響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

もっともなりたいもの。

2008-06-30 | ピアノ
前回のつづきなんですが、しかしその前に、先日「ほぼ日」の古い記事を読んでいて、「不本意を生きる」という糸井重里のことばを読んですっかり感じ入ってしまったので、その話を。というのも、最近私は「科学と広告のブログ」というブログを、さらに始めてしまい、そのこともあって「ほぼ日」をよく読んでいるのである。

しかしここでお話ししたいのは引用部そのものについてではなくて、そこはざっくりと……誰だって好きなことを勝手にやってるわけじゃなくてそりゃー「不本意なことだけど」一生懸命やってるんだよー……という意味だとすると、とクラシックイタチは考えるのである。じゃあ誰が「不本意じゃなく」やってるんだろう?

そこで改めて考えてみると、それはつまり、コドモの時に誰もがなりたーい!と手を挙げるような職業のことを言うんじゃないだろうか。

ヒビキが以前、
「ママ、大人になったら何になりたい?」
と聞いたように。

もちろんイトイ氏は、そういう職業だからといって「不本意じゃない」のではなく、やっぱり「不本意なんですよ」と言っているのであるが、ちょっとそのことは置いておく。──置いておくことで、私は次の問題に専念できるからだ。誰もが「それだけにはなってみたい」という職業とは何であり、それにはいったい「誰がなれるんだろう」?

自分になれるかどうかとか、ちゃんと稼げるかとか、そういうことをあえてまったく抜きに考えてみると、「ミュージシャンになりたい!」というのはかなり有力なんじゃないかなあ、というのが、クラシックイタチのたどりついた答えである。

クラシックイタチのやつ、実はそんなに音楽家になりたかったの? と言われても、実はよくわからないのだけれども、潜在的というか、深層心理的というか、とにかく自分のさほど意識しないレイヤーで、そういう発動があるんじゃないか。それはつまり、クラシックイタチに限ったことではなくて、たとえば一方で「サッカーの選手」や「宇宙飛行士」があるように、「ミュージシャン」もまたかなりひろく「かっこいい」と同義なのではないか。(だから、なれそうな確率とは関係なしに考えての話ですってば。)

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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清塚効果、ふたたび。

2008-06-29 | ピアノ
ピアノやバイオリンにコドモの頃から、それ専一に取り組むというのは、どういうことなんだろう。このギモンが今までなかなか解けなかった。

「ヒビキは演奏家になるのかなあ」
と夫は呑気だが、要するに私たちは両親して、ヒビキは演奏家になるかもしれないし、ならないかもしれない、と放置してきた。でまあ、これからもそうなると思う。

だが一方で、なぜコドモを演奏家にすべく取り組まないのか、という問いに対して、これまでうまく答えられないで来たのも事実だ。実際、それについてはよく、軽く聞かれるのである。
「ヒビキくん、ドラマーになるの?」

するとコドモはよくしたもので、小学校2年生ぐらいでは、親の心証をただ反映するのである。
「わかんない」

すると「そうかあ」とおとなは少し安心して引き下がる。まあ、ただ、このままではおそらくモラトリアムの無限延長戦という雰囲気でずっと行ってしまったりするのだろう。それはそれでたいへん問題だ。

「だけどさ、クラシックというくらいだから、クラシックな時代にはどうだったのかな?」
そう、歴史的方法である。いやもっと直接的には、清塚信也さんのインタビューを読んで、感じたことがきっかけとなって、そのギモンが、なんだか少し解けそうに思えてきたのである。

[コドモの時から専一に取り組むってどういうことなんだろ]
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もうひとつの発表会。

2008-06-27 | コレクション
先日、ヒビキが近所にある地域の体育館で受講しているコドモたちのダンスクラスで、プチ発表会があった。J-POPSにのった簡単だがコドモにもその意味がわかりやすい──万歳とか、冒険して眼下を見下ろすとか、手を振るとか、ぷるぷるからだを動かすとか──音楽を聴けば自然と体が動けるような振り付けをしてくれ、月4回の3ヵ月・計11回で、全員が2曲踊れるようになっての第12回目の最終日、晴れての発表会である。

発表会といっても、なにもいつもと変わらないので、先生がおまじないの腕輪のひもを用意してくれ、白い線をひいただけの舞台で、でもこどもたちは一生懸命に踊る。



親たちのなかではいささか年寄りのクラシックイタチには、もちろん不満もある。例によって「発表会」への親たちの過剰な反応だ。よく見ればコドモたちだっていつもと違う衣装を着ている。たとえばすてきなワンピースの女の子。しかしなんで「ワンピース」なんだろう(J-POPSだと知らないのか?)。それからなんだかクラシックバレエふうのコドモもいるのだが、しつこいようだけどこのクラスは募集の案内の時からJ-POPSと書いてあったでしょう。

しかしまあ、そう他人のことを言ってもいられない。ヒビキの場合は
「曲が、前回よりあんまり。前回のほうがよかったかな」
と、今度はJ-POPSは理解しているけれども、踊りがそっちのけ。総じて言えばいろいろです、ということに終わりそうな気もする。

そんな中で、孤軍奮闘は、まり先生だ。非常に平易な、コドモが使うことばだけで、コドモと直接コミュニケーションしながら、レッスンを進める。コドモからの人気と信頼も絶大だ。「ダンスの指導」という要点さえのみこめるのかわからないような小さな子も含めて、最後は振り付けの形の美しさまで音源なしのカウントで指導されていた。極めて周到なレッスンへの準備と進行だが、それ以上にホレボレするのが先生の身のこなしだ。あんな強靱な背中は見たことない。ヒビキ、キッズダンスにもまた、とっても恵まれているのであった。

清塚信也さんのブログを読むと。

2008-06-26 | ピアノ
クラシックピアノの俊英、清塚信也さんのブログがあって、ということを、少し前にも書いたのだが、正直なところ、清塚信也さんのファンだけど、ブログはちょっとよくわからない、という人も案外多いのではないかと思う。一方、クラシックイタチこと私は──まだ生で演奏を聴いたことがないので──どちらかというと清塚さんのファンというよりも、清塚信也ブログのファンとさえ、言えるかもしれない。

私は音楽のことはわからないが──なら音楽ブログなんかやるなよ、と言われそうだけど──読むということについてなら少しはクラシックイタチならではの視点というか、こんなふうにも読めるんだよというような──わるい意味を含めて──独自の考えを言ったりすることができる、と思う。

清塚ファンの方がいらっしゃったら、参考にならないこともないかも、というような程度ですが、よかったら読んでいってください。

清塚さんのブログは──のっけからあまりにも単純で恐縮なのだけれど──「正直なブログ」である。「正直な」というのは、ここにはうそがない、と本人が思えるということである。しかも清塚さんのブログの場合、本人がそう思っている程度は、100%にかなり近い、と私は思う。

ところが、もう片方に、読者には案外こんな疑念もあるんじゃないかと思う。なぜ清塚さんが「正直な」ブログを書いているかという点で、「かっこいいと思われようとしている」という考えだ。それは誤解です。勝手に断言したりして申し訳ないけれど。

音楽家が自分がかっこいいと思うことだけをしないわけがない。……言い方がよじれてしまったが、つまり音楽家というのは自他共にかっこよくなければならない。したがって、ことはかえって単純なのです。自分をかっこよく見せるためのブログを書くってことは、かっこいいですか? 悪いでしょう? だからそういうことはしないのである。

だから、清塚信也さんはこんなことを考えているんだ~、というふうに安心してただ読むというのが、いちばんいいと思う。もしわからないところがあっても別に構わない。そういうところはあとになってわかるかもしれないし、違う考えを持つようになるかもしれないし。そんなふうに思いながら読んでいると、電車のレールのように交わらないふたつの道が、はてしなく長く、立ち現れてくる。一本は清塚信也の、他方はあなたのレールである。いや本当は二本とも清塚氏のレールなのだけれど、読んでいる束の間、一本貸してくれるのである。

ピッツァ、みたび。

2008-06-25 | 粉もの屋コレクション
白焼きといえばうなぎ、じゃなくてピザにもあるんですね。ちょうどピタパンみたいな感じで。トッピングがないと生地の中にある水分がどんどん抜けて、トースターから蒸気が吹き上がってきます。

これ、何かのヒント?

というわけで、まず白焼きで水分を飛ばしてから一度トースターから出し、トッピングを載せて、もう一度トースターへ。

これでカリカリの生地が完成しました。


トースターで、ここまで焦げた! というより、焦げすぎですが、まあ実験ってことで。


念願のマルゲリータ。今度こそカピトリーノ・吉川敏明氏のピザと比べてください。
(実際比べてみると──またしても全く違うんですが。)

しかしまあ、これでやっと枕を高くして「ピッツァはトースターでも焼ける」って言えそう。ふー。

ドラムとバイオリンの発表会2

2008-06-24 | バイオリン・レッスン
しかしよく考えてみると、ドラムとバイオリンの本番を同じ日に演る機会というのは、もしかしたら稀かもしれない。時が経ってから、そうだったそうだった、と思いだすような機会かもしれないと思えてきた。

親が年寄りだと、これだから困る。とも言うか。

しかし、ともかくヒビキはバイオリンのほうも、先生が「せっかくの機会だから」と熱心に教えてくださるので、ずいぶん音がよくなってきた。トリルもだんだんにナチュラルになってきたぞ。

しかしヒビキの練習ぶりを見ていて思うのは、やはり少なくとも音楽の場合は、ネガティブな動機では上達効率が悪そうだということだ。できない、できないということをバネにするより──というかあまりバネのようにしなやかに活用できそうもない──、できる、できる、という体験を増やしたほうが早そう。

ヒビキなんぞは、できなそうに思うとなかったことにしてしまう。それでその曲をなんどもなんども頭の中でリプレイして、できそうに思ったらやってみる。できそうと思ったテンポでやってみる。

クラシックイタチが小さい頃は、できないところはここ、ここと言われて、「部分練習」と無理矢理できるようにしてくるのが常──というか毎回できないのが常──だったものだが、なんだかとても古く、昔のことのように感じる。。。


昨年のエプタザールの発表会でもらった草花が、なぜか冬を越した。今夏も健在。

バイオリンとドラムの発表会1

2008-06-23 | ドラム・パーカッション
ドラムの発表会は、クラシックのピアノ、バイオリン、フルート等のエプタザール恒例発表会に参加させていただく形で、今年、ヒビキは3回目の参加になる。

そこでドラムセットというのもそぐわないというので、ドラムとはいっても毎年スネアソロで参加している次第。また昨年まではドラムの先生がカホンで応援してくれる構成だったのだが、今年はスネア1本になった。

先生方がすごいなあと思うことの1つは、この子だったらあと何ヶ月でこの曲が弾けるようになるだろう、という読みである。

これが大人であれば、今の自分の技量に沿っておけばよろしいわけだが、そういう意味ではコドモにとって半年はたいへん長く、ヒビキなんぞは人生の14分の1に相当する(!)というわけで、その間に進むことを大いに予定にいれとかなければいけないわけだ。

そういうわけで、今回はちょっと高度なスネアテクニック満載、という曲になったのだが、ちょうどヒビキ、ドゥドゥ・ニジャエ・ローズ・パーカッション・オーケストラ@関内ホールで石川直さんにであって、スネアの文法のようなものを感じとったらしく、それと新しいテクとが、うまく融合している。たとえば家では、スネアのバリエーション(変奏曲といいますか)を次々つくって叩いてみたりしているわけである。

しかもなんだかね、こういうチケットをつくって、椅子を並べて、最近購入の無印良品のスタンド型デスクライトで照明までして、親を招待してくれるのです。


こういうのはなんだね、たぶん、発表会だ、ステージだっていうのでやはり気分が盛り上がっているんだと思う。いいぞ! その調子!

ウィントン・マルサリスのSparksを遅回しで聴くと……

2008-06-22 | ブラスと笛
アップルコンピュータのCMソングだった、ウィントン・マルサリスの曲が、ウチではみんな大好きだ。
Wynton Marsalis "Sparks"

しかしこれ、いったいどうなっているのだろうという話になり、MDに録って遅回しに聴いてみたところ、目から鱗が落ちるような発見があったのである。

通常の速度ではわからない細部が、ものの見事に正確だったのだ。つまり、通常の速度では、ちょっと詰まったり、濁って聞こえるところが、ゆっくり聴くとちゃんと1音1音クリアな音の連なりになっていたのである!! なんと!!!

ウィントン・マルサリス。いったいどれだけすごいのか。

とにかく1回聴いてみてください。スティーブ・ガットのプレイもどうなっているのかわからないというんで、遅回しにしたものをYoutubeに上げてる方がいます。今となってはホントにわかるのだ、その気持ち。

じゃあなに、濁って聴こえたりするのは、演奏に私の耳がついていかないのか? というと、もうそうとしか言えない。

ところで発表会を控えたヒビキ、先だってのレッスンで先生に
「ねえヒビキくん、ゆっくりも時々弾いてみて」
と言われていた。ヒビキ、「うんうん」と大きく何度もうなづいていた。

演奏がよければ耳もいい、逆も真なり。なかなかキビシーのですねえ。

というわけで、まだまだピッツァを作る。

2008-06-21 | 粉もの屋コレクション

作りすぎました。


宿題のマルゲリータ。


アスパラでごろごろしてしまった。本当は今はちょうどホワイトアスパラの季節。


「SPAM」にそっくりな沖縄のわしたポークを使用。
塩味が強いので、カマンベールと両方では、やや強すぎ。

しかしどうしてもトースターだとカリッとした焼き上がりに欠ける。
温度をこれ以上あげることはできないが、水分を飛ばせば……。

ヒビキ、Youtubeデビュー!

2008-06-20 | コレクション
ついにYoutubeに動画をアップしてみました。しかし、今回は音楽ものではなく、グラフィックものです。


ROCKET ADVENTURE VOL.1


ヒビキが作った絵本を静止画の連なりで綴ったもの。全部で4巻まであります。現在動画化進行中。



ヒビキの古い動画もアップしたいのですが、MPEG1形式で、うまくMEPG4へ変換できない。なんでMPEG1でいけないのかというと、Macで動画を取り扱うベースがMPEG1の音声データを落としてしまうのだ。とここまではappleのサポートサイトで確認済み。

音がなければだめでしょ、やっぱり。

で、コンバータを探しているのだが、これというツールにめぐり逢えていない。こういう技術的な問題を結局は先送りするところに、クラシックイタチめ、さすが技術に弱いなと思わざるを得ない。時間がかかってもそれをやるのが好きなら出来てるだろうに。とほ。

粉もの屋は粉だらけ。

2008-06-19 | 粉もの屋コレクション
先日ヒビキに「プロまであといっぽぉ~」とからかわれた!? ピッツァに、リベンジ。このようにある時期、ある料理を、かなり集中的に作るというのは、なかなか貴重な体験でもありまして、いろいろイノベーションがあって楽しいのである。というわけで今回のできばえは、こんな感じ。



味がいまいちと思ったら、とりあえず塩味・甘味を投入せよ、と私の料理事典は命ずるので、チーズをカマンベールに、マリナーラソースをケチャップにしてやったのだ。なんたる邪道!

でもですね、これでわかったことは、なにかが足りなかったのではなくて、おそらくバランスだろうということ。特にトッピングに塩味のバランスをうまくもちこめば、だいぶ改善しそうである。

音楽だとあんなに弱いのに、料理だと“一家言”ふうなクラシックイタチ。曰く、

料理は失敗と成功の両方の経験の数。

そうなんですよ。料理本もよいが、因果関係の明かな響けブログの失敗談も、ぜひ参考にしてくださいね。

でもって粉もの屋と言えば、大ブレーク中の公認会計士・経済評論家の勝間和代さんの本、『勝間式「利益の方程式」──商売は粉もの屋に学べ!(東洋経済新報社)1,500円』。例によって夫が読んでいるのだが(私も読みました)、とりあえずピッツァを作るとなると、台所は粉だらけ。そう、粉もの屋の現場は粉だらけ、なのである。たとえば洗いカゴのグラスなんかもかなり粉にまみれますので、ご用心。

勝間和代のビジネス頭を創る7つのフレームワーク力 ビジネス思考法の基本と実践
勝間 和代
ディスカヴァー・トゥエンティワン

絶好調勝間和代さんのこちらが最新刊。一触即発のミリオンヒット、決定的一冊。

神童の親たちもきっと大変なんだな。

2008-06-18 | バイオリン・レッスン
そういうわけで発表会をきっかけに、いろんな話題をめぐってきたのだが、まあその、親という立場も端で見ているほどラクではないのだな、と気づいたのだった。

いや、私の場合はまったくラクをしているのだけれども、これが本気でコドモを音楽家にしたいと考えていたりしたら、他人事、コドモごとではないだろう。まさに親と子が一体となってがんばらなければならない。

音楽的に求められていることは、実際にやるのはコドモにせよ、できなければ苦しいし、やらなければ納得がいかないだろう。

神童の親たちは、音楽家にすべくコドモを育てていく。もちろんそれは音楽家に限らず、テニスプレーヤでもゴルフプレーヤでも、フィギュアスケートでも、およそいくらでもそういうジャンルはある。そういうジャンルでは、ほぼそのようにして育てなければ、神童を天才にすることはできないという状況にある。しかしだからといって、コドモ個人がまだ将来についてよくわからない年齢で、親が勝手に進路を決めるのはいかがなものだろうか、というギモンが私にはあった。いや、それは今でもある。

「両親が音楽家にしたいと希望していたから」
と音楽家たちは幼い頃を振り返る。その中に含まれるアンビバレントなもの──親の希望のせいでふつうの生活が失われ、親の希望のおかげで現在の自分がある──を、これまで私はうまくくみ取れていなかったことに気づいたのだ。そう、親は自分の憧れに対して子にすら負けていながら──つまり才能において明らかに子に劣っていながら──コドモの行く道を一緒に走り、闘い、進んできたのだ。それはそれで、たいへんな道だったであろうし、親それぞれに一筋縄ではないいろんな道であったろう。

そしてコドモがデビューするやいなや、親たちは退場し、かき消えてしまうのだ。

[発表会をめぐって]
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音楽は憧れだなあ。

2008-06-17 | バイオリン・レッスン
実際、バイオリンについては、例によって細かい表現についてしっかり指導受けていて、ヒビキはたいへんなことになっている。しかしヒビキはそうは捉えない。ふうん、みたいな顔をして、軽く「できる」と言う。それでいて、事の深刻さはよくわかっていて「そこはね、むずかしいんだよ」などと解説したりしたうえ、「ママ、発表会の時弾けるの? 練習しなくていいの?」などとおっしゃるのである。

やれやれ、これは要するに、私という一般人は、おんがく一家の蚊帳の外なのである。しかし先生に対してといい、ヒビキに対してといい、なんだってこう気後れするのかと考えると、発表会という慣れない本番へのプレッシャーもさることながら、やはり想像以上に、人にとって音楽とは大きな憧れなんだよな、と思われたのであった。

他のことは他人よりできなくたってなんとも思わないのに、音楽ができない、その核心が自分のうえに舞い降りてこないというのは、とってもショックなのだ。そのウラとして、音楽ができる、素敵にピアノを弾くとかバイオリンを弾くのは、大きな憧れなのだ。(あまりそうは意識して思っていなかったのだが。)

おお、クラシックイタチってのはやはり厄介な生き物だったのか。だが、むろん、憧れる対象がクラシックであることは必須ではないだろう。音楽の神はひどく冷淡に人を選別するので、人はミュージシャンをひどくうらやむのだ。それはいままで商業的な問題のように漠然と思っていたけれども、たぶんそうではなくてもっと根源的な、人間の音楽への渇望のようなものがあって……というように考えないと、納得いかないではないか、と思ったのである。

「そのわりには儲からないけどね」
と夫は言うのだが。

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クラシックイタチがはまったワナ。

2008-06-16 | バイオリン・レッスン
実は今月にはいって、私は大事なバイオリンのレッスンを連続2回も飛ばしてしまった。どうしてそのようなことが起こるのか、どう考えてもナゾなので、足元のところをカツカツと掘ったところが、思いもかけない自意識というワナにはまっていたことに気づいた次第である。

バイオリンの先生は、オーケストラの団員なので、毎日が本番だ。だからクラシックイタチのこの迫り来る焦燥は、先生にはわかるまい。そう思ったからか、どうなのか、真相は不明にしても、どうもそのあたりから「どうしよう」「弾けないかも知れない」、先生には「自分の悪いところが、どうしたらなおるのか見当もつかないかもしれない」というように悪循環していったらしい。

ちょっと待ってよ、バイオリンの先生がレッスンしてくださるのはバイオリンで、ピアノではない。それどころか、レッスン室には、よくあるようなアップライトピアノさえない。バイオリンの先生は絶対音感でその音程感といったら音叉のようなので、チューニングに際してもピアノなんか要らない。(というかよく誤解されているが、ピアノに合わせるのは、どちらかというとピアノと合わせて弾くためにバイオリンをピアノに合わせているのです。)それなのに、

レッスンに行きたくない!

これはふつうはコドモのセリフなのだが(実際にはコドモは順調)、親のほうで勝手に自意識が暴走し、ブレーキがかかってしまったみたいなのである。そんなに高度なことを求められるのはつらい、と(実際にはべーつに求められてない)。それでどうやら無意識のうちにレッスンがなかったことにしてしまったらしいのである。(そんなことあるかなあとも思うが、それ以外の原因は思いつかない。)

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発表会と七五三

2008-06-15 | おんがく
とある期間限定の音楽レッスンの発表会に、ヒビキがその生徒として参加し、クラシックイタチこと私が聴きに行ったことがある。その音楽レッスンは、期間限定だし、助成金の援助でレッスン料がタダだということもあってか、あるいは先生方がまったく初心者のコドモをあまり教え慣れていないためか、とにかくいろんな理由があって、はたから見ていても思うように上達しないまま、ともかく発表会を迎えたのだった。

発表会は、しかし、地方自治体のホールなども入っている建物の一室にある、素敵な和室で行われた。リハに遅ればせながら会場に着いてみると、いつものように雑然とはしているが、見事に着飾ってまるで七五三の写真を撮るために集まったようなコドモたちと、そんなにも関係者がいたのかと思われる父母や祖父母までがにぎやかに集まり、われがちに前へ出てビデオチェックしている。こんなにも熱意があったのか、と私は驚きつつ眺めながら、ふだんのレッスンではそうでもないのにな、と思わざるを得なかった。

私は最初、特にモチベーションのないコドモを集めて、ある期間内に、ある程度の、つまり聴ける音楽にまでもっていくのは、並々ではない、実にたいへんな仕事だなあと、意気に感じたのだった。ある程度音楽をやりたい、この楽器が好きだという子で、親も熱心に体力と知力をかけて個人レッスンに通っていたって、なかなかうまくいかないくらいなのだ。音楽、とくに素晴らしき音楽を普及させようというのは、非常に熱意の要ることだというのは、クラシックイタチも仕事を通じて少しはわかっているつもりでいた。

だが実際は単に期間が終了したということで、発表会が行われた。コドモたちはぜんぜん弾けなかったが、親たちは真剣な顔でビデオを回している。演奏が終わり、着飾ったコドモたちは上気してポーズをとっている。

ちょっと待ってよ。音楽のない音楽の催しなんて意味ないよ。そのくらい、イタチにだってわかる。

要するにこれは、発表会というハレの機会が重要なのであって、音楽はおまけというくらいのつもりでおけ、ということなのだと思われた。それで何が面白いのかといえば、もちろんその「ハレ」が面白いのである。音楽じゃなくてちびっこ相撲でもお祭りで御神輿を担ぐのでもほとんど同じというわけである。ただ同時に保育園の遊戯会のようなものでは、誰がいい役をとるかで多少は揺れるよなあということも思いだされた。芸能は音楽より一般的で、よりなじみ深いのかもしれない。しかし今日はもうとにかく、歩き始めた赤ん坊のように、そこ、ステージの上に立っていてくれるだけで褒めてあげようという勢いなのだ。

そんな時でもヒビキは、文句も言わず、この日をもっと楽しい日にしようと努力していた。

建物を出ると私と夫はもうほとんど憂鬱になっていたのだが、ヒビキは他のコドモたちとおにごっこをしようと自分から仕掛けて、誘っていた。石のレンガに囲まれた、冬場の枯れた池と、女性をかたどった銅製の彫刻の間を、鮮やかなコドモたちがひらりひらりと舞っていた。

[発表会をめぐって]
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