百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

お茶の話 ~ BS朝日『日本人とお茶の物語 ~ おもてなしの誕生』を下敷きに

2020-04-26 20:12:54 | 日記
 今から1200年ほど前の書物、陸羽(りくう)さんの『茶経(ちゃきょう)』に見られるように、お茶は唐の時代に普及していたようで、この時分のお茶は 団茶 or 餅茶(へいちゃ)と呼ばれるもので、蒸した茶葉を 臼でつき 乾燥させ 火であぶり 砕いて粉にし 湯で煮たものだったそうな。で、私たちは英語でいう brown のこと、何ら気にせず 茶色と言ってますが、それに相当する中国語は 棕色(そういろ?)と言うのだ、、、と パソコンにありました。

でも 今 ネーミングするとなれば、 ”お茶の色” とは決してなりません。いつ その呼び方になったか不知ですが、当時 飲まれたお茶は、まさしく茶色だったのでしょう。ですが、その根底を覆えす大変革が、300年ほど前(1738年、江戸時代の中期) 京都・宇治 於いて、成されているのです。

後に”日本緑茶の祖” と呼ばれるようになる『永谷宗円(ながたにそうえん)』さんという方の 15年に亘る 艱難辛苦・鋭意努力 の甲斐あって、『青製煎茶製法』という、蒸した新芽を焙炉(ほいろ)という器具の上で 手揉み乾燥 するという手法が開発されまして、茶色⇒⇒緑色の、かつ 味も一等 優れた煎茶ができるようになりましたと。

で、この手法が編み出されたことで莫大な利益を上げたのが『山本山』さんのご先祖さんで、 宗円さんの 10代後の ご子孫が『永谷園』を創業なさったと。そして 本製法は、現代にも受け継がれていると・・・

 以上、少し長い前段でしたが、以下 本編に参ります。とは申しましても、 1年以上前(H30年 大晦日)BS朝日さんで放送された『日本人とお茶の物語 ~ おもてなしの誕生』という、

いつか永久保存版ブログにと 大事に取っておいた番組をベースにしまして、『伊藤園』さんの『お茶百科』および『ウィキペディア』さん等からの WEB情報を補足し 編集した、謂わば " お茶に関する 100q's メモ " といった具合のもの であります。

まずは、当県 岡山市(正確には隣国の備中) 吉備津神社神職の家にお生まれの、ここらへんでは『ようさい』さんと呼ばれることの多い『栄西(番組では”えいさい”でした)』さんから スタートと参ります。

鎌倉時代初期に活躍されたお坊さん。叡山で修行された後、2度も 宋に渡り、臨済禅 と お茶の種 およびその文化を持ち帰り、京都に建仁寺を建立し禅宗を立ち上げられ、

一方、『喫茶養生記』を著し、お茶の効用を説かれたということでして、



栄西さんから、持ち帰ったお茶の種を託された、32歳若い 明恵さんは

栂尾(とがのお)高山寺に日本初の茶園をお作りになられ、当地で

日本で初めて お茶が点てられたということでして、そのお茶とは ” 散茶 " と呼ばれる

茶葉を挽いて粉にしたもので、それにお湯を注ぎ 茶筅で泡立てて飲んでいたようです。

ここで話を もう一度 建仁寺さんに戻します。令和2年は中止されましたが

栄西禅師ご誕生の 4月20日には、800年以上 続いている ” 四頭(よつがしら)茶会 " という

京都市登録無形民俗文化財に認定されてる、4人の僧が32人の客人を饗す催しがあるとの由。

ところで お茶の文化は " 侘び・寂 (さび) の文化 " と言われますが、『大辞林』によりますと、
    侘び・・・飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい
    寂・・・・古びて趣のあること 閑寂の趣 枯れて渋みのあること
とあります。番組では 建仁寺塔頭霊源院住職 雲林院宗碩さんから『侘び茶』について、たいへん解りやすいご説明がありました。

進行役の モーリー・ロバートソンさんに、800年前の作法で お茶を振舞われたのですが、

「お茶を出す側に立てば、こんなおもてなししかできなくて申し訳ありませんという気持ち、出される側では、そのおもてなしに感謝するとともに、例えばそのお茶碗は 薬師寺の瓦から作られていますので 1300年も支えた後、1300度で焼かれてなお こうして人の役に立ってくれている・・というように 凡ゆるそういうモノに対する、申し訳ないという気持ちに添いながら いただくものでありまして・・これが " 侘び茶 " というコトバが発する意味なのです」と。

" 侘び茶 " とは そういうことだったですか~オイラは感動したです。たいへん いいお話でありました。ところで、お茶が盛んになるにつれ、産地も 栂尾⇒宇治⇒伊勢 伊賀 駿河 武蔵 等々へ拡がってゆくのですが、人間というもの、いつの時代も遊びとともにありますれば お茶も例外でなく、『闘茶』という お茶の産地を当てる遊びが流行りまして、

たいへんな盛り上がりを見せたようですが、ここで

一休さんが登場され、村田珠光さんとともに 軌道修正が図られるのでありますが、それは

”禅”との融合、すなわち お茶を 遊びから精神の世界へと 変えて行かれるのであります。

8代室町将軍 足利義政さんは、慈照寺(銀閣寺境内) 東求堂内に『同仁斎(どうじんさい)』という

日本初の 四畳半 書斎兼茶室をお作りになられ、これに倣ったのかどうか

世界文化遺産に登録されているお寺には、
  慈照寺:東求堂 醍醐寺:枕流亭 天龍寺:祥雲閣 仁和寺:飛涛亭 西芳寺:湘南亭 
  清水寺:古門堂 西本願寺:飛雲閣 東寺:楓泉観 龍安寺:蔵六庵  の如く全て茶室が
誂えられており、世界中探しても、お茶を飲むためだけの建物は 他にないとのこと。
なお 龍安寺さんの茶室『蔵六庵』には、

水戸光圀公が寄進された 手を浄める蹲踞(つくばい)『吾唯足知(われただたるをしる)』が

吾が『百休庵』には、京都の中村翠嵐(すいらん)さんの『吾唯知足茶碗』 ↓ があるのですが、その境地に達するのは,、本人にとって 滅茶苦茶 難しく 苦しいことのようでございます。
.
なお、『日本民芸館』を創設なさった柳宗悦さんは、この『茶と美』という本の中で、表紙写真にある、上の闘茶を述べてるイメージ画像にも使われている 大徳寺さん『孤篷庵』所蔵 国宝 大井戸茶碗『喜左衛門』が、数ある抹茶茶碗の中でも ダントツにイイと、ベタボメに褒めてられます。僭越ながら 補足させていただきました。
で、その『侘び茶』の精神は

珠光さんから 武野紹鴎(たけのじょうおう)さん 千利休さんに伝承されることとなり

信長さんは、武家儀礼の資格とすべく、茶の湯を許可制とする『御茶湯御政道』を進め

茶の名器は、一国一城と同じ価値を有する というほどの権威を持つに至るのです。

これは秀吉さんにも引き継がれ、そうした中 開かれたのが あの有名な北野天満宮での

『北野大茶湯』でありますが、『武漢・勅怒賂巣ウイルス 』 が一応の収束を見た暁には、最低レベル これぐらいは派手な催しを、国中挙げてやりたいものだと、今 切に思われます。

利休さん切腹後は 古田織部さん 小堀遠州さん、江戸時代に入れば 広島藩の上田宗箇さん 松江藩の松平不昧さん等の武家茶道が全国に興り、三千家さんと相俟って

お茶は日本を代表する一大文化として 定着していったということです。なお 利休さん

および 代々の三千家家元さんの 墓所は、大徳寺 聚光院(じゅこういん)さんにあるとの由。


以上 甚だ未熟ではありますが、はしょって(?) 纏めてみました。皆様のご参考になれば、嬉しい限りです。なお 上の三千家の画像の中で、養子 小庵さんとありますが、慥か二度目の奥さんの連れ子のはずでして、利休さん切腹の後は 会津の 蒲生氏郷(がもう うじさと)さんが匿(かくま)い 保護されたと記憶してます。鶴ヶ城 域内に 庵(茶室)があったような・・・


 < 追 伸 > R5.6.27 記
 BS-11の『京都浪漫』だったと思うのですが、その中で表示された画面です。








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日本を代表する詩人のひとり『永瀬清子』さん ~ ご生家は 当庵の 400メートル東 です

2020-04-13 18:03:29 | 日記
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 ↑ は、昨年(2019年) 2月3日、毎日新聞出版さんから 発売された『降りつむ DVD付 皇后陛下美智子さまの英訳とご朗読』という本でして、右は、そのタイトルとなっている『降りつむ』という詩が収録されている 思潮社さん発行『永瀬清子詩集』。下は ↓ その詩であります。
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ご命日(H7(1995). 2.17)当日には、例年『紅梅忌』と称する ” 偲ぶ会 ” が ご生家で、一方 自治体主催の行事としまして、同区にある文化施設『ふれあいセンター』於、毎 2月中旬の日曜日、著名ゲストも招聘した市民参加『朗読会』が催されています。

本年(R2.2.16)のゲストさんは、このフライヤー写真のように、まるで実の ” 姉弟 ” のように見える 若松英輔さんでした。
...
オイラは 全編 叙情詩が如き この ↑ 本を 1年ほど前に読んでまして、石牟礼道子さんを 煌びやかなコトバで、あまりにも持ち上げ過ぎてやしませんかといった感じはしたものの、若松英輔さんて 何て桁はずれの、ピュアで細やかな情感をお持ちの方なんやろう という印象を強く抱かされていましたから、ぜひとも 氏のお話なら お聴きしたいものだと、うんと後部座席に陣取ったのでありました。なお右上、氏の当日の様子を写した写真、および 黒地の ” プロフィール ” 写真は、『広報あかいわ』の当該箇所を撮らせていただいたものです。

若松さんのお話は、素晴らしかったです。一人芝居されてる役者さんのようでもありました。ものすごう繊細な感受性が ひしひしと伝わりました。詩に感極まって、涙ぐみ 口ごもる場面もありました。特に印象に残ったのは「永瀬さんには 大きな欠点が 一つあります。それは ご自身が天才であることに気付いてなかったということです」というおコトバ。

オイラには 正直 詩が よくわからないし、創れません。特に ” 起承転結 ” の ” 転 ” への発想に欠けてるのです。想いが 当該テーマ 一辺倒になってしまい、どうしても 関係がなさそで ありそな ”転”への思考展開が図れないのです。それでも 偉大な詩人が出られたオヒザモトに住んでるのです。

この ↓ 『編集工房ノア』さんの『海鳴り3』という小冊子に掲載されてる 永瀬さんの文章は『続 かく逢った』と副題にありますから、単行本にはなってないようですが、取り上げられてる女性の旦那さんは、我が家の祖父の弟でして、我が家についても少し書かれているのです。

                     ↑ 兄さんとあるは 我が家のことです
若松さんのお話に触発されたです。詩が解らないなら このような文章を読もうと思い至ったです。幸い 永瀬さんは、実に多くの短文(エッセー)をお書きです。美智子上皇后陛下様の応援もいただけてます。わが郷土の偉人『永瀬清子』さんは、今後 ますます知名度を高め 評価されてくる詩人さんであることは 疑いようがないのではないかと思ってます。
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今 手元にこれだけの本があります。時々に 読んでゆこうと思っています。

で この際でありますから、上記『永瀬清子詩集』の中から、当庵がその山裾に位置してる 新田山(しんでんやま)、および当庵から50mほどのところを流れる新田川(しんでんがわ、正式名は小野田川です)が記されている 詩2編 を掲示しておきたく存じます。


生家付近から見た新田山。道路の向こうに新田川。( ”新田”とは その山と川の間を指す地名)


 < 追 記 >
 『降りつむ』という詩ですが、”コロナ渦” に苛まれている昨今、降り積む雪が、跳ね除けても跳ね除けても、そのウイルスとオーバーラップしてしまいます。が せめて今回の災禍が、より良い土壌を育む "地ならし" となることを祈るばかり・・・否、そうなるよう仕向けねば、歴史的な災禍に立ち会った者としての意義も甲斐も 責任も 灰塵に帰すばかりか、破滅への一本道を遺すのみとなってしまいます。ですから、断じて こんなところで死んじまう訳にはいかないです。どうか皆さん、くれぐれも ご自愛 下さりますように。

 今 見えない プレデターのような敵と、紛うことなき 戦場の最前線で、文字通り命を懸けて戦って下さってる医療関係者の皆様には、本当に頭が下がります。これ以上ない 感謝と称讃の意を捧げたく存じます。本当に ありがとうございます。

 < 追 伸 > R2.4.16 記 
 R2,4.16付け 産経新聞、野口健 さんのコラム『直球 & 曲球~国難を乗り切れば強くなれる』は、短い文章で見事に纏めてらっしゃいまして、感服しました。

   「平時は有事のためにある」なんて、素晴らしいコトバであります。


 < 追 伸 > R2.4.28 記 
 本日の産経『正論』で平川祐弘先生は、永瀬清子さんの詩『降りつむ』に触れてられます。

 

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『百休庵』の御来迎 & ムカデの子育て画像 & 『武漢・勅怒賂巣ウイルス 』 『NO! 集近閉』と呼ぼう

2020-04-12 13:37:24 | 日記
 読者の皆様には どうでもいいこととは存じますが、当庵にとっては長年 の 未解決事案であります、当庵内に掛けてる『待月百休庵』という オイラの作った扁額を、小さな天窓から差し込む光が照らし出す瞬間(とき)って果たしてあるだろうかについて、此度 たいへん嬉しい展開を見たのであります。

春分の日から 17日過ぎ、R2.4.6 の 日の出直後の写真です。欲を言えば ほんの少し上に陽が当たれば・・・ということ、および閏年であることを鑑みますと、例年なら 4/6 4/7 か。そして秋分の日の ほぼ17日前、9/5 9/6 に見られるか。当日、雲の無きこと 祈るばかり・・・

  * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

 R2.4.1 NHK-Eテレ『又吉直樹のヘウレーカ』という番組で放映された映像の一部です。ご気分を害されましたなら、お詫び申し上げます。

オイラは、寝ているとき何回も噛まれてますし、靴の中に足を突っ込んだ途端、中に忍び込んでいた 10数cmはあろうかという めっちゃ大きなヤツに親指を根限り噛まれ、もうこれ以上はないだろうという痛みと、これ以上はないだろうという脹れに襲われた経験があるものですから、もうめっちゃくちゃ嫌いなことは嫌いなんでありますが・・・


ムカデは、このように子供を抱き抱えて子育てするのです と、、、地球上の凡(あら)ゆる生きとし生けるもの(少しくない人間を除いてですが)の ”何としても子孫を残すんだ”とする気概と行動は、ほんとうにタイシタモンであります。

これを撮影されたのは、20歳で『アリ販売業』を立ち上げ、アリハンターとしてもご活躍中 島田拓さん 38歳。島田さんは、アリに関係する新種昆虫をかなりの数、発見されてるとか。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

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 左は R2.4.3 産経新聞『湯浅博の世界読解』、右は R2.4.12 同紙 3面 から いただいたものですが、国営通信社ですから中国共産党さんの機関紙であろう『新華社』さん自ら『武漢ウイルス』と呼んでいたこと、そして、台湾および香港からの注意喚起に耳を貸さず、世界中をパンデミックの恐怖に陥れた WHO事務局長さんの栄誉を祝(ほ)くし、『武漢・勅怒賂巣ウイルス 』『武漢・勅怒賂巣 肺炎』と呼んだらどうかと思うのです。

また『3密』だなんて解りにくいコトバを使うのではなく、一時『5チャンネル』に出ていた とても良くできたコトバ『集近閉』を用い、『NO! 集近閉』を連呼する運動を展開したらいいのではないか と思うのであります。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

< 追 伸 > R2.9.6 記
 超強力台風10号接近、気掛かりでしたが 撮れました。撮影日時 R2.9.6 Am6:00:30 。

秋分の日は 9月22日ですから 16日前、すなわち お陽様の ”百休庵扁額照射日” は、
”春分の日” の 16日 後、”秋分の日” の 16日 前、 の Am 6:00 ということが分かりました。

< 追 伸 > R3.4.8 記

            撮影日時:R3.4.6 Am6:07。晴れていたのは早朝だけでした。

< 追 伸 > R4.4.11 記

 撮影日時:R4.4.4 Am6:08。秋分の日は 3.21でしたから、14日後。この方が 妥当かも。

< 追 伸 > R5.4.13 記
 R5.4.7 付け記事『『百休庵』御来光、決定的場面が撮れました。』を、コピペします。

                     撮影:R5.4.4 Am 6 : 6' 29"

                     撮影:R5.4.4 Am 6 : 6' 43"
 4月2日から張ってますが、これが本命ではないか と。翌5日は雲に覆われ 観察不可でしたが、照射位置は斜め下方にずれてゆくことから、間違いないものと。

つまり『百休庵御来光』は、
  春分の日の 14日後の Am6時6分 ~ 7分
  秋分の日  〃  前     〃    と、なりましょうか。
 すると次回は、9月9日の    〃    。 雲が無ければのハナシですが・・・・
  
             極めてプライベートな事案でありまして、たいへん恐縮です。

                                                 


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