というわけで、ふたたび舞い戻るようにして、サーカスのお話。
少し前にニクーリンサーカスへ行ったという話を書いたのだけれども、隣に座って、私とヒビキが間違った番号に座っている、と主張していた二人連れのおばさんがいて(結局は案内員の間違いだった)、そのうちの一人がサーカスの途中でどうかしたのかというくらい笑い続けていて、それが動物芸の演し物だった。
私たちが見たのはイヌとクマの芸だった。その毛並みのあまりよくないクマを見て、そういえば「ボリショイサーカス」といえばこのクマだったなあと思い出した。そのクマがこんな目の前に「日常感覚」でいるなんて信じられないよなー、と思ったのだ。
そのおばさんももしかしたら、長い間潜在的に抱いていた、つまりクマを見たいという夢が叶ったのかもしれない。(ほんとうにクマなのだろうか、と私たちは思ったものだ!)でもそれにしても、そんなふうにいつまでも笑ったら、そこで生命の火が消えてしまうのではないか。そのくらい必死に、おばさんは笑っていた。
ロシアのサーカスでは動物は目玉のひとつだが、シルク・ド・ソレイユは動物を使わない。
だが、私にとっても、思った以上に動物芸はいいものだった。動物たちは淡々と仕事をしていて、それは動物園における動物ショーの流れと軌を一にしているように思われた。動物たちは自分たちがある役割を果たしていることを知っている。池袋サンシャインのアシカショーも、旭山の餌タイムも、人間のように意味をやりとりしているのではないとはいえ、コミュニケーションがとれている感じを、人は持つ。サーカスのクマもイヌも──調教師と猛獣という役回りではなく──そういう関係性に見えた。
それと、やはり動物の動きは目新しい。どんなに活発に動いても人間の動きは予想可能な範囲にあり、すごいアクロバットも次第に見慣れてしまう。そういう動きのテンポが、動物はまったく違うのが──つまり寄席で言えば色物みたいに──面白いのだと思う。考えてみれば、サーカスというのは、もともと、こういったことを見せるものだったのだろう。より大きな構成や展開や演出やテーマではなくて、身体性や見ることや、なぜおかしいと思うかや、なぜびっくりするか、といったことだ。
でももちろんだからといって、大きな構成や展開や演出やテーマがあればあったほうがいいかもしれない。なにしろ初めてニクーリンサーカスを一度見たというだけだから、わからない。
さて、なぜロシアのサーカスを「ボリショイサーカス」と呼ぶようになったのか、について答えが見つかった、その本を紹介いたします。これによれば、ある世代の日本人には同じように懐かしい!?「ロシア民謡」も、1956年に本格的なブームとして渡ってきたそうである。
こちらからも買えるそうです↓
『ボリショイサーカス』発刊のお知らせ
http://homepage2.nifty.com/deracine/circus/circus/bolishoi.htm