gooブログはじめました和!

写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

日本三大桜の実生子 in 奈良

2019-03-26 | 日記
日本三大桜とは福島県の三春滝桜(みはるたきざくら)と岐阜県の根尾谷淡墨桜(ねおだにうすずみざくら)と山梨県の山高神代桜(やまたかじんだいざくら)のこと。
三春滝桜はベニシダレ(1000年以上)、根尾谷薄墨桜はエドヒガン桜(樹齢1500年以上)、山高神代桜もエドヒガン桜(樹齢約2000年)でいずれも国の天然記念物であるそうな。

  3月26日(火)
前者2つは未だ知らないでいるが、山高神代桜の素晴らしさは一生忘れはしないだろう。
大和文華館の滝桜は三春滝桜が親木で薬師寺の薄墨桜は根尾谷薄墨桜が親木であるらしい。今日は大和文華館の「さくらの無料招待デー」で富岡鉄斎展も見せていただける日であった。
滝桜見たさに取り敢えず出かけた。「海鼠壁(なまこかべ)」の館前の広場で来館者を迎えてくれる滝桜は3分咲きといったところであったが、想像していたよりも花開いていたので嬉しかった。
奈良市内で一番早く開花する氷室神社の枝垂れ桜が奈良一番桜と言われ、こちらの桜は奈良二番桜と言われているそうである。

            
                          (画像はクリックすると拡大する))

明治・大正期の文人画家、富岡鉄斎の絵を観たのは初めてで、「神武天皇像」や「紫式部像」はじめ、「魚図」や「寿老人」、月ヶ瀬の梅、吉野山の桜等々を画題にしたいろいろな作品があったが、私は「寒月照梅華図」が印象的だった。富士山を描いた「攀嶽(はんがく)全景図」も心に残った。全ての作品が迫力ある筆遣いで力強かった。

ところで、滝桜を背景に写真を撮って欲しいと頼まれてシャッターを押してあげた人が、「この花綺麗でしょ。薬師寺で撮ったの。」とスマホの画面を見せてくれた。私の好奇心が薄墨桜を思い出させ、途中下車させた。(笑)
薬師寺では「花会式」と呼ばれる行事が開催中(3月25日~31日)、幸い玄奘三蔵伽藍の薄墨桜のすぐ側だったので両方の花を楽しめた。泣いている様な笑っている様なその花の名前はシデコブシとか。

          
                    もう一週間もすればいずれの桜も満開で見事な姿を呈することだろう。
 
ついでながら先日24日、大和郡山城跡の柳沢文庫の傍に山高神代桜を親木とする桜の若木を見た。2011年5月に発芽した実生子桜だそうだ。8年経っているんだよな。
     2000歳の山高神代桜をイメージするには余りにも程遠い話だが、折角の桜なので画像を残そうと思う。頑張れ!心の中でエールを送りながら撮った。













河津さくら

2019-03-20 | 日記
今年は温かくて桜の開花は例年より早いと聞いている。去る13日の新聞で知ったのだが、奈良・法蓮町のJR関西線鉄橋の東側、佐保川沿いに河津さくらが約20本並んで咲いているらしい。染井吉野よりも一足早く咲く桜である。
佐保川沿いは5kmにわたってソメイヨシノが咲く名所で、水筒&おにぎり持参で歩いたのを思い出す。が、河津さくらは知らなかった。

  3月20日(水)
奈良線新大宮駅から歩いた。
同い年位の女性に出会って場所の確認をしたところ、「今、私も見てきたところです。きれいでしたよ。」と言われて一安心した。
河津桜は2月頃から咲き始め割と長く楽しめるらしい。

寒い冬の間は眠っている桜、適温になると固い蕾が急に膨らんでアッという間に見事な花の木になるのは魔法のよう!ふと見ると、目の前の木の枝の蕾らしき緑の芽は少し大き目だった。これが一番咲きかな、頑張れ!歩き始めそうな子どもを見る様な嬉しい気持ちがした。(笑)
JRの踏切が見えて来て、列車が1台通り過ぎた。

          (画像はクリックすると拡大する))

カメラを肩に一人の男性が自転車に跨って私の横を通り過ぎて行った。この辺はサイクリングにも歩きにも絶好の道だ。
ピンク色が視界に入った。あっ あそこだ!踏切を越えた所からぼんぼり提灯が吊るされ、ごく短い距離ながら桜まつりの雰囲気が設えてあった。
何よりも驚いたのは沢山の小鳥たちが喜々として飛び跳ねて遊んでいるのだった。彼らにとってココはまさに期間限定の花の楽園なのだろう。
桜を愛でた後、この鳥こそヒヨドリかな?メジロかも?等と思いながらカメラを構えたが、そんなに大人しい相手ではない。目にも留まらぬ素早い動きで移動する。撮れない。

            

桜はソメイヨシノに限るとの思い込みを改め、ピンク色した一重のカワズサクラに私は「来年も来るからね。」とつぶやいていた。
川岸の石段に腰を下ろし、傍に咲くスイセンを見ながら家から持ってきたお茶を飲んで、出かけて来て良かった!と思った。
杖と足にありがとう。運動運動。。。。。万歩計記録表に記入する歩数が楽しみ、明日も又頑張るぞ、何処へ行こうかな。。。。。




梅の里・広橋梅林へ

2019-03-18 | 日記
広橋梅林は月ヶ瀬と賀名生と並んで奈良県の三大梅林だ。月ヶ瀬と賀名生は訪れていたが、広橋は未だだった。3年前に機会があったのに行けず、昨年も然り、今年こそはと待っていた。お祭り日に行くと、奈良交通バスやシャトルバスが無料で利用できると聞いてそれもまた有難い事だった。

  3月17日(日)
吉野線下市口駅に降りて、待機中の午前10時20分発のバスに乗ると、2台はほぼ満員だった。20分ほどで広橋峠に着いたが、にわかに小雨が降り出し気分が沈んだ。
バス停の坂の上に在る木造建物は、明治7年に創立した下市町立広橋小学校が1999年に廃校になって、「よしの広橋ヴィレッジ」という名のコミュニティ施設に生まれ変わったそうだ。

早速お餅つきが始まった。石臼ではなくデザインも素敵な木製の臼に湯気の立つもち米が入れられ、慣れた手つきの母息子さんが呼吸ピッタリで搗かれた。途中で投入されるヨモギに観光客は「ヨモギ粉じゃないんだ。」「あんなに沢山入れるんだ!」と驚きを言葉にそれを見守る、和やかな空気が流れる時間であった。搗き上がったヨモギ餅が千切られて、きな粉を敷き詰めた重箱の中へ次から次へと放り込まれ、きな粉ヨモギ餅が出来上がった。

         (画像はクリックすると拡大する))  

「1つ100円です。入り用な数を言って下さい!」「2つ下さい。」、「私は5つ下さい。」、「4つお願いします。」「はいはい、美味しいですよ!」、お餅はあっという間に完売で、本当に美味しかった。
そうそう一昨日のウオーキングで会った「ごんたくん」も応援にやって来て、杵を持ち上げパフォーマンス披露でご苦労様。(笑)

勇気を出して「梅の種とばし大会」に参加、梅干しを1粒頂き口に入れその種を吹き飛ばす遊びだった。初めての体験、皆それぞれに面白可笑しく吹き飛ばした。(笑)
1mの人、5mの人、7mの人、失敗して10㎝の人、成功してブルーシートを飛び越え計測不可能の人、それこそ様々で、私は4m33cmだった。彼は入れ歯が気になったらしく4m21cmという結果が出て2人で大笑いした。これから家で梅干しを食べる時、ゴミ箱に入れる前に庭で遊んでみようかな。(笑)

      

広橋会館や惣坂会館では青空市が開かれ、温かい甘酒や茶粥のサービスがあり、広橋の皆さんの素敵な笑顔と優しい言葉に心がホカホカになった。
デッキテラスでは斜面いっぱいに咲く紅梅白梅を見下ろしながらお弁当を食べているグループもあったが、今日の天気ちょっと寒かったかも。突然雹(ひょう)がぱらぱらと舞い落ちてビックリして傘をさした瞬間やら、かと思うと陽が差して青空が見えたりと山間の天気は実にころころと変わった。

        

「天守の森」(広橋城跡)は中世南朝に尽くした広橋氏が住んでいたらしい。そして江戸末期1863年には倒幕の徒、天誅組が下市に布陣し、法泉寺は焼失、村も全焼したという。1867年の大政奉還までにはあちらこちらで兵火が挙がっていたんだなぁ・・・・・
ちなみにお寺のご本尊阿弥陀如来立像は門徒さん達の手によって避難されていて無事だったとか。
ボランティアさんから「再建された法泉寺には兵火で焼け焦げた太鼓が残っています。」と聞いて物好きな2人は見に戻ったよ。(笑)

           

スタンプラリー用紙のⒶからⒺへ進めば良いものを、雨や雹で気が散って行き来してしまったが、マイクロバスのお陰で全工程に足を踏み入れる事が出来た。

午後3時15分広橋峠発の最終バスを待つ数分間の間に昔懐かしい二宮尊徳に会えて感動。朝は人がいっぱいで気付かなかったのだ。
こうして思い残す事なくバスに乗車。
3年越しの願いが叶い、雨や雹にもめげずそれなりに楽しい1日を過ごせた。(笑)


下市町、フリーハイキング

2019-03-15 | 日記
ポロリポロリと鉢植えの落ち椿を水鉢に浮かべる毎日、そんな椿の木に時々遊びにくる小鳥がいる。ガラス窓越しに撮ってみた。まさか密を吸っているのではないだろう。椿に密ってあるのかな?
それにしてもこんな狭い中庭の片隅に咲く花が目に留まるとは、小鳥の視界と視力は凄い!と驚くばかりである。何という名の鳥なんだろう。ひょっとすると我が家の屋根の隙間で生まれた鳥かしら・・・・・

  3月15日(金)
朝9時30分吉野線下市口駅に着く。リュックを背負った沢山の人が居て、ゆるキャラ「ごんたくん」が迎えてくれた。パンフをもらって順次自由に歩く。
今まで色んなゆるキャラを見てきたけれど何故か私はこのごんたくんが一目で好きになった。(笑)聞くところによると下市町の老舗料理店「つるべすし弥助」が歌舞伎「義経千本桜 三段目 すし屋の段」の舞台になっているそうで、この子は、主人公「いがみの権太」にちなんでいるとか。勘当息子だったのが、改心して恩義を貫く男の子に変わったそうである。大きな目が特徴で、良く見えるらしく人との応対がスムーズで面白かった。(笑)
ちなみに街には鮎寿司の看板を見かけたし、道路のマンホールの蓋絵に鮎が飛び跳ねていた。吉野川にはきっと美味しい鮎が沢山いるんだよな。

    (画像はクリックすると拡大する))  

澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み千石橋を渡って間もなく、吉谷木工所に来た。ガーと言う音に何かと見れば、機械が桧の皮を剥いでいた。滅多に見れない珍しいものを見た。
この木工所で9cm四方のミニ三宝作り体験があった。切り込みを入れて水を含ませた細長い板棒を曲げて正方形の板にボンドで貼る。短時間で完成!実際にはここまでの下準備が大変なんだよナ。
色艶に優れた良質の吉野桧をを使って作られる三宝は全国シェアの80%以上だそうだ。そうそう下市町は山間地域で全体の78.6%が森林だとか。よって森林資源を活用した木工業が昔から盛んらしい。

      

「吉田屋」の暖簾をくぐる。
明治15年創業らしい。その頃の下市は大峰山に登る修行者の宿場町として栄えていたそうで、葛や乾物、お菓子等お土産物の製造が店の始まりだったという。お接待に抹茶生姜葛湯をいただき、とろ~りなめらかな味にホッとした。とても美味しかった。
お店の中には当時使っておられた道具類が沢山保存展示されていて、ご隠居様のお話も聞け、飴作りのビデオも流れ、正に「おばあちゃんのミニ博物館」である。

      

近くを流れる秋野川では、川の上に張り出た家が沢山並んでいた。空間を有効利用しているわけだが、窓を開ければ魚釣りができるかも知れないし、夏は涼しいのかな?
でもちょっと怖いなぁ~等と考えながら更に進んで行くと、右手に願行寺があり、更に進むと下市観光文化センターに到着した。
ココでは割箸作り体験があった。箸の真ん中に切込みを入れる機械の何とうまく考案されている事か!と感心。差し込んで引くだけ。先の左右の面取りや角削りも楽しかった。(笑)

             

それから「問屋橋」を渡って藤村酒造に向かった。知る人ぞ知る「問屋橋」とは江戸時代下市では薬用植物が栽培され、薬園があちこちに始まって、集荷販売する問屋も増え、この橋の周辺が随分栄えたのだそうだ。(現在、薬業ではただ一軒陀羅尼助を製造されているお家が残っているだけとか)

そんな歴史の再発見に感動しながら、藤村酒造に着いた。、
お酒の試飲があって、「どうぞ どうぞ!」のお勧めにいろいろ飲ませてもらい、「しぼりたて」と奈良漬けを買った。今日の歩きの延長を家でも倍にして楽しもうかな。(笑)

      

足をかばって距離を短縮、それでも万歩計は“8346”歩を示していた。  おつかれさまでした。






安土城跡

2019-03-09 | 日記
予定していた名古屋行きが中止となり、安土城跡へ行くことにした。
安土城は室町後期の戦国大名・織田信長(1534年~)が武田勝頼との戦い「長篠の合戦」(1575年)で勝利を収め、築いた城だ。1576年に着手して僅か3年で完成、そしてその3年後、家来の明智光秀の謀反(むほん)によって京都の本能寺で自刃(じじん)した史実が残っている。学生の頃一生懸命覚えた「本能寺の変」(1582年)である。信長は48歳だったんだ。

下剋上の激しい時代の難しくややこしい事は苦手でそれほど興味はなく、ただお城の石垣が見たかっただけ。(笑)
我が国で初めて天守閣(五層七重)のあるお城だったというではないか!199mの安土山の城跡とは。。。。。


    3月8日(金)
東海道線安土駅に降りた。案内所で徒歩25分と聞いて、タクシーを利用した。
大手道の入り口、横に広がる大手石塁跡の広さに驚いた。
受付で入山料700円也を払う。入山料が要るんだとちょっとビックリしたが、コースを一周して解った。これだけ大きな山城、崩れかけた箇所の修復保存にはかなりの費用が要るんだ、永久に残して欲しい城跡、入山したい人皆で少しずつ協力するべきだと。

受付を過ぎると緩やかな登りが急にキツイ幅広の石段になり、見上げると延々と続いていた。
工事中の梯子を横目に伝前田利家邸跡、伝羽柴秀吉邸跡、伝徳川家康邸跡に足を踏み入れ、天下統一の野心に燃えた武将が皆一緒にココに居たんだと改めて時代を感じた。
鐘楼の鐘を突かせてもらって、「さぁ登るぞ!」、ねじり鉢巻き気合を入れた。

          (画像はクリックすると拡大する))

石段の所々に石仏が埋め込まれて石の代用に使われていた。
ゆっくりゆっくり登っていくと、信長の嫡男・信忠邸跡もあった。そしていよいよ中枢域の入り口、黒金門に来た。
大きな石が1つ、何かと思えば、仏足跡だった。この辺りの石垣に積まれている石は下層の物と比べて随分大きい、ひょとすると石垣に使われていたのかも知れないと考えてしまう。
大和郡山城の石垣には大きなお地蔵様が逆さまに使われていて「さかさ地蔵」として有名なのが思い浮かんだ。

                

「右 天主 本丸跡」の石標に?、安土城では天守ではなく天主と書くらしい。パンフレットの表示もそうなっていた
更に登って行くと、「護国駄都墖」(「ごこくだととう」?)と刻んだ大きな石碑があって、一段高い所に信長公本廟があった。二の丸跡である。
       
 
その上層部、更に石段を上ると広い広い本丸跡、そして最後の石段を上がると終に天主跡に辿り着いた。はるか遠く雪の被った比良山系が見渡せ、私達はそこでお弁当を食べようと決めていた。勿論受付でOKを貰っていたので大丈夫。達成感に浸りながら食べた。(笑)
        

コースは山を下り始めて間もなく右に折れて、また石段を上がって百々橋口道の途中にある摠見寺跡になっていた。信長公が築城の際に他所から移築し、お城の中に自らの菩提寺を建てたという摠見寺は1854年本堂からの出火で焼失、三重塔と仁王門が残ったそうだ。仮本堂と言われている現在の摠見寺は大手道脇の伝徳川家康邸跡に在って、鐘楼から見えていたのがソレらしい。本堂跡からは西湖が見下ろせた。
石段を下りて三重塔を見上げ、仁王門を通り抜け、百々橋口は閉鎖されているのでぐるっと左に折れてスタート地点に戻るようになっていた。
        
                     
    
恐ろしいばかりの石垣続きの巨大な城跡、予備知識なく案内書片手に廻っただけだったが、先に資料館に行っておいた方がもっと楽しめたかも知れない。タクシーで駅に戻った時にはもう余力は無く、残念ながら資料館に行く元気は無かった。(笑)

腰を固定し薬を飲んで杖を持って何故これほど迄して・・・バカな自分に呆れながらやれやれ。。。。。、同伴してくれた彼にありがとう。