今年の年末はどうも、私ことクラシックイタチの考え方が変化しつつあるのを感じる。しかもかなり、ドラスティックに。
ひとつには、明らかにこれはやっぱり歳のせい、なのである。いろんな興味へ向けてさまざまな細い枝を伸ばしていた青年期から、要らないもの、使う頻度の少ないものは刈り込んで、よく使うものは、ちょっとやそっとでは間違えない、“目をつぶってでもできる”というように、その枝を強く太く成長させる。太くするには、要らない枝を刈り込まなければならないのは、樹木の剪定と同じだ──というのは、よく脳の発達の説明に使われる図式だが、このイメージこそ、まさにぴったりとリアリティを持って当て嵌めることができる。
・私の場合であれば、この「クラシックイタチ的」に刈り込まれた「個性」を使って仕事していくこと、が大切である
と同時に、それだけではどうも間に合わない、そんな状況に置かれているという気も大いにする。作り上がった木は、自分の過去を反映している。剪定する過程はすなわち、過去の状況から自分が体験として選んだ道だからだ。ここへどう未来を持ち込み、新しい状況に対応していけばいいのだろうか? しかもいろんな意味で──たとえばちょっと考えても経済の状況とか(詳しくないけど)技術の発達とか──新しい状況というのはこれからどんどん来そうではないですか。
・細い枝も大切である。じゃんじゃん伸ばしてしまえ。
そうなのだ、シロウトの逆襲というものも、なかなか捨てがたいパワーを秘めているのである。もちろん、どれだけ新しいことができたのか、またそれになんか意味があるのか、という点では、やはりはなはだギモンなことも多い。しかし昔から「年寄りの手習い」などと言って、新しいことを始めるのを推奨するコトバがあるのも、何かの縁であろう。
今までの私だったら、そんなのあまりにめんどくさい、と思った、と思う。
ところで夫のアマチュアリズムというのは、実際に経験として、いったんプロフェッショナルを経由して回帰したものであるので、今日の私の話と軌道は合っている。それはそれで貴重な教訓だと思う。だが体験から機能を抽出して「ツール化」するというのは重要な技法であって、応用範囲が広いといった利点もあるんですよ、これが。