百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

小澤征爾さん『私の履歴書 (1) 』~ 【音楽教室 salley gardens】さんのWEBからいただきました

2024-02-11 18:45:22 | 日記
 
 ① 体はふわりと軽かった。舞台の上ではラヴェルのオペラ「こどもと魔法」が進んでいる。舞台下のピットにはサイトウ・キネン・オーケストラのメンバーがいる。
 去年の8月。2年ぶりに、僕が総監督を務める長野県松本市の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で指揮をした。色々と大変なこともあったけど、今ここで仲間と音楽をやれている。何とも言えない喜びがどんどん湧き出てきた。音楽家になってよかった。
 いつも先のことばかり考えてきた。今日音楽会でやった曲のことは終わった後にすぐ忘れないと、次の曲に入っていけない。目の前のことに集中するには、それ以外のことはすべて忘れることだ。何十年間もそうしているうち、いつの間にか「忘れる技術」が身についていた。だから昔のことを振り返ることもあまりなかった。何せいつも忙しくて、そんな余裕もなかったから。それが変わったのは、病気をしたのをきっかけに時間ができたからかもしれない。
 2009年の12月、人間ドックで食道がんが見つかった。摘出手術は無事に成功したが、その新しい体に慣れるのに時間がかかった。音楽監督をしていたウィーン国立歌劇場の仕事もキャンセルしなきゃいけなくなった。体力を取り戻すのに、思いのほか骨が折れた。
 それでもいざ指揮台に立てば体調のことなんか全く忘れてしまう。翌年の12月、ニューヨークのカーネギーホールでの復帰公演。サイトウ・キネン・オーケストラとベルリオーズの「幻想交響曲」を演奏した後、楽屋に戻った途端に意識を失った。
 3日後、ブリテンの「戦争レクイエム」を何とかやり通したが、肺炎を引き起こしてしまった。その後も体の不調で指揮をキャンセルすることがたびたびあって、とうとう12年3月から1年間、休養に専念するはめになった。たくさんの人に迷惑をかけてしまい、申し訳なくて気持ちが沈んだ。
 でも悪いことばかりではなかった。おかげで音楽を勉強する時間がうんとできた。友人の村上春樹さんと音楽についてじっくり話す機会にも恵まれた。昔のことを思い出すゆとりもできた。
 家族や親しい仲間と昔話をしていると、思い出が次から次へとあふれてくる。音楽との出合い。最初はピアニストを目指していたこと。なんで指揮者になろうとしたのか。恩師・斎藤秀雄先生のこと。若い頃に運良く海外へ行けて、そこでも素晴らしい先生たちに巡り合えたこと。いろんな人の応援。
 ずいぶん多くの人に助けられてきた。改めて気付いた僕はお世話になった人たちに感謝したくなって、久しぶりに電話したり、会いに行ったりした。
 だいたい指揮者という商売は、自分一人ではどんな音だって出せない。演奏家や歌い手がいて初めて音楽が生まれる。宿命的に人の力がいるのだ。
 どんな人たちに支えられてきたか。その恩人たちを紹介するのが僕の「履歴書」なのかもしれない。それにはまず生まれた時のことから順に追っていくのが良さそうだ。このごろ物忘れがひどくて、よく「アレアレ」「ホラホラ」なんて言っている僕でも、子供のころのことは鮮やかに覚えている。

 ② 僕は1935年9月1日、今の中国瀋陽市、旧満州国奉天に生まれた。おやじの開作は山梨県西八代郡高田村の生まれだ。東京で苦学して歯医者になり長春で開業したが、僕が生まれた頃にはもうやめていた。当時共産革命でできたばかりのソ連の脅威に立ち向かうには、アジアの民族が一つにならなければならないとの信念から、政治活動にのめり込んだ。おやじは百姓の息子なので、田植えでは村中が団結して、協力し合わなければならないことを体験していたからである。
 満州青年連盟長春支部長を務めていた時に関東軍作戦参謀の石原莞爾さんと板垣征四郎さんに目をかけられ、やがて親しく交わる。二人の名前から一字ずつもらい僕に「征爾」と名付けた。おふくろのさくらによれば、出生の知らせを聞いた時にちょうど二人と一緒にいたらしい。子供のころは書けなくてよく「征雨」と間違えたものだ。
 おやじが新しい政治団体「新民会」を作るというので、僕たち一家は翌年、中国・北京の新開路に引っ越す。落ち着いた先は胡同(フートン)の中にある四合院造りの屋敷。中庭を取り囲むように建物が立ち、立派な門の両脇には狛犬(こまいぬ)がいた。
 うちは男ばかり4人兄弟で、上から克己、俊夫、僕、幹雄(あだ名はポン)の順だ。北京の家にいたのは両親と僕たち兄弟のほか、おやじの郷里から呼び寄せた2人のお手伝いさん、中国人のお手伝いの李さん一家。「新民会」の青年たちもしじゅう出入りしていた。おやじは彼らを中国のあちこちへ派遣し、貧しい農村があれば懸命に手助けをした。なかには内地で何年も牢獄(ろうごく)に入っていたような元共産主義者もいて、うちには朝から晩まで憲兵が張り付いていた。
 小山さんというその憲兵は丸顔のかわいい人で、兄貴たちとチャンバラごっこで遊んでいた。おふくろは人を分け隔てしないタチだから、食事になると小山さんも呼んで一緒に円卓を囲む。そのうちすっかり仲良くなり、しまいにはうちにいたお手伝いのきよじさんと結婚した。
 幼い僕の好物は中国の蒸しパン、饅頭(マントウ)。朝は「要幾個(ヤオジーガ)饅頭(饅頭いくついるかね)ー」という饅頭売りのラッパと声で目を覚ました。朝飯はいつもほかほかの饅頭だ。中庭にゴザをしいて、みんなで頬張った。兄貴たちが学校へ行くと、うちで李さんの娘の亜林(ヤーレン)とばかり遊んでいた。一度、一人で門の外へ出たら、自転車にひかれて目の上を切ってしまった。全く間抜けな話だ。その傷は今も残っている。
 北京の冬の思い出はなんと言ってもスケートだ。中庭に水をまいて凍らせて、みんなで滑る。最初は兄貴たちの手につかまっていたのが、すぐに上手になった。北海公園や中南海の池でもよく滑った。
 日曜になるとクリスチャンのおふくろに連れられて教会で賛美歌を歌う。家でもみんなで合唱だ。おふくろが歌うとどういうわけか少しずつ調子が上ずっていく。合わせるのが大変だった。
 5歳のクリスマス。おふくろが大雪の中、大通りの王府井(ワンフーチン)まで行き、アコーディオンを買ってきた。克己兄貴はみるみるうちに上達し、僕らの合唱の伴奏をするようになった。僕と音楽の出合いだ。
 
 ③ おやじは官僚政治や権威主義を心底嫌っていた。理念も持たず中国人を蔑視する政治家や軍人が増えると、手厳しく批判した。1940年には言論雑誌「華北評論」を創刊する。「この戦争は負ける。民衆を敵に回して勝てるはずがない」とおおっぴらに主張し、今度は軍部に目を付けられるようになった。
 「華北評論」は検閲で真っ黒に塗りつぶされ、何度も発禁処分を受けた。日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。
 「軍の輸送に迷惑をかけるから余計なものは持って行くな」と厳命され、家財道具はほとんど置いてきた。持ち帰ったのは着替えと中国の火鍋子、家族の写真アルバム。それからアコーディオンもあった。僕が生まれて初めて触った楽器だ。船と列車を乗り継いで日本に引き揚げた。41年5月だった。
 住まいは東京の西、立川市の柴崎町。若草幼稚園に1年間通った後、42年に柴崎小学校に入る。学校ではどうかすると「是(シ)(はい)」「不是(プシ)(いいえ)」とか中国語が出て悪ガキどもにからかわれた。頭に来て黙っていたら中国語はすっかり忘れてしまった。
 北京に1人残ったおやじは「華北評論」の刊行を続ける。「小澤公館」の看板を掲げた家には従軍記者の小林秀雄さんや林房雄さんも訪れたらしい。次第に軍の圧力は強まり、43年、おやじは追放されるように日本に帰ってきた。
 だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
 おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。
 45年8月6日。広島に原子爆弾が落ちた。広島で軍医をしていた叔父の静は命こそ助かったものの被爆している。9日、長崎にも原爆が落とされた。15日、敗戦。玉音放送を家族で聞いた。おやじが僕たち兄弟に言った。
 「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」
 敗戦から何日かして、おやじが今度は突然「これからは野球だ」と言い出した。おふくろにごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学4年生の夏のことだ。
 
 ④ 戦時中、上の克己兄貴にアコーディオンを教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。小学校の担任の青木キヨ先生はピアノができる人で、ある日講堂で弾いている時に「触ってもいいよ」と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。小学校4年の終わり頃だった。
 最初の教則本「バイエル」を僕に手ほどきしたのは克己兄貴だと思う。旧制府立二中(現在の都立立川高校)に通っていた兄貴も同じ頃に音楽に目覚め、音楽の先生にピアノを習い始めていたのだ。特別に二中のピアノを使わせてもらい、僕にレッスンした。下の俊夫兄貴と「征爾にもっと本格的にピアノをやらせたいからうちにも1台あるといいね」と話しているのをおやじが耳にしたらしい。
 おやじが方々ツテを探し、静叔父の奥さん、英子さんの横浜の実家にあるアップライトピアノを譲ってもらえる話がまとまった。値段は確か3千円。うちには余裕がなかったからおやじが北京で買って愛用していたカメラのライカを売って工面したのだった。
 算段をつけたのはいいが、どうやって持ってくるかが問題だ。結局、兄貴たちがリヤカーを借りてきた。道中、農家に一晩ピアノを預けたり親戚の家に泊めてもらったりして、3日かけて横浜から立川の家まで運んできた。心配になったおやじが後から追いかけたくらいだから、ずいぶん重労働だったはずだ。
 そうやって届いたピアノの蓋を開けて、ド・ミ・ソと鳴らしたとき、なんてきれいな音なんだろうとドキドキした。5年生の秋には学芸会でベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾く。初めて人前で演奏した。
 俊夫兄貴の同級生で、レコードマニアの鈴木次郎さんという人がいた。兄貴にくっついてその人の家でレコードを聴くのが楽しみだった。バリトンのゲルハルト・ヒュッシュが歌うシューベルトの「冬の旅」や、モーツァルトのピアノ協奏曲「戴冠式」をよく覚えている。やはり俊夫兄貴の知り合いで、盲目のピアニストの直井さんにもずいぶん、ベートーヴェンの「熱情」とかの演奏をじかに聴かせてもらった。そうやって1曲1曲、うんと空気を吸い込むようにして音楽を体に染み込ませたものだ。
 おやじは歯医者に戻ればいいものを「長いことやってないからもう忘れた」と言って、商売を始めてはことごとく失敗した。僕が小学校6年生の時にはミシン製造の会社を始めるというので、立川の家を売り払い、小田原の近くの神奈川県足柄上郡金田村へ移る。わらぶき屋根の古い農家に住み、おふくろが慣れない百姓仕事で米を作って育ち盛りの4人の息子を食わせた。
 中学に入学する段になって、慣れない農村の学校よりは私学のほうが良かろうということになった。家からは2時間半もかかったが、おふくろが成城学園に決めた。入学は48年4月。ピアノの豊増昇先生に弟子入りしたのもその頃だ。不思議なもので、先生のお兄さんがおやじの新民会の仲間だったのだ。ドイツ帰りの高名な先生で、新しいお弟子はとっていなかったが、特別に見てもらえることになった。
 
 ⑤ 成城学園中学に入ってしばらくすると、同級の松尾勝吾(あの新日鉄釜石の松尾雄治の叔父だ)に誘われてラグビーを始め、たちまち夢中になった。ポジションはフォワード。放課後は毎日、夕方遅くまで運動場を走り回った。
 豊増昇先生のピアノのレッスンがある日は、泥まみれの格好でお宅へ通う。兄弟弟子にはいま「左手のピアニスト」として活躍する舘野泉がいた。昔から貴公子みたいな男で、しゃれてモダンな奥さんにとても気に入られていた。その横で僕は随分むさ苦しく見えていたに違いない。
 舘野たちほかの弟子はリストやショパンを弾いていたが、僕がやらされたのはなぜかバッハばかり。うんと課題があって、必死で練習した。あの頃はピアニストになるつもりだった。
 同学年の安生慶、奥田恵二と初めて室内楽を演奏したのもこの時期だ。安生がバイオリンで奥田がフルート。山中湖にあったうちの別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を練習した。1人のピアノ音楽ばかりやっていた僕は、仲間と音を合わせる喜びを知った。
 金田村から通学するのがあまりに大変なので、成城の酒井広(こう)先生のお宅に下宿した時期がある。先生は日本人と結婚したイギリスの貴婦人で、学校で英会話を教えていた。お宅にはピアノがなかったので、夜になると暗い森の中にある成城の音楽室まで行って練習した。その後は成城の教会の平出牧師の厚意で2階にも一時下宿し、オルガンでバッハを練習していた。
 バッハといえば豊増先生はその鍵盤楽曲の全曲演奏を始めたばかりだった。練習曲でも何でも全て弾く。弟子だから行かないといけない。「こんな退屈な音楽会あるか」と思って聴いていた。全くもったいない話だ。しかもおやじのミシン会社が失敗してうちがスッカラカンになってしまったから、途中から月謝は滞りがち。最後はただで見てくれたのだからありがたい。
 うちは本当に貧乏で、成城の学費を滞納するのもしょっちゅう。家計を支えたのはおふくろの内職だ。毛糸を編んで「九重織」というネクタイを作り、銀座の洋品店「モトキ」に卸していた。これが結構はやったのだ。機の両端を自分の腰と家の柱に結びつけて、一日中織っていた。
 おふくろは「ピアノを弾いているんだから指は大切にしないといけない」と言って、ラグビーを禁止した。それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預け、何食わぬ顔で帰った。おふくろは内職で忙しいから気付かない。が、とうとうバレた。
 あれは中学3年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながった。そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ、入院するはめになった。
 それからはさんざんだ。両親と兄貴たちには叱られ、弟にはあきれられた。退院後、包帯だらけの情けない姿で豊増先生のお宅へ行った。「もうピアノは続けられなくなりました」。そう言うしかなかった。「音楽はやめるのか」。黙っていたら先生が口を開いた。「『指揮者』というのがあるよ」。初めて聞く職業だった。
 
 ⑥ 指のケガでピアノが弾けなくても、音楽はやりたい。中学3年の時、同学年の安生慶と2級下の女の子たちで賛美歌を歌う合唱グループを作った。同学年の清水敬允や山本逸郎、俊夫兄貴、弟のポンも入った。僕が初めて指揮したのはこのグループで、今も「城(しろ)の音(ね)」の名で活動している。
 成城に昔からある男声合唱団「コーロ・カステロ」にも顔を出し、黒人霊歌やロシア民謡を歌った。指揮はOBの河津祐光(すけあき)さんだ。うねるハーモニー、アクセント、リズム。指揮で音楽が変わることを経験し、衝撃を受けた。
 ある日、日比谷公会堂でピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」を弾きながら日本交響楽団を指揮するのを聴いた。ゾクゾクした。やはりその頃、安生に連れられて四ツ谷の聖イグナチオ教会でパイプオルガンを聴き、胃袋がぶるぶる震えたことがあった。同じような感動があった。これだ! と思った。
 でも指はまだ思うように動かない。本当に指揮者を目指すか、すごく悩んだ。そんな様子を見ておやじはこっそり、担任の今井信雄先生に相談したらしい。先生は3年間ずっと受け持ちだった。学校を出たてでまだ若く、その風貌から僕らは「山猿」と呼んでいた。おやじとは大酒飲み同士、気が合ったようだ。
 「彼はピアノより指揮者の方が向いています」。飲み屋で先生が断言したもんだから、おやじは安心し、僕が指揮者になるのを応援するようになった。随分たってからその事実を知り先生に確かめた。「実はあの時、指揮者が何だか全然知らなかった」と言うんだから、全く笑い話だ。
 一方、おふくろは「うちの親戚に指揮者がいるよ」と教えてくれた。おふくろの伯母のおとらさんの息子がチェロ弾きで、指揮もやるという。名前を斎藤秀雄といった。
 おふくろに書いてもらった手紙を持って、一人で麹町のお宅を訪ねたら、うんと怖そうなやせた人が出てきた。手紙を差し出して「弟子にして下さい」と頼んだ。「普通は親と一緒に来るもんだ」とあきれている様子だったが「1年後に桐朋学園の音楽高校を作るから、そこに入りなさい」とのことだった。
 先生は戦後、作曲家の柴田南雄や入野義朗、ピアニストの井口基成、声楽家の伊藤武雄、音楽評論家の吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を作り、基礎から音楽を教えていた。今度は普通高校の桐朋に音楽科を設けるという。
 まず成城の高校に進学して1年待つことにした。その間に柴田先生に作曲を、聴音を小林福子先生に習った。指揮は斎藤先生の弟子の山本直純さんに基本を教わり、月に2度ほど先生に見てもらった。
 うちはその頃、金田村から引っ越していた。世田谷区代田の貸家に移ったものの、家賃が払えなくなって経堂の東京農大の校舎に住み着いた。おやじの知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれたからだ。相変わらず貧しかった。
 先日、悲しいことが起きた。中学時代からの親友の安生が4日の夜に亡くなったのだ。年末に体調を崩したと聞いて、毎日会いに行っていた。僕を音楽の世界に導いた恩人の一人は間違いなく安生だ。安生、ありがとう。でも急ぎすぎだぞ。
 
 ⓻ 斎藤秀雄先生は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「はねあげ」など7つに分けていた。どの動きもいつ力を抜き、入れるかは厳密に決まっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなきゃいけない。
 「歩く時に坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?」と先生は言った。動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。変なやつと思われただろうが、周りの視線にも気付かないくらい集中していた。
 1952年、いよいよ桐朋学園の音楽高校に入学する。同期の男子は4人。頭が切れる村上綜(声楽)、まじめな林秀光(ピアノ)、スマートなホリデンこと堀伝(ただし)(バイオリン)、お山の大将の僕(指揮)、という顔ぶれだった。
 斎藤先生はめちゃくちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行う。女の弟子の久山恵子さんのレッスンで、僕と直純さんが連弾した。練習が足りず、弾けないところは口三味線で「ララララ~」なんて歌ってごまかしてたら、とうとう「バカにするな!」と雷が落ちた。
 あまりの剣幕(けんまく)に、2人して庭からお宅を飛び出し、近くの公衆トイレの陰に隠れたら、奥さんの秀子さんが僕らの靴を持って追いかけてきた。でもあのレッスンは後で役に立ったと思う。細かなニュアンスを弾き分け、オーケストラの音を想像する訓練になったからだ。バイオリンやチェロのピアノ伴奏もやれと言われて、ずいぶんやった。
 僕は目が回るほど忙しかった。先生に桐朋の学生オーケストラの雑用一切を任され、譜面台や楽器の手配、椅子並べ、パート譜の印刷、校正と次から次にやることがあったからだ。楽譜の間違いがあったり、譜面台が壊れてたりすると「小澤!」と怒鳴られた。
 見かねたホリデンが手伝ってくれることもあったが、仕事はいくらでもあった。帰る頃にはヘトヘトだ。ほかの生徒は楽器だけ練習していればいいのに、なんで僕ばかりこんなに大変なのか、と一時期は先生をうらんだものだ。
 指揮の勉強もあるし、休みなんてなかった。土曜日の午後には「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習がある。夏休みになれば北軽井沢で合宿だ。合宿所は地元の小学校。一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。
 先生は子供にも容赦せず、怒鳴りつけては震え上がらせた。保護者も何も言えなかった。先生と生徒の間に立っていたのが桐朋の事務方の伊集院清三先生だ。よく生徒の味方になってくれた。怒られている僕に助け舟を出してくれたこともある。上品で優しい、本当の人格者だった。
 高校時代の僕はいつも忙しく、ひょろひょろに痩せていた。ある日、胃が痛くなって固いものが喉を通らなくなった。十二指腸潰瘍だった。斎藤先生の親戚(つまり僕の親戚でもあるが)の橋本寛敏院長がいる聖路加病院で看(み)てもらったところ、食事療法で治すことになった。主治医は菅原虎雄先生と日野原重明先生。完治できたのは、この先生たちのおかげだ。
 
 ⑧ 高校3年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハの「シャコンヌ」を振ることになった。バイオリンの曲を、斎藤秀雄先生がオーケストラ用に編曲したものだ。十数分の曲を先生は半年かけて僕に教えた。
 バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも「一番音域が広いここが音楽の頂点で」というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでバイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を聴いた時、「シャコンヌ」が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。
 先生はそれだけ才能があったのに極端なあがり症だった。本番の演奏会で指揮する時は普段と全然違う。手が先走って「先入(せんにゅう)」という指揮法をやたらに使うのだ。何の気なしに「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言ったら「そんなこと言うな!」とドヤされた。半年に一回くらいそれで怒られて、兄弟子の山本直純さんにあきれられた。
 話を戻そう。卒業公演の「シャコンヌ」は直純さんや岩城宏之さんも聴きに来て、終演後に「感動した」と言ってくれたのがうれしかった。卒業後は桐朋学園短期大学に進む。5月にアメリカのオーケストラ「シンフォニー・オブ・ジ・エア」が日本にやってきた。指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが率いていたNBC交響楽団の後継だ。
 斎藤先生に言われて、公開練習を聴きに行ったんだと思う。曲はブラームスの交響曲第1番だった。いきなりブッ飛んだ。日本のオーケストラとはまるで響きが違う。冒頭のティンパニの強烈な音は今も体に残っている。
 音楽やるなら外国へ行って勉強するしかない。心に決めた。同期の江戸京子ちゃんとか、桐朋の仲間たちは次々と留学していった。僕はいつも羽田空港で見送る方。相変わらず先生のかばん持ちとして雑用に追い立てられる毎日で、焦るような、もどかしいような気持ちが膨らんだ。
 そして迎えた卒業式。なぜか僕の名前が呼ばれない。あるはずの卒業証書もない。留年していた。単位が足りなかったのだ。しかも誰も教えてくれなかった。かわいそうに、張り切って着物で来たおふくろは泣きながら帰ってしまった。僕は謝恩会の幹事まで引き受けていたというのに。
 声楽の伊藤武雄先生が「いいんだ、卒業なんかしなくたって」と慰めてくれたが、そんなむちゃな話はない。また学費を払うのに、アルバイトしなきゃいけなかった。しばらく伊藤先生の紹介でアマチュアの三友合唱団を指揮した。あとは斎藤先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオケを指揮したのが良い経験になった。
 翌年、とにかくヨーロッパへ行こうとフランス政府給費留学生の試験を受けた。僕と、桐朋オーケストラのフルートで弟分の加藤恕(ひろ)彦が最終審査に残った。語学ができて優秀な加藤が受かり、僕が落っこちた。
 羽田で見送るのはまた僕だった。パリ国立高等音楽院に入った加藤から届く手紙を読んではジリジリした。どうにか留学できないか八方手を尽くしたが、はかばかしい答えはないまま、時間だけが過ぎていった。
 
 ⑨ 外国行きの見通しが立たず、僕はすっかり意気消沈していた。あれは桐朋恒例の北軽井沢での夏合宿の後だ。軽井沢の駅の待合室で成城の同級生、チコこと水野ルミ子にばったり会った。「征爾、何落ち込んだ顔してるの」。外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明したら「うちの父に話してみる?」という。チコのおやじは水野成夫(しげお)さんといって、文化放送やフジテレビの社長だった。
 その足でチコの別荘へ行き、水野さんに会った。顔を合わせたことはあったが、ちゃんと話すのは初めて。僕の話を聞いて「本気なんだな?」と念を押すと、すぐに四ツ谷の文化放送へ行け、と言った。向かった先では重役の友田信さんが資金を用意してくれていた。確か50万円だった。
 桐朋の同期、江戸京子ちゃんのおやじで三井不動産社長の江戸英雄さんにもずいぶん助けられた。その頃うちのおやじがやっと歯医者に戻り、川崎に家を建てたから、仙川の桐朋まで通うのは大変だった。江戸さんはそれを知って、下落合の自宅に僕が寝泊まりできる部屋を用意したり、ご飯を食べさせてくれたりしていた。そもそも桐朋の音楽科は江戸さんが桐朋の生江義男先生たちと力を出し合って作ったものだ。
 その江戸さんが話をつけて、日興証券会長の遠山元一さんからも資金をいただいた。さらに江戸さんの手配で、フランス行きの貨物船に乗れることになった。
 あとは向こうでの足がいる。僕はスクーターで移動することを思いついた。江戸さんの家によく出入りし、後に彫刻家になった藤江孝さんと毎日新聞記者の木村さんと手分けして、片っ端から自動車会社に電話してスクーターの提供を頼んだ。が、良い返事はない。結局、おやじの満州時代の同志で、富士重工業の松尾清秀さんがラビットスクーターを用意してくれた。
 出航は1959年2月と決まった。準備やら送別会やらで忙しい日が続いた。スクーターは横浜で貨物船に預け、僕は神戸から乗船することにした。神戸に向かう前日は家族で水入らず。おやじが大まじめな顔で「水杯(みずさかずき)だ」と言い、2人で酒を酌み交わした。
 一つだけ、心に深く刺さっていたトゲがあった。斎藤秀雄先生のことだ。先生は僕のヨーロッパ行きに「まだ早い」と強く反対していた。最後には「まだベートーヴェンの(交響曲第)9番を教えていないからだめだ」と言われた。それを一方的に「行きます」と伝えて、逃げ出すように別れたきりだった。
 出発の夜。東京駅には大勢の人がプラットホームまで見送りに来た。桐朋のみんなや成城のラグビー仲間、合唱グループ「城の音」のメンバー、「三友合唱団」のおばさんたちもいて万歳三唱してくれた。涙が出てしまいそうで、みんなの顔をまともに見られなかった。
 その時だ。夜のホームの向こうから斎藤先生がトボトボ歩いてきた。コートのポケットから「これ、使えよ」と分厚い封筒を出してきた。後で確かめたら1000ドル近く入っていた。何より来てくれたことがありがたかった。おかげでどれだけ気が楽になったかしれない。いよいよ出発の時間が来た。下の俊夫兄貴と三等寝台に乗り込み、窓からみんなに手を振り続けた。
 
 ⓾ 列車がとうとう動き出し、僕は3段ベッドの一番上に寝っ転がった。さっきまで仲間が大勢いたのに今は俊夫兄貴と二人きりだ。さすがに少ししんみりした。翌日、京都に着き、江戸英雄さんに「泊まっていけ」と言われていた日本旅館「土井」に一泊した。
 僕が生きて帰れないだろうと思って、最後のプレゼントのつもりだったのかもしれない。ずいぶん立派な旅館だった。一晩に2組しか泊めないという。兄貴と懐石料理を食べて檜(ひのき)風呂に入って寝た。
 翌日。神戸港で三井船舶の貨物船、淡路山丸に乗り込んだ。タラップが上がる。いよいよ出港だ。心配顔で埠頭に立つ兄貴に向かって甲板から叫んだ。「俺、ちっとも寂しくねえや」。そうして僕の長い旅が始まった。1959年2月1日、23歳だった。
 感傷はあまりなかったように思う。それより横浜で先に船に預けておいたスクーターのことなんかが気がかりだった。おまけに兄貴にギターを買っておくよう頼んだら、どういうわけか紙袋に入れてきたので、どう持ち運ぼうかとか、つまり現実的な心配が先に立った。
 旅は全く新しい体験の連続だった。日本を出て最初に着いたのはフィリピンだ。イロイロという港でしばらく停泊した。島の税関の若い男が船に来たので、ギターを弾いて歌を歌った。言葉は通じないがうまが合って、3日間イロイロを案内してもらった。美しい田舎街だった。インドのボンベイ(現ムンバイ)では船長さんのおごりで有名なヴェーグ四重奏団の音楽会を聴きに行った。
 男ばかり50人ほどいた船員さんたちはみな気の良い人たちだった。食うのが好きで、毎食うまいものが出る。コーヒーの味と匂いも覚えた。風呂は海水をあっためたのに入る。体がすっきりして何とも気持ちがいい。僕の部屋は船長室の横。ある午後、窓から外を眺めたら、水平線の向こうまで海が真っ平らに広がっているのが見えた。沈む夕陽の美しいこと。じっと見とれた。
 それにしても船旅は長い。暇にあかせて、スクーターを何日もかけて解体して、また組み立てた。故障した場合に備えて、事前に富士重工業の工場で組み立て方を教わっておいたのだ。そのやり方を忘れないように船でも時々練習した。
 親切な甲板長さんがその作業を手伝い、スクーターの横っ腹にペンキで日の丸を描いてくれた。大工の船員さんに言って、ギターを持ち運びできる木の箱も作ってくれた。船上で合唱したのも懐かしい。手書きで男声2部合唱の楽譜を作り、僕がギターで伴奏して「春のうららの~」と歌う。実に愉快だった。
 船はインド洋を回ってアフリカへ。スエズ運河が渋滞しているので3日も4日もイカリを下ろして止まった。街へも行けないし、やることがない。若い船員さんたちと海に飛び込んで遊んでいると、船長が拡声器で「すぐやめろ!」と大声で怒鳴った。何だと思って甲板に上がったら、反対側に人間の3倍くらいあるサメが泳いでいた。ガタガタ震えが止まらなくなった。
 スエズ運河を通って地中海に入った船は3月23日早朝、ついにフランス・マルセイユに入港する。神戸港を出てから2カ月近くたっていた。
 
 ⑪ マルセイユからスクーターに乗って、いよいよ出発だ。スクーターを提供した富士重工業が出した条件は3つ。日本国籍を明示すること、音楽家であることを示すこと、事故を起こさないこと、だった。それで僕は日の丸つきのスクーターにまたがり、淡路山丸の船員さん特製のケースにギターを入れてパリを目指した。泊まるのは決まって若者向けの安宿だった。
 道中で菓子を売るスタンドを見つけた。立ち寄って看板の文字を見ながら「この『ピー』をくれ」と言ったらまるで通じない。英語のパイ(pie)だった。全く、語学だけはちゃんと勉強した方がいい。
 パリに着いたのは4月の上旬。旅の疲れと寒さでひどい風邪を引いてしまった。ちょうど音楽評論家の吉田秀和先生が来ていたから、ホテルを訪ねて薬をもらった。座薬を渡されたがそんなもの使ったことがない。飲み込んでしまって一向に治らなかった。
 パリには、以前日本で斎藤秀雄先生にチェロを習っていたローラン史朗の一家がいた。お母さんが日本人で、うちへ行くと日本の飯を食わしてくれる。僕の座薬事件を面白がって会う人ごとにばらされた。そこによく来ていたのが国立高等音楽院に留学中のピアノの江戸京子ちゃんとバイオリンの前田郁子さんだ。
 画家の堂本尚郎を紹介してくれたのは京子ちゃんだったと思う。すぐに仲良くなって仲間の集まりにたびたび招いてくれた。中には彫刻家のイサム・ノグチもいた。心細い異国の地で仲間ができるのはありがたいものだと知った。
 僕が落ち着いたのは大学都市のイギリス館というところだ。切り詰めれば1年はいられる計算だった。大学都市の食堂で食べれば安く済む。小瓶に入った安ワインばかり飲んでいた。日本を出た後、斎藤秀雄先生がレオン・バルザンという指揮者への紹介状を送ってくれたので、そこでレッスンを受ける以外は音楽会へ通った。ほかにアテはなかった。
 6月のある日、京子ちゃんが「指揮者のコンクールがブザンソンであるわよ」と教えてくれた。せっかくだから受けてみよう、と早速願書を取りに行った。締め切りはまさにその日。しかも外国人は大使館の証明が要るという。
 急いで日本大使館に行ったらどうも様子がおかしい。イギリス館の家賃の支払いが何度か遅れたことを調べられた。おまけに僕はちゃんとした留学生じゃない。怪しまれて「証明どころか強制送還だ」と脅された。飛行機で送り返し、旅費は後で親に請求するという。そんなことになったらおやじに殺される。ほうほうの体で逃げ出した。
 イギリス館の同室のロジャー・ホルムズというオーストラリア人のピアニストが、窮状を見かねて「アメリカ大使館に知り合いがいるから一緒に行こう」と言った。わらにもすがる思いで向かった。
 対応したのはカッサ・ド・フォルテという恰幅(かっぷく)の良い女性だった。僕の説明を聞くと「おまえはいい指揮者か、悪い指揮者か」と尋ねてきた。「僕はいい指揮者だ」。でっかい声で言ってやった。カッサ・ド・フォルテは大笑いしたが、目の前ですぐコンクールの事務局に電話して掛け合ってくれ、何とか受けられることになった。
 
 ⑫ ブザンソンはスイスとの国境の近く、静かで美しい街だった。これからコンクールが始まる。歓迎パーティーに顔を出したら来ている連中はみんな自信があるように見えた。日本人は僕しかいない。
 第1次予選は9月7日で、48人が受けた。課題曲はメンデルスゾーンの「ルイ・ブラス」序曲で、思い思いのやり方でオーケストラを仕込む。といっても僕の場合、言葉が通じない。でも音楽用語は世界共通だ。「アレグロ!」「フォルテ!」などと大声で連発しながら指揮したら思いがけずうまくいった。思い切ってやってやれと度胸を固めたのがよかったのかもしれない。1次通過の17人に入った。
 2次予選は9日。今度も難関だ。課題曲はサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」とフォーレの組曲「ドリー」の第5曲。フォーレの方は、オーケストラのパート譜にわざと間違いが書き込まれている。例えばホルンとトロンボーンを入れかえてある。指揮しながらそれを指摘するという課題だった。
 神経を集中してオーケストラをじっと見つめた。誤りを発見すると途中で止める。僕は12の間違いを全部指摘できた。これは聴音の小林福子先生のもとで特訓を受けたおかげだ。終わった後、審査員席からどよめきが起こり、ぐんと自信がついた。2次も通過。もう6人まで減っていた。10日夜、とうとう本選だ。パリから江戸京子ちゃんと前田郁子さんが来てくれた。
 最後の課題曲はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ヨハン・シュトラウス「春の声」。作曲家ビゴーがコンクールのために書き下ろした曲もあった。変拍子の難しい曲で、これを5分で見てすぐ指揮しなきゃいけない。
 クジ引きで僕が最初に出場することになった。さすがに緊張の極みだったが、僕のポケットには斎藤秀雄先生に教わった大事なものがいっぱい詰まっている。動じず、思う存分棒を振った。
 結果発表はその日の夜遅くだったが、お客さんもオーケストラも残って待っていた。舞台の上から入賞者の名前が次々に読み上げられる。時間がとてつもなく長く感じた。最後に「ムッシュー、セイジ・オザワ!」の声が響いた。僕が1等だった。「ブラボー!」の歓声とすごい拍手が起こった。
 ステージの中央に呼ばれて賞金と腕時計、賞状をもらった。それからはもみくちゃだ。カメラに取り囲まれて、インタビューぜめにあった。
 もちろんうれしかった。でも「これでまだしばらくヨーロッパに居られるな」という安心の方が大きかった。何せコンクールの前、僕はあわや強制送還というところだったのだから。
 優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者、ロリン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばニヤニヤしながらピアノを弾き始める。本選の「牧神」でオーケストラがうまくできなかったところをわざとそのままにして僕に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・ブーランジェのサロンで会った時も輪の中心にいた。僕なんか縮こまってコーヒーを飲むばかりだった。「牧神」を弾かれた時も「ホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえな」と思った。
 
 ⑬ コンクールが終わって何日かは、緊張が解けたせいか、ホテルの前の川でぼーっと釣りをして過ごした。コンクールはブザンソンの音楽祭の一環で、ほかにも色々な音楽会が開かれている。審査員だったシャルル・ミュンシュが指揮する音楽会があると聞いて、出かけていった。
 全く、あの時聴いたベルリオーズの「幻想交響曲」をどう言い表せばいいか分からない。こんな指揮者がいるなんて信じられなかった。長い指揮棒でもって、魔法をかけられたようだった。どうしたらあんなにみずみずしい音楽が生まれるのだろう。居てもたってもいられなくなった。
 最後のパーティーでのこと。僕は思いきって「ミュンシュ先生」と声を掛けた。振り返った顔は、さっきまで女の人たちと楽しそうに談笑していた様子とは違って、いかにも気難しそうだった。
 江戸京子ちゃんに通訳してもらって伝えた。「弟子にしてください」。返事は冷たかった。「私は弟子はとらない。大体、そんな時間はない」。がっくりきたが、「もし来年の夏にアメリカのタングルウッドに来るなら教えてもいい」と付け加えられた。
 ミュンシュはボストン交響楽団の音楽監督だった。ボストン響が毎夏タングルウッドで開いている音楽祭でなら教えるということらしい。僕らのやりとりをアメリカの放送局、ボイス・オブ・アメリカのヨーロッパ特派員、ヘイスケネンが聞いていた。ボストン響のかつての名指揮者、故セルゲイ・クーセヴィツキーの夫人と知り合いだから、音楽祭に参加できるよう掛け合ってくれるという。
 それを頼りに、僕はパリへ戻った。放送局のラジオ・フランスの主催で僕のお披露目の演奏会と記者会見が開かれたのは10月だったと思う。毎日新聞パリ支局長の角田明さん、画家の堂本尚郎さんが来てくれた。堂本さんに紹介されたのが、有名なナイトクラブ、クレイジーホースの店主アラン・ベルナルダンだ。
 僕が安酒ばかり飲んでいることを聞きつけたか「これからはうちの店で好きなだけ飲め」という。早速その夜に連れられて以来、時々通った。僕が行くと門番がふざけて敬礼する。アランの小さな部屋は四方の棚に酒が詰まっていて、どれを飲んでもよかった。新しい踊り子が入るとヌードショーをのぞく。僕は京子ちゃんと付き合い始めていたから「ばれたら具合が悪いなぁ」と思っていたけど、しっかりばれていた。
 アランとはその後も30年以上付き合いが続いた。ものすごい音楽ファンで、僕がパリで指揮する時には必ず聴きに来てくれた。ある日連絡が途絶えたと思ったら、自殺してしまった。あいつが生きていたらどんなに楽しいか、今でも時々思い出す。
 コンクールの後はそうやって酒を飲んだり、審査員だった作曲家ビゴーのもとで指揮のレッスンを受けたりした。コンクールに優勝すれば仕事が次々来ると思っていたのに、ほとんどゼロ。人生で一番、不安な時期だった。
 ボイス・オブ・アメリカのヘイスケネンさんからは約束通りタングルウッド音楽祭への招待状が届いた。1960年7月、僕は初めて国際線の飛行機に乗ってアメリカ大陸へ渡った。
 
 ⑭ パリからボストンまで飛行機で約9時間。窓からアメリカ大陸が見えた時は「また新しい生活が始まるのだ」と思って、ちょっと感動した。税関を通って外へ出ると、思いがけず出迎えがあった。パリで知り合った数学者の広中平祐さんだ。その晩はボストンの部屋に泊めてくれ、二人で思い出話に花を咲かせた。
 翌朝早く、長距離バスでタングルウッドに向かった。延々と草原が続く道を3時間ほど走って目的地に着いた。バークシャー山脈の中にあって、大きな森に包まれたところだ。ここで6週間にわたって音楽祭が開かれるのだ。
 まず指揮の試験を受け、合格した。これでミュンシュのレッスンが受けられる。さらに音楽祭の間、毎週木曜日に青少年オーケストラを指揮することが決まった。
 宿舎で同室になったのは、ウルグアイ人のホセ・セレブリエール。おどけてて、才能があるところが山本直純さんみたいだった。びっくりしたのがマーラーの交響曲のスコアを勉強していたこと。マーラーなんてほとんど演奏されていない頃だ。僕は名前こそ知っていたけれど、聴いたことはなく、スコアを見るのも初めてだった。
 音楽祭には僕以外に日本人がもう一人いると聞きつけて探しにいった。顔を見ると桐朋のヴィオラの河野俊達先生に似ている。恐る恐る話しかけたら「小澤じゃないか」。本人だった。1年半ぶりの再会に胸がいっぱいになった。
 ミュンシュの教えで強く印象に残っているのが、僕がドビュッシーの「海」を指揮した時のことだ。教えるといっても黙って部屋をうろうろするばかり。仕方ないから後にくっついていくと、しきりにフランス語で「スープル、スープル(柔軟に)」と言っている。つまり指揮するのに力を入れてはいけない、しっかり音楽を感じていれば手は自然に動くということだ。あの頃の僕はノン・スープルで固い指揮だったんだろう。
 僕の音楽会には有名な批評家のハロルド・ショーンバーグも来て、ニューヨーク・タイムズでべた褒めしてくれたらしい。後で知って感激した。
 音楽祭の最後には若い指揮者に与えられるクーセヴィツキー大賞を受賞した。かつてレナード・バーンスタインもとった賞だという。推薦者はミュンシュやクーセヴィツキー夫人らだ。誰かに「クリーヴランド管弦楽団のジョージ・セルか、ニューヨーク・フィルハーモニックのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろう」と言われた。
 クーセヴィツキー夫人やショーンバーグにはバーンスタインを勧められ、それでニューヨークへ行くことを決めた。大賞の賞金で99ドルの「超」中古車を買い、河野先生を乗せて、まずニュー・ヘイブンへ行った。日本フィルハーモニー交響楽団の元コンサートマスター、ブロータス・アールさんに会ってから、ニューヨークへ。桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にした。
 何日かいて、ニューヨーク・フィルを訪ねた。秘書のヘレン・コーツが出てきて、バーンスタインはヨーロッパへ旅行中だという。秋にはベルリンにいるから訪ねるよう言った。1960年9月、僕はアメリカを後にしてパリへ戻った。
 
 ⑮ 「カラヤンが弟子をとるためのコンクールを開くそうよ」。アメリカからヨーロッパに戻ってきた僕にそう教えてくれたのはベルリン在住の歌手、田中路子さんだ。田中さんは斎藤秀雄先生と昔から親しく、何かと僕の面倒を見てくれていた。ご主人で俳優のヴィクター・デ・コーバさんは指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと友達で、ご夫妻は「ヘルベルト」とファーストネームで呼んでいた。
 カラヤンが1954年に初めて日本に来てNHK交響楽団を指揮した時、僕は近所のそば屋まで行って、窓越しにテレビでその様子を見ている。コンクールに通れば、あのカラヤンのレッスンを受けられるのだ。
 ところが試験会場で課題曲を間違えていることに気付いた。僕の番は明日だ。慌てて田中さんのお宅にこもり、徹夜で勉強した。50人ほど受けて4人くらい通過した中に、なんとか入ることができた。
 ベルリンでレッスンが始まったのは10月。後に西ドイツの首相になるヴィリー・ブラント市長が援助していて、プロのオーケストラを使うぜいたくなものだった。
 カラヤン先生は技術について細かいことは言わない。その代わり大事にしていたのが音楽のディレクション、方向性だ。時間の流れの中でいかに音楽の方向を定め、そこへ向かうか。いかに自分の気持ちを高ぶらせていくか。それを先生はシベリウスの交響曲第5番のフィナーレを使って僕に教え込んだのだった。
 その頃、パリには成城の同級生の水野チコが住んでいた。結婚した白洲春正さんが映画会社、東和のパリ支店の駐在員になったからだ。夕食に招かれたある日、アパートへ行くときれいな日本女性が出てきた。「いいなぁ、あんなお手伝いを雇えて」。思わずチコに言ったら、ばかでも見るような目で返された。「女優の若林映子さんよ」
 その時同席したのが批評家の小林秀雄さんだ。僕の名前を聞いて「君のお父さんを知っているよ」と言う。戦時中、北京の家を訪ねたことがあるそうだ。おやじは中国の人から贈られた壺を応接間に飾っていた。それをにせものだと気付いた小林さんがたたき割り、おやじが「贈ってくれた人の気持ちを飾っているんだ」と怒って、つかみ合いのけんかになったという。懐かしそうに話してくれた。
 毎日新聞パリ支局長の角田明さんの紹介で作家の井上靖さんに会ったのも同じ時期。井上さんはローマ五輪の取材の帰りで、僕がパリ案内のような役目を引き受けた。当時の僕はいくつかコンクールに受かっていたけれど、仕事はほとんどない。何度か指揮した群馬交響楽団の丸山勝広さんから「日本で一緒にやりましょう」と誘われたから、もうヨーロッパは諦めて日本に帰るつもりだった。レストランで食事しながら、井上さんにそう言うと「とんでもない」と猛烈に叱られた。
 「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても理解してくれるじゃないか。どんなことがあってもいなさい」
 はっとした。なるほどその通りだ。思い直して丸山さんに断りの手紙を書いた。井上さんの言葉はその後も心の支えになり続けた。
 
 
 お亡くなりになられたら読む気が起こるなんて、何て嫌な性分なんでしょう。我ながら嫌になりますが・・・・・
 【音楽教室 salley gardens】さんの 2014.1.24 1.28 2.2 記事(日本経済新聞さん『私の履歴書』H26 (2014)年1月掲載分)を、(当ブログ文字数制限により)2編に分けて転載させていただきます。
 
 
 
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