百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

小澤征爾さん『私の履歴書(2) 』~ 【音楽教室 salley gardens】さんのWEBからいただきました

2024-02-11 18:45:48 | 日記
 ⑯ カラヤン先生のレッスンに通っている頃、ニューヨーク・フィルハーモニックを率いるレナード・バーンスタインに会いに行った。秋にはベルリンで音楽会を開くと聞いていたからだ。本番の後、彼は僕を「リフィフィ」というバーへ連れて行った。
 ストリップをやっている妖しげな店で、そこでニューヨーク・フィルの副指揮者になるための面接らしきものを受けた。審査委員の楽員たちも一緒だ。ところが僕は英語ができないから何言っているかよく分からない。
 それでも冬には採用を知らせる手紙が届いた。期間は翌年の4月から1年半。だがまだカラヤン先生のレッスンが残っている。迷った僕は手紙を持って先生のところへ相談に行った。「セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい」。温かく送り出され、僕は1961年3月半ば、ニューヨークへ向かった。
 副指揮者はリハーサルに立ち会い、指揮者に何かあれば代役をこなすこともある。僕以外に2人いた。給料は週給100ドル。小切手でもらうのだが、どう換金するのか見当がつかない。困っていたらニューヨーク・フィルのティンパニ、ソウル・グッドマンが僕をカーネギーホール裏の酒屋へ連れて行った。「ここのおやじなら大丈夫だ」と言うので、僕はそこで毎週現金に換えてもらった。
 音楽家のユニオンの費用を差し引くと、手元に残るのは90ドルあるかないか。生活するのがやっとで、いつも腹をすかせていた。この頃よく酒を飲ませてくれたのが彫刻家のイサム・ノグチと流政之だ。
 ニューヨーク・フィルは4月に日本公演を控えていた。もちろん、僕も一緒に行くことになっている。4月24日、僕は日本航空の特別機で羽田空港に着いた。約2年ぶりの日本だ。ハッチが開くと、みんなが「セイジが先に降りろ」と僕を押し出してくれた。出迎えていたのは懐かしい顔ぶれだ。おやじ。おふくろ。兄貴たちに弟のポン。成城の合唱グループ「城の音」のみんな。斎藤秀雄先生もいた。じーんと来た。
 5月、僕はできたばかりの東京文化会館で黛敏郎さん作曲の「饗宴」を指揮した。行きの飛行機でレニー(レナード)に「おまえがやるんだぞ」と言われていた。
 全く感激のデビューだったが、残念だったことがある。客席にいたはずの斎藤先生は終演後、僕を訪ねないで帰ってしまったのだ。話したいことはいっぱいあった。ヨーロッパにいる間も折々に手紙を出していたけれど、僕が勝手に外国へ飛び出したことが尾を引いていた。先生はドイツで音楽を勉強した人だから、僕にはドイツのオーケストラを指揮してほしかったのかもしれない。何となくまだぎくしゃくしていた。
 5月に日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して、夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った。翌62年1月には江戸京子ちゃんと結婚する。給料が150ドルに上がった。いつもの酒屋に小切手を持って行ったら、おやじが「おっ、上がったな」とニヤリとした。
 その年の5月、僕はニューヨーク・フィルの副指揮者の任期を終え、今度はNHK交響楽団を指揮することになった。

 ⑰ 僕をN響の指揮者に起用したのはNHKのプロデューサー、細野達也さんだったと思う。N響の放送録音の仕事を一緒にしたこともあった。細野さんが推薦しなければ、バーンスタインの副指揮者をしただけの僕をN響の幹部が指名するはずがない。
 契約は1962年6月から半年間。7月にはメシアン作曲の「トゥランガリラ交響曲」を日本初演した。メシアン自身も立ち会って練習はみっちりした。初演は成功したと言っていいだろう。
 10月になって僕らは東南アジアへ2週間の演奏旅行に出かけた。フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏した時。現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、僕はうっかり指揮棒を上げてしまった。オーケストラが楽器を構えた。だがカデンツァはまだ続いている。僕のミスだった。終演後、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに言われて「申し訳ありません」と平謝りするしかなかった。
 僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。
 ニューヨーク・フィルの偉い人が日本に来て、赤坂のナイトクラブに呼ばれたことがあった。音楽会の前日だった。だが、お世話になった人の誘いを断るのも気が引ける。行ったらN響の人たちにバレて気まずい思いをした。
 そんなことが積もりに積もって、練習もうまくいかないほど険悪な雰囲気になっていた。「N響の幹部がしゃぶしゃぶ屋で話し合っているようだ」。細野さんからそう聞いて、嫌な予感がした。
 11月の定期演奏会が終わった夜、N響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には、一切協力しない」と表明する。それが新聞に報じられ、僕はマスコミに追われるようになった。世間の顰蹙(ひんしゅく)を買い、電車に乗っていても変な目で見られた。
 事態を収拾するため、細野さんに「病気になったことにして、12月の定期演奏会はキャンセルすればいい」と言われた。でも嘘をつくのもおかしな話だ。僕は今後の演奏を保証してもらうための覚書をNHKの会長宛に送ったが、受け入れられず、12月の定期は中止と伝えられた。だが演奏会当日、僕は弟のポンの車に乗って会場の東京文化会館へ向かった。楽屋口は記者で騒然としていたが、舞台にも客席にも人はいなかった。
 この騒動で、精神的にめちゃくちゃにやられた。泣いたし、悔しかった。年が明けた1月15日、僕を応援してくれる人たちが日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開いた。発起人は今でも信じられない面々だ。浅利慶太さん、石原慎太郎さん、一柳慧さん、井上靖さん、大江健三郎さん、武満徹さん、團伊玖磨さん、中島健蔵さん、黛敏郎さん、三島由紀夫さんたち。音楽に関係のない人も大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きでお世話になった水野成夫さんが作ったオケだ。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない。
 この後僕は再びアメリカへ旅立った。吉田秀和先生たちの仲介でN響とは和解が成立したが、もう日本に戻るつもりはなかった。

 ⑱ N響とのトラブルの後、ニューヨークに戻った僕は契約したばかりのマネージャー、ロナルド・ウィルフォードにきっぱり言った。「オレ、もう日本になんか帰らないよ」。けれどアメリカにいたって仕事はない。ただ時間が過ぎるばかりだった。
 半年ほどたった1963年7月のある日、ウィルフォードから「すぐ来い」と電話がかかってきた。カーネギーホールの前にある事務所に行くと、シカゴのラヴィニア音楽祭の会長、アール・ラドキンがいた。音楽祭でシカゴ交響楽団を振る予定だったジョルジュ・プレートルが肩を痛めたので、代わりに指揮をしろという。本番は数日後だ。
 「ほかに誰もいないから、しょうがない」。英語はよく分からなかったが、ラドキンがそう話しているのは理解できた。プレートルの降板が決まり、困ったラドキンはウィルフォードに代役の手配を頼んだらしい。ところが推薦されたのはオザワという無名の日本人。「日本人なんてやめてくれ」と何度も断ったが、ウィルフォードは引き下がらない。それで仕方なく承知した、そんな様子だった。
 事情は何であれ、とにかく時間がない。2日後にはシカゴで練習が始まるのだ。曲目はグリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルザークの「新世界より」、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲など。だけど楽譜がない。レニー(レナード)・バーンスタインのスタジオに駆け込んだ。不在のレニーに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらい、楽譜棚から借りてしゃかりきになって勉強した。
 ラヴィニアで何とか無事に2回の音楽会を終えた後、盛大なパーティーが開かれた。ラドキンが笑顔で何やら話しかけてくる。「君にこの音楽祭をあげよう」。そう言ったらしい。が、英語が聞き取れないのでよく確かめずにいた。
 その後、オランダの音楽祭で指揮している時(レニーがくれた仕事だ)、ウィルフォードから電話がかかってきた。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるから、すぐ戻って来い」。パーティーでそう言われていたのに、分かっていなかったのだ。情けない。
 ともあれ僕は翌64年6月、ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任した。最初の年は指揮するたび、地元の有力紙「シカゴ・トリビューン」が僕のことを徹底的にやっつけた。
 「ラドキンはどうしてこんなのを雇ったのか」「シカゴ響のような偉大なオーケストラがなぜこんな指揮者の下で演奏しなければならないのか」。中には人種差別めいた批評もあって、頭に来た。
 その夏の最後の音楽会。演奏が終わり、舞台袖に下がった後、客席からの拍手で呼び戻された。舞台に出ていくと、トロンボーンも、ティンパニも、トランペットも、弦楽器もてんでばらばら、めちゃくちゃな音を鳴らし始める。何が何だか分からない。「シャワー」といって、僕への祝福だった。
 「シカゴ・トリビューン」への抗議を込めたものらしい、と後で分かった。オーケストラが精いっぱい僕に味方してくれたのだ。「シャワー」を経験したのは生涯で後にも先にもこの1度きりだ。その年から69年まで、僕は毎夏ラヴィニアで指揮することになる。

 ⑲ 1965年9月、トロント交響楽団の音楽監督に就任した。僕がラヴィニア音楽祭で指揮するのを聴いたトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーが僕のマネージャー、ロナルド・ウィルフォードに打診したのだ。
 だが障害があった。どうやらレニー(レナード)・バーンスタインが反対しているらしい。「一緒に説得しよう」と言うウィルフォードと一緒にレニーの家へ行くと、やはりいい顔はしていない。
 「セイジはニューヨークに居て、良いオーケストラだけ指揮するべきだ」という。その頃のトロント響は今ほど有名じゃなかった。「いや、今の僕にはレパートリーを作ることが必要なんだ」。僕には全然レパートリーが足りない。マーラーの交響曲全曲演奏もやってみたい。必死で頼んで、渋々OKしてもらえた。
 トロント響での経験は思った以上に役立った。音楽監督はただ指揮するだけじゃなくて曲や客演指揮者の選定、人事までやる。楽員を辞めさせることだってある。オーケストラがどういうものだか分かって、すごく勉強になった。
 しばらくして、おやじとおふくろをトロントに招待したら、出発前におやじがとんでもないことを言い出した。「ベトナム戦争はやめさせねばならん。二度と東洋人同士を戦わせてはいかん。アメリカにも行って、一番話が通じそうなロバート・ケネディに俺の意見を伝えたい」。相手は元アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディの弟で上院議員だ。会おうにもツテがない。
 結局、僕の友人の浅利慶太さんが中曽根康弘さんを紹介してくれた。目黒の雅叙園で中曽根さん、浅利さん、僕とおやじで会い、中曽根さんに紹介状を書いてもらった。
 ケネディとワシントンで会う前の夜。僕たちが泊まっているホテルに先方の通訳の男性が来た。日本語がペラペラで、サンフランシスコ講和会議でも公式通訳を務めたという。その夜はホテルで酒を飲みながら、2時間ほどかけておやじの意見を聞いてくれた。おかげで実際にロバート・ケネディに会った時にはすんなり話が運んだ。
 おやじの主張は「日中戦争の経緯に照らしても、民衆を敵にしてしまったこの戦争は勝てない。アメリカは武力で勝とうとするのではなくて、発電や土木の技術とか、文明の面で優れているところを共産主義国に見せるべきだ」というものだった。15分か20分の約束だったのをケネディが倍くらいに延ばして、じっくり話を聞いてくれたのでおやじは大喜びだった。
 トロントでの仕事はまずまずだったが、私生活は立ちゆかなくなっていた。結婚した江戸京子ちゃんはピアニスト。どちらかが音楽の勉強をしている時、もう一方は勉強に集中できない。「音楽家同士の結婚は難しい」と誰かに言われたことがあった。確かにその通りだった。海外に居る間はいつも別居。結婚当初からうまくいかなかった。
 最後にはうちのおやじと京子ちゃんのおやじの江戸英雄さん、仲人の井上靖さんの話し合いになった。そこに僕が呼び出されて、最終的に離婚が決まる。でも離婚後も江戸英雄さんは僕のことを「息子だ」と言って、亡くなるまでかわいがってくれ、京子ちゃんとも後に良い友人に戻れた。

 ⑳ 武満徹さんの曲「蝕(エクリプス)」を1966年、日生劇場で初めて聴いた時は寒気がするほど感動した。琵琶と尺八が語り合い、叫び合う。日本の「間」や東洋の静けさがあった。その後、アメリカに戻った僕はレニー(レナード)・バーンスタインにいかにそれが素晴らしかったかを説いた。
 レニーはその頃ニューヨーク・フィルハーモニックの創立125周年を記念し、黛敏郎さんに曲を委嘱しようとしていたらしい。だが、僕の話を聞いて武満さんに決め、初演の指揮を僕に任せた。黛さんには悪いことをしたが、それで生まれたのが琵琶と尺八とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」だ。
 初演は翌67年11月。その前に尺八の横山勝也さん、琵琶の鶴田錦史さん、武満さんがカナダに来て、トロント交響楽団で徹底的に練習した。自分たちが初演するわけでもないのにトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーは快くOKしてくれた。
 この曲は武満さんの傑作中の傑作だ。西洋と日本の音楽が一体になって、真の音楽を生み出している。ニューヨーク・フィルの練習では、聴き慣れない尺八の音に笑い出す楽員がいた。カーッと来て怒ったが、次第に全員が演奏に心を込めるようになった。横山さんと鶴田さんの真剣勝負に触れたからだと思う。
 初演の日。静かなオーケストラパートの後、二人のカデンツァが始まった。小刻みに震える尺八に、切っ先鋭い琵琶。ニューヨーク・フィルの連中が息を詰めて耳を澄ませている。指揮台の僕も興奮が収まらない。最後の尺八の音が消えた後、客席から「ブラボー!」の歓声がわいた。大成功だった。
 その1カ月後、今度はトロント響で「ノヴェンバー・ステップス」を録音した。メシアンの「トゥランガリラ交響曲」も一緒だ。メシアンたっての頼みだった。でも、長い難しい曲だから弾く方は大変だ。練習時間が長くなる分、報酬がかさむからオーケストラの経営にも負担がかかる。ハンバーガーがよく承知してくれたと思う。
 トロントではピアニストのグレン・グールドとも親しくなり、共演しようという話になった。放送局で演奏し、録音もする計画だ。何度も打ち合わせして、ちょっと変わった良いプログラムができあがった。現代曲や、バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くのとか。なのに直前になってグレンが「嫌だ」と言って立ち消えに。そのくせ、変わらず平気な顔で僕と酒を飲んでいる。変わった男だった。
 69年4月、トロント響の日本公演で帰国した。東京文化会館での音楽会の後、楽屋に思いがけない人が来た。長く関係がぎくしゃくしていた斎藤秀雄先生だ。
 上野の食いもの屋に連れていってくれ、久しぶりにじっくり話せた。めったに人を褒めない先生に「お前も横に振れるようになってきたな」と言われたのを覚えている。指揮で横に振るというのは、ニュアンスを出すとか、あいまいな部分を表現することだ。極端な話、縦に振っていてもアンサンブルは合う。それ以上の音楽が作れるようになった、という意味だった。やっとわだかまりが解け、僕は芯からホッとした。

 ㉑ 僕が習った斎藤秀雄先生はオペラを全くやらなかった。だから僕は一度も教わっていないし、オペラのオの字も知らなかった。それを見破ったのがヘルベルト・フォン・カラヤン先生だ。 「指揮者にとってオペラとシンフォニーは車の両輪」がカラヤン先生の持論。「モーツァルトは一生の半分はオペラを書いてる。プッチーニなんて95%だろう。ワーグナーだってそうだ。オペラをやらないのはとんでもないぞ」
 そう言って、先生がザルツブルク音楽祭でモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮する時、僕にアシスタントをやらせた。1968年の夏だった。
 翌年7月、僕はザルツブルクでモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を指揮し、オペラデビューする。当時の僕のキャリアからしたら信じられない大役だ。きっと反対する声もあっただろう。カラヤン先生が「おれの弟子だから大丈夫だ」と言ったのだと思う。
 初めてオペラを振る僕に助言をくれたのが、一昨日亡くなったクラウディオ・アバドだ。一緒に飯を食いながら、コツを教えてくれた。「歌い手と一緒に息を取ればいいんだ」。言葉も満足にできない僕に、しきりにそう言ってくれた。良い友達を失って本当に悲しい。
 妻のヴェラと再婚したのもその頃のことだ。出会ったのは僕がトロントから一時帰国していた時だった。ヴェラは当時、入江美樹という名の人気モデル。誰だか知らなかったけれど、友人に「今から入江さんの家のパーティーに行こう」と誘われて顔を出した。
 そこにいたのはモデル仲間やら俳優の岡田真澄さんやら着飾った美男美女ばかり。映画監督の勅使河原宏さんもいた。片や僕は首の部分に垢(あか)がこびりついたベージュ色のタートルネックのセーターを着ていて、場違いなことはなはだしい。
 さすがに居心地が悪くて2階でお酒を飲んでいると、ヴェラのロシア人のおやじさんがやって来た。べらんめえ調の日本語を話す人で、妙に気が合い、2人でずっと日本酒を飲んでいた。帰り際、僕が1週間後に指揮する日本フィルハーモニー交響楽団の音楽会のチケットをヴェラの家族に渡し、そこでなんとなく彼女とも言葉を交わした。
 ヴェラは実際に音楽会を聴きにきて、それから時々会うようになり、次第に親しくなった。その後、パリに行ったヴェラは知人のサロンで突然喀血(かっけつ)する。結核だった。トロントでその知らせを聞いた僕は仰天して駆けつけた。一晩だけ看病して、後のことはパリにいた友人の彫刻家、藤江孝さんに任せた。特効薬が効いて、1年ほどで無事快復した。
 68年9月、僕たちは駿河台のニコライ堂で結婚式を挙げる。仲人はデザイナーの森英恵さんご夫妻。あとは家族だけの静かな式だった。
 2年後、僕はタングルウッド音楽祭とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就いた。サンフランシスコの前任はヨーゼフ・クリップス。彼とは僕がニューヨーク・フィルの副指揮者をしていた時に知り合っている。僕を見込んで後任に推薦してくれたそうだ。トロントを離れ、アメリカでの生活が始まった。

 ㉒ サンフランシスコ交響楽団の音楽監督就任披露公演の直前、おやじが71歳で急死した。心筋梗塞だった。息を引き取ったのは1970年11月21日。僕はボストン交響楽団を指揮する予定をキャンセルし、日本にすっ飛んだ。
 みっともない話だが、僕はずっとおやじに頼って生きてきた。音楽のことなんて全く分からない人だったが、何から何まで報告していた。
 僕がN響にボイコットされた時の言葉を今でも覚えている。「人殺しと盗みをしない限り、おまえは俺の息子だ。それ以外のことだったら何でもやれ。最後には俺が骨を拾ってやる」。川崎の家で冷たくなった体に触れた時、この先どう生きればいいか分からなくなった。
 葬儀は日本フィルハーモニー交響楽団の曙橋の練習場で執り行うことになった。だが当日、弔問客が全然到着しない。練習場の周りが騒がしく、道はひどい渋滞だ。近くの自衛隊市ケ谷駐屯地で三島由紀夫さんが自決していた。三島さんはN響事件の時に支援してくれた恩人。おやじの葬式の日に三島さんが死ぬなんて、こんなことがあるのかと思った。
 戦時中、おやじは政府の戦争指導を批判し続けた。立川の家には連日、特高課長が来たが堂々と持論を話していた。葬式の直後、おふくろ宛てに一通の手紙が届く。差出人はまさにその特高課長。「ご主人こそ真の愛国者でした。ご冥福をお祈りします」。読んだおふくろは泣いていた。
 おやじが死んだ後、僕の指揮は変わったと言われる。「もっとまじめにやらないといけない」と心を入れ替えたのは事実だ。71年に娘の征良(せいら)、74年に息子の征悦(ゆきよし)が生まれて責任はさらに重くなった。
 N響での経験のせいかもしれない。指揮者なんていつどうなるか分からないという不安が常にあった。思い余って、子供たちのために他の仕事を探そうとしたこともある。
 実際の状況は悪くなかった。サンフランシスコの音楽監督に就任した後、ボストン響からも音楽監督の話が舞い込む。だが最初は断っていた。あのジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団を鍛えたように、サンフランシスコ響を超一流のオーケストラにしたかったからだ。
 サンフランシスコ響に就任をOKした時、先方のマネージャーのハワード・スキナーはビルの屋上に駆け上がって「ブラボー!」と叫んだらしい。それくらい期待されているのに、辞めてボストンに移ることはしたくない。
 ボストン響の理事会長、タルコット・バンクスとマネージャーのトッド・ペリー(黒船のペリーの子孫だ)が改めて依頼にきた。悩んだ結果、両方やることにした。むちゃな話なのだが、サンフランシスコの後任マネージャーのスカフィーディやビル・バーネル、ヴィクター・ウォンらは「俺たちも協力するから、何とかやってみよう」と支持してくれた。
 ボストン響の就任は73年9月。38歳になったばかりだった。それからは家族がいるサンフランシスコとボストンを往復する日々。移動はたいてい深夜便の飛行機だ。3年もそんな生活を続けていたら血圧がぼーんと上がって、心肥大になった。76年、僕はサンフランシスコの任期を終え、ボストンに専念する。

 ㉓ 日本の音楽界に居場所がなかった僕に、フジテレビ社長の水野成夫さんが「日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者をやれ」と言ってきた時はすごくうれしかった。日フィルは水野さんが作ったオーケストラ。親会社はフジと文化放送だった。1968年9月に就任し、シカゴのラヴィニア音楽祭とトロント交響楽団の仕事と並行して日本でも定期的に指揮した。
 あれは僕が日本にいない時だった。71年、日フィルの楽員たちが待遇の向上を求めて親会社と衝突し、12月にストライキを起こす。日本のオーケストラで初のストだった。
 事態は収まらず、水野さんの後を受けてフジの社長になった鹿内信隆さんら経営陣は翌年5月、日フィルの解散を決める。慌てて帰国した頃にはもう、取り返しのつかない状況になっていた。
 日フィルを創設時から支えていた山本直純さんと、文化放送社長の友田信さんに会いに行った。「細々とでも続けてほしい」「せめて練習場は継続して使わせてほしい」。頼み込んだが、ダメだった。
 一方、楽員の多くも戦う姿勢を崩さない。「音楽なんてケンカするためにやるもんじゃない」と説得したが聞き入れられなかった。
 6月、焦った僕はとんでもないことをしてしまう。日本芸術院賞の授賞式で天皇陛下に「自分だけ賞をもらったけど、今一緒にやっている日フィルは大変なんです」と思わず言ってしまったのだ。その日は風邪で朝から目が腫れ、みっともないからサングラスをかけていた。怪しげな僕の写真が新聞に載り、脅迫めいた手紙が届くようになった。
 生まれたばかりの娘・征良のことが心配で、赤坂のホテルに住んだ。この時に「俺が何とかしてやる」と言ってくれたのが日本船舶振興会の笹川良一会長だ。全日本空手道連盟会長でもあった笹川さんの手配で、僕の音楽会には一時期、空手の強者たちが客席の一番前にずらっと座っていた。ちょっと恥ずかしかったが、ありがたかった。
 結局、日フィルは6月に解散する。最後の定期演奏会で僕はマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮した。シカゴ交響楽団のトランペットのアドルフ・ハーセス、ホルンのデール・クレベンジャーがゲストで吹き、「こんな素晴らしいオーケストラはない」とべた褒めしてくれた。それほど力のこもった演奏だった。
 解散後、直純さんと僕で作ったのが新日本フィルハーモニー交響楽団だ。旧日フィルの楽員の約3分の1が加わった。設立後すぐ、直純さんはテレビマンユニオンのプロデューサー、萩元晴彦さんと音楽番組「オーケストラがやって来た」を始める。番組内での演奏はもちろん新日フィル。
 僕は120%協力するつもりで、可能な限り出演し、親しい外国の音楽家にも積極的に出てもらった。バイオリンのアイザック・スターン、イツァーク・パールマン、ピアノのルドルフ・ゼルキン、ピーター・ゼルキンたちだ。みんな快く出演してくれた。
 直純さんは常々僕に言っていた。「山の底辺は俺がやるから、お前は頂点を目指せ」。その言葉通り、クラシック音楽を分かりやすい言葉で裾野まで広めようとしたのがこの番組だと思う。番組は11年にわたって続いた。直純さんの素晴らしい功績だ。

 ㉔ 「小澤よう、俺、胃がいてぇんだよな」。斎藤秀雄先生がそう漏らしたのは1973年の暮れだった。桐朋オーケストラの演奏旅行で神戸に行き、ホテルで一緒に朝食を取っている時だ。「先生、だったらすぐ病院に行かないと」。「おう、行く行く」。そんなやりとりがあってしばらくした後、先生は聖路加病院でただちに入院を言い渡される。大腸がんだった。
 アメリカに戻っていた僕が翌年9月に帰国し急いで病院へ行くと、元もと痩せている体がさらに細くなっていた。体中痛そうで話もままならない。僕はボストンへ発(た)つ予定をギリギリまで延ばし、山本直純さんと病室に詰めた。
 「おまえ、ボストンに帰らなきゃいけないのか」。最初の3日間ほどは顔を合わせる度に聞かれ、「大丈夫です」と答えていた。が、もう会話もできなくなる。痛みに苦しむ様子を見ていて、食事が喉を通らなくなった。
 17日深夜、兄弟弟子の秋山和慶が駆けつけた。長く先生のそばにいた秋山の顔を見て安心したのか、すぐ後に息を引き取る。72歳だった。
 亡くなる直前の8月、先生は無理をして桐朋恒例の夏合宿に行っている。最後の晩、車いすに座って、ほとんど動かない手で指揮したのがモーツァルトの「ディヴェルティメント(嬉(き)遊(ゆう)曲)K136」だ。僕は行けなかったが、録音したテープを後で聴いた。本来は明るく軽快な曲なのに、ゆっくりしたテンポで静かに進んでいる。涙が止まらなくなった。
 「おまえ、横に振れるようになったな」。先生に言われたことがあった。亡くなる前の数年間、先生もまさに横に振るようになっていた。技術だけじゃない音楽の何か、があった。いつか先生にそう伝えた時、「おまえに言われるようじゃ俺もおしまいだな」なんて言われたけど。
 先生が指揮法を体系化したことや、演奏技術について細かく言ったことで「斎藤秀雄の教え方は機械的だ」と批判する人が時々いる。でもそれは全然違う。
 先生が僕らに教え込んだのは音楽をやる気持ちそのものだ。作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯かけて教えたのだ。
 先生が亡くなった10年後、僕はそのことを確信する。84年9月、僕と秋山の呼びかけで弟子が集まり、「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」を大阪と東京で開いた。
 奏者はバイオリンの潮田益子、安芸晶子、渡辺實和子ら「斎藤共通語」で育った仲間ばかり。練習で「嬉遊曲K136」の第2楽章を合わせた時、そこに斎藤先生が立っている、と思った。しかも今やみんなオーケストラ奏者やソリストとして活躍している。10年前よりすごい音が出た。この「K136」は僕にとって、折に触れ、大事な時に振る曲だ。
 初日の公演の後。日本での僕のマネージャー、平佐素雄君とアメリカにいるマネージャーのロナルド・ウィルフォードに電話し、興奮を伝えた。「そんなにすごいなら日本以外でもやろう」。87年、僕たちはヨーロッパを演奏して回る。「サイトウ・キネン・オーケストラ」の始まりだ。

 ㉕ 1987年9月、サイトウ・キネン・オーケストラの初のヨーロッパ演奏旅行が始まった。回ったのはベルリン、ロンドン、パリなど6都市。ウィーンのコンツェルトハウスでの公演の後には、ウィーン楽友協会の人が来て「次はうちに来てほしい」と言われた。反応は上々だった。
 せっかくのオーケストラをこのまま終わりにしたくない。初回の演奏旅行はNECが主にスポンサーになってくれた。この先、どこか支援してくれる企業はないだろうか。そう思っていた時、弟のポンが旧知のセイコーエプソン社員、武井勇二さんに僕の気持ちを伝えたらしい。
 64年1月、僕は中学時代の担任の今井信雄先生に言われてアマチュアの諏訪交響楽団を指揮したことがあった。その時にバイオリンを弾いていたのが武井さんだ。後日には上司の技術部長と訪ねてこられ、セイコー製の高級時計を下さった。以来、武井さんはポンとも親しくなっていた。
 僕の希望を知った武井さんは早速、中村恒也社長に掛け合う。その中村さんこそ時計の贈り主の技術部長で、一晩考えた末に3年間の支援を決めてくれた。89年から91年にかけて僕らはヨーロッパとアメリカを回る。90年にはサイトウ・キネンのメンバーを中核にした水戸室内管弦楽団も発足した。同年に発足した水戸芸術館の専属で、館長は吉田秀和先生だった。
 このまま毎年サイトウ・キネンで外国を回ればいい、と思っていたがマネージャーのロナルド・ウィルフォードは「日本で腰を据えてやるべきだ」と主張した。正直に言って、僕はN響にボイコットされてから日本に住んで仕事するつもりはなかった。そんな様子を見て心配していたらしい。「音楽祭の開催地を募れば絶対に手を挙げるところがある」と僕の背中を押した。
 だが場所探しは難航した。良いホールがあり、音楽を聴く環境が整っている街がなかなかない。そんな折、長野県松本市で県立文化会館を建設中という噂が耳に入った。こっそり見にいくと、とても素晴らしい。吉村午良(ごろう)県知事と松本市の和合正治市長を訪ねて音楽祭の開催を申し入れると、喜んで応じてくれた。セイコーエプソン、キッセイ薬品工業、八十二銀行、アルピコグループ、信濃毎日新聞社など地元企業の協力も得られた。事務局長は武井さんだ。
 92年9月5日。「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が幕を開けた。初日は武満徹さん作曲の「セレモニアル」の世界初演。翌日はストラヴィンスキーのオペラ「エディプス王」を上演した。僕の盟友でソプラノのジェシー・ノーマンが出てくれた。プロデューサーは今やメトロポリタン歌劇場の総裁になったピーター・ゲルブだ。
 「エディプス王」は僕が78年にパリ・オペラ座デビューした時に振って成功している。自信はあった。が、周囲は「お客さんが入らない」と大反対。公演は1回にしましょうと説得されたが頼み込んで2回にしてもらった。蓋を開けてみたらチケットはあっという間に売り切れ。手応えを感じた。
 斎藤秀雄先生がまいた西洋音楽の種を育て、日本に根付かせる。僕の生涯の仕事が始まった。

 ㉖ 僕の兄貴分というべき人がいる。2007年に亡くなったロシア人チェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチだ。僕にとっては愛称の「スラヴァ」と呼んだ方がしっくりくる。
 1967年、トロント交響楽団で共演したのが付き合いの始まりだった。彼が「生の音楽が聴けないような過疎の町で演奏しよう」と持ちかけてきたのは80年代のこと。行き先はスペインやシベリアだという。スラヴァは若い頃、アコーディオン奏者の友人とシベリアの各地で演奏したことがあったそうだ。
 「絶対、音楽家になった喜びを味わえるから」と口説かれたが、忙しくてそんな暇はない。断っていたら「日本でやろう」と言い出した。
 だったらやってみるか、と桐朋学園高校の生徒や若いOBを集めて十数人の弦楽アンサンブルを作った。行き先はどうするか。スラヴァは親交のあった当時の皇太子妃・美智子様に相談し、岐阜県白川郷に工房を構えるパイプオルガン製作者の辻宏先生を紹介された。最初の拠点は白川郷に決まった。
 荷台がステージになるトラックを手配し、出発したのが89年8月。第1回の「コンサート・キャラバン」だ。初日は辻先生の工房で深夜まで練習した。遠足気分が抜けなかった若者たちもすぐ集中するようになった。何せスラヴァにみっちりしごかれるのだ。
 翌日からはトラックでお寺や神社の境内、小学校などへ行き、朝、昼、晩と演奏して回った。もちろん入場無料。お客さんは多い時で千人だが、数人の時もあった。
 全身全霊で演奏すると、子供からお年寄りまで、生の音楽に触れるのが初めてという人も熱心に耳を傾けてくれる。中には一人で来て、じっと聴きながら泣く人もいた。「なるほど、これが『音楽家になった喜び』か」と感じた。
 夜はお寺や神社の大広間で雑魚寝。入りきれない学生は村の人たちの家に泊めてもらった。岐阜の後は長野県飯田市、大鹿村、下諏訪町などを回り、最後は諏訪市のセイコーエプソンの体育館へ。1週間のキャラバンが終わる頃には病みつきになっていた。
 音楽になじみのない人たちに向けて演奏する。これは今や僕の大事な活動の一つだ。第1回のキャラバンの少し前からは長野県志賀高原の山ノ内中学校で毎年、小さな音楽会を開いている。
 30年程前に奥志賀高原にスキーのための山小屋を建てた僕は、地元の山男たちの親睦会「常(じょう)会」の人たちやスキー学校の校長で元五輪選手の杉山進さんと親しくなった。音楽会は「子供たちに生のオーケストラを聴かせよう」との話から始まったものだ。
 真剣に演奏すれば必ず相手の心に届く。キャラバンの体験から得た僕の信念だ。キャラバンはその後、93年に新潟へ。2002年と05年には、先日亡くなった盛岡大学の大矢邦宣教授が取りまとめ役になって盛岡市や一関市、宮古市、大槌町など岩手県各地を回った。
 悲しいことに岩手は3年前、東日本大震災で津波の被害に遭った。学生を泊めてくれたホストファミリーで亡くなった方もいる。僕は体の調子が悪かったせいで行けずにいたが、絶対にまた訪ねるつもりだ。

 ㉗ 1992年に始まった「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は地元の人に愛される音楽祭にしたかった。幸い、松本市の有賀正市長も同じ考え。市の教育委員会の中に国際音楽祭推進室が置かれた。ここに坪田明男さん、高橋慈夫さん、赤廣三郎さん、宮島吉秀さんが居たおかげで、最初から松本の小学校、中学校と関係を深められた。
 僕らが小中学生のために開く音楽会には何台ものバスが次々やってくる。壮観だった。
 サイトウ・キネンが始まってしばらくした頃、スラヴァ(チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)から突然言われた。「一緒にN響の音楽会に出よう」。冗談じゃない。N響にボイコットされて以来、建物に近づくのも嫌だった。けれどスラヴァはなおも説得する。
 「おまえは今、日本でサイトウ・キネンをやっているだろう? なのにいつまでもN響とけんかしたままじゃだめだ」。確かに一理ある。スラヴァの言う通りかもしれない。渋々OKした。
 95年1月23日、サントリーホールで僕は32年ぶりにN響を指揮した。企画を進めたのは友人の森千二さん。病気やケガで演奏できなくなったオーケストラの楽員のために基金を作る演奏会だった。曲はスラヴァとのドヴォルザークのチェロ協奏曲など。起きたばかりの阪神大震災の犠牲者を追悼するためのバッハ「G線上のアリア」、スラヴァによる「サラバンド」もあった。
 チェロの首席奏者は今は亡き徳永兼一郎。斎藤秀雄先生の弟子で、昔からの親しい仲間だ。がんを患い、もう演奏会には出ていなかったのに「小澤さんが指揮するなら」と一時退院して弾いてくれた。N響で指揮することなんて二度とないと思っていたけど、行ってみたら楽しくやれた。オーケストラの演奏も素晴らしかった。
 アメリカではボストン交響楽団の音楽監督を続けていた。94年にはソニー最高経営責任者(CEO)の大賀典雄さんやNECの援助で夏の本拠地、タングルウッドに「セイジ・オザワ・ホール」が建てられる。
 就任から早20年以上たっていた。いつしか「30年になったら辞めて、後は半分引退しよう」と思うようになった。子供たちの教育のために家族を日本に帰して以来、僕はずっと単身赴任。ボストンを辞めたら日本に帰って家族と静かに暮らすつもりだった。
 99年、意外な話が持ち上がる。ウィーン国立歌劇場の音楽監督の就任を依頼されたのだ。まさか、と思った。世界には歌劇場向きの指揮者がいっぱいいる。僕はそういう指揮者に比べれば歌劇場で指揮した経験はさほど多くないし、一番縁遠いと思っていた。
 妻のヴェラが反対するなら断る気だった。だが相談したら「征爾がオペラをやりたいんだったらいいんじゃない?」。ボストンでも新日フィルでも、オペラを上演する時は毎回大変な思いをしていた。演出家や舞台美術家を選び、一から作り上げなきゃいけない。その苦労をよく知っていたのだろう。
 ヴェラの言葉で引き受けることに決めた。2002年、僕はボストンを辞め、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任する。

 ㉘ 2002年、僕はボストン交響楽団の音楽監督を離れた。就任から29年。アメリカのオーケストラの音楽監督として最も長い在籍期間だ。
 僕が着任した時のボストン響は、どちらかと言えばきれいで色彩豊かな音を出していた。かつての音楽監督シャルル・ミュンシュやよく客演していたピエール・モントゥーらフランス人指揮者の影響だろう。その代わり、ドイツ的な重みのある音楽はあまり得意じゃなかったように思う。
 僕自身はドイツ系の音楽もしっかりやりたい。例えばブラームス、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー。あるいはやはり重みが必要なチャイコフスキーやドヴォルザークもやりたかった。
 重くて暗い音が出るように、弦楽器は弓に圧力をかけて芯まで鳴らす弾き方に変えた。だけど僕が就任した時のコンサートマスターのジョセフ・シルヴァースタインはそういう音を嫌がり、途中で辞めてしまう。才能豊かで僕とも親しかった。その後、彼は指揮者となり成功している。
 時間をかけて、ボストン響はドイツの音楽もちゃんと鳴らせるようになった。それでいてベルリオーズの「幻想交響曲」といったフランス物も素晴らしい演奏ができる。フランスの洗練とドイツの重み、両面を持つ良いオーケストラになった。
 一度だけ辞任を考えたことがある。タングルウッド音楽祭の講習会を改革した時だ。40年に当時の音楽監督セルゲイ・クーセヴィツキーが創設した際はボストン響の楽員が講師だった。なのに私的なつながりでポストが占められるようになり、僕の時代には一層ひどくなった。教える能力より人間関係が優先された。
 97年、思い切って講師を全員辞めさせ、ボストン響の楽員を代わりに選んだ。僕の決断を「ニューヨーク・タイムズ」は痛烈に批判した。「失敗したら音楽監督は辞めるべきだな」と覚悟を決めた。
 この時、「セイジが正しい」とボストン響の理事たちを説得に来てくれたのが、バイオリンのアイザック・スターン、イツァーク・パールマン、チェロのヨーヨー・マ、ピアノのピーター・ゼルキンらだ。ほとんどの理事と楽員の支持も得られた。
 在任中、僕は楽員の待遇をいつも気にかけていた。根底には日フィル分裂時の苦い教訓がある。ストライキだけは絶対に避けたかった。理事長のネルソン・ダーリンに頼み、楽員の給料を上げてもらった。オーケストラとしては珍しく、彼は遺族年金の制度まで作ってくれた。
 2002年4月、僕は音楽監督として最後の定期音楽会を指揮した。曲はマーラーの交響曲第9番。一音一音に気がこもり、大きなうねりを作り出す。あんなにすごい演奏をされたら指揮者は参るしかない。
 ボストンでは1960年来応援している地元の野球チーム、レッドソックスの試合を観に、暇を見つけては球場へ通った。定位置はダグアウトのそば。ウィーンに移った後はインターネットで観戦した。昨年のワールドシリーズは居てもたってもいられず、アメリカまで行った。見事制覇した時の喜びと言ったら、全くもう。デヴィッド・オルティーズ、ダスティン・ペドロイア、上原浩治、田沢純一には心底しびれた。

 ㉙ ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就き、オペラ漬けの日々が始まった。オペラのけいこは普通、長くて2週間くらい。だがウィーンでは新演出のオペラだと6週間もやる。
 最初のうちはオーケストラが入らないから指揮者は行かなくてもいいが、僕は近くに住んでいる。暇があれば顔を出した。演出家がどうやって作品を組み立てていくか、よく分かった。歌劇場内にはほかにもいくつか練習場があり、歌手がけいこしている。一日中のぞいて回った。
 オペラ専門の指揮者がいることも分かった。歌い手と2日くらい合わせただけで、オーケストラとの練習なしにいきなり本番を迎えるのだ。面白かったし、勉強になった。
 「あそこは海千山千だから行ったら殺されるぞ」。ウィーンの音楽監督に決まってからさんざん脅されたが、気にしなかった。僕が鈍感で能天気なのかもしれないけれど。
 僕はいわゆる公式の晩餐(ばんさん)会やパーティーには出ない。昔からそうで、ボストン響でもウィーンでも、数えるほどしか出席していない。理由はもちろん「言葉ができないから」だが、接触が少なくなる分、無用なトラブルを避けられたのかもしれない。
 ウィーンでは就任してすぐ子供のための音楽会を始めた。イオアン・ホーレンダー総裁がサイトウ・キネン・フェスティバル松本で小・中学生向けの音楽会を見て「ぜひウィーンでもやりたい」と言ったのが始まりだ。国立歌劇場に1日7000人の子供を集めて「魔笛」を上演した。これは今も続いている。
 この時代、僕はどんどんオペラにのめり込んだ。日本では若い音楽家がオペラを弾いて勉強する機会が少ないと気づき、教えたいとも思うようになった。
 僕が信頼する奏者が指導し、一流の歌手を呼んでオペラを上演する。歌や芝居をじかに感じてもらう。その考えにロームの佐藤研一郎社長が賛同して2000年、一緒に「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」を立ち上げてくれた。以来、「ドン・ジョヴァンニ」「蝶々夫人」など10作のオペラを上演してきた。
 この音楽塾のオーケストラは今、サイトウ・キネン・フェスティバルでも大活躍している。日本に限らず、中国や台湾の若い演奏家も加わるようになった。
 今年は3月に音楽塾で「フィガロの結婚」を上演する。演出はメトロポリタン歌劇場のデヴィッド・ニース。僕と同歌劇場の指揮者テッド・テイラーで振り分ける趣向だ。音楽塾でオペラを指揮するのは5年ぶり。今から楽しみだ。
 「指揮者にとってオペラとシンフォニーは車の両輪」。40年以上前、ヘルベルト・フォン・カラヤン先生が言った通りだった。息の長い話だけれど、ずいぶん時間がかかってそこまでたどりついた。今では指揮者を見てオペラ向きか、そうでないかすぐ分かる。
 ウィーンでの僕の任期は07年8月まで5年の予定だったが、ホーレンダーから言われて3年延長した。だが06年1月に帯状疱疹(ほうしん)にかかった時やがんが見つかった時は、仕事をキャンセルしなきゃいけなくなった。残念だったが、ここは一度体を立て直すことに専念しようと決心した。

 ㉚ 今月17.19日、僕は水戸芸術館で水戸室内管弦楽団を指揮した。曲はベートーヴェンの交響曲第4番。亡くなった吉田秀和先生の後を受けて、僕が館長になってから初めての定期演奏会だ。交響曲の指揮は2年ぶり。緊張で眠れない夜もあったが、オーケストラが素晴らしい演奏で見事に応えてくれた。
 病気でしばらく休んでいたから、今は一回一回の音楽会に「指揮したい」という気持ちが強くこもる。喜びの密度が前とは違う。
 時間がある分、事前の勉強にもじっくり取り組めている。毎日1時間半くらいかけて、4小節や8小節ずつ勉強する。終わりに近づくと名残惜しくて「明日も同じところをやろうかな」と思う。本当に楽しい。自分で言うのも変だけど、それだけ時間をかけて準備すると耳の精度が上がる気がする。
 振り返ってみて、僕は本当に幸運だった。多くの師に恵まれて経験を重ねられた。僕が学んだことを若い音楽家に伝えようと、この15年程は教育にかなり力を入れている。
 3月にはオペラ教育のプロジェクト「小澤征爾音楽塾」が控えている。6月はスイスの「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」、7月は長野・奥志賀の「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀」で弦楽四重奏を教える。講師陣は僕が信頼する弦楽器奏者ばかり。スイスはロバート・マン、パメラ・フランク、今井信子、原田禎夫、奥志賀は川本嘉子、川崎洋介たちだ。
 8月になればまたサイトウ・キネン・フェスティバル松本がある。僕が指揮するのはベルリオーズの「幻想交響曲」など3曲。来年は、上演機会の少ないベルリオーズのオペラ「ベアトリスとベネディクト」を振るつもりだ。
 サイトウ・キネン・オーケストラを指揮して気付いたことがある。弦楽器がブンブン鳴るのだ。当初からそうだった。弦の厚みがあるから管楽器も遠慮せず吹ける。ブラームスを演奏する時なんか、とても熱い演奏になる。
 斎藤秀雄先生に教わった人の特徴かと思ったらそうでもない。後から加わった人も同じように演奏する。先生の教えが受け継がれ、オーケストラの色になっている。
 中国に生まれ、日本に育った僕がどこまで西洋音楽を理解できるか。一生かけて実験を続けるつもりだ。幸い、昨年には食道がんから「無事卒業」というお墨付きを主治医の先生からいただいた。今後も音楽を追求し、次の世代を育てることが僕の使命だ。それがお世話になった人たちへの恩返しにもなると信じて。
 この連載もついに終わりだ。書ききれなかった話もあるし、紹介できなかった恩人もいる。お世話になったのに触れられなかった方々は「また征爾がへましてる」と思ってどうか許してほしい。
 最後にいつも支えてくれる家族に感謝を伝えたい。外で勝手に音楽ばかりしているおやじだったのに、大病したら家族全員でタッグを組んで助けてくれた。娘の征良がチーフで、妻のヴェラと息子の征悦が全力で協力してくれた。すごい。感謝あるのみだ。読者の皆さんにもお礼を言いたい。読んで下さってどうもありがとう。

 

 一気呵成に読み終えました。日本のクラシック音楽界の大筋の歩みが解ったような気がしています。ばんばんビッグネームが出て来ますし、 何よりも めっちゃめちゃ 面白かったです。

ただ ここに登場する方々は オイラの棲む平民世界とは大違い。いわゆる上級国民 (?) の更に上の頂上階層の世界につき、そのビッグパワーなるものに対する羨望心が正直 少なからず生じておりますが、『小澤征爾さんの歴史』 ニアリィ・イクォール『 日本クラシック音楽発展史』 という図式が成立しているようにさえ思えてきてます。

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2 コメント

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小澤征爾さんは最高です (武田の赤備え)
2024-04-14 01:25:27
通りすがりでございます。40代の小澤さんで「新世界」と「スラブ舞曲」を生で聞きました。まるで、
体から炎が沸き上がる演奏でした。それ以来虜になりました。私が小澤さんの演奏で感銘を受けたのは、ベルリンフルとのワーグナーとニューフルハーモニーとの第九です。最後に、私の義兄がタクシー運転手で
小澤さん一家を乗せたことがあるとの事でした。
コメント御礼 (100q)
2024-04-14 07:28:50
素敵なコメント、頂戴いたしました。
ありがとうございます。

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