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武士の起こりと武家政権(日本の支配態勢2)

2019-06-13 06:16:40 | 日記

古代にも軍事を主務とする物部氏大伴氏などの豪族がいましたが、古代後期から中世初期にかけて現れた軍事専門の貴族を軍事貴族と呼びます。地方に土着した軍事貴族は力をつけて団結し、やがては武力を背景にした武家政権が誕生する素地を作ります。

7世紀後期に形成された律令制では官職の世襲を認めなかったため、各地に軍団が設置されると物部・大伴氏に代わって軍団が軍事を担いました。8世紀末から9世紀にかけては軍団が廃止され、軍事動員が必要な時は太政官が「発兵勅符」を出し、国衙(こくが 国司の役所)が国内で兵力を動員しました。9世紀末になると農民の偽籍・浮浪・逃亡が顕著となり、動員の対象となる農民を把握することが難かしくなります。

9世紀末から10世紀初期に坂東で中央へ納める官物を強奪する「群盗蜂起」が頻発し、朝廷は発兵勅符を「追捕官符」に代えて受領に広い軍事裁量権を与え、国単位で動員した兵力を国衙・押領使・追捕使の指揮下に入れることにしました。

この軍制改革は地方への権限移譲の始まりで、律令制を支配原則としなくなった王朝国家への転換を示すものでした。群盗追討で名を馳せたのが藤原為憲藤原利仁藤原秀郷平高望国香父子、源経基らの下級貴族で、父祖の世代が対戦した蝦夷の戦術を学び、大鎧太刀を身につけて長弓を操る騎馬戦士として活躍しました。

 

彼らは国司や押領使として勲功を挙げ、国衙から公田経営を任されるなど自らの経済基盤を築きましたが、朝廷の彼らに対する処遇には不満が蓄積していきます。

935年〜941年の承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は、平将門と藤原純友が地域紛争に介入したときの対応を国衙が誤り、それをきっかけとした朝廷への不満の爆発でした。は

関東では平将門受領と地方富豪層の間の紛争の調停に入りましたが、そのこじれから国衙と戦う羽目になり結果的に関東を制圧しましたが、新皇と自称するに至って叛乱とみなされ朝廷軍に鎮圧されました。

瀬戸内海では海賊鎮圧に当たっていた藤原純友が京から赴任した受領達と対立し、伊予の国衙を奪い、東は淡路から西は大宰府までを攻略しましたが、将門の乱を収拾した朝廷軍の追討を受け滅ぼされました。

両者の鎮圧に勲功のあったのは公家の血統であっても官位が低い者たちでした。彼らの不満を抑えるために朝廷は五位・六位の中・下流公家に昇進させ、承平天慶の乱の勲功者とその子孫は兵の家(つわもののいえ)として認知されていきます。

11世紀に入ると官職の世襲が確立され、兵の家の家系も固定化していきました。彼らの多くは六位の身分でしたが、上層の者は四位・五位まで昇進して受領級の官職に任命されて軍事貴族になりました。

四位に叙されるのは藤原南家藤原北家清和源氏桓武平氏に限られ、当初源頼光頼信らが正四位に叙されて清和源氏が武家の棟梁と目されましたが、源義親の代に失脚して平忠盛が正四位に昇り、武家の棟梁が清和源氏から桓武平氏へ移ります。

軍事貴族の「武家」としての職能は国衙軍制の中で発揮されました。郡司や富豪百姓との関係を継続的に構築していき、在地の豪族との間には主従関係が徐々に築かれていきます。

一方摂関家など有力公家の家司や上皇の院司として、私的に奉仕する側面も持つようになります。清和源氏は代々藤原北家家司として仕え、摂関家への貢献によって源頼光源頼親兄弟、源頼義源義家父子が相次いで正四位と軍事貴族最高位に叙せられ武家の棟梁の立場を得ました。

白河院院政を開始すると平忠盛は院司となり、正四位に叙せられて軍事貴族の最高位者として台頭します。武家の棟梁の地位が源氏から平氏へ移ったのは、政治の実権が摂関家から院政を布く治天の君へと代わった事情がありました。

12世紀中期の保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱平清盛は宿敵の源義朝を倒し、1160年正三位参議1167年には太政大臣に昇り、清盛一族は平氏政権を樹立します。

平氏は武家政権ですが、平氏一門で朝廷の官位を占めて清盛は天皇外戚となり、摂関政治とまったく同じ政治形態を踏襲しました。平家は繁栄を誇りましたが全国的に同時多発した反平氏の兵乱で、木曽義仲や源頼朝によって滅ぼされました。

本格的な武家政権は源頼朝鎌倉幕府に始まります。頼朝は当初東国武士集団による反乱の旗手として登場しましたが、平家を打倒した治承・寿永の乱を経て、寿永2年(1183年)に後白河院から東海道東山道の実質的支配権を認める「寿永二年十月宣旨」を与えられます。

頼朝は右近衛大将を辞任して鎌倉に戻り、1191年建久2年)正月に前右近衛大将として「政所」を設置しました。政所は三位以上の公卿に設置を許された政務財政を司る家政機関ですが、頼朝は鎌倉に地方政権を樹立したのです。

1192年建久3年)頼朝は武家の権力者として独立して武家を統制するため、近衛大将より格下の征夷大将軍を求めて鎌倉幕府を開き、守護地頭の設置を朝廷に認めさせました。

 

頼朝とその嫡流は三代で滅びますが、外戚であった御家人北条氏摂家から藤原頼経を将軍として迎えて幕府を維持し、北条氏は執権として実権を握ります。

頼朝の政権確立後も大内惟義源頼茂藤原秀康など一部の軍事貴族は従来通り検非違使や北面武士に任じられ、朝廷や京都市中の警固をして朝廷の軍事力を担っていましたが、後鳥羽上皇が起こした承久の乱(じょうきゅうのらん)に加わって滅亡します。

承久の乱では鎌倉幕府が朝廷に勝利し旧平家の官領にも守護地頭を置いて、各地で国衙領荘園を浸食して支配を強め、全国統一を果たした初の武家政権となりました。

鎌倉時代後期になると執権北条氏の専制が強化される一方、元寇が原因で多くの御家人が没落し、鎌倉幕府に対する不満が高まっていきました。これが後醍醐天皇による倒幕の流れになり、幕府は足利氏新田氏等の有力な御家人に離反されて滅亡します。

後醍醐天皇建武の新政は天皇独裁・公家優先で国衙領の復活を目指し、武家への恩賞や武家領を減じたので武家の支持を得られませんでした。1335年建武2年)執権北条高時の遺児時行が鎌倉幕府再興をめざして中先代の乱をおこし、足利尊氏この乱を機に後醍醐天皇に反旗を翻し多くの武家が尊氏の下に結集して建武政権を攻め、後醍醐天皇は三種の神器を持って京から逃れました。

その後尊氏は北畠顕家に敗れて九州に落ち延びましたが、翌年には光厳上皇院宣を掲げて入京し、後醍醐天皇と和解して持明院統光明天皇を擁立し(北朝)、征夷大将軍に任ぜられて室町幕府を開きました。

 

後醍醐天皇は再び武家政権と対立し吉野に逃れて南朝を開き、南北朝に分かれた全国的な争乱の時代になります。足利三代将軍義満の計らいで南北朝は合体しますが、南朝が滅びずに北朝と合体する形になったことは、その後も武家に対して天皇が権威を持ち続ける力になりました。

義満は明との正式な通交を望み、1401年応永8年)「日本国准三后源道義」の名義で使節を明に派遣します。建文帝は義満を日本国王に冊封して、1404年(応永11年)から日本国王が明皇帝に朝貢する形式の勘合貿易が始まりました。明に要請されて義満は明の多年の懸案であった倭寇を鎮圧します。

義満が「日本国王」の冊封を受けたことについては、義満は叙任権祭祀権元号改元、治罰の綸旨の封印など朝廷の権限を次々に奪っていき、子の義嗣を天皇にして自らは治天の君として皇位簒奪を目指したとされていますが、国王号は朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったとも云われます。

応仁の乱は1467年応仁元年)に発生して11年間にわたって続き、幕府管領家の畠山氏斯波氏の家督争いから、細川勝元山名宗全の勢力争いに発展し、八代将軍足利義政の継嗣争いも加わって全国に争いが拡大しました。十数年に亘り京都が主戦場となった1493年明応2年)の明応の政変へと続き、室町幕府は近畿の一地方政権となり、世は戦国時代に移行します。

武家は決定的な政治勢力となりましたが、地方の戦国大名は自らの権威付けのため朝廷から官位官職を受けるのを望みました。京風の公家文化が武家に伝わって天皇崇拝が強まり、武家の台頭する中で天皇の権威は新たな形で復活します。

これらの戦国大名の中で織田信長は将軍足利義昭を擁して上洛しましたが、義昭は信長と対立を深め、1573年(元亀4年)に信長が義昭を追放して室町幕府は消滅しました。

信長の後を継いだ羽柴秀吉は天下統一を果たしましたが、武家の棟梁としての征夷大将軍には就けず、公家近衛前久の猶子として関白宣下を受け、1586年(天正14年)正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣として豊臣政権を樹立しました。

秀吉の次の天下人の徳川家康は、清和源氏を唱えて征夷大将軍に就き江戸幕府を開きます。江戸時代は264年続きましたが、幕府は禁中並公家諸法度を定めて朝廷を統制しました。

 

江戸幕府は鎌倉幕府に倣い朝廷とは独立した政権を目指しましたが、御三家の水戸家の大日本史編纂を機に天皇の権威が浮上し、江戸幕府朝廷から政権を委任されているとする大政委任論が生まれます。

江戸幕府は農地を基盤とする封建制の政権で、商業の発達による前期資本主義的社会の成立に財政の体制が対応し切れず、士農工商の最下位にある商人への幕府・各藩の借入が拡大していきます。江戸時代末期になると幕府の財政的な傾きと共に尊皇思想が広まっていきました。

諸外国が幕府に開国・通商条約締を求めてくると尊皇攘夷倒幕運動が盛んになり、公武合体の不調、長州征討の敗北により、十五代将軍徳川慶喜は朝廷に大政を奉還して武家政権は終焉を迎えます。

徳川家は武家として残りましたが、鳥羽・伏見の戦いに始まる薩長土肥雄藩と徳川家を中心とする旧幕府勢力との「戊辰戦争」は、官軍となった薩長土肥側の勝利に終わります。

内戦に勝った雄藩側も討幕の動きは下級藩士のクーデターの面を持っていたため、幕藩体制に代わる政治体制を樹立するには征夷大将軍を超える権威を必要としました。

討幕の主役だった下級藩士と少数の公家は14歳で帝位についた明治天皇を戴く政府を起ち上げ、封建的な幕藩体制から近代的な官僚機構を擁する直接君主制に移行します。

廃藩置県により大名華族、武士は士族にされ、武家は消滅しました。武家の思想は家族制度や軍事国家の建設など近代日本に沿う形で生き残って、その後の軍国日本を生む元になります。

 

 

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