高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

川越さん逝く

2018-04-09 11:04:23 | 日記

4月6日、とばくんと樋口さんから 川越昭夫さんの訃報が届いた。山登りの大先輩だ。70代になっても山のガイドを続けられていて、数年前にお客さんを連れて黒松内岳に来られたおりに偶然にも黒松内の道の駅でお会いし、下山後に自然学校に見学によって頂いた。 その直後だったんだな、体調を崩されて入院されたのは、長い闘病生活だったそうだ。でも、今のアタシの現場を見てもらい本当によかった。

私と川越さんとの出会いは、私が20歳の時だ。 一浪して、北海道大学に入学し、高校山岳部に所属していた私は大学に入ったら本格的に山登りをやろうと考えていた。 山岳部やワンダーホーゲル部の部室を訪問したりしたが、何かいちばんしっくりと肌身に合ったのが、山スキー部であった。まったくスキーができない私だが、スキーを使った山岳登山というのが北海道らしくて良かったのだろう。10名ほどの新入部生がいた。 初のゴールデンウィークの新人合宿は札幌近郊に管理する山小屋がある無意根山だった。荷物を背負ってのスキーでの登下降は悲惨だった。特に下りは数メートル滑れば転倒。精根尽き果てて下山をした。

ところが、その合宿直後に母親が倒れたとの連絡が実家から来た。くも膜下出血であり、すぐに脳死状態を宣告された。その看病のために私は大学を休学することになった。そして、即帰郷。おふくろは年を開けた10ヶ月後に他界した。やり場のない虚無感を抱えながらも翌春に復学した。山登りを再開しようと部室には顔を出したが、昨年同期の1年生は日焼けした顔でたくましく、新たな新人を迎え入れようとしていた。どうしても再び1年生から再スタートをする気にはなれなかった。

で、それは、当時、川越さんが会社をやめて起業した山の道具屋「ダケカンバ」が開店した春でもあった。なんとも気力喪失している私は、ブラリブラリとそこへ出入りするようになった。川越さんはほどなく、デンジャーサービスという危険な作業を請負いますという仕事も始めていて、その補助アルバイトをするようになった。 古い倉庫の屋根から下がる巨大な氷柱落とし、住宅と住宅との間に立つ樹木を上部から少しづつ切り落とす仕事など、特にゴルフ練習所のネットの補修仕事やビルの窓ふき掃除は毎日のようにあった。 ビルの窓は2,3人が乗るゴンドラで作業員が拭くのが一般的であったがコストが高い。ひとりがブランコに乗って外側から拭く仕事のやり方は、それよりもコストが安く、今では春先に札幌ではよく見る風景だが、このサッポロデンジャーサービスがそのノウハウを登攀技術を応用し確立したと言っても過言でないと思う。 これらのアルバイトをしては金をため週末は山登りにでかけるという生活が始まった。(おかげで、大学は留年もしたが・・・) 山岳ガイドという仕事も川越さんらが始めた仕事であり、その後、北海道山岳ガイド協会を立ち上げて、私も初期のメンバーであった。

氏の所属する社会人山岳会である、札幌山岳会へ誘われて当然のように入会した。 そこで出会ったのが菅井真理子さん、つまり、今のカミさんだ。だから、川越さんとの出会いがなければ、MRKさんとも出会うことはなかったかもしれないのだ・・・。

川越さんとは大きな山行はなかったが、岩登りのトレーニングはよくごいっしょさせてもらい、厳しく指導して頂いた。 やや自信も着いた頃に、岩登りのゲレンデある小樽赤岩の東大壁の冬、北大ルートを登攀しに行った。大先輩の川越さんと平川さんがザイルパートナーであった。ルートは大壁の真ん中あたりに横に走るバンド(足の裏2つ分くらいの幅の長く走る段状)が取り付きで、そこはすでに基部のガレ場から2,30mは高い。取り付き点から2ピッチ目に、垂直の壁が手前にせり上がったオーバーハングがある。 トップで登っていた私はその難所がどうしても乗り越えられず、腕を伸ばした岩の割れ目にアイスハーケンをなんとか打ち込んだ。そこへカラビナをかけロープを通して、いざ、「行きます!」と確保してくれている川越さんに合図を送り、乗り出した。

打ち込んだハーケンが目の前に来る位にカラダを登り上げた時、それはスローモーションを観るように目の前で起こった!!打ったハーケンが抜けてきたのである。 ハーケンにはカラビナにかけたロープが私の身体に繋がっている。なので斜め手前の各度に荷重がかかるので、そのハーケンが抜けた瞬間には、下方に落下するのではなくて、岩を蹴って空中に飛び出すように落下し始めた。 その下のハーケンもピン、ピンと跳ね上がるように2本が抜けたのを見たか感じた。 左下方の1ピッチを切った岩棚で確保してくれている両先輩が大きな目を見開いてわたしを見ている視線とぶつかった!! 私はそれより下へと落下し、みるみるうちに基部のガレ場(大小の岩が集積している)に突入して行った。が、一本のハーケンが持ちこたえて、川越さんの制動確保が効いた!! ちょうど取り付き部のバンドに膝を激突させて落下を停止させることができた。2ピッチ目から取り付き点の高さまで落下したので、都合30m位の落下であった。  それから、基部まではロープで引きづり降ろされた。 膝をぱっくりと挫傷した。止血応急手当をしてなんとか登山道まで戻った・・・。

であるので、川越さんは、言葉のままのホントの命の恩人でもある。 その後に続く、私の登山ガイドから自然ガイド、自然学校の運営に続く人生に多大に影響を与えてくださった大先輩であった。 その川越さんが逝った・・・・。 享年80歳。

まだまだ、私も頑張らねばなあ・・・。 ご冥福をお祈り致します。 合掌。

もう、40年来お会いしていなかった当時の大先輩諸氏とも再会ができた。 お葬式とはこういうご縁の行き交うところ、確認し、感謝する場でもあるのだなあ・・と、若い頃には感じなかったような「大事さ」を思うようになりました。

ならんで写真を取ると、私よりも一回り以上うえの大先輩方なのに、容姿風体だけは見分けがつかないなあ・・どういうこと?? 

 

 

 

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1 コメント

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ありがとうございます (ふきこ)
2018-04-15 11:09:46
先週はありがとうございました。よく高木のはる、と呼んでいたのを思いだしました。お母様をくも膜下で亡くしていたのですね。母も同じ病気で2011年に亡くしたので衝撃は言葉にならないですよね。私がまだ中学生だったので北大生だった高木さんのその頃はうろ覚えですが、昔のエピソード読めて感動しました。

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