素が受け継がれていますが、アイヌ文化への移行についてははっきりしたことが分かっていません。土器が消滅して追跡が困難になったのかも知れないと云われています。

日本書紀によれば、658年阿倍比羅夫が軍船を率いて齶田(秋田)に向かい、蝦夷は組織力と戦力に勝る比羅夫軍に戦わずして降伏し、比羅夫は蝦夷の首領に位を授け渟代(めしろ)・津軽の二部の郡領に任命し、有馬浜(津軽半島)に渡り嶋(北海道)の蝦夷を招き大いに饗応して帰還しました。
659年二回目の遠征で北海道南部の蝦夷に禄を授け、660年の三回目の遠征では石狩川で粛慎(しゅくしん)と云う未知の民族と遭遇して戦いに勝ち、粛慎人47名が来朝して服従の儀礼を行い、凱旋した比羅夫は生け捕ったヒグマ2頭とヒグマの毛皮70枚を献上したとされています。

780年蝦夷の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の反乱が起こり、紀古佐美(きのこさみ)は征東副使として遠征し、789年には征東大使として蝦夷を攻めますが、陸奥の衣川で阿弖利爲(あてるい)の軍に惨敗しました。

征夷大将軍坂上田村麻呂の名は有名ですが、794年に大伴弟麻呂の副将軍として参加した征討についても、801年に今度は田村麻呂自身が征夷大将軍として4万を率いて行った征討についても詳しい記録がなく、夷賊を討伏したとする文言しか残っていません。

802年田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として胆沢城を造営するために陸奥国へ派遣され、10か国の浪人4,000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させることが勅によって命じられています。

同年胆沢城の造営中に、大墓公阿弖利爲(たものきみあてるい)と盤具公母禮(いわぐのきみもれ)が500余人を率いて降伏してきます。このことが都に伝わり、田村麻呂が付き添って阿弖利爲と母禮を平安京まで連れて来ますが、2人とも斬られてしまいます。

「日本紀略」には公卿会議のやり取りが記載されていて、田村麻呂は阿弖利爲と母禮を故郷に帰して、彼らに現地を治めさせるのが得策であると主張しましたが、789年に紀古佐美(きのこさみ)が阿弖利爲に大敗した故事から、現地を知らない京の公家達に押し切られたようです。

東北地方弥生時代以降も続縄文文化擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南の本州とは異なる歴史をたどりました。中央政権の支配も強くは及んでおらず、律令制の時代に陸奥国出羽国が置かれ、俘囚と呼ばれた蝦夷(えぞ)の人びとと関東以南から移住した人びとが入り混じって生活していました。

日本書紀によれば、7世紀半ばに朝廷が中国に対して蝦夷という異民族を従えていると主張していて、蝦夷を異民族とするのが政治的概念になったようですが、長谷部言人らの人類学者は石器時代の人骨の研究から異民族ではなく、東国の北辺に住み朝廷に服さなかった人びとを蝦夷と称したと考えています。

「日本書紀」「続日本紀」が伝える「正史」は朝廷が中心の歴史書です。その他の地域、特に東北、北海道の当時の人びとの生活は有史以前と同様に、考古学によらないと把握できないのです。

東北地方は弥生文化を経て古墳文化へ続く本州の他の地域と同じ流れでしたが、北海道は弥生文化を経ずに、縄文文化から続縄文文化へと展開しました。北海道の古代文化が北からもたらされたもので、本州の南からもたらされた弥生文化とは異なることを明らかにしたのは考古学です。

明治に発掘された土器の歴年の分析が正確度を増したのは昭和に入ってからですし、土器の以前の石器が初めて発掘されたのは昭和の中頃です。現在では化石のDNAの解析が進み、父系遺伝するY染色体ハプログループのアダムの原始のハプロタイプAからRまでの系統図が描かれていて、特定の民族がどの系統に属するかを知ることが出来るようになりました。

弥生文化は南から来た弥生人と縄文人の混血で発展したものですが、擦文文化は北から来たオホーツク人とアイヌに共通のハプログループY遺伝子が高い頻度で確認され、弥生時代以降の東北の人びとにも低頻度に見出だされるので、日本の古代文化が南からの文化と、北からの文化に大きく分けられることがDNA解析でも裏付けられたことになります。

我が国の古代の研究は始まってまだ間もないと云ってもよく、多くの科学的な研究手段を獲得した今後の考古学はどこまでの新たな解明をしてくれるのでしょう。

 

 

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