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迷歩録  片時

2016-01-28 14:15:57 | 日記
  緩やかに  揺れる笹竹  暖かく

            春早く来い   唄う鳥たち




                       ひのひら  ろくべえ



    対人援助の技術に見守りというのがある。ただ単に見てるだけではなく、

   クライアントの、行動を予測しながら、自律性を尊重して、自立を促し

   不測の事態が起きたときには、その予防ができる微妙な距離間を保ちな

   がら、目配りをし続けるという事ではないだろうか。時には他のクライ

   アントにかかわりながら行わなければならない時だってある。簡単なよ

   うで、かなりハイレベルな技術なのであるが、多くの人は簡単に考えて

   いる節もある。

    見守りとは、片時も目を外すことなく、不測の事態にも対処できる距

   離間を保ち、クライアント中心のケアをすることを言うのではないだろ

   うか。ケースカンファレスなどで、具体的なケア方針は出せなくて、最

   終的に、見守るしかないなどと結論を出すことはないだろうか。見守る

   と言う抽象的な方針ではだれも動くことがないばかりか、あなた任せ、

   誰かがするだろうという事になりかねない。そうならないためにも、日

   々のケアの中で、具体的な見守りについて議論をしておく必要があるの

   ではないだろうか。事故というものは片時の時間で起きてしまう。長時

   間、かかって起きる事故は少ない。一瞬か片時である。この片時、一瞬

   をどのような方法で守るかは対人援助職の大きな課題ではないだろうか。

   そのことをただ単に見守りという言葉で結論付けて、具体的には何もし

   ないという事の可笑しさに気づくことが大切なのであろう。

    片時、一瞬というのはその人の運命までも左右する時間であることを

   肝に命じて、日頃から見守りについて、徹底的に議論できる職場環境を

   目指したいものである。

    片時も目を外さずなどと言う事ではなく。不測の事態にも対処できる

   見守りとはどのような行動をすることなのだろうか。議論の構築を重ね

   たいものである。

迷歩録  感じる

2016-01-27 14:54:11 | 日記
  雪止んで   大隅の郷  鳥遊ぶ

              春の足音  近づいてくる


                      ひのひら  ろくべえ





   人間に最も大切な感覚、五感とも言う身体感覚以外の精神的感覚、感性

  この部分の遅れが現代人にはあるのではないだろうか。自然と共に暮らし

  ていた時代、生命を守るために磨かなければならなかった感性を、今の時

  代は機械化することで衰えさせているのではないだろうか。例えば車であ

  る、間もなく自動運転の時代が来ると言われているが、人間の感覚は必要

  ないという事にもなりかねない。医療現場でも様々なものが機械化され、

  患者の身体に触れるという機会が少なくなっているのではないだろうか。

  例えば脈をはかる。この脈から伝わってくる、辛さや苦しみ寂しさと言っ

  た、数字には表せないものを昔の看護師は感じ取ったと聞く。確かにバイ

  タルを測るという行為に、どれほどの大切さが含まれているのか現代人は

  知らないのではないだろうか。福祉の世界も入浴介助とか、食事介助と言

  った行為にどれほどの意味を含んでいるのかを考えたり、感じたりしなが

  ら行なっているのだろうか疑問に思うったり感じたりすることがある。

   人というものは、例えば本を読む時、その場に書かれていない文字を感

  じ取りながら読み取るという行為を行う。それが本当の読むという行為だが

  そんな事関係なく、書かれてあることだけを文字としてだけ読む人が多いの

  ではないだろうか。

   聴くも同じこと、言葉にならない言葉の裏にある感情や思いを感じ取るこ

  とが聴くという行為だが、そうではなく言葉だけに注目して理解をしようと

  する傾向にはないだろうか。つまり聴き取るという事ではないだろうか。

   傾聴などと言う言葉にごまかされないように。自分の感性を磨き、対人援

  助の場で活用できるようになれば、それは素晴らしい技術ではないだろうか。

  感性を磨くには人間を磨くしかない、人間を磨くには、できるだけ幅広く体

  験を積み重ね、感性を磨き上げることが近道なのではないだろうか。

   いずれにしても知識重要視傾向になりがちだが、言葉に弄ばれる知識より

  も、自分の感性を磨き上げた自分の知識が大切なのではないだろうか。対人

  援助職の人達は権威や知識を振り回すのでなく人間としての感性、感覚を磨

  き、役立ててほしいものである。

迷歩録  たすける

2016-01-21 16:07:08 | 日記
  冷たさや  身体を這いて   飲み尽くす


                   震える手足   喜び笑い




                            ひのひら  ろくべえ



     助けるという言葉は、助けられる者と助ける者の関係の中で、助ける者の優位性が際立つ

    言葉ではないだろうか。災害の時、病気の時、様々な行き詰まりの時、助けられた、助けて

    やったという言葉で、自分たちを納得させる。

     人は、母親のおなかに宿った時から、実は人を助ける為の運命なのである。生を受けたと

    き、両親やその家族など多くの人を喜ばせて、助けるをスタートさせる。その後成長の姿を

   、見せることで喜びを与え、助けることになる。という事は存在したときから、他者を助ける

    という事を無言の姿で行っているのである。まずはこのことを知ってほしいものである。

     成長して大人になると、世のため人のため、人の役にたちたいなどと、傲慢になってくる

    そのころから、助けるを誤解して、自分が何か特別なことをしてるように錯覚が始まる。こ

    の錯覚に支配された精神はますます傲慢となり、こんなにしてるのに恩知らずなどと思うよ

    うになる。時代劇などの話の中心もこの助ける助けられるなどの、恩のきせあいが物語の中

    心にあることが多い。

     人というものは、この世に生を受けたときから人を助けるために生きているのだから、大

    人になって、さらに人を物理的にも精神的にも助けて生きることは、当たり前といば当たり

    前なのである。そのことを特別にして、驕りをもち、助けてやってるなどと言う価値観を持

    つ事がいかに愚かな事かを知る必要がある。

     「人を助けるとは、人に助けられることなり」人間は人を助けなが成長し、さらに助け

    ながら老いていく。これが生きているという証、このことがとても大切な価値観、この価値観

    を中心に置いて、日々を過ごしたいものである。過剰に助けるなどと言う行為はややもすると、

    相手に負担をかける事にもなる。如何なる人もその場にて生きて存在しているだけで、他者を

    助けているのだから。

迷歩録  こらえる

2016-01-20 16:36:48 | 日記
  吹き荒れる  やんちゃ坊主や  おさまらず

                 炬燵で過ごす  我が身養豚





                            ひのひら  ろくべえ






     堪えるとは広辞苑によると、耐え忍ぶ。がまんする。辛抱する。という事だそうな。確かに人生で

    自分を主役にすると、そのような場面は多くあるのだろう。しかし関係性の中で相手から見てみると

    それで当たり前という事にならないだろうか。子供を育てる時子供の繊細な感情に振り回され、大人

    は、堪えているという事になっているのでは。そうであろうか、大人とはそのようなものと捉えれば

    堪えているわけでも、我慢しているわけでもない。大人としての振る舞いをしているに過ぎない。そ

    れなんのに、彼方のために我慢しているのよ、お母さんも、お父さんもなどと言う言葉を返していな

    いであろう。堪えていているという事で、自分を優位にして尚且つ、主役を自分にして、自分は素

    晴らしいだろうという事をアピールしていることになる。子供にもよく我慢できたね、堪えたことを

    賞賛することはないだろう。つまり「こらえる」という美学の言葉として利用されていることが多

    いのではないだろうか。

     対人援助職の中でも良く出てくる言葉ではないだろう。その時点で相手を下に見下していること

    にも、かかわらず平気で使ってしまう。知的活動が低下したり未発達の人達とかかわることにの多い

    職場などで飛び交う言葉ではないだろうか。仕事だから「こらえて」などと言う言葉を一度や二度は

    聞いたことがあるのではないだろう。この言葉が出てくる背景、精神性を考えて見ると、そこには

    言葉にならない、差別感や、蔑視感というものが働いてはいないだろうか。対人援助職はどの職種で

    あろうと、相手の自尊心を尊重してこそ成り立つ職業、それなのに表面的な事ばかりに捉われて、そ

    の中身、底流に流れる精神的価値観を捉えることなく聞き流したり、発言したりしていないだろうか。

    対人援助職は、あくまでも相手が主役、相手のために技術として「こらえる」があったにしても

    援助者を主役にしての「こらえるは」ないのではないだろうか。

     いずれにしても、対人援助の場面で、「こらえる」という感情を抱いたときは、その感情は一時的

    感情、論理的には相手を主役にした「こらえる」なのか、自分が主役なのか冷静に考え直し、相手が

    主役であれば、その「こらえる」は、援助技術であり、自分が主役であれば、相手を卑下してる精神

    があることを悟るべきである。

迷歩録  ささ舟

2016-01-18 15:35:38 | 日記
  風強く  寒さ連れて  吹き荒れる

                我が身動かし  温める心



                           ひのひら  ろくべえ  






    人間の一生は川の流れに流されているようなものではないだろうか。上流でささ舟としてこの世に生を受け

   後はささ舟のように上流から中流、そして下流へと流れに乗っていくだけ、運、不運は水の流れ次第、流れそ

   のものを、変えることはできない。だからと言って黙って乗っているだけでいいのか、という事でもなさそうだ

   特に上流の激流を流される時は、水の流れさえも憎たらしく思える。しかし、中流ぐらいの流れの中では、徐

   々に、我というものをつかみ始め、自分にあった流れ、ささ舟というものを探し始める。やがてそのささ舟と

   流れをつかみ大海へと向かう下流を穏やかに流れることになる。これが誰しもが思い浮かべる人生ではないだ

   ろうか。

    しかしこのようにいかない人たちが、多くいるそれはアルツハイマーや、ピック病など、一般的に言われる

   認知症の人達ではないだろうか。ある時から徐々に川を上り始め、中流を通り、激流の上流へと戻ろうと悪戦

   苦闘を始める。その時から、安堵の時間はなく疲れ果ててしまう。疲れた末に絶望という谷に真っ逆さまに落

   ちて行く感じとなる。なぜなんだろうか現代病なのか否かは定かではないが、川を下ったり上ったりする人生

   を流れることとなる。身体的に限界がありながら、精神的には川の上流へと向かうささ船は、苦しさも辛さも

   倍増されているに違いない。そのような人達をケアしなければならない援助者は、川を下っている人たちばか

   り、人生という川を逆さまに上っている人たちの心根を知る由もない。

    今自分たちがささ船に乗って流れている所がすべてではない、逆さまに流れに逆らい、やもなく上流を目指

   している人達もいることをイメージしてみよう。そのイメージからささ船に乗って下っている人生だけではなく

   ささ船に乗って、上流の激流にたどり着こうとしている人達の心根を少しではあるが、理解することができるの

   かもしれない。少しでも理解することができれば、流れに逆らってささ舟に乗っている人々の助けになるのかも

   しれない。

    たいしたことはできない。対人援助という行為を驕るなかれ、寄り添うことができれば100点満点ではないだ

   ろうか。ささ舟のような人生に。