百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

楽しかった !!! 2つの音楽アイテム & 『わび』/『さび』に 真っ向 取り組んで下さった 門井慶喜さん『銀閣の人』は、Wonderful !!!

2021-02-26 22:48:58 | 日記
 『BSテレ東』さんの年末恒例『東急ジルベスターコンサート』、先の大晦日も 大いに魅せて下さいました。『東京バレエ団』さんのプリマ 上野水香さん。

今回は、江尻竜典さん指揮『東京フィルハーモニー交響楽団』さん演奏、タンゴ界の超ビッグネーム アストル・ピアソラさん作曲『リベルタンゴ』という名曲に乗って、メキシコご出身の同団員 ブラウリオ・アルバレスさんんと、それは見事な踊りを ご披露 下さいました。
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これはラストを飾った ストラヴィンスキーさん作曲、組曲『火の鳥』より [子守唄] & [終曲]
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 さらに、R3.2.1 NHK-BSP『プレミアムシアター』では、モーツァルトさん作曲の『ピアノ協奏曲 第13番』が、オクサーナ・リーニフさん指揮 ミューヘン・フィルハーモニー管弦楽団、アルス・紗良・オットさんピアノ で演奏されてまして、もう見てるだけでも楽しかったです。
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 ご存知『銀閣寺』さん。正式名は『東山慈照寺(とうざんじしょうじ)』。本写真は 当該ホームページから。記事は 産経新聞 R3.1.7 掲載『本郷和人の日本史ナナメ読み』の一部。        


さらに H30.12.31 BS朝日『日本人とお茶の物語~おもてなしの誕生』から、6画面。
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そして R2.11.7 付 産経新聞に載った 門井慶喜さん『銀閣の人』紹介記事 と 当該書籍。
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 お膳立てが整いましたので、以下 駄文を書き連ねるとします。述べたきは 門井慶喜さんの著わされた『銀閣の人』に対する賛辞です。氏が 足利義政さんの口を通し アウトプットなさった『わび』&『さび』の、概念および当該境地に関わる内容・その解り易さは、今日までの これに関する あらゆる文化的成果物の中でも、おそらくは 出色・秀逸 なる出来栄えの作品ではないだろうかと思うのです。

 室町幕府の歴代将軍を、ウィキペディアさんの情報を基に再編集しますと
01代 足利尊氏      1338 暦応元年
02代 足利義詮(よしあき) 1358 延文 3年
03代 足利義満      1368 応安元年 1358~1408 義政の祖父
04代 足利義持      1394 応永元年 1394~1423 義満側室の子
05代 足利義量(よしかず) 1423 応永30年 1407~1425 義持の嫡男
06代 足利義教(よしのり) 1429 正長 2年 1394~1441 義持の実弟、1441 嘉吉の乱で惨殺
07代 足利義勝      1442 嘉吉 2年 1434~1443 義教の嫡男
08代 足利義政      1449 文安 6年 1436~1490 義勝の実弟、1467 応仁の乱 勃発 
09代 足利義尚(よしひさ) 1473 文明 5年 1465~1489 義政/富子の子  1477 同乱 収束
       省 略
13代 足利義輝      1546 天文15年
14代 足利義栄(よしひで) 1568 永禄11年
15代 足利義昭      1568 永禄11年
                    と なるのでありますが、

たとい時代の流れが今より相当ゆるやかなものであったにせよ、人文知・経験知・社会のファンダメンタルの、今とは較べようもなく未熟な中世 於いての 1 世紀以上隔てた組織の不安定さというものは、想像以上のものであっただろうと思えるのですが、そのうえ

5歳のとき『嘉吉(かきつ)の乱』(この段の描写は素晴らしかったです)で絶恐怖と対面、その 強いPTSDを引きずっていたであろうものの、13 で 継いだ将軍職、31 で端を発し 41歳になるまで続いた『応仁の乱』・・・

御祖父さん(義満公)の遺した 北山の鹿苑寺(金閣寺)と、その当時は文字通りの華やかさであっただろう『花の御所』での 絢爛豪華なる日常を思いやれば、第8代将軍 義政さんの心の中は 如何ばかりのものであったか・・・

多分 作者の門井さんがお書きのように、
・政事の力が失せてしまっている。然らば 文事によって、政事に立ち向かえないだろうか
・権力は後世に残らない。古代中国を見ても明らかである。名を残しているのは 統治者でなく、一介の浪人である孔子さんであるように
・歴史の長い時間の中では、勝つのは 政事でなく文事なのである
・唯一無二の文化を創れば、政事で負けても 文事で勝てる。文事で名を残せる

と、義政さんが思っても当然ではないだろうかと。さらに 義政さんの文化に対する造詣は

・『御飾記(おかざりき) 』『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき) 』という日本で
 最初の美術評論書の実質的な著者であり、これを広めることに 心 砕いている
というふうに、当代トップの 美的感覚の持ち主であっただろうし、その至上の価値を 今日的なまでに体感していた 類い稀な御仁ではなかったろうか と。

慶喜さんが文事と名付けたものの評価、オイラもまったく同じように思ってましたから、大いに溜飲を下げた次第です。いくら技術的に優れた発明をしたとしても、直ぐに陳腐化し価値を失ってゆくのに対し、文化・芸術は反対でして、時間とともに 存在価値を高めてゆくのですから。

それと義政さんがそのような思いを抱くようになった一つの要因として、慶喜さんの本では一切 触れておられませんが、後小松天皇さんのご落胤であり、当時 稀に見る 自由な生き方をなすってらした 一休宗純さんの存在も大きかったのではないかと思います。相性は決して合うとは思えませんので、直接 会ってられないにせよ、村田珠光さんを通すなどして、かなり 影響を受けておられたのではないかと。
    一休宗純さん 1394年 (42歳)  1481年
    足利義政さん     1436年  (45歳)  1490年

で、義政さんは考えました。文化の政事からの独立を果たさねばならない。そして政事に打ち克つ文事を成さねば、話にもならない。そのためには 深い思索が何より求められる。他人から解放された 精神の自由が保たれる空間が必須となるであろうし、人からの自由が あらゆる自由の中で最も貴重な 至高な価値であらなければならない と。

すなわち 人は一人であらねばならない。孤独 こそが 基本となる。そのこと、孤独であること 不足であることに、むしろ積極的な意味を見出すよう図らねばならない。孤独に由来する美意識の確立である。不足の美 もののあわれの美の擁立である。狭さを広さとする 飾り気無さを飾りとする、そんな見地を涵養するのだ。

このようなパラダイムシフトは、孤独に向き合うための もろもろの設(しつら)えを、”侘びしい” という ”悲しい” とか ”負” のイメージの伴う言葉で対処するのではなく、むしろ 肯定的に向き合うばかりか、このほうが望ましいんだよ とする 積極的な趣の ”詫ぶ” という言葉に置き換え、対峙するということになりはしないだろうか。さすれば 必然的に、そこに ひそんでいる 新たな ”美” が 発掘されることになりはすまいか。

すなわち、"侘びしい" ではなく、それを "侘ぶ美" というような 積極的観念まで 養生し、今まで存在しえなかった 新たな ”美” の概念を創造するのだ。"侘ぶ美" 転じて ”侘美”、これが ”わび” という概念の誕生した経緯(いきさつ)ではないだろうか。(但し 直上の段落と 本段落の内容は、実際に本には記述されてませんで、この本を読み、その意を汲んで取り結んだ オイラの所感でありますことを、申し添えておきます)

で、このように心を決めた 義政さんは、その "文事" を為す御殿建設場所を 東山山麓の 焼けたまま放置されていた浄土寺跡地 と定め、御台所 兼 大蔵省 (スポンサー) である日野富子さんの ご機嫌を取り結びながら、
   庭 師:善阿弥さん(親子2代にわたる)
   連歌師:宗祇さん
   茶 人:村田珠光さん
   大 工:三吉さん
   調 達:木幡興七郎さん
というメンバーからなる ”チーム義政” なるものを立ち上げ、応仁の乱の混乱をかき分け、焼き討ちにもめげず 将軍職を継がせた息子 義尚 ( 作者は義政さんに「長年 できなかったし、そのあたりでは ほとんどやってないのに、顔の似てない子ができた。父は 後土御門天皇さんであろう」 と言わせている ) の酒乱にもめげず、 東山殿の建設に邁進するのです。

造るにあたって設定した 基本コンセプトは
・大部屋 全面板張り 屏風で間仕切り という寝殿造りではなく   
・小分けした建物群とする(これは経費を節約するためでもある)
・祖父の作った金閣寺は、金箔を外壁に貼った 舎利殿であるのに対し
・東山殿のそれは、観音堂とし、壁は艶を消した黒塗り檜板
・屋根は 椹 (さわら:檜に似た より耐水性のある木) 板を竹釘止めする 杮 (こけら) 葺き
・作者は これを、実際には 退廃的なまでに手の込んだ 第一級の工芸品である と
・ただし銀閣寺が完成を見たのは、義政公が亡くなられた 3か月後であったと

・東山殿の中で 義政さんが 取分け 力を注いだのが 国宝『東求 (とうぐ) 堂』という
・祖先の位牌を安置する 持仏堂 という位置づけの
・入母屋造り 杮葺き、7m四方の実用性に重きを置いた、思索的・精神論的会所としての
・7,8 畳ほどの板間の仏間 6畳 4畳 4畳半 の 4部屋 を有する建物

・中でも殊更 思いの丈を込めた 渾身作は、唯一 名前を付けた 部屋『同仁斎(どうじんさい)』
・ここへの思い入れは ハンパじゃなく、まさしく義政さんの真骨頂、彼の美意識の精髄
・”良質の質朴”、”良質の簡素”が もたらしてくれる ”わび” という美意識を体感する場として
・心の内実を解放し、新たな息吹を取り込む場として
・略式であり正式、褻 ( け:アンフォーマルの意 ) であり晴れ ( フォーマルの意 ) 、私であり公、奇道比例であり常道常礼、日常であり非日常を演出する場として
・その役割を担うのが、初めてこの世に登場した 四畳半、東山殿の真打とも云える『同仁斎』
・何者かから逃げるために作った部屋ではなく、何者かに立ち向かうために造った部屋
・正式で格式の高い様式の板間とせず、日本で初めて 四畳半全面 畳敷きとした 
・初めて誂えた ”押し板床 (床の間) " は、幽玄さや 奥床しさを象徴(これはオイラの創作です。お床が奥に広がっている様 (さま) に見立てて "奥床しい" という言葉ができたのではないかと思うのです)
・これも初めての演出である、モノを飾る ”違い棚” は モノのインプットを、
・同じく 固定化した文机 ( ふづくえ ) = 付書院 ( つけ・・ ) は、アウトプットを演出するアイテムとして
・四畳半の半畳が、さらなる高みの境地へ 無限の世界へ 誘ってくれる仕掛けとなる
・『わび』は、こういった状態であるのを示す言葉であると。そして

・本状態に身を置き、世を思い 文化芸術を思い 文(ふみ)を書き 優れた文物と慈しむという 時を積むことで、さらに先にある、今まで誰も踏み入れたことのない 究境 (くっきょう) なる領域に到達できたという そういう気に包まれたとき、その趣を “さび” と言うのであると
・付け加えれば、“さび ” とは 時間が加わった概念 時間の函数 であるということ。鉄の ”錆び" がそうであり、枯れて色がまだらになったのを "錆竹"  謡(うたい)上手が出す しわがれた声を "錆声" と言うふうに
・時の移ろいで 一層 複雑な 一層 微妙な 趣を帯びる、それを ”さび” というのであると

さらに門井さんは、このように言っておられます
・以後 全国の大名は、こぞって 同仁斎と同じような部屋を作った
・武家も町人も 富貴なお百姓さんも作り、そこを密儀の場として活用した
・その口実が「茶を喫す」であった
・利休さんが作った 小間の茶室は、茶のための茶 であったが
・俗世の例 ( ため ) しは、もっぱら 義政さんが先鞭をつけた 四畳半の間であった
・これは四畳半が、文化の秩序を担ったということに他ならないだろうか
・言い換えれば、義政さんの文事が、政事の上に立ったと言うことではないのか
・さらに 535年を経た現代に於いてすら、日本家屋の主役という立ち位置は 揺らいでいない

オイラは『待月百休庵』という 己の精神を解放する、100% オイラ・オリジナルである空間 ( 居間 ) を拵えています。作ろうと決めてから 1年くらいは検討に費やし、4面 全ての デザイン画を認(したた)め、大工さんに委ねました。

基本方針は ①できる限り再利用を図ること、②休息場 書斎 遊び場 ゲストハウス 応接場 茶室 というように多目的に使えること でした。躙り口を付けるなど茶室の色彩を濃くしたりすれば、結局 ほとんど使わない部屋となってしまうと考えたからです。

それで 縁側付き 四畳半の畳間で、お床 書斎 吊戸棚 直角で構成する違い棚 曲がった竹の中柱 押し入れ 額縁入れ 流し 水屋 冷蔵庫 トイレを設置した部屋を造りました。造るに当たって、オイラも 古壁を落としたり 床材を磨いたり 竹の中柱を探し出し養生したり、中でも極め付きは 以後 2年ほどは 足指裏の痛みに苦しめられた、吐き出し窓下に設置する踏み石と 入口前の敷き石の 移設作業。

「よう やったなぁ、今なら とてもでけんで」と つくづく思える 肉体労働をこなし 完成させています。ですから、できるなら 義政さんに 見に来ていただきたいと思っているのです。きっと 義政さんは こう言って下さるでしょう。「おまはん、ええのん つくらはれましたなぁ、たいそう ええんとちがいますやろか なぁ~」と。

56歳で早期退職した後、こういった経験をしているものですから、義政さんの気持ちが、とてもよく理解できるのです。それにしても 門井慶喜さん、よくぞ書いて下さいました。お陰で 極めて漠然としか捉えてなかった『わび・さび』の概念が、よ~く掴めました。

剛除 (さんじょ) 韜晦 (とうかい) 追儺 (ついな) とか、滅多に目にすることのない言葉と出会うこともできましたし、金人とは至高究竟 (くきょう) な人のことで、金堂とは 金人を祀る所ところ、金色とは まったく関係ないことも知りました。門井さんは、えれえ 難しいコトバを、よ~お 識っとられます。

以上で『銀閣の人』という本についての記述を終えますが、ここに書き連ねております文面は、門井さんの書かれた文章と、オイラの我流解釈とを ごちゃまぜにしたものでありますこと、申し上げておきたく存じます。この本は、とても良い本です。皆様方にも ぜひ お読みいただければ と思っています。

なお 余談になりますが、これは ひとつの オイラと義政さんを結ぶ縁とでも言えるのですが、オイラは 数百メートほど先の『小川山常念寺自性院(おがわさんじょうねんじじしょういん)』という天台宗のお寺さんの、区の寺総代を担っておりまして、このお寺には、何故か 義政さんの奥さん 日野富子さんのお墓と伝わる、古びた らしきお墓があるのです。で 毎年 4月最後の日曜日に年間最大行事として『日野富子供養祭』を催しています。

実のところ 富子さんは 、一度も京都を離れたことがないようです。でも、義政さんの戒名の『慈照院・・・』から『自性院』、一時 義政さんご夫婦が住まわれた『小川殿(こかわどの)』から『小川山 (当初は ”こかわさん” だったのではと) 』と命名されているなど、念が入ってます。善意に解釈すれば、富子さんの遺品の何か 祀られてるのかも? です。下段に転載してますが、NHK『歴史秘話ヒストリア』で取り上げられたことだってあります。

これは、R3.2.21 NHK-BSP『英雄たちの選択△まさかの応仁の乱! もうどうにも止まらない 11年戦争』の再放送(初回 H29/7 )で示された『小川』の地名の書かれた京都市内の案内版
    どうも『小川殿』は、細川勝元さんの邸宅『細川殿』と同じとこ のようです。

 < R1.9.30 投稿ブログより転載 >
 R1.9.18 NHK-G『歴史秘話ヒストリア』『私はなぜ悪女になったのか 最新研究 日野富子』という放送の中で、当百休庵とは直線距離で約530メートルしか離れてなく、オイラも寺総代の役割を担っているお寺さんが、未だに信じられないことでありますが、何と番組のトリで登場という快挙を果たし、見事な全国デビューを飾ったのでありまして、まずはこのこと、記録しておきたく存じます。

現在 全国的に定着している 日野富子さんのお墓は

京都の華開院(けかいいん)さんというお寺の隅っこに

このように ↑ 室町将軍家御台所のお墓とは思えない質素な佇まいで建っているのですが

しかし しかし 当番組のエンディングでは

わが地域の、それも当庵隣りの地区に建つ

オラんチも檀家の、オラが わが地区の寺総代を担ってる

小川山常念寺自性院というお寺の敷地内に建っている

室町幕府第8代将軍 足利義政公供養塔と

義政公御台所 日野富子さんのお墓が紹介されたのでありまして


”森野美咲”さん ”しぶこちゃん” ”前田穂南さん”に続く 快挙 & 壮挙、嬉しいこと、この上なしであります。


 < 雑 記 > R3.2.27 記

当ブログが 2月21日、2,992,185 goo全ブログ中 89位と、再び 2桁順位を記録してますので、当該データを残しておきます。

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