ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

2022桜、埼玉県富士見市「難波田城址公園の桜と荒川堤防周辺の春」です!!

2022-03-31 16:37:42 | 
 2022年3月31日、年度替わりです

 埼玉県富士見市の難波田城址公園へ桜を見に行ってきました
 
 公園の駐車場を利用して、資料館や古民家ゾーンも見て回りましたよ


東側からの入り口です

案内版です


城内の桜はまだ五分咲きのものが有ったり、散り始めているものが有ったりしています

青空が綺麗です

公園北端に「難波田氏館跡」の石碑です、城跡の北半分は住宅地になってしまっています




午後遅くなると寒冷前線が通過するようなのでまだしばらく見られそうです

難波田城資料館へ行ってみましょう

紅枝垂れもまだまだ見られそうです




常設展示の難波田城の歴史です

城跡から出土した「板碑」の展示です

特別展として「鷹場の村々」の展示が行われています、徳川将軍家や大名などの「鷹狩」のために、日々の生活を制限された当時の農民の生活が偲ばれました。


古民家ゾーン「旧金子家住宅」です

売店もあります



更に西側には長屋門です


門を入ると、名主の住宅です


北側の井戸では水がわいていました

荒川堤防へ行きましょう


途中の「びんぬま川」です


満開の桜と黄色い菜の花を背に、大勢の「釣り師」がヘラブナを狙っています


荒川河川敷のゴルフ場でも桜は満開ですね

荒川対岸の桜も満開です

大きなユキヤナギの白が綺麗です






ちいさな花たちも、春の日差しが気持ちよさそうでした

またね~
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静岡県浜松市、北区細江町広岡「神明社の子授け楠」です!!

2022-03-31 06:20:35 | 巨樹・大木
 細江町広岡地区は、北区役所の北東側の地区です

 国道262号線を北へ、すぐに井伊谷川を清水橋で東に渡ります

 最初の十字路、ハローワーク細江前を左(北)へ入ると

 右手の岡の上に神明社が南向きに鎮座します

 鳥居脇に車を止めることが出来ました

参道入口鳥居と大きなクスノキが見えて来ました

参道入口です

右手に目的のクスノキです

御神木指定証と案内板です
  御神木
 子授け楠 安産の神 高さ25m、根廻り13m、目通り7m、枝張り27m、樹齢500年、神明社


根元に慈母観音様の様です

南東側から

太い幹に太い注連縄が巻かれています


鳥居前(西側)から見上げました

鳥居です

手水です

石段を上ってお参りしましょう

石段の中段から

社殿です

社殿の前からクスノキを見ました

では、次へ行きましょう
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静岡県浜松市、北区引佐町奥山「方広寺奥ノ院と三重塔」です!!

2022-03-30 06:24:55 | 文化財・寺社
 天台宗 大本山 方広寺の続きです

境内南西側から奥ノ院へ行きましょう


手水舎です

半僧坊真殿への参道です


御不動様ですね


モクレン科のタイサンボクです。常緑高木、泰山木と書きますが北米原産の植物です、初夏に20cmにもなる白い花をつけ、香りが良いといいます

半僧坊真殿の拝殿です

向拝の龍の彫刻が見事です、上り龍と下り龍の一木彫刻は工匠岩五郎の作です

鰐口です

大きな横笛を模した奉納額です

西側の通路です

奥の院への参道になっています


半僧坊大権現説明版です
   半僧坊大権現
 正平5年(1350年)中国天台山での修行を終えられた開山さまは、正法の禅を伝えるために明州を船出、帰国の途につかれましたが途中、東シナ海に大暴風雨がおこり、ご乗船はいまにも難破しそうになりました。
 このとき、眼光炯々たる一偉人が船首に出現し「われ、この船を守り、禅師を護り奉って必ず故国にお届けつかまつらん」といって船師を指揮し、無事に博多の港にお着けしました。
 後に開山さまが、この方広寺えお創かれたときまた先の偉人が現われ「お弟子にして頂きたい」と懇願、開山さまから「汝はそのままで半ば僧である。あえて剃髪するに及ばず」とのお許しを得て開山さまに仕え末永く当山の鎮守として方広寺を守護されております。それが半僧坊大権現であります。
 半僧さまのご神徳はあらたかで「厄難消滅・海上安全・交通安全・火災消除・その他」霊験を得る者多く全国に数十万の「半僧坊信者」があおります。


本殿を見ることが出来ました

本殿裏側の大岩に注連縄が巻かれています

湧水があるのでしょうか

冬の時期には枯れてしまっているようです

少し戻って奥ノ院へ行きましょう


シキミです、マツブサ科の常緑小高木です、果実が猛毒だそうです

枯れ沢を赤い欄干の橋で渡ります

ゆるく登ります

丁石のようです

舗装された山道なので歩き易くなっています

明治12年三月の常夜塔の柱が見えると間も無くです

奥に建物が見えて来ました

下から奥ノ院を見上げました

奥ノ院まで上がって来ました

奥へは登山禁止になっているようです

では、お参りして戻りましょう

手水舎から三重塔への参道(駐車場へ戻る道)です、赤い鳥居は稲荷神社がある様です


七尊菩薩堂です

駐車場下から方広寺を見下ろしました

三重塔です

説明版です
  三重の塔
 方広寺第二代管長間宮英宗老師の頃、大正12年(1923年)京都の実業家、篤志家山口玄洞氏の寄附により建立されたものです。
 山口氏は大阪で繊維問屋を経営していて、第一次世界大戦中に財を成したが、方広寺第二代管長間宮英宗老師の忠告で好景気の内に商売を手びかえました。後に停戦と共にあちこちで倒産が相次ぐ中、素直に忠告を守った山口氏は独り難をまぬがれ、その後も社業は発展したといいます。
 そうした故事から、この三重の塔は「倒産よけの塔」として、全国の財界人、経営者がよくお参りにこられています。
 
では、次へ行きましょう
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静岡県浜松市、北区引佐町奥山「方広寺半僧杉」(市指定)です!!

2022-03-29 06:24:57 | 巨樹・大木
 引佐町奥山地区は、北区役所の北北西約5kmのところ

 県道320号線を北へ、神宮寺信号を左(西)へ県道303号線です

 道なりに西へ進み奥山地区に寺入ると方広寺の案内板が有りますので奥山信号を左へ

 県道68号浜北三ヶ日線です、門前の商店街をぬけると奥山門前ポケットパークです



方広寺山門の黒門入口ですが、今回は車道を三重塔前駐車場まで入ります

奥山地区観光案内板で確認して急な坂道を登って三重塔まで行きましょう

駐車場から門前商店街を見ました

では、一度黒門からの参道へ下ります

上の駐車場から黒門(総門)と赤門(楼門)からの参道まで戻って来ました

説明版です 
  臨済宗大本山方廣寺
 方廣寺は末寺170ヶ寺を擁する臨済宗方廣寺派の大本山で、井伊家の一族・奥山六郎次郎朝藤(是榮居士)が後醍醐天皇の皇子無文元選禅師を開山と仰ぎ建徳2年(1371年)に建立した寺。
 寺名を深奥山方廣寺というのは、開山禅師が悟後の修行をされた中国の天台山にこの地形が似ていたので、そう名付けられたもの。
 開山さまご在世のころは常に500人の雲衲(修行僧)

三叉路になっている所を右の車道へ「半僧杉」を見に行きましょう

石仏がいっぱい並んでいます、「五百羅漢」ですね

丸い石橋の上にも羅漢さまが並んでいます、石橋は宝暦年中に三河の石匠親子二代によって造られたそうです


「半僧杉」が見えて来ました

こちらが正面でしょうか

説明版です
  方広寺の半僧杉
 市指定天然記念物(昭和52年4月9日指定)
 当地方第一の老杉で、根廻り7.55m、目通り5.75m、樹高43m、枝張り19mで樹勢は良好である。
 明治14年、三河方面から発生した山火事の折り、ときの住持東明禅師は燃え来る大火の中で、半僧坊神殿に籠り一心に祈願,渦巻く黒煙の中に、何処よりともまく鈴の音が鳴り響き、師は柱杖を持って燃え盛る火炎を左右に切りさばく半僧坊の姿を拝した。やがて火事は治まったが、そこには一本の緑ひときわ濃い大杉がそびえていた。この大火の中で明治11年8月に再建されたばかりの半僧坊と七尊菩薩堂とこの大杉だけが不思議に焼け残り、以来この杉は方広寺の御神木すなわち「半僧杉」として今日に語り継がれている。
  ふるさと創生事業 浜松市

浜松市制百周年記念事業
 「湖北五山古木・御神木巡り」の説明版です、内容は上の説明版といっしょですね

斜め上側から、こちらにも羅漢さまが沢山居ます

方広寺庫裏の建物入口から

では、一度三叉路まで戻りましょう

左の赤い鳥居の参道へ進みます



「延命半僧杉」の切株です、明治の大火で幹の中が炭化してもな130年生きつづけたそうです
(山内で新たなパワースポットになっているそうです)壑手水です、ここにも羅漢さまです

手水です

羅漢さまがいっぱいです

赤い大鳥居です

広い参道を進みます

「方広寺十聖境 第七の龍偃杉(りょうえんすぎ)」の羅漢様です、龍偃杉は幹の一部を残すのみになっているようです


椎河宮です、石段下の左に龍偃杉の一部です

椎河龍王の説明版です

赤い橋が見えて来ました
橋の対岸に本堂が見えました

方広寺十境 代8 亀瀬橋(きはいきょう)です


赤い橋の廊下を進んで本堂前です、大きなソテツが在ります


大きな本堂です

説明版です
  本堂
(水戸黄門ゆかりの本尊さま)
 建徳2年(1371年)に建てられた本堂は、数度の山火事による類焼をうけ、現在の本堂は明治38年長山虎壑管長の発願により天正4年完成したもの。
 本尊釈迦如来、脇侍に文殊・普賢の二菩薩が安置されており、天平9年(1354年)に仏師「法橋院遵」「法眼院廣」「法印院吉」の三人によって彫刻された木像で、元禄のころ水戸の徳川光圀卿(黄門さま)の命により修繕したと背面に誌されている。もとは茨城郡古内村の清音寺に祀られていたのを明治末年に当山に移したと誌されている。
 西側の「勅使玄関」は当山が皇室ゆかりの寺ゆえに、しばしば勅使の参向を受けており、その際、勅使が出入りして玄関である。
  平成22年8月、百年ぶりの大改修工事と耐震工事を行った。




本堂前に鐘楼です

遠州「五山梵鐘」の説明版です

西側に開山堂の勅使門です

説明版です
  勅使門(開山堂)
 この勅使門の奥山に開山堂が建っています。開山無文元選禅師は後醍醐天皇の皇子で、延元4年(1339年)に天皇が吉野で亡くなられるや、翌年、京都建仁寺の普光庵で剃髪、出家し、雪村友梅禅師について修行され、さらに三年後に中国に渡り、建寧府高仰山大覚寺の古梅正友禅師のもとで七年間、大変な修行をされて、遂にその印記(印可証明と大戒)をうけ正平5年(1350年)に帰国されました。28歳のころであります。
 開山さまはその後、京都・鎌倉をはじめ各地を行脚、僧俗を接化され、建徳2年(1371年)奥山是榮居士の請を容れて」この寺の開山となれました。開山さまの徳を慕って、ここで修行にはげむ雲衲(修行僧)は常時500人いたといい(境内の五百羅漢はそれを象徴したもの)寺名を深奥山方広寺というのは禅師が曾と行脚された中国の天台山に、この境地が似ていたからといわれています。元中7年(1390年)閏3月22日、当山で示寂(逝去)されました。
 開山さまの御廟を黙霊塔といい、宮内庁の記録に「無文元選王廟」と記されています。光格天皇から「大慈普應禅師」、明治天皇から「聖鑑国師」、昭和天皇から「圓明大師」とそれぞれ勅諡されています。
 現在の開山堂は、昭和10年、足利紫山老師が建立したもので、それまでの假開山堂は、いま禅堂として建てかえられ、雲水たちの修行の場になっております。

長くなりましたので、明日に続きます

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静岡県浜松市、北区細江町気賀「細江神社の社叢」(市指定)です!!

2022-03-28 06:24:54 | 巨樹・大木
 では、細江神社境内のクスノキの巨木を見て行きましょう


説明版です
  細江町指定天然記念物
   細江神社社叢・楠
  昭和49年5月1日指定
 明応7年(1498)の大地震による大津波で、浜名湖の湖口を守る神として、荒井(新居)の里に祀られていた、角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)の御神体の素戔嗚尊が、気賀上村の赤池の地に漂着したといわれている。人々は初め赤池の北90m程のところに仮屋を建て祀っていたが、永正7年(1510)この地に社殿を建てて祀った。
 社叢には、この時以来数百年の年輪を重ねた、根廻り18mもある楠が林立し、歴史の変遷を静かに見守っている。また天台烏薬、亜熱帯植物など多数の珍種植物が群生している。
  昭和63年3月20日
  細江町教育委員会
*細江町は、平成17年(2005)年7月1日、周辺11市町村とともに浜松市へ編入されました。浜松市の2007年政令指定都市移行伴い、浜松市北区となった。

参道を進みましょう

まず切株です、元の御神木のようです(駐車場に輪切りの展示有り)

すぐ先参道左に注連縄の懸けられた二本のクスノキです

案内板です
  御神木
 幼木の時代から二本そろって約500年の間、この細江町の歴史を見守ってきた夫婦楠。

東側から

北東側から

参道右奥にも楠の大木が見えます

北西側から、幹の先端が折れているようです


拝殿手前右の楠の巨木です(南側から)

南東側から

天然記念物標識です
 楠 樹高30m、根廻り16m、目廻り6.5m、枝張り55m、樹齢500年だそうです

東側から

北側から

西側から

境内東端のクスノキの巨木です

西側から

北側から

天然記念物標識と御神木指定証です
 樹高30m、根廻り13m、目廻り5m、枝張り40m、樹齢500年、平成元年3月1日の御神木指定証です

昔話の説明版です
「昔話」大蛇と大蝙蝠の戦い
 むかしむかしの話しですが、このクスノキの大穴の中で大蛇と大蝙蝠が「このクスノキの主はおれだ・・・」とたがいに言いはりました、そのために大蛇と大蝙蝠はしだいになかがわるくなり、ついにおおげんかとなってしまいました。
 大蛇は長い体で大蝙蝠をぐるぐると強く巻つけ、大蝙蝠も負けてはいません、するどいキバで大蛇のからだに食いつき・・・、この戦いは三日三晩もつづいたと言われています。
 大蛇も大蝙蝠も血だらけになり、ついに力がつきはててしまいました。クスノキの空洞の中には,そのときに流したと思われる血のあとがあります。
 (静岡県「子どもむかし話」にのっています)
奉納 山田三男 家田賀子治 細江神社社務所

南側から

東側道路から


本殿と藺草神社の間にも二本のクスノキの大木です

拝殿脇から

拝殿西側の境内社の中にも大木です

稲荷神社参道入口のクスノキを西側の八幡神社参道から見ました


駐車場にクスノキ(御神木)の輪切りが展示されています

案内板です
 細江神社の境内には、様々な木が自生している。中でもこの楠は、鳥居をくぐり祈願する氏子の姿に、世の変遷や喜怒哀楽を感知しながら、次第に成長を続け大木となった。やがて老木となり樹勢も衰え、遂に500年余の樹齢を閉じることとなった。
 ここに・をして、この楠の一部を保存することとした。

では、次へ行きましょう
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静岡県浜松市、北区細江町気賀「細江神社」です!!

2022-03-27 06:22:01 | 文化財・寺社
 気賀地区は、北区役所の有る地区です

 天竜浜名湖鉄道きが駅の東側の県道320号細江舞阪線を北へ進んで

 気賀四ツ角信号を左(西北西側)へ国道362号線です、間も無く右手の道路北側に細江神社が鎮座します

 手前の路地を上って行くと駐車場入口です、社殿前の参道を越えて、境内の駐車場を利用させて頂きました


境内入口です

郷社 細江神社です

案内板です
 御祭神 素戔嗚尊
     寄稲田姫命
 例祭日 7月第三土曜日
 由緒
 明応7年の大地震によって浜名湖は外海とつながり、その時の大海嘨により新居の角避比古神社(つのさくひこじんじゃ)は流没、しかし、御神壐は、奇跡的にこの気賀の地に着御された。里人は牛頭天王社として気賀の総う地氏神として祀る。以来、気賀のお天王さまと尊称し、7月の祇園祭りの船渡御は全国的にもめずらしい勇壮な祭りとなる。
 細江神社

地図が有ります(社務所わき)

参道を進みましょう

手水舎です

二の鳥居です


拝殿です

本殿は屋根だけ見えました


境内東側の出入り口鳥居です

水盤です

境内東側に蘭草神社です

説明版です
  藺草神社(いぐさじんじゃ)
 宝永4年(1707年)の10月、遠州地方で大地震があり、押し寄せた高潮のため、浜名湖沿岸の田には塩が入り、稲は全滅の状態でした。
 困り果てた村の庄屋達は、当時の気賀の領主近藤縫殿助用随公に、その苦境を訴えました。
 領民のためを思う名君であった用随公は、今後の稲作の事を、領民と共に悩みました。
 それからしばらくして、用随公は、大阪での会議で隣り合わせた豊後の国(現在の大分県)の領主松平市正に、領内の窮状を相談したところ、市正は、「ほう、それはお困りじゃな。では、余の領内の豊後nお藺草を植えたらどうじゃ。これは、塩に強いということでな」と言い、国元から琉球藺の苗を取り寄せてくれました。
 大いに喜んだ用随公はこれを持ち帰り、領内の田に植えさせました。
 これが浜名湖一帯の名産物、琉球藺の始まりです。その後琉球藺は周辺の各村に広まり藺草を使った畳表の整織は、冬の農家の副業として、この地方にを潤しました。
 この藺草神社は、藺草をこの地方に初めて広めてくれた用随公の徳をたたえ造られたものです。

蘭草が植えられています

説明版です
 七島藺(琉球藺・三角藺)
  カヤツリグサ科 多年草
畳表の原料
 茎は横走する太い根茎からでて、高さ1m以上となり、三角形で節がなく、基部には葉鞘に退化した葉が二、三個つく、夏から秋茎頂に花序を生じ、花序はよく枝分れ、枝の先端に花穂をつけ密に小穂を生じる。
 夏から秋に刈り取って二つに割ってかをかし、畳表・蓆・編物など、種々の生活分野にわたって利用された。
 一方イグサはイグサ科に属し茎が円形である。こちらも畳表に利用されている。
 産地=薩南の七島 琉球地方

境内西側には多くの境内社が並びます、まずは稲荷神社参道です

稲荷神社です

左に天満宮の参道鳥居です

天満宮です

八幡神社の鳥居です

水盤です

八幡神社拝殿です

本殿です

拝殿軒下に恵比寿様です

西側境内出入口の鳥居です

では、境内の楠樹叢を見て行きましょう
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静岡県湖西市、新居町浜名「東福寺のマキ(二本)」(市指定)です!!

2022-03-26 06:27:25 | 巨樹・大木
 新居町浜名地区は、湖西市役所の南約4kmのところ

 JR東海道本線わしづ駅まえを通る国道301号線を道なりに進みます

 東海道新幹線を潜ると泉町信号で国道は左に進みますが、真直ぐに市街地へ旧東海道です

 街並みを貫け突き当りが県道417号線です、ここを左(東)へ

 (実は手前を左に行くと東福寺なのですが行き過ぎてしまいました

 信号を過ぎた湖西市新居地域センター手前を左(北)へ突き当りを又左へ

 右に東福寺山門が見えました、手前の駐車場に車を止めさせて頂きました


間も無く東福寺です

東福寺です

山門の仁王門です

右手の樹冠がマキの木(二本の内の太い方)です

仁王様(金剛力士)がいらっしゃいます

説明版です
湖西市指定有形文化財
  木造金剛力士立像
 東福寺山門に立つ金剛力士像は、江戸時代の安永8年(1779)開眼で、松材、寄木造り、玉眼水晶製嵌入の筋骨隆々たる像である。通称「仁王」とも言われ、寺を守護する役目を果たしている。
 山門右側の阿形は口を開け、左手に独鈷杵を持ち、左側の吽形は口を閉じて立っている。
増高 阿形 2.32m
   吽形 2.35m
    平成22年3月
    湖西市教育委員会

仁王門を潜ると目的のマキの木(細い方)が見えます

まずは本堂にお参りしましょう


文化財説明版です


軒先に梵鐘です


南西側から

説明版です
 湖西市指定天然記念物
  東福寺のマキ
 瑠璃光山東福寺、かっては真言宗の寺で、現在は臨済宗方広寺派である。
 境内のマキの内二本が市指定天然記念物。このうち一本は雄株で、根廻り4.8m、目通り3.2m、枝張り17m、樹高15m。
 もう一本は仁王門東の雌株で、根廻り3.6m、目通り4.3m、枝張り17m、樹高13m。
  平成22年3月
  湖西市教育委員会

西側から

北東側から

六地蔵様です

六地蔵様の先にもう一本のマキ(太い方)です

東側の駐車場から

南東側から


墓地入口の薬師堂です

隣には稲荷神社が有ります

では、次へ行きましょう
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静岡県湖西市、新居町新居「諏訪神社のケヤキ」(市指定)です!!

2022-03-25 06:55:30 | 巨樹・大木
 新居町新居地区は、湖西市役所の南東約4kmのところ

 JR東海道本線わしづ駅まえを通る国道301号線を道なりに進みます

 東海道新幹線を潜ると泉町信号で国道は左に進みますが、真直ぐに市街地へ

 右側にあるスーパーマーケットの先を右(西)に入ると丘の上に諏訪神社が南東向きに鎮座します

 参道鳥居前に車を止めさせて頂きました
 
 
参道です

諏訪神社です

一の鳥居です

説明版です
  諏訪神社
鎮座地 新居町新居1379番地
御祭神 建御名方命 外13柱
例祭日 7月27日 神事手筒花火
  由緒
 当社は景行天皇19年(約1900年前)の創立と伝えられる古社である。
 当社は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永5年(1708)現在地に遷座となる。
 現神社名は井口嘉末なる者が、信州より移り住み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。

鳥居のすぐ右側に目的のケヤキです、上の方の枝は切り払われています

東側から、注連縄が巻かれています

説明版です
 湖西市指定天然記念物
  諏訪神社のケヤキ
 諏訪神社は、建御名方命を祭神とし、奉納手筒花火でしられている。この神社は度重なる災害を受け、宝永5年(1708)に現在地に遷座した。
 このケヤキは、諏訪神社の御神木といわれ、根廻り7.5m、目通り5.5m、樹高16mの巨木である。
 昭和64年に町の天然記念物に指定されました。
   平成22年3月(浜名郡新居町と旧湖西市が3月22日合併)
   湖西市教育委員会


北東側から


鳥居を潜って参道から見上げました

西側から

では、参道を進んで諏訪神社にお参りしましょう

参道を進んで来ました間も無く社殿前の境内です

振り返ってケヤキを見ました

手水です

二の鳥居です

拝殿です

本殿覆い屋です

境内中央に、御神木のケヤキのクローン二本が二代目として大きく成っています

境内左端から境内社を見て行きます、まず「市杵島神社」です

七柱の境内社です、左から「三峯神社」「社宮司神社」「金山神社」「倉山神社?」「津島神社」「稲荷神社」「秋葉神社」です

弁財宮です

屋根が壊れてしまっているのでしょうか作業シートで覆われています


八所神社です

境内の石に注連縄と祠です

では、次へ行きましょう







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静岡県浜松市、中区入野町「入野八幡神社のクス(夫婦楠)」(市指定)

2022-03-24 06:22:29 | 巨樹・大木
 入野町は、浜松市役所の西南西約4kmのところ

 国道152号線を南へ、成子信号を右(西)へ県道62号浜松雄踏線を進みます

 入野小学校南信号を右(北)へ、県道326号線です突き当りを左(西)へ雄踏街道です

 直ぐ先のJAとぴあ浜松入野支店の先を右に入ると八幡神社参道です

 道路脇に車を止めさせて頂きました


農協の西側の通りの先に鳥居が見えました

八幡神社です

村社 八幡神社と神明社の社號標が並びます

保存樹林表示板です、指定番号第56号です

鳥居です


鳥居左のクスノキです

手水です

社務所前のカヤノキです

八幡神社です

拝殿です

本殿です

八幡神社境内真ん中に目的のクスノキです

南西側から

西側から太い幹が二本出ています

北西側から

説明版です
浜松市指定天然記念物
  入野八幡神社のクス
昭和34年12月19日指定
浜松市教育委員会
 クスノキ科ニッケイ属の常緑高木
 このクスの樹齢は不詳ですが、およそ450年と推定されます。胸高幹周約10m、枝張り東西約30m、南北約30m、樹高約25mの独立木で、地上1.5mのところより分岐して四方に広がっている。
 社伝によると、16世紀後半に武将より献木されたといわれています。また江戸時代には、枝をはらって樟脳業者に売ろうとしたところ、村内に悪病が流行したため切るのを中止したという伝承があります。
 社叢の中心として風格ある樹形を呈する巨樹・古木であり、貴重な天然記念物です。


東側から

御神木認定証と御神木についての説明です
 御神木については諸説りますが、一般的には神社や神域にある神聖な樹木のことである。
 霊木、霊樹であり、巨木や老樹など特徴ある樹木に、御神霊が来臨する目印である。
 神社では、注連縄を張り柵で囲ったりして霊樹であることを示しています。入野八幡神社の本来の御神木は、先祖代々からの記帳によれば、左側の槙が御神木とされていましたが、近世楠が大きくなり、槙が上に伸びなくなってしまいましたので、楠を今回新たに神社庁に申請して許可をいただきました。

根元には大楠神社です

大楠神社の説明版です
鎮守の森、八幡様の御神木
   大楠神社
 入野八幡神社の祭神は、品陀和気命(応神天応)を主神として、山神社・大山祗命を合祀している。
 旧朱印高3石、慶安元年(1648)10月24日の古文書があり、宝永、寬保、文化年代の棟札などもある。
 社伝によれば、織田信長が天下を平定し、安土城を築いた天正4年(1576)のころ、戦勝を祝って九州の大名より楠が献上された。その楠を戦勝祈願した神社に奉納し植え付けられたものであるといわれている。その当時、浜松市「八幡町の八幡宮」磐田市「見付町の八幡宮」と当町の八幡神社に奉納されたと伝えられている。
 この楠は、発育もよくすくすくと成長した。やがて、幼木もできたので、その一本を「賀久呂神社」の境内に株分けした。いわゆる「五本楠」というのは、入野八幡神社の楠の分かれであるというのである。
 入野八幡神社の楠は、はじめ三本植えられた。そのうち一本は根元から発芽したものが成長して、現在の夫婦楠となった。慶応から明治初年のころ、楠より樟脳をつくるため九州の業者が買いにきた。このころ入野村は経済的に落でなかったので、境内の一本を切って売った。また次の年に買いにきた。今度はこの夫婦楠を売ることにした。ところが、切りはじめると同時に村の有力者である、権蔵、次郎左、定右衛門、九左衛門、右衛門など急に病気になった。非常に高熱となり生死の境をさまよった。驚いた村人たちは「これは御神木を切ろうとした祟りである」といいだした。楠を切ることを途中でやめ、一同七日間水垢離し神に救いを請い願った。ようやく、一ヶ月後に全員全快した。以来、この木を御神木として永久に残すことにした。今も楠の南東面の傷痕がみられる。
 昭和38年8月29日の台風で他の一本も倒れてしまったので、古来からのものはこの御神木である夫婦楠だけになってしまった。
*八幡町の八幡宮のクスは、徳川家康ゆかりの「雲立の楠」です、このブログ昨日紹介させて頂きました
*見付町の八幡宮のクスは、見付天神の鳥居脇に在りましたが、2011年9月台風15号の被害で倒壊してしまいました
右側には忠霊殿です


稲荷神社です

境内南東端の秋葉神社です

道六神です

説明版です
  道祖神 道六地神社
 基本的には「境の神」「行路の神」「道案内の神」とも言われている。
 峠や村境、あるいは道路の分岐点などに祀られている。
 御神体は、石であることが多く、自然石、陰陽石などの他、ただ、「道祖神」と文字で刻んだものや神像を刻したものもある。
 中部地方には、男女一体の神像(夫婦像、姉弟像)を刻したものが多い。
 道祖神は、賽の神、道陸人とも呼ばれている。
 また、道端にあって、悪霊や疫病の侵入を防いだり、通行人を守護して村を守る神とされている。また、道祖神は、男女の縁結びの神、交通安全の守護神、安産の神でもある。
 この道祖神は、地元道陸地の地名の由来の神社でもある。

では、次へ行きましょう
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静岡県浜松市、八幡町「浜松八幡宮の雲立の楠」(県指定)です!!

2022-03-23 06:34:30 | 巨樹・大木
 八幡町は、浜松市役所の東北東約1kmのところ
 
 国道152号線北へ下池川町信号を(右)東へ、六県道路です

 遠鉄電車の高架を潜って次の交差点を左(北)へ入って次を右(東)へ

 浜松八幡宮の鳥居前に出ます、直ぐ先を境内に入って拝殿前東側に車を止める事が出来ました


参道入口前の、八幡町屋台蔵と公会堂です
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参道松並木です

浜松八幡宮です

傍らに天然記念物 雲立の樟の石柱です

境内は保存樹林です、指定番号は樹林第6号です


鳥居です

由緒書の石碑です
  浜松八幡宮由緒
祭神
  玉依比売命 たまよりひめのみこと
  品蛇和気命 ほむだわけのみことー(応神天皇)
  息長足姫命 おきながたらしひめのみことー(神功皇后)
  伊弉諾尊 いざなぎのもこと
  伊弉冉尊 いざなみのみこと
 八幡宮の御祭神は、品蛇和気命(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)であって、石清水八幡宮は、中御前の応神天応をはさんで、東・西御前にそれぞれ神功皇后・宗像三神をお祀りしてあります。
 当社でも馬込町に在った白山神社の祭神である伊弉諾・冉尊と下垂に祀られていた玉依比売命を本殿に遷し、祀ってあります。
 749年天平21年に、聖武天皇は、大仏鋳造に神の援助を仰ぐため宇佐神宮より八幡神を迎えられ、更に859年、清和天王、貞観元年に僧行教によって、同じく宇佐八幡神を男山に迎えました。
 神功皇后摂政時代の国威発揚期の人々の心情によって、単なる産土神や氏神でなく「国家の祖廟」・「鎮護国家」の神として、伊勢の皇大神宮に次ぐ崇拝を受けるに至りました。
 諾冉二尊は、神話では「国生みの神」。玉依姫命は、神武天皇の生母として語られ、民俗信仰上、祖先神として敬われた神々であります。
 源義家が男山八幡宮神前で、元服したという伝承によって、武家の棟梁源氏の氏神となったことから、八幡信仰は、中世以降さらに大きな地歩を固めました。
 この過程において、極めて自然に、神仏習合の信仰が浸透して、八幡大菩薩の称号も生まれました。
   社伝及び郷土史家研究に基く由緒
 社伝によれば、仁徳天皇・遠津淡海の海運安穏のため、海神・玉依姫命を、現小沢渡町の許都神社は、「延喜式」の敷地郡六座の神の中に登録され、極めて由緒ある神社であります。
 その後、938年、朱雀天皇、天慶元年に、神託によって当地に遷されました。
 その節、白狐が老翁の姿となって「浜の松」を移し植え「浜松」の地名となったとも伝えられております。
 この翌年、平将門が常陸で、翌々年藤原純友が伊予で反乱を起こしたため、岩清水八幡宮の神霊に頼る信仰が盛んになった頃でありました。
   武家の信仰
 1051年、後冷泉天皇、永承6年、八幡太郎義家が、陸奥に出陣の祭、当社に参篭し、源氏の氏神である八幡社を喜び、武運を祈って「契あれば 帰り来るまで 岩清水 かけてぞ いまふ 浜松の里」と詠進し、武運を祈って社禅の楠の下に旗を立てたと伝えられ「御旗楠」とよんでおりました。これが、現存する「雲立の楠」の起源とされています。
 1432年、後花園天皇永享4年、義政将軍が富士山を慕って駿河へ下向した際、先述の小沢渡村より移した松が成長して臥龍の様に這い伸びている姿を見て、「浜松の音は颯々」と謡ったといい、この松を「颯々の松」と語り伝えられています。この縁起は、現在野口町に紀念碑が残されていますが、昭和20年の空襲によって焼失した、今の松は三代目であると郷土史「浜松の史跡」で述べております。
 1570年、正親町天皇、元亀元年6月、徳川家康が岡崎より浜松に入城した時、源義家の東征祈願の由緒があり、更に鬼門鎮守の氏神として信仰厚く、1586年、駿府に移るまで当社を祈願所として数度社参して、武運長久を祈ったと伝えられています。更に1572年元亀3年12月、三方原合戦に敗れた家康は、天林寺に入り、義俊和尚が案内して当八幡宮に逃れ、義家ゆかりの「楠」の洞穴に潜み、甲州勢の追手を逃れて武運を祈願した時、楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨がり、浜松城方面へ飛び立ちました。家康は八幡宮の加護により「戦われに利あるべし」・・・と勇躍、城に帰り、犀ヶ崖に布の懸橋を渡して、武田信玄の入城を防ぐことができました。有名な酒井忠次の陣太鼓の武勇伝み、この時のことであります。
 これにより、家康開運の社前の楠(「御旗楠」)を「雲立楠」と呼ぶように至りました。これらの伝承は、古老、郷土史家の伝える諸説であります。その後も家康は代々当社を祈願所として旗・神馬を奉納いたしました。豊臣秀吉は、北條氏討伐の資金を調達するため、神領を没収し、寺島八幡の社領であった現在の寺島町・旭町附近のみを、八幡地として残しました。
 1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、歴世社領50石の朱印を与えましたが、明治新政権により上地とされ、同年、郷社に列しました。
   八幡宮に合祀された諸社
 明治末年、祠官近藤伊織氏上申による、静岡県庁・社寺課の認可によれば
相殿 天之御柱命 国之御柱命
   神倭伊波礼毘古(神武天皇)
   大気都比売命 伊佐波登美命
   神直日神 大直日神
   猿田彦神 蛭児神
 とあり、この神々は現在境内末社・浜松稲荷神社に祀ってあります。また、東照宮も一宇、氏子も八百戸とあり、この神祠は、同じく現在境内末社東照宮に祀ってあります。
 明治44年2月6日 下垂・無格社 池上社合祀の許可
 仝    5月8日 野口・無格社 颯々神社合祀の許可
 昭和4年8月13日 早馬町 浜松稲荷神社合祀の許可等が記載されております。
 昭和年月不明    馬込町 白山神社合祀



参道左側に石碑にあった「颯々の松」三代目です

手水舎です


参道右手に目的の雲立の樟です

南側から

説明版です
   雲立のクス
昭和27年4月1日県指定天然記念物
浜松市教育委員会
 楠の巨樹で、地上1.5mの幹回り約13m、根元回り14m。枝張り東西約21m、南北約23m、樹高約15mあり、幹の下部には大きな空洞がある。幹は地上1.5mのところより数枝に分れ、古木の部は樹勢が衰えているが、新生部はすこぶる旺盛で、枝葉は四方に繁茂している。
 永承6年(1051年)八幡太郎義家が当八幡宮に参詣の折り、樹下に旗を立てたとの伝承から「御旗楠」と称された。また、元亀3年(1572年)徳川家康は三方原合戦に敗れ、武田軍に追われてこの楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ち上がったとの故事により「雲立の楠」と称されるようになった。
 
 

東側から


北東側から

北側から

*拝殿の全景を執り忘れていました


拝殿の賽銭箱には三つ葉葵、徳川家の家紋が在ります

本殿です


本殿東側に東照宮です
 例祭日 4月17日
 御祭神 徳川家康公



赤い鳥居が三列に並んでいます

浜松稲荷神社です

説明版です
浜松稲荷神社
 例祭日 2月11日
 御祭神 倉稲魂命 大宮比賣命
     大己貴命 月夜見命
     太田命
 古くから浜松八幡宮の境内末社として伝わります。
 神徳を慕う浜松宿の人々に篤く尊崇され、明治大正期には一時現在の中区早馬町にお祀りされていました。
 商売繁盛・事業繁栄・家内安全の神徳を持つ神さまとして信仰され、毎年2月21日には氏子崇敬者によって賑やかなお祭が行なわれています。

では、次へ行きましょう
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静岡県浜松市、中区龍禅寺町「龍禅寺のマツと熊野神社のクスノキ」(保存樹)です!!

2022-03-22 06:58:28 | 巨樹・大木
今日も二件目です

 龍禅寺町は、浜松市役所の南東約2kmのところ、浜松駅の反対側ですね

 国道152号線を南へ、連尺信号を左(東)へ、まだ国道152号線です

 遠鉄電車第一通り駅前を通ってすぐの板屋町信号を右(南)へ寺島町信号を斜め左へ

 信号の先の三叉路を右へ、道路が右(南)へカーブすると

 左手に大きなマツが見えます、前の道路脇に車を止めさせて頂きました
 

龍禅寺参道北側のマンションの駐車場の中に目的のマツです

北側から

説明版です
保存樹 浜松市
指定番号 浜松市保存樹田井5号
指定年月日 平成7年8月10日
樹種:クロマツ
樹高:27m、幹周:3.3m(指定時)
 戦前から地域のシンボルとして愛され続けてきた龍禅寺のクロマツは、そのたくましく上に伸びる姿から戦禍で途方に暮れる市民に生きる勇気を与えたと言われています。
 指定当時、浜松市内で指定している保存樹の中では、最も樹高の高い樹木でした。
 のびのびと育った樹木が枝を広げ,行き交う人々をやさしく迎えてくれます。

南西側から

では、龍禅寺に行きましょう

山門です

高野山真言宗 龍禅寺です

六地蔵様です

六地蔵様由来の説明版です



手水舎です

役の行者様です
 寬保3年癸亥年金剛日、別名慈雲尊者とも云い、奈良大峯山の開創僧である。
 神変力を示し衆生を加護すると云われている。
 本願主中田島村大石五郎日地七、西ノ江村三輪三郎右衛門の発願により佛工。
 江戸西村和泉守藤原政時作となっている。

 


鐘楼です
  龍禅寺の大梵鐘
 文化11年(1824)2月に鋳造されてもので、鐘経1.2m、高さ2.0m、重さ1.3tのものです
 

歌碑が並んでいます

本堂です

弘法大師様ですね

太子堂です

地蔵堂です
  延命地蔵(身代わり地蔵)
 このお地蔵様は大地の母とか大地の蔵ということを意味し、お釈迦様入滅後56億7000万年して弥勒菩薩(未来仏)がこの世に現われるまでの間、人々の悩みや苦しみを救済する菩薩である。
 延命地蔵は大地の堅固のように菩提心が堅固で、願をかけると自分が身代わりになって諸の苦しみ、さまざまな病苦を受けて下さり、それを打ち消すもので延命を授けて下さるお地蔵様です。

境内の南西側の熊野神社へ行って見ましょう

境内入口です、二つの鳥居が並んでいます

稲荷神社への鳥居です

福興稲荷です

熊野神社鳥居です

説明版です
  由緒
 龍禅寺町が往古市場村の・・・・・もはや里の人々は紀伊国牟婁郡熊野本宮より勧請し宮西の地に・・あり三所権現様と称へ、崇敬篤く、特に咳神様として信仰し、地方に広く開・・
 元亀元年近衛関白・嗣公上野の草津より湯治の帰途龍岦瀘和り当神社に平癒を祈願ころ・・・余りにて全治して上洛する・・・・
云い伝えられ、宝永3年の地・・・・現在の地に・・・・薄くなってしまって読めません

手水舎です

熊野神社社殿です

社殿の右側にクスノキが在ります

クスノキです

保存樹木標柱です

南東側から

では、次へ行きましょう
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静岡県浜松市、中区領家「栄秀寺の公孫樹」(市指定)です!!

2022-03-22 06:45:31 | 文化財・寺社
 領家地区は、浜松市役所の南東約3kmのところ

 国道152号線を南に、連尺信号を左(東)へゆりの木通り(国道152号)です

 浜松駅前を過ぎて相生町信号を斜め右(南東)へ、国道150号線です

 東海道本線と新幹線を潜って進みます、頭陀寺町北信号を右(南)へ、参野町信号をまた右(東)へ

 間も無く道路右側に浜松領家郵便局が見えて来ます、すぐ手前に栄秀寺参道が南向きに出ています


参道入口です、右側に駐車場が有りますので利用させて頂きました

参道を進みましょう

六地蔵様です

こちらもお地蔵様です

境内に入ると参道のすぐ左に目的の公孫樹です

説明版です 
   栄秀寺の公孫樹
  昭和37年10月1日市指定天然記念物
  浜松市教育委員会
 この公孫樹は、高さ23m、幹の目通り6.1m、樹齢約300年と推定される雌木である。
 樹勢は盛んで、四方約6mにおよぶ豊かな濃緑色の枝葉を保ち,地上約2mまで数本の幹が癒合し一見独立木に見られる。
 原木は約100年前の強風で倒れ、その後発芽し成長したものである。
この植物は愈合しやすい性質が特徴で、地上から数本発芽し、愈合して大樹となったものは県内ではまれに見るものである。

*太平洋戦争中には至近距離に艦砲射撃の砲弾が落ち、枝は飛ばされ幹も傷だらけになったが、その傷も癒えて成長を続けているそうです。

南西側から

北東側から

東側から

本堂です

*浄土宗栄秀寺は応安年間(1368~74)に創建された京都知恩院の末寺で、ご本尊は阿弥陀如来です。


庫裏の建物です

では、次へ行きましょう

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静岡県浜松市、東区天竜川町「法橋のマツ」(県指定)です!!

2022-03-21 06:31:22 | 巨樹・大木
今日も二件目を投稿させて頂きます

*今日からは、2022年2月27日取材分になります

 天竜川町は、東名高速道路浜松インターチェンジ近くのにある東区役所の南南西約3kmのところ

 JR東海道本線てんりゅうがわ駅の北西側にあるマツを目指します

 県道65号線を南へ北島信号で国道152号自動車街通りを南西方向へ進みます

 篠ヶ瀬信号で左(南側)へ、県道296号小熊松天竜川(停)線です

 二つ目の信号を右(西)へ県道312号東海道です、直ぐ先の左側の路地を南に入ります

 道路脇に小さな「法橋の松」の案内板が建っています

 更に二つ目の十字路左先に大きなマツの幹が見えました

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました


目的の法橋のマツです

説明版です 
  法橋のマツ
昭和27年4月1日
  県指定天然記念物
  浜松市教育委員会
 この松は、天竜川町日蓮宗妙恩寺の開基金原法橋(左近将監)遺愛の松で、広大なその前庭にあったものであると伝えられている。
 地上2mの幹廻りは約5.0m、往時の枝張は東南より西北まで18m、東西約12mであり、樹高はおよそ14mである。
 樹齢は700年以上といわれている。
  管理者 妙恩寺



北東側から

天然記念物標柱です

大きな石碑には金原法橋庭前之松の文字が見えます
 
西側に祠が在ります

説明版です
  法橋の松
 妙恩寺創建前、金原法橋左近将監治時邸であった頃に自身が植えた松。
 「前庭松」や東海道から見える姿から「一本松」また、枝振りから「鶴翼の松」とも呼ばれていた。
 金原法橋公が千葉県よりこの地に移ってきた時期から推測すると現在740年程の老松。
 祠堂内ご神体「霊松明神」札記載より
  大正12年第二回目柵造成
  昭和20年1月14日ご神体安置
  妙恩寺50代 北原観朗 設置
 令和3年5月吉日 妙恩寺55代 山澤英伸

南西側から見ました

では、次へ行きましょう
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静岡県掛川市、逆川「若宮神社のシイノキ」(保存樹木)です!!

2022-03-21 06:24:43 | 巨樹・大木
 逆川地区は、掛川市役所の東約4kmのところ

 県道415号日坂沢田線を東へ、薗ヶ谷信号を右(南)へ

 逆川を渡ると住宅地の先に小高い丘が有ります

 ここに若宮神社が鎮座します、南側の石段脇にシイノキの巨木が在ります

 南側へ出た左先の道路脇に車を止めさせて頂きました


大きな椎の木が見えて来ます

南西側から

西側から

鳥居の右手に太い幹が立っています、目通り幹囲7.0mの巨木です

鳥居の下から見上げました

保存樹木標識です

鳥居です

説明版です
  若宮神社
鎮座地 掛川市逆川336番地
御祭神 素佐之男命
    大雀命 オオササギノミコト(仁徳天皇)
例祭日 10月10日
   由緒
 素佐之男命は天照大神の弟君で、文武に勝れ出雲国を平定された神で、全国津々浦々の八坂・津島・氷川などの社に祭られている。
 当社は、池下村若宮の谷に鎮座して居りしが、寛永元年現在地に建立、昭和61年改修。
 大雀命は人徳高く慈悲深い仁徳天皇であらせられ、今より400年前疫病が流行し村民日夜悪病全治の祈願し居るに、数日して全治す、其の御神徳の有難さに発願、氏神として合祀さる。




石段を上って境内から

社殿です、境内は池下公会堂になっています

では、次へ行きましょう
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静岡県掛川市、中方「春日神社クスノキ」(市指定)です!!

2022-03-20 06:43:03 | 巨樹・大木
 もう一件投稿させて頂きます

中方地区は、掛川市役所の南東約7kmのところ

 掛川駅の東側から県道38号掛川大東線を、東名高速道路を越えて道なりに南へ

 県道は小貫信号で右へ向きを変えますので真直ぐに県道247号中方千浜線へ

 四っつ目の十字路(三っつ目は信号機有り)を右(西)へ

 佐束川を渡ってすぐの土手道を南へ進むと春日神社境内の駐車場に入ります

 春日神社は東向きに鎮座します、佐束川には赤い欄干の橋が架かり参道となっています
(佐束側東側から撮影を始めました)


参道の赤い橋を渡ります、日が傾いて逆光になっています

境内右手に目的のクスノキが見えています


鳥居前の堤防上から見ました

鳥居です

手水舎です

拝殿です

本殿です

説明版です
   春日神社
鎮座地 大東町中方字宮後2155-1
御祭神 建御雷命(たけみかづちのみこと)
    天児屋命(あめのこやねのみこと)
    斎主命(いつきぬしのみこと)
例祭日 10月9日
   由緒
 当春日神社は、藤原氏の氏神として後藤氏の先祖後藤肥後守藤原好秀の嫡子、後藤太秀卿が、室町初期の応永22年(1415)南都
春日社から、三神を勧請したのが始まりで、その末孫後藤民部少輔家長の代に祭祀を盛大にするため、毎年10月15日夜宮祭を創始、現在は町内神社の祭日を統一され10月9日に行う、境内に合祀されている9社の末社と、天然記念物指定の大楠があります。

天然記念物標柱です

拝殿前から、目通り幹囲5.5mの巨木です

北西側から

北側から見ました

境内には多くの境内社が有りますので見て行きましょう

鳥居南側から「黒取神社」です

日露戦争凱旋祈念の立派な石鳥居の「軍人社」です

「秋葉神社」です


「津島神社」です

神池には水が有りませんが、祠が在ります

祠は「弁財天」です

本殿裏側の並びには「浅間神社」です

「天伯神社」です

「金刀比羅神社」です

他にも石の祠が並んでいました

では、次へ行きましょう


*今日は陽が沈んでしまいましたので、国道1号線の道の駅掛川に移動して車中泊しました



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