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写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

新沢千塚古墳群

2018-05-28 | 日記

  5月28日(月)

季節は早足で移ろい野に咲く花もどんどん変わる。今年はそれぞれに開花が随分早かったがひょっとしてカキツバタが未だ見れるかなと思い、新沢千塚古墳群(にいざわせんづか古墳群)に行く彼に付いて行った。
所は橿原市川西町で近鉄線橿原神宮駅から歩いて行くと、途中に宣化天皇陵が在った。第二八代天皇で時代は飛鳥時代になるようだ。歴代天皇は初代神武天皇から始まって平成の時代現在の天皇は125代になるらしい。来年5月1日には元号が変わるよな。

さて午前11時20分、咲いているカキツバタはたった3本、折角なので最後を飾る一輪をカメラに収めたが、空しかった。
しょげている私に彼がササユリを指さしてくれた。思わぬ発見に2人はビックリ。もう数年前になるが、岐阜県の宇津江へ48滝とササユリを見に行ったのを思い出した。あちらは一面に、こちらはきょろきょろ探して見つかる程度だが、カキツバタの代わりを果たしてくれた。

            (画像はクリックすると拡大する)

こちらの古墳群は奈良県下最大級の群集墳で昭和51年に国の史跡に指定されているらしい。県道で北と南に分断され、北側には「シルクの杜」(スポーツジムetc.)が南側には「龍の広場」と道の駅が有って立体横断歩道橋で繋がっていた。
柔らかい若草で覆われた古墳の山々を縫って歩くと清々しく、とても気持ちよかった。総数600基もあるというが、4世紀終り頃から6世紀終り頃までの古墳群らしい。丘陵の開墾計画がでて幾つかが発掘調査の対象となったそうで 説明版があった。
私は難しい事についてはあまり関心が無く、景色の良さに酔い、ササユリを探すのが楽しかった。(笑)

            
      
道の駅でお弁当と他いろいろ買って畝傍山を見ながら休憩した。右の画像がその眺めで、この場所は私には大満足の茶屋であった。(笑)
好奇心で飲んだザクロジュースの味は未だに不可解で、茶豆のレシピが今なお課題である。
とにかく大変気持ちの良い散策コースで、又足を運びたくなる所である。すっかりご機嫌になって帰宅した。
            

井手の里

2018-05-20 | 日記
立春から数えて88日目、今年の八十八夜は5月2日(水)だったよな。お茶の新芽が出そろう丁度この時期に摘まれるお茶が新茶(一番茶)と呼ばれ、二番茶は6月下旬~7月上旬、そして三番茶は8月下旬に摘まれる物を言うそうだ。
新茶は栄養分も旨味もその後に摘まれるお茶よりも多く、「八十八夜に摘まれたお茶を飲むと長生き出来る。」とさえ言われる縁起物らしい。
実に美味しい新茶を頂き、この時期になるとその味とその人を思い出せるのは私の小さな幸せの1つである。
茜たすきに菅の笠とはいかないが、一度は茶摘みを体験したいと思い続けてきた。

  5月20日(日)
JRのイベント、宇治茶歴史街道ウォークに参加した。所は奈良時代の橘諸兄(たちばなのもろえ)所縁の井手(いで)である。JR奈良線、急行列車の停まらない駅・山城多賀駅に集合した。窓から見える緑の景色にうっとりしているともっと長く乗っていたいなぁ~と思いながらホームに降りた。18人の参加者に5・6人のボランティアさんが同伴して下さり、スタートから和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。

歩き始めて間もなく乗蓮寺の手前に古い大邸宅・平間家住宅があった。写真にあるお家だ。屋根には「おどし」に貝が取り付けられている。貝が太陽に反射するので鳥が近寄らないのだそうだ。素敵だなぁ~。。。。
野面積み石垣に積まれている石は形こそ小さいが、まるで天守台の様だ。小さい石臼も転用石に使われていて面白い!昔の人はあの石臼で「きな粉」等を作ったんだよな・・・・
昭和28年、凄まじい集中豪雨で池や川が決壊し、南山城で起きた大水害の折に流されたという門もまるで大名屋敷のそれの様だった。

       (画像はクリックすると拡大する)

さてさて10時10分、多賀駅より約1.5km、井手町の観光名所・高神社に来た。
こちらの鎮守の森は京都百景の1つだそうだ。狛犬が迎えてくれる長い石段に一の鳥居、二の鳥居が続きその奥に社殿が建っていた。とても静かな佇まいだ。1604年に再建されたという本殿は三間社流造で桃山時代の絢爛豪華な建築を伝える貴重な建物らしい。
社殿前の舞台では猿楽が奉納されていた記録が、鎌倉時代の高神社文書にあって、それは日本最古級の猿楽奉納の記録文書だとか。
絵馬堂には絵馬の他に祝米寿の手形が沢山奉納されていて、地域の人達と密に結びついている神社のようだった。

             
 
石段を登り切った所に座す狛犬の説明もあった。
神社に向かって左側は獅子ではなく口を閉じた犬で、右側は口を開いた獅子(ライオン)だそうである。犬の頭には尻尾の様な〝とんがり”が付いているそうだ。へぇ~・・・狛犬に犬もいるんだと初めて知った。それから冗談か真か私には初耳の話:「狛犬の阿吽は人間の一生を表しているんですよ。人は口を開いて阿で生まれ、口を閉じて吽で死ぬんです。」知っていましたかと問われ、知らなかったわと首を振ったのが大半だった。(笑)

参拝を終えてふと見上げると、もみじの若葉に差し込む木漏れ日の優しい光に心が和んだ。檜皮葺の本殿屋根の葺き替えに使われる桧の樹皮が剥がされた赤い木肌の桧を見て感動した。キノコの赤ちゃんやサルノコシカケを見つけて喜んだりしながら鎮守の森を抜けた。
そして「山背(やましろ)古道お茶探検隊茶園」に向かう途中では、南谷川のせせらぎを聞きながら野イチゴの赤い実を見つけると手を伸ばし「甘い!」「美味しい!」など喜び合って歩いた。
      
 
茶園に到着。
茶葉の摘み方を教えて頂いてからそれぞれ好きな場所で摘んだ。黒いネットの覆いの下の葉に触ってビックリした。愛しい程柔らかだった。
皆んな無心になって摘んでいる。私も帽子を脱いで楽しんだよ。(笑)
皆んなが納得した頃合いを見計らって下さり、茶摘みは終了した。収穫した葉は持ち帰りOKだった。
次はフルーツ街道を通って食事会場の「みどり農園」に向かう。いちご狩り・ブドウ狩り・柿、みかん狩り色々出来るらしい。
  
            
  
「みどり農園」では手作り羊羹に無農薬新茶をご馳走になって感激!お茶の淹れ方も勉強させていただいた。それなりに解っていても旨味の出る時間が待てず手っ取り早く済ませるのが普通になっていた日常を反省し、これからは落ち着いて淹れてお茶を楽しもうと思った。
特製の小野小町弁当もたいへん美味しくて完食。
それにサプライズがあって、杵での餅つきをして下さり、希望者には搗かせて下さった。よく練った柔らかいお餅で、私でも杵が真っ直ぐに降りて嬉しかった。憑きたての〝きな粉餅”はやっぱり美味しいね。

          
  
充分な休憩時間の間に満腹のお腹も落ち着いて、次は「龍王の滝」へ行った。落差13mの滝は今日は水量も多いそうで、勢いが有りそれなりに見応えがあった。
明治中頃までは高神社の末社「祈雨神社」が在り、日照りの続く時は龍王神に雨乞いをする神事が行われたという。昔話も滝の傍に立つとつい最近の事の様に感じたよ。(笑)
        

山城多賀駅で解散であったが、ボランティアの皆さんがとても温かくて親切で、ユーモアいっぱいの楽しい方達だったのでお別れが名残惜しかった。
南谷川では6月10日~15日頃蛍がいっぱい飛び交うとの事、「きっと来ます。」と告げてさようならをした。
高神社の境内に円墳があったけれど、この辺には古墳が多く16ケ所も点在しているそうで、古墳巡りをしている彼も「また来よう。」と言っていた。



 追記
  5月22日(火)
茶摘みの翌日は用事があって出来なかったけれど、私には貴重な茶葉を無駄にしたくなかった。1日遅れで、頂いたレシピを見ながら緑茶も紅茶も頑張った。
緑茶の手もみ作業と紅茶の揉捻(じゅうねん)作業は思いのほか力仕事であった。自分で一生懸命に作ったお茶に大大満足!

              













再び安堵町へ

2018-05-16 | 日記
  5月16日(水)

安堵町の案山子で、先日見残した「天理軽便鉄道」のホームで待つ人達を見たくて行った。今日は彼も一緒なので道に迷っても安心だった。(笑)
安堵町役場に向かう途中の県道沿いでお目当てに出逢う事が出来た。

天理軽便鉄道というのは大正4(1915)年大阪から天理へ向かう短絡線的需要を見込んで蒸気機関車で開業され、国鉄関西線法隆寺駅前の新法隆寺から天理まで運行していたそうである。(全線単線)
新法隆寺~天理間9㎞の所要時間は34分だったという。が、6年後の大正10(1921)年には大阪電気軌道天理鉄道線(のちの近鉄)に買収され 、平端~新法隆寺間は昭和20年(1945)年戦時下により営業休止。 そして昭和27(1952)年には正式に廃止となったという。僅か6年ばかりの鉄道だったわけだ。
1916年時点では新法隆寺駅ー大和安堵駅ー額田部駅ー二階堂駅ー前裁駅―天理駅だったようで、案山子の背後の駅名版が歴史を物語っていた。

警察官や消防士の案山子には「ご苦労様です。」、芸人さんには「頑張って!」、自転車に乗った子供には「気を付けるのよ。」、赤備えの真田幸村には「戦国時代は終わったわ。」、農家のお嫁さんには「その茄子美味しそうね。」、その他いろいろ挙げればきりがなく、安堵町の案山子には声を掛けたくなるリアルさがあって退屈しないなぁ~。(笑)
            (画像はクリックすると拡大する)

飽波神社に来て、聖徳太子のお伴の者になって一緒に写真を撮って遊んだよ。(笑)
そうそう前回鳥居の前に立った瞬間不思議に思った扁額、「飽波神社」ではない「安久波社」は冨本憲吉の筆によるものらしい。

その後、「広島大仏」に拝顔したく極楽寺を訪ねた。広島の大仏様がどうして安堵町に居られるのか誰でも不思議に思うよな。お寺で尋ねてみたかったがお留守で、用事のある人はTELするようになっていた。拝観はダメかと諦めかけた時、大仏殿のドアに「扉を開けてどうぞ」との張り紙があるのが分かり、入らせてもらった。御簾の向こうに優しいお顔の大きな大仏様が印を結んで静かに坐しておられた。(木造に金箔が施された約4mの仏様。)
携帯からTELを入れておいたので、返信が来た。成程、お留守になる時にもこういう形で訪問者を受け入れて下さるんだと解って、お礼を言って門を出た。訪れて良かったと思う。
本堂の横に仏塔が2つ置かれていた。

聖徳太子の案山子が立っている所に向かう途中、西名阪国道の傍に在る「高塚」に立ち寄った。
今朝、町役場で頂いた小冊子が役にたって有難い。冊子の説明にはセンダンの木の根元にある大石の下に聖徳太子が可愛がっていたタカを埋めたとも言われている、と書かれている。

岡崎川を越え、聖徳太子案山子の置かれた田んぼに再び来て新しい発見があった。白とブルーで作られた三角形のオブジェ、それは富士山だと彼が教えてくれた。成程!先日、私はアレはゴミの山で写真を撮るのにお邪魔だと考えていたのだ。(笑)願わくば山の傾斜をもう少しなだらかに、そして雪の積もり方にもう少し変化が欲しかったなぁ~。コレ言い訳なんだけれど、想像力の乏しさに我ながらガックリ。
今日は「落ち穂拾い」の額入りと聖徳太子のお顔を投稿しておこう。

     

安堵町には思いのほか沢山の見所があるようだ。
飽波神社は国史跡であり、人間国宝の冨本憲吉氏の生家があり、国重文の武家屋敷・中家住宅(なかやじゅうたく)があり、戦国時代の甲斐の武田勝頼の重臣の供養塔・馬場塚があり(山梨県と安堵町の不思議なご縁は?)、極楽寺には広島大仏がおられ、善照寺では樹齢300年の根上がりの松「富生の松」(ふしょうの松)を見る事が出来、広峰神社には業平姿見の井戸があったり、である。
それに歴史民俗博物館では江戸時代からの伝統技・灯心引きを今なお継承していて、申し込めば誰でも体験出来るので、私は是非もう一度行こうと思っている。



安堵町のかかし

2018-05-10 | 日記
聖徳太子をイメージした案山子のオブジェが安堵町に完成した、と新聞で読んだ。「かかし」と言うのは田んぼや畑の作物を荒らして取っていく鳥や獣を追い払う人形で、その漢字は「案山子」と書くらしい。
スズメやカラスや猪は人形を人間だと思って近寄らないのだよな。
子どもの頃こんな童謡 ♪山田の中の 一本足のかかし 天気のよいのに 蓑傘つけて 朝から晩まで ただ立ちどおし 歩けないのか 山田のかかし♪ を歌った事があるなぁ~。(笑)
そうそう 昔の案山子は藁や竹が使われ一本足だったような気がするけれど、近年のはそうでないようだ。。。。。。。

  5月10日(木)
高さ12mの特大案山子・制作費なんと1200万円の聖徳太子案山子を是非見たいと思って、今日の散歩コースにした。
大和川の堤防を下った所で聞いた話:奈良県の県知事さんが選挙運動に来られた時に頭を下げられたのが案山子だったというのである。そのお陰で案山子作りに熱が入ったというから何と微笑ましいことよ。
既に180体程が町のあちこちに置かれているらしいが、ミレーの「落ち穂拾い」や天理軽便鉄道のホームや太子道の腰掛石の案山子も見たかった。

田んぼの中に立つ巨大聖徳太子の後ろ姿が遠くに見えてきた。赤と白が青空に向かって聳え立ちインパクトが強い。体は斑鳩の法隆寺の方に向いているそうである。散歩中の方が来られ教えて下さった。「このお太子さん、クレーンでここに吊り上げられた時、顔も真っ白でびっくりしたんですよ。その後、画家さんが梯子に乗って書かれたんです。」「へぇ~ 設置してから描く方が、目の位置や角度に臨場感のあるお顔に仕上がるのかも知れませんね。画家さんのこだわりがあったのではないでしょうか。」なんて勝手な想像で応えたが、真実は分からないなぁ~。(笑)
いったい何で作られているのだろう、と思わず足元を見上げる。鉄骨と繊維強化プラスチック製という。

          (画像はクリックすると拡大する)

太子の足元には厩厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子)、天武天皇、持統天皇、中臣鎌足など昔を忍ぶ案山子も立っていた。実にうまく出来ている。でも顔はさすが現代的だった。(笑)
田んぼの中には、二宮尊徳さんやクラーク博士が居て博士の台座には「少年よ大志を抱け」否 "BOYS BE AMBITIOUS"と書かれていた。釣り竿を肩にした浦島太郎と亀、千利休や西郷どんetc.沢山並んでいた。私が見たかった「落ち穂拾い」も有った。木枠が準備され絵画として写真が撮れる様になっていた。ご丁寧な仕掛けである。腰をかがめた3人の婦人は遠くからでは人間そっくりそのまま、実に実に巧妙でお見事!

     
 
その後、私は先ほどの女性に教えて頂いた道を進んで名阪国道の下をくぐり飽波(あくなみ)神社に向かった。
石の鳥居には「安久波社」の扁額が掛かかり、前には国史跡の石標が立っていた。そして境内の説明版には《祭神は素戔嗚尊。江戸時代には牛頭天王社と称した。聖徳太子の飽波宮跡と伝えられる。安堵庄総社で、江戸時代以後は東西両安堵村の氏神となる。神殿は春日造り、檜皮葺。境内末社は住吉・水分‣神明・春日社。雨乞の南無手踊りが奉納され、その衣装は現在県文化財に指定されている。》と書かれていた。
「南無手踊り」は「なもで踊り」と読むらしい。

          

「腰掛け石」というのは聖徳太子が愛馬・黒駒に乗って斑鳩から明日香へ通われる折、この石に腰を下ろて休憩されたという。石に腰掛けた太子の手には一七条憲法の巻紙が握られ、その最初に「和を以って貴しとなす」の漢文「以和為貴 」を読めるのが楽しい。その発想に嬉しくなった。(笑)
太子道について私は思い違いをしていたようである。斑鳩を出て河合町を経て三宅町屏風の白山神社の腰掛け石で休憩され、その後、田原本町から橿原へと進んで行かれたのだと思いこんでいた。河合町ではなく安堵町だったとは私には新発見!私バカだよな。(笑)


もう1つのお目当てにはたどり着けなかったが、疲れてきたので今日はこれで帰る事にした。
途中で安堵中央公園と奈良県安堵健民運動場に立ち寄ると、驚くことなかれそれはそれは沢山の案山子が並んでいて、再度びっくりした。すごい!
ここにアンパンマンの仲間だけ足しておこう。


竜田川鯉のぼり

2018-05-03 | 日記
風薫る五月、鯉のぼりが泳ぐ季節である。草木が逞しく成長し始め、眠っていたもの全てが目覚めてきたと思える気候になった。GW3・4・5・6日、毎日が休日の私も何だか嬉しいよなぁ~。(笑)
5日は子どもの日・端午の節句である。

鯉のぼりは男の子の健やかな成長を願って飾られる。今までは壮観だなぁ~元気が出るなぁ~と見上げていただけだが2・3気になる事を調べたくなった。
そもそも端午の節句というのは古来中国で始まった厄払いの行事だったようで、日本に伝わり先ずは宮廷に、そして江戸時代に武家社会にそして一般庶民へと広がったそうである。へぇ~ 日本独特の風習だと思っていたんだけれどなぁ~。
滝を登り切った鯉は天に昇って龍になる、即ち鯉は出世の象徴なのだ。昔はよく耳にした「立身出世」と言う言葉、現代はあまり聞かなくなってきたように思う。

五色(青or緑・赤・黄・白・黒or紫⇒万物を成す5つの元素:木・火・土・金・水)の吹き流しの鯉が江戸時代に黒い真鯉が現れ、明治時代に緋鯉が添えられ昭和時代に子鯉が生まれてきたそうで、そういえば子鯉も1匹2匹3匹と増えていったのを記憶している。


  5月3日(木)憲法記念日

そうだ!今日の散歩に新聞で読んだ竜田川鯉のぼりを見に行こう。バス停竜田大橋で降りて町の人に聞くと、「鯉のぼりは知らないけど、川沿いに行けば生駒線竜田川駅はありますよ。」と教えて下さった。川沿いの遊歩道はなかなか気持ちの良い道だ!川の流れの水音と目にさわやかな新緑が嬉しい。

竜田川と聞けば、先ず浮かんでくるよな。
      あらし吹く 三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり  (能因法師)    
      千早ぶる 神代もき かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (在原業平)
神代の昔、竜田川では秋になると鮮やかな紅葉が川面を綺麗な紅色に染めたのだろう・・・水も綺麗だし紅葉の赤も綺麗だったに違いない。
時代は変わって排水が川を汚し、排気ガスが紅葉をダメにしたと聞いたことがある。この季節、緑が燃えてとても綺麗だった。

30分あまり行くと遠くに鯉が泳いでいるのが見えてきた。川岸に並んで元気よく泳いでいた。川を横切って近鉄生駒線電車が走って行った。川に沿って国道168号線が走っている。車窓から沢山の人達が楽しんでいることだろう。住民の人達が提供した鯉だそうだが、家紋入りの鯉もいた。皆大切に仕舞われていたに違いない。真鯉の染めの濃いのは時代を経た鯉のぼりかも?あるいは高額なのかも・・・迫力があっていいなぁ~。

             (画像はクリックすると拡大する) 

Uさんに誘われて宇陀市芳野川で桜と鯉のぼりを同時に初めて見て以来、あちこちで見た川の鯉のぼりであるが、総数60匹というのがちょっと寂しかった。いえいえ欲は言わないでおこう、この鯉のぼりのお陰で元気をもらい、今日の歩きを楽しめたんだから、と自分に言い聞かせた。川の中でシラサギも楽しんでいたよ。
頑張って500m先に見える道の駅に足を延ばして、おにぎりとみたらし団子をお腹に入れて休憩した。

元来た道を戻ってくると、黒・赤・青・緑の鯉が泳いでいる家があった。思わず♪屋根より高い鯉のぼり~♪を口ずさんでみた。(笑)
ふと見ると石標が有って「藤ノ木・業平 つれづれの道」と書かれていて驚いた。ひょっとして業平はこの道を通って高安の里に通ったのかな?そして先ほどの歌を詠んだのかな等と勝手な想像をしてみたよ。(笑)

        

最後に北原白水堂さんの「佛鬼羅坊」(ぶっきらぼう⇒仏さんも鬼さんも羅漢さんも坊さんも皆大好きな串団子)をお土産に買って竜田川を後にした。遊歩道で出逢った私よりも10歳も上の元気なお年寄りとしばし楽しい会話をし、鯉のぼりにも負けない元気をもらい、私も頑張らなくっちゃ~と思った事よ。(笑)
沢山の元気にありがとうの日であった。。