百休庵便り

市井の民にて畏れ多くも百休と称せし者ここにありて稀に浮びくる些細浮薄なる思ひ浅学非才不届千万支離滅裂顧みず吐露するもの也

ふらりデッパリ備忘録(6)【伊豫松山】【坂の上の雲ミュージアム】【一草庵】【H24.1/9】 

2012-01-30 12:05:55 | 旅行
 年末年始、3男&その二つになろうかとする3男の迎え送り用に家人の使った【青春18切符】が、1 回分だけ残っていましたので、以前から 一度行ってみたいと思っていた【伊豫松山】【坂の上の雲ミュージアム】に、出掛けることを思い立ったのであります。

【JRお出かけネット】の指し示す通り動いたのでありますが、行きは 5:18 最寄駅発 12:17松山駅着、帰りは 17:40発で23:24着と、ほぼ一日 マルマルいっぱい使って、直線距離にしますと 163Kmですから、行きは 6時間59分 帰りは 6時間04分、単純計算した移動時速は 23.3Km/h および 27.2Km/h と、ほぼ自転車並みのスピ-ドで、そのときは待ち時間の余りの多さに「何とカッタルイ旅であることよ」と思いっぱなしであったのですが、やり過ごした今となりましては、「松山にも【和気】という地名があることを 初めて知ったし、新田高校野球部員とか、夜 踊りに行っている若い娘とかが見受けられたりもした、なかなかエエ旅であったのではねえかのお」と再評価しているのであります。

で、まずここへ行ったのでありますが、正直 少しではなく相当にガッカリでありました。これぞというものが見当たらないのであります。NHK放映のドラマ【坂の上の雲】に流れていた【久石譲】さん作曲の各種名曲を流していれば、気分が乗って ある程度は補えると思うのですが、それはありませんで、一言で言って、小物ばっかり それがあちこちバラバラに チマチマと展示されているだけ、といったふうに思えたのです。

オイラが期待したのは【坂の上の雲】の命、初めて国家・国民という概念と向き合った当時の日本人一般の誠に純粋なる、オイラ如き小者が言えるセリフではないのですが、健気なる、涙の出るような、真っ新な凛とした、澄み切った、覚悟を決めた 心意気・息吹が、どこまで感じ取れるか であったのであります。

といいますのも【坂の上の雲】という小説は、ご承知の通り 秋山真之 好古兄弟・正岡子規という 3人の伊豫松山出身者からの切り口で、明治中期~後期にかけての日本の有様が物語されているのでありますが、 この本によりますと 1000人以上の登場人物が書き込まれているとのことで、もちろん そのほとんどは日本人でありますから、小説のテーマとなっている事象も然ること乍ら この登場人物の多さも、本小説が【国民小説】と言われている所以であるのでございますが、

本小説を 二回通り読んだ オイラの感覚を申し上げますと、最も印象に残っている事柄は 二〇三高地の攻略に際し、無能な作戦参謀および指揮官の再三にわたる突撃命令に、黙々と従われ 勇敢に戦われた名もなき 実に多くの兵隊さん方の お姿でありまして、今 思い返すだけで 目がうるんでくるのでありますが、そのようなことを 偲ばせるような演出が とても為されていないのでありまして、先の御3方を追悼する記念館なら まだしも、仮にも【坂の上の雲ミュージアム】と銘打ってゆかれるのでしたら、ご再考願えないものかと・・・

オイラは思います。この【安藤忠雄】さん設計の建屋の中に、もしも 日清・日露戦争でお亡くなりになられた兵士さん方 全員のお名前が掲げられているコーナーがあり、入館者各位の 感謝や誠の意を捧げる場として提供されていたとしたなら、どれほど清々しい気持ちに成り得ただろうかと。

さらにこれは きっと誰しも 分かりやすくデモンストレーションされているのだろうと 当たり前に期待されている事項であろう、バルチック艦隊と帝国海軍の日本海海戦、これに如何にして勝ち得たかということであります。【T字作戦】を主とするこの戦闘場面が CG で分かりやすく再現されているとするなら、たとえそれが別料金だとしましても、皆さん 見てみたいと思われるのではないかと思いますので、今後ぜひともメニュー化していただきたいと思っている次第にございます。

 【さて、どちらへ行かう風がふく】、いろいろ考えたましたが、次にオイラが向かいましたのは この句の作者が亡くなられた住処【一草庵】であります。25年ほど前、一度行っているのですが、きれいに整備されたとの情報を得ていたこともありまして、やはり、好きな人の持つ吸引力は 並み外れたものがあります。 



           ↑ 奥の建物が【一草庵】です。      上側の白っぽい二階建ては一般民家です。
  
 ボランティアの方が 丁寧に説明して下さいます。     オイラの相手をして下さった山之内さん。

しかしながらしかしながらです。ここでもまたガッカリしたのであります。休憩所・トイレ・参考写真や資料の掲示がある手前の建物は ありがたいのですが、肝心の【一草庵】そのものが、安易にリニューアルされているものですから、外観上、歳月の重み・当時の雰囲気が全く感じ取れないのであります。松山市ともあろうお役所が、よくもまあ このような手の施しようを為されたものであります。保存するのであれば、萩の【松下村塾】の如く、寺泊の【五合庵】の如く 往時の姿を できる限りそのまま保つべく配慮すべきでありましょう。と ここまでオイラが強く申し上げますのは、【山頭火】さんは【芭蕉】さんに匹敵する、或いは それ以上の俳人さんであるだろうと思うからです。もし芭蕉さんの終の棲家となった庵があるとするならば、このような安易な修復方法を採ろうだなんて誰しも考えもしないことであろうと思います。

結局のところ今回の松山滞在は この2か所 全行程 歩いて巡ったのみでありますが、想いにそぐわず気落ちしたオイラの心持ちを救ってくれましたのは、その道すがら植えられておりましたサザンカの、この穏やかな風土に育まれ 今や盛りと咲いている 真に紅いその花々たちであり、また観光ボランティアの方の優しいご接待、そして松山駅改札口横の食堂で、帰るときも食しました【じゃこてんうどん】でありました。
 

おっと、【一草庵】で もうひとつ良かったことがあったのを忘れるところでした。それは この 本棚の上に設置されておりました【山頭火】さん関係の小さなグッズたちであります。オイラも欲しくなりました。
  
右は通り道の焼物屋さんで、そのキリリとした風情が気に入り購入しました砥部焼のマグカップです。
しゃれたミュージアムグッズがあれば良かったのですが 無かったもので、その代わりです。

<追伸>
【山頭火】さんのご仏壇へ、愚生 未だかってないお賽銭を、と申しましても たかが千円ポッキリで
ありますが、ボランティアさんへの感謝の意も含めまして させていただいております。
なお 以下は 今回 オイラが作りましたダサ句であります。      
   【また来たよ山頭火さん、よかったね冬】   【松山は山茶花の紅も鮮やか】
           



 

 






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伊部焼の真髄を希求/直向(ひたむ)きなる探検家/備前焼作家【平川忠】さん

2012-01-21 12:00:45 | 日記
 今回から平成24年度の本来のブログのスタートであります。初っ端を飾りますは、昨年の続きではあるのですが、新しい年の門出に まさに打ってつけの方、備前焼の更なる高みへ と言うよりか、備前の土と赤松ほか雑木の炎が織りなす究極の味わいを、これぞという焼き具合を、洗練された造形の上に、窯の構造までも遡って、ひたすら追い続けてらっしゃる 作家【平川忠】さんであります。


津山【M&Y記念館】での【古窯復元展】が終わって一週間ほど経った折、予約しておいた作品をいただきに 初めて 平川さんの工房へ伺ったのでありますが、結局のところ、その折から 4 度ほどもお邪魔いたしておりまして、その結果とでもいいましょうか、現時点の愚生の手許には この 4 点のお茶碗が揃っている次第にございます。


何故そうなったかと申しますと、まさに どれもが素晴らし過ぎるからであります。従来の備前焼の抹茶茶碗の一群があるといたしますならば、これらの作品は そこから 頭一つも二つも 抜け出ているように思えまして、そして多分、今 買っておかないと、この値段では 直ぐにも 求められなくなってしまうのではないかと 考えたからであります。ただし、器物で利殖しようだなんてことは一切 考えたことはありませんで、一重に 好いお茶碗と抹茶して和みたい との一心に ただただ尽きるのでございますが。

平川さんの作品を見て、オイラはふと「【パウル・クレー】さんの絵と 何か似とんなぁ」と思いました。外人作家さんの中では オイラの一番好きな画家さんであります。それでです。試みに クレーさんの絵を数点 並べてみることといたします。これらの写真は、2002年2月9日~3月31日まで【神奈川県立近代美術館】で開催された【パウル・クレー展】で購入した図録を撮影させてもらったものですが、さて 如何です?「何となく似ているなぁ」と思えないでしょうか?




 
平川さんは、金重陶陽さん荒川豊蔵さん加藤唐九郎さんという いずれも各窯場の【中興の祖】と呼ばれ 人間国宝になられた 陶芸の歴史を刻む超ビッグネームの方々と、まさしく様相を一とする命題に 何十年にもわたり 挑戦し続けてらっしゃるのであります。で 近年 その手応えを捉まれた由にございます。で その片鱗が示されておりますのが まさに此度 オイラが手にした作品なのであります。

太古の昔から粛々と培われ眠っていた土の命が 引き出されているかのようであります。そして何十年 いや百年以上も 酷寒酷暑にめげず 営々と太陽のエネルギーを蓄え続けた樹木たちが、その生きた証を 渾身の炎をもって、氏の 両手を通して入念された 己が精神および美意識の幼き権化である 形成された土器の上に、「この世への最後の贐(はなむけ)ですよ」と言うように、惜しみなく しっかと 降り注いで下さったかのようであります。

多くの抹茶愛好家の方々が 口ぐちに こうおっしゃいます。「備前焼のお茶碗は よく茶筅が痛むから どうもねぇ」と。確かにそうでありまして、その点 回避すべく、近年 滑りがよくなるよう仕向けられたお茶碗が多く見受けられるようになって参りました。でもオイラは思います。並みの茶碗なら そのように思われるかもしれない。しかし 平川さんのお茶碗を前にしたら決してそんなこと思いもつかないだろう。それでも 指摘される御仁があったとしたら、「それがどうしたというのですか?痛んだところで如何ほどのことがあろう。そんな些細なことなんぞ この器の前では、芥子粒のように 吹き飛んでしまうぜよ!」と、竜馬さんの如く バシッと 切り返すでありましょう。 

オイラは今から35年ほど前、30~35歳の時ですが、尾張旭市に住んでいました。焼き物が大好きで、瀬戸・多治見・瑞浪・土岐・四日市・常滑に よく出掛けました。常滑に行ったときのことです。余りに繊細で やわらかくて 素晴らしく美しい急須と出合いました。求めずには おられませんでした。「この方は絶対 人間国宝になられるだろう」と思いました。それから 17年後、その方は 見事、常滑焼で最初の人間国宝となられました。3代【山田常山(やまだじょうざん)】さんであります。

それと同じことが 起きるのではないかと思っております。そんな予感がございます。それは何より 作品が指し示してくれております。きっと 当たるでしょう。本当に素晴らしい作品ですから。それにもうひとつ 理由があります。氏の奥様の存在であります。

富士銀行金沢支店の看板娘、市内を歩いていたら、♪振り向かないで~♪という話題になった CM のディレクターにスカウトされたという ちゃきちゃきの金沢美人であられた奥さんは、若くして足が不自由であった義母さんを最期までお世話し、3女1男という子達を立派に育てあげ、焼物馬鹿とでも言えるぐらいの亭主の公私に亘る面倒を見続け、特筆すべきは今でも地域の人から「ご養子さん」といわれるほどに 一切の雑事に感(かま)けず、備前焼の坂田三吉か桂春団治かと言えるぐらいに、脇目も振らず 研究にのめり込む亭主の経済面でのサポートでありまして、元行員といえども あまりの厳しい金策に、一度目は腸捻転で、二度目は盲腸をこじらせてと 二度も死にかけたと言われるほどに、まさに【浪速恋しぐれ】の世界が、まさかまさかこの現代 ここ備前の地に於いて展開されていたとは……オイラはこのことを聞かせていただいたとき こう言いました。「奥さん、奥さんが金沢のご出身だから乗り切れたんですよ。もしこのへん出身の奥さんだったら、我慢が無いから とっとと逃げ出してるんじゃないでしょうかねぇ」と。

こんなにも素晴らしい奥方が ついてらっしゃるんですから、平川さんには 思う存分 突き進んでいただきたいと、とことん 目指すものを 目指していただきたいと 思っているのであります。オイラも、微力ならまだしも、微風ぐらいかもしれないのですが、それでも精一杯 応援させていただく所存でございます。

こうしてここまで書いてきますと、【平川忠】さんは紛れもなく「備前焼を新たなステージへ導くのですよ」と、神様が この世に差し向けられた方ではないだろうかと思えてくるのであります。大事を為された方々は皆さん そうであります。天から、それぞれ特別なる命題を与えられ 派遣された人たちなのです。分かりやすい例は【美空ひばり】さんと【石原裕次郎】さんですが、このお二人は神様から「敗戦で打ちひしがれた昭和の日本人を元気にするのだよ」とのことで この世に遣わされた方なのであります。まぁこんなこと、言わずもがななことでありましたです。
 
ところで オイラは何者だんべ? こう思った愚生は ある日 神様にお伺いしました。そしたらこう言わはりました。こげんこと書きたかぁないですが 仕方がないので記すとします。「アンタはのぉ エキストラや。日本語でゆうたら その他大勢や。そういう人も要るやさかいな。まぁ、大概の人はみんなそうや。安心しい」との事。そう言われてましても 何か 泣けてきましたぞな。
 
< 追伸 >
 備前焼の抹茶茶碗を 今回 四つも買ったということは、今まで 家の者には何も話しておりません。このブログが 我が家での 初公開であります。荒れなきゃ いいのですが・・・わが連合いは平川さんの奥さんに負けてなかったです。閃光が一瞬 降り掛かりはしましたが、それ以上のことはなかったです。ハイッ、安堵しました。よかったです。

< 補足 >
 奥さんに申し上げたことがあります。「平川さんの器には、ただひとつ 欠点があります」と。「なんですか?」と やさしく言わはりますから 答えたんです。「それはですねぇ、作品が重いんです。器のウェイトではありません。それはむしろ軽いと言えます。重いといいますのは【バリュー】です。これが何とも重たいものですから、毎日使っていますと堪えるんです。器と対峙するために こちらも背筋を伸ばしたり、シャキッと気合も 入れ直さなきゃいけませんからねぇ」と。
 またこんな話もいたしております。「個展を いろいろ開かれると思いますが、その折には どうぞ遠慮なくお申し出ください。器は私の手許にありますが、これらの器は いろんな人に見ていただき、ぜひともその素晴らしさを できる限り大勢の方に実感してもらいたいと思っております。ですから喜んで提供させていただきます。こんなスゴイモノ、私ごときが独占していいはずがありませんから」と。

 
 




 
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平成24年 年の初めのご挨拶

2012-01-15 16:03:27 | 日記
 まあ エライこと 遅くなってしまいました。忘れていた訳ではございません。年末年始の雑事や、12月26日~1月8日まで預かっていた 小2と小4の子供等と遊ぶことに感(カマ)けまして、また恒例の年賀状作りのため、ここまで遅れてしまったということでございます。でこれが遅れに遅れて やっとこさ昨日までに送ることの叶いました年賀状と、その漢詩の色紙を掛けている 百休庵のお床であります。
..
    ↓そしてこれは その漢詩の大写しであります。


年賀状に書いていますように オイラはこの詩が大好きであります。次項に【小学館イマージュ】さん、この 美術・趣味嗜好品関係の、ちょっと贅沢な出版物を販売しているところから届いた DMチラシ の、そのテキスト部分に、実に感じ好い 見事な解説が成されておりましたので、その記述を転載させていただき、年初のご挨拶に代えさせていただきたく存じております。実はこの DM、39,900円もする、その色紙額や掛け軸の販売パンフレットであるのですが、オイラには とても手が出せないため、我が庵に飾っている色紙は、それを切り貼りして作ったシロモノであります。

 良寛さんは天保2年(1831)に 74歳で亡くなりますが、その遺偈(ゆいげ:辞世の漢詩)が【草庵雪夜作】という名で遺されています。外連味(けれんみ)もなければ、いささかの衒(てら)いもない 35 の文字それぞれが、雪の降りしきる晩、粗末な庵に一人たたずみ、来し方を振り返る良寛の胸中を見る者の心へと直接に語りかけてきます。

    
    草庵雪夜作    そうあんせつやのさく

   回首七十有餘年   こうべをめぐらせば 70 ゆうよねん
   人間是非飽看破   じんかんのぜひあくまでかんぱす
   往来跡幽深夜雪   おうらいのあとかすかなりしんやのゆき
   一炷線香古匆下   いっしゅのせんこうこそうのもと

   自分の人生を振り返ってみると、もう 70 年あまりが過ぎた。
   世間の是や非はあくまでも見つくした思いがする。
   たどってきた道も深夜の雪に埋もれてかくれてしまいそうだ。
   一本の線香がいままさに燃えつきようとしている。

本年も どうぞよろしくお願い申し上げます。
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