gooブログはじめました和!

写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

藤原旧跡&香具山へ

2016-11-04 | 日記
我が家の鈴虫君、最後の1匹も今朝静かに息を引き取っていた。昨夕入れたキュウリの側で・・・・・振り返ってみると最後の力を振り絞って鳴いていた先月28日の午前10時10分、あの日から数えて一週間、よく頑張ってくれたと思う。寒い夜には段ボール箱をかぶせたけれど、夜の庭は寒いよなぁ~。もう鳴かなくていいんだよ。安らかにお眠りよ。

  11月3日(木)
お天気良し。行楽日和で「きんてつフリーハイキング」に参加してきた。フリーなればこそであるが、こうして歩けるようになって嬉しい。大和八木駅でMAPを頂き午前9時40分スタートした。コースは、おふさ観音→藤原宮跡→香具山→天岩戸神社→本薬師寺→畝傍御陵前駅で、約8km。

八木の家並みにはどことなく昔雰囲気が残っているなぁ~と思って歩いていると、横大路(奈良盆地を東西に貫く)と下ツ道(奈良盆地を南北に貫く)の交差点に「八木札の辻」の看板があった。伊勢街道を歩いた時に何ケ所かで見た「札ノ辻」である。
江戸時代中期以降この界隈は伊勢参りや大峯山への参詣巡礼などで賑わっていたそうである。大阪から八木を経て伊勢に向かう人達が泊まったという旧旅籠・平田家が整備され、現在の「八木札ノ辻交流館」となり一般公開されていたので、パンフの平面図を参考に内部を見学した。
        (画像はクリックすると拡大する)    

かつて初瀬街道沿いには、伊勢神宮へ「おかげ参り」に行く人達にお茶や食事を振舞っていたと言う場所「センタイバ」があって、ソコには最も古い太神宮燈籠(1771年)が建てられていたそうだ。燈籠は現在200m東へ移動されているらしいが是非見てみたいと思う。かつて大阪玉造稲荷神社から「くらがり峠」を越えて奈良県に入り伊勢神宮まで170kmを歩く間に色んな形の太神宮燈籠を沢山見てきただけに興味がそそられる。その燈籠を見る機会を得たらここにその画像を書き足そう。(11月17日に燈籠画像を追加、「明和八辛卯九月参宮接待連中」と刻まれていた。)

更に行くと、「おふさ観音」の手前で、いつか誰かに聞いたことのある"さなぶり餅"の看板を見て食べたくなった。農家さんが田植えを無事に終えたお祝いに、小麦を衝いて作られたお餅だそうで、きな粉と黒蜜をかけて食するのである。さっぱりとした味と程よい噛みごたえに何とも言えない満足感があり、大変美味しかった!
「おふさ観音」といえば、風鈴が境内いっぱいに吊るされる夏の「風鈴まつり」を思い出す。庭園のバラが数本咲いていたが、咲き揃う季節にはどんなにか綺麗なことだろう。
秘仏「生き人形」の特別公開中だったので本堂内の拝観を申し込んだ。「生き人形」というのは明治の人形師・安本亀八という人が作った像で、今の日本には数体しかないらしい。手の甲に浮き出た静脈や一本一本彫られている髪の毛、そして顔や手の皮膚の質感等まるで生きている人間の様に作られていて、その繊細さに感動した。
            

ご本尊の十一面観音像も秘仏なので拝顔叶わず御前立を仰ぐだけであったが、本堂内には八体の仏像が祀られていた。特に印象に残った千手観音像は知る人ぞ知る「北向き観音」と呼ばれているそうだ。北を向いて立っておられるからそう呼ぶらしい。一願成就の観音様で何か一つだけお願いするとご利益があるというので、私もお願いしたよ。
それから右手は天を指し左手は地を指し「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と説かれたお釈迦様の姿「誕生仏」も心に残る。「天上天下唯我独尊」って何を意味しているんだったっけ・・・・・今度お坊様が家に来られた時に聞いてみよう。


次に藤原京資料室に立ち寄った。JAならけん橿原東部経済センターの2階にあるスペースで入室無料である。階段を上がると、持統天皇が詠まれた「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干てふ 天の香具山」の歌碑が置かれていた。室内には藤原京の1000分の1の大きな模型(約6m×7m)が有り柱や瓦の出土品の展示も有り、今流行のCG(コンピュータグラフィックス)でいろいろ学べるようになっていた。それに展望コーナーからは広い宮跡が一望でき、香具山が目の前に見えた。

天武天皇の後、690年飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)で持統天皇が即位。藤原京は694年(朱鳥8年)に持統天皇によって都がココに遷され、文武天皇の時代を経て、元明天皇が平城京に遷都する710年(和同3年)まで続いた場所である。持統天皇が築いた宮殿は唐にならって礎石の上に朱塗りの柱が立つ宮殿だったそうで、今は広大な原っぱに数本の赤い柱が立てられ門の位置を示していた。〔文武天皇は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子の子・軽皇子(かるのおうじ)。昔は女性天皇がおられたんだよなぁ~・・・明治維新後天皇の皇位継承は男性に限られることになって、愛子さまはどうなるのだろう。。。。。〕

大極殿跡の南側には見渡す限りの広いコスモス畑があって、沢山の人達がカメラ片手に楽しんでいられた。コスモスの季節は過ぎていて少々残念であったが、最盛期のコスモスと香具山はなかなかの写真スポットになるようだ。私達はベンチに腰を下ろしてのどかな景色を眺めながら持参のおやつとコーヒで休憩をした。穏やかで暖かい晴天の空気がとても気持ち良かった。
        

香久山に向かって歩く藤原京跡の真ん中で大和三山の方角と形を確認。
東に見えるのは香具山(152.4m)、左手すなわち北は耳成山(139.7m)、右手すなわち南は畝傍山(199.2m)である、そして耳成山と畝傍山は単独峰だが、香具山は多武峰(とうのみね)から続く山系の端に在る山だ。何度も彼に聞くので馬鹿にされそう・・・しっかり覚えておこう。(笑)
(そうそう耳成山のことを「みみなりやま」と言っている人が居たけれど、大和三山は「かぐやま」、「みみなしやま」、{うねびやま}と読むんだよな。又「かぐやま」の登山口には「香具山」、「香久山」両方の表記があって、固有名詞と漢字の結びつきはホント難しい。)
                      
                 香具山       耳成山      畝傍山

さて、香具山の登山口に来て、急そうな登り道を見上げながら迷った。でもココに来る最後の機会であろうと思うとやっぱり登ってみたかった。決心して杖を握りなおしゆっくり踏み出した。よく分らないまま案内板を見て頂上の国常神社(くにのとこたちのじんじゃ)や山腹にある上の御前・伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ)&下の御前・伊弉冉神社(いざなみじんじゃ)を参拝して下りてきた。そして天岩戸神社(あまのいわどじんじゃ)に来た。
天岩戸神社は天照大御神が隠れられた伝承のある天岩戸である。沢山ある神話の中でもこの神話だけは誰もが知っている話だよな。
神殿は無く拝殿の奥に厳かな雰囲気の漂う岩穴が見えた。ご神体である。周囲の数本の竹は特に立派で聖域を意識できるような空気を感じたのは誰もが同じようだった。
          

                        

神話の世界に浸ること暫し、ハイキングも終盤となり、約2.0km先の本薬師寺(もとやくしじ)に向かった。
本薬師寺は天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒の為に祈願して、薬師如来を本尊とするお寺の建立を始められたが、完成しない内に崩御され、持統天皇がその遺志を継いで完成させたそうだ。今は小さな堂宇と東塔と西塔跡が在るだけだが西ノ京の薬師寺を思い浮かべて昔を忍ぶのも一つの楽しみ方かもしれない。
境内のお猿さんは庚申さんが祭られているのだそうで申年にちなんで投稿しておこう。
      
  
午後3時、畝傍御陵前駅に着いて、本日の歩き終了。
歴史に弱い私でも今日こうして資料を頂いて実際にその地を歩いてこそ藤原京と天皇の名前が確り結び付き、飛鳥時代から奈良時代への過渡期の歴史の1コマを学んで理解できた。それに"さなぶり餅"を食べた事、「生き人形」を観た事、大和三山を確り覚えた事、香具山に登った事等とても思い出深い日となった。ゆっくり歩いてくれた彼にありがとう。





この記事についてブログを書く
« 落花生 | トップ | 奥丹波 紅葉めぐり »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事