カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

韓国の醜聞258 李光洙の叫び

2017年08月30日 18時40分12秒 | アジア

たとえそれが、事実であろうとも、なかろうとも、誰にも醜聞があります。ここでは最近の「韓国の醜聞」を集めてみました。必要な方のために出典も明示し、あればリンクも提示しています。


もし、李光洙が日本人であったら、おそらく日本では大革命家としてもてはやされたと思われる。なぜかといえば、日本はこのような批判を受け止め、反省する風土をかねてから備えているからである。19世紀末から、あれほどの日本国民性批判、分析の論著が出ても、今もなお洪水のように出ていることが証拠である。

皮肉にも、韓国では昔から、自民族反省、批判はタブーであったし、それは首を飛ばされる覚悟を要することだった。批判は嫌われ、批判者当人も世間全体から嫌われる存在として、貶(おとし)められてきた。
そして、他国や他民族を批判した本は韓国では大人気であり、それは『日本はない』とか『皇太子妃拉致事件』とかいったくだらない本がベストセラー、ロングセラーになるのを見れば、容易にわかる。:金文学「反日という甘えを断て」祥伝社黄金文庫


朝鮮半島に生まれた李光洙(イ・グァンス 1892-1950)は

東亜日報(編集長)を経て朝鮮日報(副社長)へ移った作家でした。

  • 自国に対する批判は不可能
  • 他国に対する批判は大人気

朝鮮半島は、そうした攘夷の地域だったし、100年後の今でもなお攘夷でした。よって今も昔も、現状を変えようとする「能力ある人」が伝統的に「売国奴」とみなされています。

  1. 自国批判をしたとんでもない李光洙が「売国奴」だったのか
  2. 李光洙を「売国奴」と呼んだ人が実は「売国奴」だったのか

これは皆様が判断することです。←と言いながら後者に近づくよう誘導している・・・(笑)。

このようなことは、しばしば見られます。

アメリカとメキシコの国境に人が行き来できない壁を

  1. 作らなかった今までのアメリカ人たちが「売国奴」だったのか
  2. 作ろうとしているトランプとその支持者達が「売国奴」なのか

私は「壁建設の財源確保のためなら連邦政府機関閉鎖も辞さない」と威嚇するほどの問題ではないと思うのですが、「自分の公約が議会や法を上回る」と考える愚かな人なら言い出しかねません(笑)。←もう言ってますよ!

その1 その2 その3   


李光洙は

半島人自身を救うのは、けっして自由でも独立でもない。勤勉と努力である。彼らはいたずらに半島の独立を叫ぶよりも、まず精神の独立を図らなければならない」

と『朝鮮の生活と文化』で声高く主張した。:金文学「反日という甘えを断て」祥伝社黄金文庫 


昔から朝鮮半島の人たちは

いいも悪いも「精神の独立」がないまま「自由や独立」を叫んでいたようです。

そういう目で見ると、今の韓国で政権が代わるたびに、なぜ大きく豹変するかも分ってきます。はっきりした「精神の独立」がなく「責任はいつも相手にある」という伝統を守っている限り、「100年前と変わらない改善のない豹変」を繰り返すだけなのでしょう。

これは中国にも言え、共産党が異論を排除する範囲内で豹変を繰り返すだけでしょう。

中国共産党員(8000万人)が、総選挙のないまま報道規制・言論弾圧で13億人の中国人を支配している限り、「この国がまともな国へ生まれ変わることは永遠にない」と断言できます。

地政学的に微妙な場所にあるとはいえ、いまでも朝鮮半島では精神の独立」がないまま、ある時には中国の言い分を認め、別の時にはアメリカの言い分を認め、結局矛盾だらけの約束をしてしまうのです。

言い替えると、国民が自分の意志表明ができないのと同様に、国が自分の意志表明さえ、できないのでした。

精神の独立」とは、自分なりの考えをもつ、ということで、そうなれば自ずから「他者」や「他国」を尊重するようになり、必然的に「世界中」からも尊重されるのです。

しかし朝鮮半島では、それが今でも、まったくできていないのです。

朝鮮半島の現状をみると

朝鮮半島にも立派な人はいたのですが、社会がその存在を許さないというのでは、不幸としか言えません。

自国に対する批判を受け入れるだけの多様性

朝鮮半島の将来は、この1点にかかっているのであって、「右や左の旦那さま」「北や南の旦那さま」は、どうでもいいのです。「東西南北」と言いますが「左右南北」と言い替え、全体主義風民主主義風にわけるならば、「」「」「」「」なんでしょうか。

はたして朝鮮半島人が「批判を許さない体質」から抜け出せるかどうかですが、私は「50年以内には実現しないだろう」とみています。

福沢諭吉は

一身独立して一国独立す」と「学問のすゝめ」で言ったとのことですが、「個人が勤勉と努力によって独立しなければならない」という意味でしょう。

私は、親族や国家、あるいは隣国に頼っているようではいけないどこかに自分なりの考えをもちたいもの、と解釈しています。:その1  

つまり当時の朝鮮半島人として「国の独立」が緊急に必要だったのではなく

それ以前に「勤勉と努力」が必要だった

というのが李光洙の指摘で、100年後の今も韓族に欠けているところです。

  • 自分には責任がない。
  • 新しい考えや技術は他人からパクればいい。

セウォル号事件に見られる通りの「責任転嫁(自分には責任がなく相手に責任がある)」、知的財産権意識がない(必要があればパクればいい)などから、朝鮮半島に明日がありそうには見えません。

威嚇されて従順になったり、威嚇されて反発する、だけの情緒的民族に成り下がっている。

自ら未来を切り開く意志がみられない。

そういう窮地にこそ、「反日」が唯一の挙国一致なんでしょうか(笑)。

こう心配しているのですが

北朝鮮のミサイル威嚇に対して「どうでもいい症候群」に陥っているのも、その一種なんでしょうか。

さてさて、皆様はどう思われますか。


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