響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

チャカカーンの朝。

2016-05-23 | おんがく


寝起きのあまりよくないヒビキだが、今朝はおうた付きでリビングに登場(ということはよくある)。晴れた朝。日中の最高気温は30度との予報も出ている。そんな今日の曲目は「Chaka Khan - Through the fire」。

なるほどー。

というのは、朝といえばペールギュント、ペールギュントの朝といえば、朝の曲としか思えないよね、と以前ヒビキと話が合ったのだったが、朝といえばチャカカーンというのもあるのか、と私は思ったのだ。ヒビキがこんな朝らしい朝にうたっているわけだから、それは「朝らしい」に他ならない。

それで家を出てからふと、以前から、もうずっと以前にこの曲を聴いたときから気になっていたことがあったことに改めて気がついた。

Chaka Khan - Through the fire - YouTube

イントロが印象的な曲だが、どちらかというと平凡な譜面でありそうなのに、なんでこの曲だけが印象的なのか? どうしてあまりに記憶にのこるのか? という疑問である。さて、私の当座の答えは、高音部が高すぎ、低音部が低すぎ、つまり「ダイナミックレンジ(使用音域というほどの意味)のあり方がへんじゃないか?」というものだった。2つの部分が調和しているが「離れ過ぎている」。ブラックミュージックというと、リズムばかり語られがちだが、ひょっとしてダイナミックレンジの使い方にも特徴があるのではないか???……等々。

聴いてみると、イントロは確かに高すぎる伴奏と、低すぎる伴奏の、ちょうど空いた中間層に、チャカカーンの声が入って来る、というしくみになっている。そしてボーカルは、思ったよりも低い。これはまさに──たとえがとても特殊だけれども──小田原の中腹から、朝の酒匂川を見下ろしているような気分だ。ちなみにビデオクリップもイントロはかなり壮大な俯瞰だった(ビデオクリップはほぼまったく覚えていなかった。オレンジな髪、という以外は)。

というのも、朝といえば、日本語に親しんだ者には「春はあけぼの」という連想の束縛が強い。やうやう白くなりゆく山際というのは、コントラストであって、地上の重く黒い部分と、薄雲のたなびく高い部分の「二層構造」というのが言い当てられているところであろう。その二層構造が、チャカカーンのこの曲のイントロのふしぎなダイナミックレンジなのではあるまいか?

さらに聴いてみて、どうしてそのように伴奏が低すぎ、高すぎるのかと考えてみたのだが、要するにチャカカーンの歌う音域が広すぎるから、のようだ。十分広く道を空けているわけだが、それでも声はしばしば、伴奏の砦を突破する。自由に乗り越えるしなやかなボーカルは、高い側であれ、低い側であれ、突破するたびに人間の身体性・精神性を拡張する。特に高い側に息苦しさがないために、高いことに特権がなく、二層構造はいずれもチャカカーンを真ん中にして平等である。

もう一度、イントロを聴いてみる──「ボーン」という低音と「シードシード」というフレーズがパラレルに、しかし通常+1.5オクターブぐらいの間があるでしょ、というほど離れて流れていく。そう、この二層構造が、朝たるゆえん。

というわけで、今朝は「コグニティブ」というテーマでお届けしました。(笑)