三寒四温とはこの時期の気候を言うんだよな。昨日の天気は快晴、気温14℃、とても暖かであった。週末には又寒気が戻って来るらしい。
奈良の春は東大寺二月堂のお水取り(3月1日~14日)が済んでからなので、もう少し待とう。(笑)
昨日の事、彼が京街道を歩くというので、せめてスタート日だけでも歩きたいと思って付いて行った。帰りは郡山駅で下車して盆梅展と猿回しを見物出来たのはラッキーであった。 (画像はクリックすると拡大する)
2月25日(木)
奈良県庁からのスタート、正確には登大路と京街道の交差点東北角に有る相当古い道標 を起点とする。
かなりの風化で殆ど読めなかったが石柱の西面には〔右: 大坂 はせ …… 左:うぢ京……〕を確認。先ずは南都八景の「みどりゐ池」を右手に見て、「雲井の坂」(昔は坂だったらしい)を過ぎて、転害門に向かった(R365を歩くことになる)。
転害門は東大寺創建当初のもので奈良時代の貴重な国宝八脚門である。私の目には親しみ深い飛鳥時代建立の法隆寺の大門と同じ形式だよな。その堂々たる構に心が落ち着く。
転害門正面から西に延びる道に入って多門城跡(若草中学校)に行った。石垣の仲間でよく話題になる城跡で、かねがね関心があった。多門城は松永久秀が築いた城であるが久秀が織田信長に背き大和の国の支配は筒井順慶になって破城となった。今は石碑だけが立つ高台から東大寺や興福寺の塔が見えて奈良を感じる良い所だ。
佐保川沿いを歩いて、R365に出てから左折直進すると左手に奈良少年刑務所があった。赤レンガ塀で囲まれて想像をはるかに超える広さで、後で見た正面玄関はまるでホテルの様で驚いた。
それから、鎌倉時代に忍性さん〔1217~1303年〕が建てたと言うハンセン病などの重病者を保護し救済した福祉施設・北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ)の前に来た。現在の建物は江戸時代に再建されたものだそうで、1921年に国の史跡に指定されている。世間の冷たい偏見にさらされながら生きた当時の患者とその家族の苦しみを想像して一瞬胸が詰まった。
忍性さん生誕の地は磯城郡の三宅町屏風で、2019年7月15日に開眼法要(1303年 後醍醐天皇から菩薩の号を贈られて、忍性菩薩)が行われた。この日聞いた話の1つ:ハンセン病で足腰の立たなくなった人達を背負って忍性さんは奈良の市へと奈良坂を行き来されたと言う史実を私は一生忘れない。
この度制作された2基目の木像忍性像は浄土寺に安置されているので、いつかもう一度拝顔したいと思っている。(cf. 87歳 鎌倉市の極楽寺で死去 このお寺に1基目の忍性像があるとか)
更に北に進むと民家の間に大変大きな夕陽地蔵を見た。
更に進むと右手に般若寺の鐘楼が、左手に植村牧場が在って、牧場に入った。瓶詰の低温殺菌の美味しい牛乳をマイカーでわざわざ買いに来た昔を思い出したのである。
「もぉ~~。こんにちは!ようこそ‼!もぉ~~。」」と迎えてくれた牛は機嫌よくのんびりと日向ぼっこをしていた。
12時10分、ハンバーグ定食の前菜に出てきたサラダの白いドレッシングの何と美味しかった事!搾りたての最高生牛乳が使われていると聞いた。
今日の歩きの最後に、奈良豆比古神社(ならづひこじんじゃ)の鳥居をくぐった。
こちらでは毎年秋祭りの宵宮10月8日に伝統芸能・翁舞が奉納されるとか。能楽なら大いに関心有りなのに夜の行事で残念ながら未だ鑑賞叶わず・・・・・
神社に残る舞楽面は奈良国立博物館に保管されているそうだが、見たいなぁ~。
彼は御神木の巨大な楠へ直進した。見るのは2回目らしい。なるほど実に大きくてビックリした。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
第18回 大和郡山 盆梅展 2/6日(土)~3/10(水)
大和郡山城跡追手門をくぐると常盤曲輪の梅の木々は美しく咲きそろい、丁度見頃でとても素敵な景色を楽しめた‼
追手向櫓&多門櫓の中、どれも見事な盆梅だったが、筒井順慶、豊臣秀長と命名された前では自ずと足が数秒長く止まったよ。(笑)
猿回しの猿さんの素晴らしい演技に思い切り拍手を送ったよな。(笑)
本丸登城の正式な通り道であった極楽橋(令和2年3月から再建工事が始まっていた)が来る3月10日に完成予定で、12日に完成式典が行われ、午後3時からは一般公開となり、誰でも渡れるようになるらしい。
明治6年の廃城令により撤去され約150年ぶりの再建らしい。長さ22.12m、幅5.4mの反り橋、欄や床材には県産ヒノキを使用、総工費は約3億1500万円とか。
奈良の春は東大寺二月堂のお水取り(3月1日~14日)が済んでからなので、もう少し待とう。(笑)
昨日の事、彼が京街道を歩くというので、せめてスタート日だけでも歩きたいと思って付いて行った。帰りは郡山駅で下車して盆梅展と猿回しを見物出来たのはラッキーであった。 (画像はクリックすると拡大する)
2月25日(木)
奈良県庁からのスタート、正確には登大路と京街道の交差点東北角に有る相当古い道標 を起点とする。
かなりの風化で殆ど読めなかったが石柱の西面には〔右: 大坂 はせ …… 左:うぢ京……〕を確認。先ずは南都八景の「みどりゐ池」を右手に見て、「雲井の坂」(昔は坂だったらしい)を過ぎて、転害門に向かった(R365を歩くことになる)。
転害門は東大寺創建当初のもので奈良時代の貴重な国宝八脚門である。私の目には親しみ深い飛鳥時代建立の法隆寺の大門と同じ形式だよな。その堂々たる構に心が落ち着く。
転害門正面から西に延びる道に入って多門城跡(若草中学校)に行った。石垣の仲間でよく話題になる城跡で、かねがね関心があった。多門城は松永久秀が築いた城であるが久秀が織田信長に背き大和の国の支配は筒井順慶になって破城となった。今は石碑だけが立つ高台から東大寺や興福寺の塔が見えて奈良を感じる良い所だ。
佐保川沿いを歩いて、R365に出てから左折直進すると左手に奈良少年刑務所があった。赤レンガ塀で囲まれて想像をはるかに超える広さで、後で見た正面玄関はまるでホテルの様で驚いた。
それから、鎌倉時代に忍性さん〔1217~1303年〕が建てたと言うハンセン病などの重病者を保護し救済した福祉施設・北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんこ)の前に来た。現在の建物は江戸時代に再建されたものだそうで、1921年に国の史跡に指定されている。世間の冷たい偏見にさらされながら生きた当時の患者とその家族の苦しみを想像して一瞬胸が詰まった。
忍性さん生誕の地は磯城郡の三宅町屏風で、2019年7月15日に開眼法要(1303年 後醍醐天皇から菩薩の号を贈られて、忍性菩薩)が行われた。この日聞いた話の1つ:ハンセン病で足腰の立たなくなった人達を背負って忍性さんは奈良の市へと奈良坂を行き来されたと言う史実を私は一生忘れない。
この度制作された2基目の木像忍性像は浄土寺に安置されているので、いつかもう一度拝顔したいと思っている。(cf. 87歳 鎌倉市の極楽寺で死去 このお寺に1基目の忍性像があるとか)
更に北に進むと民家の間に大変大きな夕陽地蔵を見た。
更に進むと右手に般若寺の鐘楼が、左手に植村牧場が在って、牧場に入った。瓶詰の低温殺菌の美味しい牛乳をマイカーでわざわざ買いに来た昔を思い出したのである。
「もぉ~~。こんにちは!ようこそ‼!もぉ~~。」」と迎えてくれた牛は機嫌よくのんびりと日向ぼっこをしていた。
12時10分、ハンバーグ定食の前菜に出てきたサラダの白いドレッシングの何と美味しかった事!搾りたての最高生牛乳が使われていると聞いた。
今日の歩きの最後に、奈良豆比古神社(ならづひこじんじゃ)の鳥居をくぐった。
こちらでは毎年秋祭りの宵宮10月8日に伝統芸能・翁舞が奉納されるとか。能楽なら大いに関心有りなのに夜の行事で残念ながら未だ鑑賞叶わず・・・・・
神社に残る舞楽面は奈良国立博物館に保管されているそうだが、見たいなぁ~。
彼は御神木の巨大な楠へ直進した。見るのは2回目らしい。なるほど実に大きくてビックリした。
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第18回 大和郡山 盆梅展 2/6日(土)~3/10(水)
大和郡山城跡追手門をくぐると常盤曲輪の梅の木々は美しく咲きそろい、丁度見頃でとても素敵な景色を楽しめた‼
追手向櫓&多門櫓の中、どれも見事な盆梅だったが、筒井順慶、豊臣秀長と命名された前では自ずと足が数秒長く止まったよ。(笑)
猿回しの猿さんの素晴らしい演技に思い切り拍手を送ったよな。(笑)
本丸登城の正式な通り道であった極楽橋(令和2年3月から再建工事が始まっていた)が来る3月10日に完成予定で、12日に完成式典が行われ、午後3時からは一般公開となり、誰でも渡れるようになるらしい。
明治6年の廃城令により撤去され約150年ぶりの再建らしい。長さ22.12m、幅5.4mの反り橋、欄や床材には県産ヒノキを使用、総工費は約3億1500万円とか。