ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

青森県深浦町、深浦浜町「真言宗醍醐派 春光山 円覚寺」です!!

2023-06-30 06:32:41 | 文化財・寺社
 深浦浜町は、深浦町役場の南西約1kmのところ

 深浦町役場から国道101号線を南へ深浦漁港を回り込むように進むと

 消防の屯所の先を斜め左に入ると

 円覚寺の山門(仁王門)前です

 左に進んで、旅のオアシス風待ち館の駐車場に入りました、まずは「川原町のイチョウ」を見て来ました


 附近の案内図です

 円覚寺山門(仁王門)です

 真言宗醍醐派 春光山 円覚寺です

 説明版です
   円覚寺(真言宗醍醐派)
 本寺は大同2年(807)に坂上田村麻呂が聖徳太子作十一面観音像を安置し、創建したと伝えられる。
 貞観10年(868)に円覚法印により再興され、その後、豪族や弘前歴代藩主の厚い庇護を受けていたことが文献等に記されている。
 海上交易が盛んになると海上の安全を祈願する船乗りが数多く参詣し、船絵馬や髷額を奉納して澗口観音として信仰を集めた。これらは、室町時代初期の作と言われる薬師堂内厨子とともに国の文化財に指定されている。

 仁王様です

菅江真澄の道(春光山円覚寺9の標柱です、文面には・・・寛政9年(1797)2月10日(「つがるのおち」)、この寺で語り暮らした真澄は、「春雪にふり埋もれたる雪の梢」を眺めて次の一首を詠む・・・
  木々の芽も 春の光の やまのはは 花とみゆきの 霜も長閑さ

*秋田では彼方此方に菅江真澄の足跡を辿って来ましたが、青森の西の端にも彼の足跡を見るとは驚きです

 円覚寺略記です
 「津軽一統志」に、次のように書かれています。
 「大同2年(807)、征夷大将軍・坂上田村麿、観音堂をこの地に建立し、厩戸皇子の妙巧なる十一面観音像を安置す。今の本尊これなり」と、
 その後、貞観10年(868)、泰澄大徳の弟子・浄定行者の末弟の円覚法印が、修験道(山伏)を奉じ、諸国の霊山を遍歴して、この地に来て「観音堂」を再興しました。
 円覚法印は、大和国(奈良県)の人で、寺号の「円覚寺」は開山の「円覚法印」の名前から付けられてのです。
 当寺は、当山派修験(真言宗の山伏)の寺院で、「お葬式」をする寺ではありませんでしたので、江戸時代、幕府の「檀家制度」の発布後も、「檀家」はありませんでした。
 それで、江戸時代以前は、各時代々々の豪族の帰依をうけ、江戸時代には、津軽藩主の庇護によって続いていたのです。
 「深浦」は、上方(京大阪)と蝦夷地(北海道)を結ぶ経済文化の大動脈「北前航路」の蝦夷地へ渡る最重要港でした。
 そのため、ここの「観音様」は「澗口観音」と称されて信仰されました。
 「澗口観音」と云うのは、澗(港)の入り口にあって、海上安全・商売繁盛の御利益のある観音様と云うことです。
 事実、数々の「船絵馬」「髷額」<国重要有形民俗文化財>や「奉納品」がその事柄を物語っています。
 明治5年(1872)新政府による「修験道禁止令」の法難の嵐によって、全国の多くの修験寺院は消えて行きましたが、当寺は生き残り、真言宗醍醐派末寺の「祈祷寺」として現在に至って居ります。
 本堂の後ろに、「寺宝館」(篤学館)があります。
 国指定文化財「船絵馬」「髷額」(106点)や県指定の文化財、また当寺26世・義観僧正の仏道修行の遺品の数々が展示されて居ります。
 中でも圧巻は、僧正が日露戦役の両国殉難者供養のために、5ヶ年費やして、全国有信男女8万4千人の毛髪を以て刺繍した「八相釈尊涅槃図」でしょう。



 境内社です

 北端の祠です


 海南供養碑です

 宝篋印塔(青森県重宝・建造物)です


 本堂(観音堂)です

 拝殿軒下の鰐口です


南側の弁財天堂です

 では、次は境内の「竜灯杉」と「イチョウ」を見て行きましょう

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