たとえそれが、事実であろうとも、なかろうとも、誰にも醜聞があります。ここでは最近の「韓国の醜聞」を集めてみました。必要な方のために出典も明示し、あればリンクも提示しています。
もし、李光洙が日本人であったら、おそらく日本では大革命家としてもてはやされたと思われる。なぜかといえば、日本はこのような批判を受け止め、反省する風土をかねてから備えているからである。19世紀末から、あれほどの日本国民性批判、分析の論著が出ても、今もなお洪水のように出ていることが証拠である。
皮肉にも、韓国では昔から、自民族反省、批判はタブーであったし、それは首を飛ばされる覚悟を要することだった。批判は嫌われ、批判者当人も世間全体から嫌われる存在として、貶(おとし)められてきた。
そして、他国や他民族を批判した本は韓国では大人気であり、それは『日本はない』とか『皇太子妃拉致事件』とかいったくだらない本がベストセラー、ロングセラーになるのを見れば、容易にわかる。:金文学「反日という甘えを断て」祥伝社黄金文庫
朝鮮半島に生まれた李光洙(イ・グァンス 1892-1950)は
東亜日報(編集長)を経て朝鮮日報(副社長)へ移った作家でした。
- 自国に対する批判は不可能
- 他国に対する批判は大人気
朝鮮半島は、そうした攘夷の地域だったし、100年後の今でもなお攘夷でした。よって今も昔も、現状を変えようとする「能力ある人」が伝統的に「売国奴」とみなされています。
- 自国批判をしたとんでもない李光洙が「売国奴」だったのか
- 李光洙を「売国奴」と呼んだ人が実は「売国奴」だったのか
これは皆様が判断することです。←と言いながら後者に近づくよう誘導している・・・(笑)。
このようなことは、しばしば見られます。
アメリカとメキシコの国境に人が行き来できない壁を
- 作らなかった今までのアメリカ人たちが「売国奴」だったのか
- 作ろうとしているトランプとその支持者達が「売国奴」なのか
私は「壁建設の財源確保のためなら連邦政府機関閉鎖も辞さない」と威嚇するほどの問題ではないと思うのですが、「自分の公約が議会や法を上回る」と考える愚かな人なら言い出しかねません(笑)。←もう言ってますよ!
李光洙は
「半島人自身を救うのは、けっして自由でも独立でもない。勤勉と努力である。彼らはいたずらに半島の独立を叫ぶよりも、まず精神の独立を図らなければならない」
と『朝鮮の生活と文化』で声高く主張した。:金文学「反日という甘えを断て」祥伝社黄金文庫
昔から朝鮮半島の人たちは
いいも悪いも「精神の独立」がないまま「自由や独立」を叫んでいたようです。
そういう目で見ると、今の韓国で政権が代わるたびに、なぜ大きく豹変するかも分ってきます。はっきりした「精神の独立」がなく「責任はいつも相手にある」という伝統を守っている限り、「100年前と変わらない改善のない豹変」を繰り返すだけなのでしょう。
これは中国にも言え、共産党が異論を排除する範囲内で豹変を繰り返すだけでしょう。
中国共産党員(8000万人)が、総選挙のないまま報道規制・言論弾圧で13億人の中国人を支配している限り、「この国がまともな国へ生まれ変わることは永遠にない」と断言できます。
地政学的に微妙な場所にあるとはいえ、いまでも朝鮮半島では「精神の独立」がないまま、ある時には中国の言い分を認め、別の時にはアメリカの言い分を認め、結局矛盾だらけの約束をしてしまうのです。
言い替えると、国民が自分の意志表明ができないのと同様に、国が自分の意志表明さえ、できないのでした。
「精神の独立」とは、自分なりの考えをもつ、ということで、そうなれば自ずから「他者」や「他国」を尊重するようになり、必然的に「世界中」からも尊重されるのです。
しかし朝鮮半島では、それが今でも、まったくできていないのです。
朝鮮半島の現状をみると
朝鮮半島にも立派な人はいたのですが、社会がその存在を許さないというのでは、不幸としか言えません。
自国に対する批判を受け入れるだけの多様性
朝鮮半島の将来は、この1点にかかっているのであって、「右や左の旦那さま」「北や南の旦那さま」は、どうでもいいのです。「東西南北」と言いますが「左右南北」と言い替え、全体主義風と民主主義風にわけるならば、「左」「右」「南」「北」なんでしょうか。
はたして朝鮮半島人が「批判を許さない体質」から抜け出せるかどうかですが、私は「50年以内には実現しないだろう」とみています。
福沢諭吉は
「一身独立して一国独立す」と「学問のすゝめ」で言ったとのことですが、「個人が勤勉と努力によって独立しなければならない」という意味でしょう。
私は、親族や国家、あるいは隣国に頼っているようではいけない、どこかに自分なりの考えをもちたいもの、と解釈しています。:その1
つまり当時の朝鮮半島人として「国の独立」が緊急に必要だったのではなく
それ以前に「勤勉と努力」が必要だった
というのが李光洙の指摘で、100年後の今も韓族に欠けているところです。
- 自分には責任がない。
- 新しい考えや技術は他人からパクればいい。
セウォル号事件に見られる通りの「責任転嫁(自分には責任がなく相手に責任がある)」、知的財産権意識がない(必要があればパクればいい)などから、朝鮮半島に明日がありそうには見えません。
威嚇されて従順になったり、威嚇されて反発する、だけの情緒的民族に成り下がっている。
自ら未来を切り開く意志がみられない。
そういう窮地にこそ、「反日」が唯一の挙国一致なんでしょうか(笑)。
こう心配しているのですが
北朝鮮のミサイル威嚇に対して「どうでもいい症候群」に陥っているのも、その一種なんでしょうか。
さてさて、皆様はどう思われますか。