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川原寺跡(弘福寺)へ

2019-06-21 | 日記
ウチワサボテン、挿し木3年目にして開花。一週間前から咲き出して種の出来る様子も解ってきた。触れた瞬間に柔らかい棘が突き刺さり、柔らかいと言っても痛い。バラの棘とは違って扱い難くて少々悩む。
でも、せっかく綺麗な黄色い花を見せてくれるサボテン故に見切るわけにはいかないなぁ~。

今日は明日香村の川原寺跡(国の史跡)に行ってきた。甘樫丘や飛鳥寺、石舞台や岡寺etc.沢山の名所旧跡が在る明日香村を何回も訪れていたのに、川原寺(かわらでら)は初めてだった。新聞で読み、川原寺跡・弘福寺(ぐふくじ)のご住職に会いたくなったのである。


  6月21日(金)
吉野線飛鳥駅に降りて「かめバス」に乗り「川原」で降りるとすぐ目の前左手、庚申石碑のところに写経道場・川原寺の案内矢印があった。
門をくぐると笑顔で迎えて下さり、本堂(中金堂)に案内してくださった。
ご本尊十一面観音像と弘法大師作の持国天と多聞天(重文)、そして十二神将(平安時代)が祀られていた。カラフルな牛の神将だけは後世に造られたのだそうだ。
9世紀に弘法大師(774~816~835年)が朝廷より川原寺を賜り、京都と高野山を往復する際の宿舎として使われていたそうで、境内には大師堂もあった。

      (画像はクリックすると拡大する)

飛鳥時代、川原寺は飛鳥寺・薬師寺・代官大寺と並ぶ四大寺に数えられていたそうだが、三度の焼失で五重塔や金堂や講堂、僧房等全てがなくなったという。弘福寺と呼ばれる今のお寺は川原寺の跡地に中金堂が江戸時代に再建されたお寺らしい。
確かに周囲に残っている礎石はかなり広範囲に及び、1200年の歴史を感じる雰囲気があった。
平城遷都に伴って飛鳥寺は奈良市の元興寺として、薬師寺は西ノ京の薬師寺に、そして代官大寺は奈良市の大安寺としてあるのは我々の知るところである。これだけの大きなお寺が何故この地にとどまったのか?理由は誰にも解らない大きな謎だそうだ。

          

673年天武天皇が国家安寧を願って川原寺で写経をさせた日本初の写経の記録が日本書紀にあるそうで、今のご住職が2年前から境内で写経道場を開かれたそうだ。
お父様である先代のご住職の後を継ぐ決心をされ、生まれ育った大好きな飛鳥を世界の人達に知ってもらいたいと熱く話しておられた。

写経のお部屋は床の間のある畳敷きの和室。硯箱の中に墨と硯石と筆、墨汁、他に筆ペンも置かれていて、「お好きなのを使って下さい。筆にされますか筆ペンにされますか?」と尋ねてくださった。字には特に自信のない私、ちょっと迷ったが筆を選んだ。「墨を磨って下さっても墨汁でも、どちらでもいいですよ。」
緊張していた私は墨を磨る程の落ち着きを持っていなかったので墨汁を使ったが、心得のある人は筆もきっと愛用の自分のを持参するのだろう。

爽やかな緑の風を感じながら、小鳥のさえずりを耳に、顔を上げれば床の間の掛け軸・山水画を目にし、田園風景に囲まれた静かな部屋でひとり筆を運んだ。
こんな体験に感動しながら、慣れない筆に手が緊張して不器用な手が更に“ぎこちなく”なり、より下手な字になった。(笑)
心で書けば良いんだと自分に言って聞かせて般若心経276文字を書き上げた。令和元年六月二十一日の日付けを入れるとホッとした。

丁度その時3人連れの参拝者が来られ、窓から左手に甘樫丘、右手に飛鳥寺の屋根を眺めて「蘇我入鹿(そがのいるか)の首塚」の逸話になった。
飛鳥時代の豪族、蘇我氏が政治の実権を握って好きなように振る舞っていたのを、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣《藤原》鎌足(なかとみのかまたり)が、天皇中心の政治に戻そうとして蘇我入鹿の首をはねた事件。場所は板蓋宮(いたぶきのみや)、そして、その首が飛鳥寺まで飛んで行った話である。

645年「乙巳の変」(いっしの変)と言うそうで、645年「大化改新」と思っていた私に誤りがあったのを知った。(笑)
時の天皇は皇極天皇(こうぎょくてんのう)、642年に夫である舒明天皇(じょめい天皇)の崩御により即位した天皇である。大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)に新宮殿の建設を命じたのが板蓋宮(いたぶきのみや)で、643年に遷っている。
645年の事件が「大化改新」ではなく、「乙巳の変」から始まった政治改革が「大化の改新」である事を認識。遅ればせながら賢くなったよ。3人の参拝者にありがとう!(笑)

話は脱線するが登場人物を整理すると、皇極天皇は蘇我入鹿が殺害された「乙巳の変」で退位して同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位する。が、孝徳天皇の崩御にともない、再び天皇に即位し、斉明天皇となった。歴史上、天皇の生前退位は645年これが初めてという。2019年4月30日、平成時代の昭仁天皇(あきひとてんのう 85歳)が生前退位され、5月1日徳仁天皇が(なるひとてんのう 59歳)が即位され令和時代になって2ケ月足らずの今である。

中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇の子で、後の天智天皇であるよな。次の天皇・天武天皇は天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)。
思えば私はこの辺りから天皇の系図がややこしく、名前が覚えられずに歴史が嫌いになった様な気がする。。。。。

今日私は、中大兄皇子が母の斉明天皇の為に建てたという川原寺の跡地に建つ弘福寺に来て、香具山を真正面に眺め、反対方向に甘樫丘や飛鳥寺の屋根を眺め、確り気持ちを明日香村に落ち着かせてこそ真剣に楽しく学ぶ気持ちになったのである。(笑)


境内に残る礎石は当時には珍しい貴重な瑪瑙(大理石)だそうで、石に触れ、塔跡の基壇に上がり、かつての金堂の基壇を歩いてからバス道に出て、かつての南大門や中門の礎石を振り返り、飛鳥の歴史を私なりに感じ取って満足した。

道路を挟んで目の前の橘寺に来る沢山の人達も川原寺の歴史を知れば、きっと来たくなる川原寺跡・弘福寺ではないだろうか・・・・・




































福知山城へ

2019-06-10 | 日記
昨日のこと、兼ねてより訪れてみたかった福知山城へ行ってきた。ちょっと遠いので彼の都合のつく日を待っていた。
お天気はやや曇り加減で日差しカンカン照りでないのがよかった。

  6月9日(日)
特急に乗って福知山駅に着いたのは午前10時40分、観光案内所でお城のパンフとマップを貰った。続100名城のスタンプはココで押せる様になっていて、へぇ~ 名城・続名城スタンプってこんなのか!と初めて意識した。「福知山ドッコイセまつり」のゆるキャラ・ドッコちゃんが可愛くて一緒に並べた。(笑)
郡上八幡で踊りの輪に入れてもらって、見よう見まねで手足を動かした夜を思い出し、お祭りに来たわけでもないのに何だか楽しい気分になって、城下町を歩き出した。(笑)

お城通りを進んで行くと「福知山市丹波生活衣館」があって、そこでは機織機や糸車や着物類等沢山の展示物が置かれていた。
「機織りの無料体験ができます。コースターを作りませんか?」と言っていただき、その気になった。ちょっと渋る彼の背中を押して2人共お願いした。少なくとも私より几帳面な彼に出来ないはずは無いと見込んだのである。案の定、飲み込みも早く、機械操作も簡単そうだった。ちょっと悔しいけれど私はそうではなかった。
彼は祖母が織っている姿を見た事があると言っていた。時代のずれで私は知らない。
江戸の中期には既に織られ明治時代には全盛を迎えていたという、「丹波木綿」の伝統的な技法を後世に伝え残しておきたいとのお話であった。
          (画像はクリックすると拡大する)

カタンカタン、上手くいくと心地よいリズミカルな音が鳴るのでその時は心が弾む。骨董市でよく見かけた舟の様な形の道具は杼(ひ)と言って、経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を通すのに使う道具であるのも解って、長年の疑問が解け、スッキリした。(笑)
丁寧に教えて下さったお陰で不器用な作品ながらこんなのが出来て大満足!

糸車を回して“糸紡ぎ”を見せて下さった。「山姥の糸車ですね。」と私、「たぬきの糸車じゃなかったですかね?」と館の人、皆んなで大笑いした。そして綿の実から種を取り出す作業や糸を紡ぎ易い様に綿の塊をふわふわにほぐす作業も体験させて下さった。
帰りがけには綿の種を下さったので植えようと思う、どんな花が咲くのかな。

          

さてさて1時間の道草をして、お城に入った。
福知山城は1579年、明智光秀が主君である織田信長から丹波平定の命を受け築いたお城である。元々この地の国人が築いていた横山城という山城を福智山城と改名し、改築したものらしい。難しい歴史は苦手で私の記憶に残っているのは、1582年の「本能寺の変」、光秀が謀反を起こして織田信長を自害させた事、そしてその直後、「山崎の戦い」で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ自害したとか殺害されたとかだけである。
「三日天下」という言葉も光秀の短い治世から生まれたという。僅か11日間の天下人だったとは・・・でも、福知山市民の方は皆んな光秀が大好きな様で会話の内にそれが感じられた。

城は明治の廃城令により、天守閣周辺の石垣しか残されなかったが、昭和61年に天守閣が現在の姿に再建されたそうだ。3層4階の望楼型の大天守と2層の小天守の見るからに恰好良く綺麗なお城である。最上階からは眼下に由良川、遠くに大江山や愛宕山が見れる。10年もっと前に訪れた愛宕山の月輪寺、母を友人をそしてご住職様を思い出して嬉しくなった。
目の前の大きな鬼瓦に明智光秀の家紋・桔梗紋を見た。又、昭和60年に復元されたという釣鐘門も素敵だった。

石垣については大和郡山城に次いで転用石が多いと聞いていたが、成程。野面積みの自然石に混じって五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)の印塔等いろいろな転用石が沢山使われている。

                

もう1つ驚いたのは、「豊磐井」(とよいわのいど)と呼ばれる深さ50m、由良川の川底よりも深いという井戸が本丸に在る事。現在もきれいな水が湧いているという。
傍に天守閣鯱瓦(しゃちがわら)の原寸大復元瓦が置かれていた。福島駅の構内で、もう1つを見ていた。高さ150cm、基部たて80cm、よこ45cmだそうで実に大きい。鬼師さんの技術、凄いなぁ~!
それから本丸に移築して残されている二ノ丸銅門番所(あかがねもんばんしょ)は当時の姿のままらしい。銅門跡(市役所の東)を通ってきたので場所が直ぐ分かった。
      

天守台には光秀や江戸時代1669年から明治4年まで202年続いた朽木(くつき)藩主関連の資料が沢山展示されていたが、ガラスケースの中は撮影禁止となっていた。
そうそう2018年11月に将棋のタイトル戦が福知山城で行われた時のポスターが天守郭の2階、畳敷の部屋に貼られていた。羽生善治竜王と広瀬章人八段が対局し、広瀬氏が羽生氏に勝利したニュースがテレビで流れていたっけな。

色んな物を見て解り知りびっくりしての帰り道、福知山市立 惇明(じゅんめい)小学校のなんとモダンな作りにもう一度ビックリ!

2020年1月に明智光秀大河ドラマ『麒麟がくる』が放送スタートとなるようで福知山市は湧いていて、何かしら市民の皆さんが生き生きとされていて、温かい感じがする福知山市での一日だった。



唐招提寺

2019-06-07 | 日記
早朝から小雨が降り続きずっと空を眺めていたが、午後から思い切って唐招提寺へ出かけた。鑑真和上の遺徳を偲んで行われる開山忌舎利会(かいさんきしゃりえ)の3日目。和上の命日である6月6日を挟んで3日間国宝の鑑真和上座像が新宝蔵で特別公開されているのである。
昔、御影堂でお像と東山魁夷(ひがしやまかいい)画伯の障壁画、「山雲(さんうん)」・「濤声(とうせい)」を拝観したのを覚えているが、今、お堂は大修理に入るらしい。
 
  拝観券を読んだ。
    唐招提寺は天平宝字三年(759)、唐の高僧鑑真大和上によって創建されました。鑑真大和上は聖武天皇の願い
    に応えて来朝を決意されました。井上康の名作『天平の甍』にもあるように、五度の失敗にも屈することなく
    来日して我が国に戒律を伝え、大和上の称号を賜りました。その後、戒律を学ぶ道場として、当寺が創立され
    ました。以来千二百五十年、律宗総本山としてその法灯を今に伝えています。金堂は代表的な天平建築です。

  6月7日(金)
午後3時、受付で通常の拝観券を買って、さて、和上の特別拝観料は何処で支払うのかな?と思って尋ねた人が「一人ですか?そうだったらこの拝観券あげるよ。来るはずの友人が来ないのでね、どうぞ。」と言って新宝蔵拝観券を差し出して下さった。びっくりして一度は辞退したが、午後4時閉館なので有難く頂戴した。なんだか嬉しかった。新宝蔵の前では未だ人の列が続いていた。
奈良時代の金堂の鴟尾(国宝)や仏像(重文)の拝観も然ることながら今日は皆んな鑑真和上に拝顔したくて来た人ばかりの様に思う。開かれた扉の向こうに大和上の座像を拝しながら私も座ってお焼香をさせてもらった。
参拝記念に下さった絵葉書2枚(下段写真)に感動!

          
     
鑑真和上座像の前で聞いたボランティアさんの説明は、「週刊日本の仏像13」に書いている内容と同じであったのでココに一部を転記させてもらおう。

  日本最初の肖像彫刻
    天平宝字7年(763)春、鑑真の弟子の忍基(にんき)は、唐招提寺・講堂の梁(はり)が折れる夢を見た。
    忍基はこれを師の遷化(死)の予兆と悟り、弟子を率いて鑑真の肖像を造ることに着手した。それから間
    もなく、鑑真は「結跏趺座(けっかふざ)し、西に面して」死を迎えたという。この鑑真和上座像は、その
    とき制作されたものである可能性がきわめて高い、わが国最初の肖像彫刻である。

昔とは違う深い気持ちで拝した自分に気付きながら館を出た。
雨は止んでいたのでご廟に行ってみると、同じ思いの人が数人いた。門をくぐるとパッと目の前に広がる景色に息を飲んだ。
地面は降り続いた小雨でたっぷりと水分を含んだ目の覚めるようなふっくら苔の緑絨毯に包まれ、新緑の木々も綺麗に洗われてまるで想像の美しい極楽浄土の様だった。謹んで手を合わせたのも昔とはちょっと違う自分であった。歳の精かも知れないと感じたが、気持ちは爽やかであった。
            
                               (画像はクリックすると拡大する) 
     
ふと瓊花(けいか)の花を思い出した。が、白い花の咲く時期を忘れていた。国宝十一面千手観音菩薩立像の絵葉書が欲しくて売店に行って聞くと、5月初めと言われた。
御影堂の供華園(くげえん)では今年もその頃に特別公開されたそうだ。
鑑真和上の故郷に咲く花で、中国揚州の門外不出の花だと聞いたことがある。ご廟にも有るようで、満開の時期情報を得てもう一度ゆっくり見たいと思う。

金堂の十一面千手観音を拝してから、奈良時代に建てられた宝蔵と経蔵(国宝)の校倉造を見るのが好きでその前を通り、境内を廻った。鉢植えの蓮の花を思い出し本坊に向かった。途中御影堂の入り口に立つと、工事の始まる前の静けさで綺麗な庭を見る事ができた。それから戒壇堂に回った。現在は3段の石段のみが残り、その上に1980年(S.53)に築かれたというインド・サンチーの古塔を模した宝塔が鑑真和上の歴史を伝えていた。
ただ歩いているだけで心が癒される唐招提寺であるよなぁ~。

             

売店で知ったのだが、金堂の屋根の4隅に鬼が居るというので探していたら、そんな私に樹木の下に居る同じ形の石の鬼を親切に教えてくれた人がいた。ありがとう。

        
   
時計を見ると5時7分前、閉門は5時なので大急ぎで門まで走った。すると拝観券を下さった方に又会ってお礼を言うと、「5月19日には“うちわまき”があるから又おいでや」と言われた。来年の話だよな。よし又来よう!(笑)

こうして今日は小雨がもたらしてくれた、とても嬉しい日であった。


  







  

大元帥明王

2019-06-06 | 日記
昨年から育てたアジサイ2種、ガクアジサイとアナベルが咲き始めた。朝夕の水やりに手間がかかりちょっとたいへんだが、アナベルが我が家で見れるのが嬉しい。緑から白に変化する様を今日からゆっくり楽しもう。

  6月6日(木)
秋篠寺の秘仏・大元帥明王(たいげんすいみょうおう)の年に一度のご開帳日である。平安時代780年、光仁天皇の勅願によって 善珠(ぜんじゅ)僧が開基して建てられたそうな。
秋篠寺と言えば、諸芸の神様・伎芸天(ぎげいてん)を先ず思い浮かべるが、大元堂の前に置かれている写真を見て以来、この日を待っていた。西大寺駅前からシャトルバスが出ていたので利用する。
お寺に着くと、噂に聞いていた通り参拝者の長蛇の列で人の数はどんどん増え、コの字型に東門まで伸び、夕方まで減る事がなかった。
それでも靴を入れるビニール袋を一人一人に丁寧に手渡して下さる係の方の絶妙なる時間配分で、その大人数にして落ち着いた気持ちで参拝できて、大変よかった。
        (画像はクリックすると拡大する)  

以前初めて堂前のパネル写真を見た時は、体中に蛇が巻き付き、筋骨隆々、6本の手には独鈷杵(どっこしょ)の他に棒や剣や斧など武器が握られ、顔は憤怒の表情と思って、どんなにか恐ろしい形相の明王様かと思っていたが、そうではなかった。
真近く拝すると、けっして恐ろしくはなかったし、それらの武器は悪や災厄を打ち砕く道具であり、国を守り人間の煩悩を取り除く為に使われるのだと知って、尚更心が和んだ。
鎌倉時代の木造で彩色もかすかに施されていた。逞しい上半身に比べて何と短い足にびっくりしたが、身をかがめて見上げたらきっと、更に迫力が凄く増すのかも知れないなぁ~。写真を買う事が出来て嬉しかった。大切にして煩悩の一つでも排除する勇気を持とうと思う。
ご真言は「のうぼう たりつたぼりつ ぱらぼりつ しやきんめい しやきんめい たらさんだん おえんび そわか」、張り紙を見ながら舌を噛みつつ唱えたよ。

境内では菩提樹の花が満開で見事!花を見たのは初めてで感動した。タイサンボクの花も咲いていた。花をゆっくり楽しんだ後、東門のすぐ傍にある普段は非公開の香水閣(こうずいかく)へ行った。
6月6日にはココで霊水が振る舞われるというのである。普通の井戸程には深くないのに、平安時代から綺麗な水が滾々と湧き出ているそうである。係の方がニコニコしながら大きな杓で汲み上げ、お湯呑みやペットボトルに注いであげていられた。滅多に飲めない水なので私も頂いた。そして飲み終えた小さいボトルに入れてもらって彼へのお土産にした。(笑)

      

国宝の趣がある本堂は、鎌倉時代に元(平安時代)の講堂跡に奈良時代建築様式で再建されたそうである。堂内が土間というのも心落ち着く。
元の金堂や東西両塔の礎石が境内の雑木林の中に残っているというので探して歩いてみると見つかった。昔訪れた時には美しい苔庭が優先で気付かなかった。

          

最後は正門になるらしい南門から出て、秋篠窯を廻り帰路についた。いろいろな発見に心満たされ、日傘と杖にご苦労様。












今里の蛇巻き&鍵の蛇巻き

2019-06-03 | 日記
一昨年のウオーキングで田原本町の行事「今里の蛇巻き」と「鍵の蛇巻き」(じゃまき)を知った。藁の蛇が樹に巻きついていたのである。龍ではなく蛇というのが面白い。(無形の文化財に指定されているらしい。)その時からその行事を見たいと思っていたのだが、6月の第1日曜日がその日で、今年は昨日であった。共に5月5日の端午の節句にちなむ行事らしく、主役は12~15歳の男の子だそうだ。
   鍵の蛇巻き(下り蛇)→   ←今里の蛇巻き(昇り蛇)

  6月2日(日)
午後1時過ぎに今里の杵築神社に着くと、中学生を含む大人の方達が集まって藁の蛇作りを始められるところであった。社殿から伸びた綱を撚って裸麦の藁の束をひっかけ、掛け声をかけながら編み上げて行かれる。一方、女性の方達は一ケ所に集まって煮炊き料理を担当されるそうだ。後水尾天皇時代から400年以上も伝え続けられてきた村総出の野神行事であるらしい。写真もOKして下さった。
        (画像はクリックすると拡大する)

蛇が出来上がるまで時間があるので鍵の八坂神社に回った。2つの神社は徒歩5分余りの距離に在る。
こちらでは午前中に作られた蛇が完成していた。神主様の祝詞奏上とお祓いと塩でお清めの作法が済むと、可愛い幼児さんまで参加して村の中を練り歩かれる。
          
  
300kgの大きな稲藁の塊が蛇の頭で、17歳の男の子と当屋さんが担ぎ、後ろに続く蛇綱を他の男の子達が引っ張っての、皆で元気よく大きな声で「おめでとう!」と言って歩かれる。
すると村で結婚式があったり、赤ちゃんが生まれたり、家の普請等お祝い事のあった家からご祝儀が出て、先導する2人の子供が担ぐ長い竹竿に括り付けた箱に入れられるそうだ。
子どもの頃の経験を聞かせて下さったお年寄りが居て「昔、わしらの頃はナ、コレと言って遊びもなかった時代やし、お祝儀を分けてもらったお金で映画館に行くのが楽しみやったんや。」と懐かしそうに話された。
               

途中で小雨が降り出してきたが、蛇行列の人も見物人も雨どころではなく行事の進行に一生懸命で力が入る。カメラ片手に私もその一人だった!(笑)
蛇が保存場所(北中学校前の空き地)の大樹に無事『下り蛇』として巻き収められる迄どうか大雨にならない様に、と心の中で祈りながら先ほどの今里に戻った。


午後2時40分、杵築神社の境内では立派な長い18mの蛇がほぼ完成真近であった。作り手の皆さんはやや疲れた表情ながらも完成を目の前にした安堵感が入り混じったお顔で、「もう少しや頑張って!」とお互いを励まし合っておられた。最後に女竹16本が配置されると、立派な蛇の出来上がり!その瞬間には外者の私も思わず拍手した。
          

社殿の中での行事が済む頃、境内で蛇の出発を待っている参拝者にも藁の先に結わえた「わかめの味噌煮」をおすそ分けして下さって、有難く頂いた。かつて味わったことのない食べ物で、美味しかった。食べるのに全神経が集中し、蛇の頭にお神酒が一升瓶でトクトクと注がれる瞬間をカメラに収めるタイミングを逃してしまった。まだまだ食い意地を張っている自分に苦笑。
      
  
いざ蛇の出発となって、皆んな一斉に動き出した。100軒もあるすべてのお家の玄関で「おめでとう!」と大きな声で言って廻られるそうだ。時々立ち止まっては2・3人をぐるぐる巻きにする。(蛇が暴れるのだそうだ。)ぐるぐる巻きにされた子供には福が来ると言われているので、もがき乍らニコニコして立ち上がり再び蛇を担ぐという具合。それは巻かれた子供も見物人も  歓声をあげて喜ぶ瞬間であった。

      
                      

最後まで追っかけするには時間的にムリがあったので、再び鍵に行って、収納されたはずの蛇の姿を見に行った。どっしりと頭を地に着けた蛇は雨風に打たれながら来年までお役目を果たすわけで、何だか神々しく見えた。。。。。


今日(6月3日)改めて、今里の杵築神社のエゴノ木に巻きつけられた『昇り蛇』を見たく、物好きだと彼に笑われながら、一人で出かけた。(笑)
さすが18mの蛇は大木に胴と尾を巻き付け木の股に蛇頭を今年の恵方、東北東に乗せ、勇ましい姿で天に向かっていた。
そして樹の根元にある小さな祠「八大竜王」さんには昨日祀られた絵馬と農機具のミニチュア作品がそのまま収まっていた。
こちらの行事には、男の子の成人を祝う節句行事であると共に田植え時には雨が降り五穀豊穣の年になるようにとの祈願も込められているとか。
             立派な昇り蛇を見ていると昨日の今里の皆さんの笑顔と頑張りを思い出し、きっときっと実り多い年になるような気がした。。。。。。。