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迷歩録   いぎょう

2017-06-26 12:59:39 | 日記
  降り続く  川深きなり  青鷺や  水田選び  食事の時間


                               ひのひら  ろくべえ





   将棋の世界で、若者が「いぎょう」(偉業)を成し遂げようとしている。将棋に興味も関心もない人までもが、その若者を

  今や知っている。連日そのニュースは流れる。今日は新記録を目指しての対局だそうな。将棋界に限らず若者の台頭はすさま

  じい、様々な分野で台頭している。特に陸上競技百メートルでは十秒を切るのは時間の問題のようだ、「いぎょう」というものは

  様々な分野での出来事、しかしそのことはマスコミに取り上げられて出ないと、人は注目しない。

   しかし、人は特別な能力を持つ人だけが「いぎょう」ではなく、その時代を支える社会そのものが「いぎょう」の時代と言

  う事ではないだろうか。「いぎょう」というものを成し遂げるには、そのものを支持し支える社会と民衆があってこそ、偉業

  なのではないだろうか。それにしても将棋の中学生は凄い、素晴らしい、何が素晴らしいかというと、その人物像ではないだ

  ろうか。どこかの衆議員に勉強してもらいたいものである。中学生とは思えない落ち着きと礼儀正しさ、驕りのなさ、大人達

  よ見習えと言いたい。大人たち恥ずかしいことなのだぞ、将棋界の名人中学生を見て手本にするという事は、大人こそ彼らの

  見本となるべき態度、言葉、つまり言動が取れなければならないのだ。

   特に対人援助の場での一対一のケア場面での言動はとても大切な事である。一対一の場面ではつい気が緩み言動がいい加減

  になりがちである。一対一だからこそ、慎重に大切に丁寧に対応しなければならないことを学んでほしいものである。

   「いぎょう」は特別な人のことではなく、今、生きてる生命そのものが「いぎょう」なのだから、そのことを互いに大切に

  しながら、互いに生きることを共有し合った、思考そのものが大切なのであろう。

   秀でた才能だけではなく、その才能を讃える民衆あってこその才能であることを民衆が知ることが大切なのではないだろう

  か、人間は才能があるから生きている。将棋はできなくても援助はできるそのこと自体が「いぎょう」であることを心して、

  毎日のケアにあたりたいものである。それにしても将棋のプロ棋士中学生は凄い、将棋だけでなくその人間性に脱帽である。
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