ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県日立市、大窪城跡です!!

2015-01-31 21:14:46 | 城跡・館跡・陣屋跡
大窪城跡は日立市役所の南南西役6km、JR常磐線ひたちたが駅の西約1.5kmの丘の麓にあります

国道6号線から県道61号線を西へ入って間もなく


カーブの先に駐車スペースが確保されています、大窪城跡の他に、愛宕城跡と天神山城跡も歩いて行ける距離です

駐車場から西に進むと、案内石柱が有ります


南側の堀跡です

虎口への道です

上から見た虎口です

土塁です

土塁前の郭です

暇修館(復元)です

史跡碑が有ります

大窪城跡説明版です

  この場所を中心として、東西220m、南北150m一帯が大窪城の範囲と考えられ、西側に張り出す尾根上に
 築かれた天神山城とその南方の愛宕山城と合わせて大久保城とも呼ばれています。
  各城郭はお互いに密接な関係を持っていたと考えられています。
  大窪城跡は、永承元年(1177)平氏一族の大掾宗幹が大窪郷の愛宕山に築いたのが始まりとされ、14世紀
 ごろ奥州の石川冠者有光の十四世詮光の三男光治が、佐竹氏に仕えて初代大窪城主となりました。
  以後、大窪郷を支配すること八代200年に及びました。
  戦国時代の16世紀頃、城は愛宕山・天神山に加えて現在の地へも造られ、地域支配と防衛の拠点となりました。
  今でも山頂から東側を眺めると、二重の濠跡(ほりあと、斜高四~七m)や土塁跡(高さ1~2m)がその面影
 をとどめています。
  暇修館は水戸藩の郷校で、天保十年(1839)に元城郭の一部が畔に提供され、学問研修の施設として作られ
 ました。
  水戸藩に設立された十五の郷校のうち五番目に古いもので、初代館守大窪光茂のもと、身分を分かつことなく、
 医学、剣術、弓術、射撃訓練などがおこなわれました。
                                 日立市教育委員会


暇修館復元の記です

  天保十年ここ大窪城跡に水戸藩立郷校が創立され興勢館と名付られた、数年後暇修館と改められ、文庫には和漢
 の書籍数十冊を蔵し庶民研修の処として整備され、安政三年には武場の新設に伴い、名も大久保郷校となったが、
 藩末の内乱で哀徴した、維新後再興されたが間もなく廃校となった、その後建屋は改造されて学校役場等に用いら
 れ暇修館の名を以って親しまれてきた、終戦後老朽甚だしく、地元大久保協同組合等の切なる要望もあり、日立市
 当局は文化財保護の方針により復元を期して解体した。
  偶々天保十一年この地を視察した筑波山麓の学者長嶋尉信の見聞記が発見され、復元計画はにわかに進み茲に心
 籠る工事の完成をみたのである。
  水戸藩の郷校十五を数えるなかで暇修館の存在は極めて大きい、学問尊重の意味と教育が一部の特権層に限らず
 広く庶民に普及した歴史的意義に思いを致し乞われるままに一文を草して暇修館復元の記とする。
    昭和48年8月     筑波大学教授 瀬谷義彦撰文     日立市教育委員会教育長 軍司勲一郎書
 




暇修館裏庭です、土塁が巡ります

土塁の先には堀が有ります

北側の堀跡です

虎口先から北側に回り込んでみます、土塁は有ります

北側の土塁の先は堀です



先にも土塁が続き、堀が有ります

では、次へ行きましょう
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県日立市、助川海防城跡です!!

2015-01-30 05:14:08 | 城跡・館跡・陣屋跡
助川海防城跡は、日立市役所の南西1kmほどのところ、

国道6号線の日立病院や小学校の直ぐ西側の高台にあります

上り口に城跡案内が有ります、あと190mです

助川城址公園入口です

助川城跡公園案内図です

西側から見た、養生館跡です

西側の公園入口です、虎口状に成っています

本丸まで行きましょう

広い段郭が並びます

段郭からの太平洋の眺めです

尊王攘夷の石碑が有ります

遠見番所跡です

番所前から見た太平洋です

表門礎石跡です



階段の先は枡形に成っています

史跡 助川海防城跡石碑です

助川海防城説明版です

  水戸藩第九代藩主の斉昭公は、天下に率先して海防の重要性を強調し、天保七年(1836)家老山野辺義観を
 海防総司という新設の重職に任命し、太平洋を一望におさめるここ助川(介川)村の高台、要害の地形に拠り城郭
 を築いて居住させ、異国船の無断侵入に、備えさせた。
  これが助川海防城です。これを海防城と称するのは、一大名の城と異なり、わが国にも当寺類例のない海防を目
 的とする城郭だったからである。
  この城は完成までに五年の歳月をようし、総面積は六十八万平方メートル(二十余万坪)で、助川小学校の校門
 付近にあった館入口(城の表門)から三の丸(一部は助川小学校敷地)、二の丸(一部は太陽の家)本丸と進むに
 したがって高く、本丸には、異国船を見張る櫓もあった。
  海防城は、元治元年(1864)九月、幕末水戸藩内乱のときに焼失し、当時の遺構としては本丸表門の礎石の
 一部、二の丸にあった鳩石だけとなった。
  しかし、茨城県史跡に指定された二の丸の一部と本丸跡等には百余年前の城郭を偲ばせるものがある。
  ちなみに、大佛次郎氏は、昭和四十年十二月中旬この城跡を訪れ調査されたが、その直後執筆された氏の歴史小
 説「夕顔小路」に、この海防城の落城前後の模様が興味深く書かれている。
                            日立市教育委員会



本丸館跡です

では、次へ行きましょう
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県日立市、御岩神社です!!

2015-01-29 21:43:38 | 文化財・寺社
御岩神社h,日立市役所の北西約5kmの処に有ります

県道36号線の、日立きららの里の南側、高鈴山への登山口にも成っています


茨城四十五景御岩山の石碑です、この直ぐ脇に駐車場が有ります

鳥居です

御岩神社の説明版です

参道を進むと、まず,愛宕神社があります


三本杉です、幹が三本出ています

天然記念物の石碑です

森の巨人たち100選です

御岩山の三本杉の説明版です

山門です

裏面です、徳神の文字が、境内のあちこちに見られます

常陸の国風土記の記載文面です

大きな切株にしめ縄が掛かります、切株からは小さな杉の木が生えています

山内案内図です

心字池でしょうか

橋を渡って先へ進みます

百観音堂です

阿弥陀如来像です

本殿です


宝物殿と説明版です

地蔵様です

御岩山大権現大日堂へ行きましょう

手水舎です

大日堂です、三つ葉葵の幕が有ります

本殿です

拝殿右手に姥神です

直ぐ後ろにお稲荷様です

青麻神社です

裏手には、八代竜王神が有ります

先にも、神社が祀られているようですが、戻りましょう

では、次へ言いましょう
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県常陸太田市、東金砂神社です!!

2015-01-28 03:49:58 | 文化財・寺社
東金砂神社は、常陸太田市役所の北約16kmの山の頂上部に有ります

龍神大吊橋から約3km戻って県道33号線脇に赤い大鳥居が有ります

鳥居をくぐって、東へ


東金砂林道を進みます

右が旧道です

鳥居の前に駐車場が有ります

東金砂神社の石碑です

東金砂自然環境保全地域の案内です

現在地は右下です

東金砂神社案内図です

東金砂神社説明版です

手水舎です

では、お参りに行きましょう

階段を上がって参道を進むと

また階段です、仁王門が見えます

仁王門の額です、坐王閣でしょうか


左右の仁王様です

仁王様の後ろには、石ひき臼と

石つき臼です

更に階段を上がります

田楽堂です

田楽舞の説明版です

田楽堂の左手に上へ上がる階段が有ります

鐘楼です


境内社です

針でしょうか

拝殿は更に上です

拝殿へ上がります


拝殿です

東金砂神社の説明版です



本殿です


拝殿周りにも境内社が有ります

では、次へ行きましょう


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県常陸太田市、武生(たきゅう)神社です!!

2015-01-27 07:16:06 | 文化財・寺社
武生神社は、常陸大宮市役所の北北西約19km

龍神大吊橋の北西約2kmの武生山(459m)の山頂部近くにあります

龍神大吊橋や龍神ダムの入口から北へ県道33号線を進み、武生林道を西へ入ります


林道を登り切ってもうすぐ武生山山頂というところで、大きな鳥居が有ります



鳥居をくぐって参道を進むと、神社への登り口です、井戸が有ります

直ぐ先の道路脇に駐車スペースが有ります、赤い鳥居の前の処です

仁王門が有ります

更に登ると、鐘楼です

拝殿前です


本殿です

本殿裏面の親子獅子です

拝殿前に説明版が有ります
  
   武生神社
  神武天皇の頃、大戸道命が社の西山の山上に降臨され、大宝元年(701)役小角が神霊をこの地に遷したと
 伝えられている
  大同元年(806)坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、武運長久を祈願して本殿を修築し、「やぶさめ」の神事を
 奉奏したという、この儀式は最近まで伝えられていた。
  元は修験道の道場であったが、鎌倉時代に東金砂山東清寺の末寺となって奉仕した、しかし、江戸時代に徳川
 光圀の命により、元の修験職へと戻り、飯綱大権現と称し、武生山岩谷寺大王院が別当職となった。
  その後、明治初年の神仏分離の実施により、武生山岩谷寺大王院が廃寺となった。
  現在、仁王像・鐘など両部神道の遺物が残されている。
  現在の本殿は天明六年(1786)の再建である、仁王像は正徳六年(1716)に完成したとされ、作者は
 大仏師運慶であると伝えられている。
  武生神社本殿・・・・市指定文化財

   太郎杉
  武生神社本殿裏山頂にある、推定樹齢八百年、高さ約三十五m、周囲約五m、同年代の巨樹が脇にあったため、
 横枝が無く、反対側に大きく突出した枝張りは見事である、自然に育成した典型的な杉として祀られている。
  市指定天然記念物
                                常陸太田市教育委員会



太郎杉です


境内社です

では、次へ行きましょう
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県常陸太田市、龍神ダムです!!

2015-01-26 21:38:47 | Weblog
龍神ダムは、常陸太田市の北16kmのところに有ります

龍神大吊り橋は、バンジージャンプのメッカ的場所です


龍神ダムサイトです

上にみえるのが、龍神大吊橋です

龍神ダムの説明版です

ダム案内です

周辺図面です

ダムサイトです

配水施設です

龍神ダム緒元プレートです

下流側です

龍神ダム湖です

では、つぎへ行きます
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県那珂市、戸村城跡です!!

2015-01-25 06:27:25 | 城跡・館跡・陣屋跡
戸村城跡は、那珂市役所の西約6km、那珂川の河岸段丘上に有ります

那珂西城跡と那珂川を挟んで東西に向き合った位置に成ります

遺構は、県道102号線と県道315号線の交差点の南西側に点在します


県道交差点から南へ進むと県道西脇に戸村不動尊が有ります



戸村城跡入口の案内板が有ります

不動尊南側の住宅地の細い道を進みます

西端近くの南北に土塁が残ります

東西方向に堀跡です


更に北側にも東西方向に堀跡が残ります

西側から南側に用水路が有りますが、堀跡を利用して作られているようです

かなり大きな敷地の城跡ですが、住宅が多く立ち並んでしまって

遺構の一部しか残っていないのは残念です

駐車場が見つからなかったので、車の中からの写真のみになってしまいました

では、次へ行きましょう     (2015年1月3日)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県城里町、那珂西城跡です!!

2015-01-24 02:12:04 | 城跡・館跡・陣屋跡
那珂西城跡は、城里町役場の南東約5km、城里町の南東の隅に辺ります

国道123号線の直ぐ東側にある宝憧院のある所です


宝憧院山門です、山門脇には大きな土塁が有り、山門の先に駐車場が有ります

山門脇に説明版が有ります

    那珂西城跡
  南北朝時代の山城の跡で、昭和九年に県指定史跡になる、広さ約四ヘクタール、空堀土塁が一部残る
  秀郷流藤原姓那珂氏の本拠といわれてきたが、大中臣姓那珂氏の居城とする説が有力である
  那珂氏の後佐竹氏が支配し、城番を置いたという。
    宝憧院
  真言宗豊山派、泉山宝憧院宝厳寺と号す
  応永三年(1396)上宥(智空上人)が赤羽経塚の地に開山し、真言宗の学問所として隆盛。
  徳川光圀の発願により元禄九年(1696)那珂西城跡の現在地に移り、京都上品連台寺から以伝僧正
 を招き中興開基とした。

宝物の説明版です
    香象
  象の形をした香炉で、真言宗で秘法の伝授を受ける儀式に用いる。
  室町時代初期の作と推定され、横三十六センチ・幅十一センチ・高さ十三センチ、ケヤキ材が使われて
 おり、保存状態も良く、県内でも貴重な仏具である。
  昭和五十七年七月二十四日町指定有形文化財に指定された。
    大日如来坐像
  平安時代作と推定される、高さ九十五センチの木造仏で、像の裏には徳川光圀の修理刻名が有る。
  大日如来としては県内最古のものといわれている。
                                  城里町教育委員会

こちらも文化財の説明版です
    両界曼荼羅 絹本着色 二幅
           常北町那珂西  宝幢院
  制作年代は室町末期から安土桃山期と推定される。
  両界曼荼羅とは、真言密教の宇宙観をあらわしたもので、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の一対からなって
 いる、いずれも大日如来を中心として胎蔵界は四一四尊、金剛界は一四六一体が図式的に縦一一七センチメ
 ートル、横一〇六センチメートルの画面に綿密に描かれている。
  昭和五十七年七月二十四日   常北町指定有形文化財となる。


北側の土塁です、止まっている車や建物からも、大きさがわかる立派な物が残っています


南側の墓地脇にも土塁が残ります

山門前の堀跡は笹薮で覆われてしまっています

山門脇から土塁上に上がることが出来ます


土塁は北へ延び、曲がって東へ延びています


六地蔵様です

本堂です

本堂東側にも土塁が残ります

では、次へ行きましょう

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県城里町、石塚城跡です!!

2015-01-23 17:22:55 | 城跡・館跡・陣屋跡
石塚城跡は、城里町役場の北約1km、役場のある台地の北の端に有ります

国道123号線と県道61号の交差点の北側の住宅地の細い道を東へ入ります

突き当りを北へ進むと

説明版の前に出ました

  石塚城跡
 面積 約1ヘクタール
 年代 南北朝時代・戦国時代
  佐竹氏第十代義篤の二男佐竹宗良は、所領の石塚に石塚城をを築城し、石塚氏と称し、南北朝期から戦国時代の
 末期まで当地方を統治してきた。
  佐竹氏が秋田へ国替えとなったので、石塚氏もこれに従って秋田へ移り石塚城は廃城となった。
 その城跡は、小字御城、御城東、根小屋に及ぶ広大なものであり、土塁や堀跡などその一部が残っている。
                                     城里町教育委員会



説明版の前には堀跡らしき、窪地が有ります、こちらは南側

こちらは東側です

北側に進みます

西側の郭は笹薮です

北へ進む路の西側には堀跡が確認できますが笹に覆われています

笹で堀はいっぱいです

廓の入口です、土橋状に成っています

廓の中は畑として利用されているのでしょうか、耕されています

廓の南側にも堀跡が有りますが、土塁は有りません

西側は杉林に成っています

廓と杉林の間にも堀が有ります

土橋を戻って東へ進むと、畑の向こうに墓地が広がっています、東側の郭の様です

では、次へ行きましょう
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県城里町、高久館跡です

2015-01-22 16:10:51 | ドライブ
高久館跡は、城里町役場の北西2kmほどの所に有ります

平治館跡の台地の延長線で南南西約1kmほどですので、丘の上を回って行きっます

道路脇に標柱が有ります

大きな窪みの畑は堀跡の様です

こちら側の畑が郭跡です

西側にも郭が有ったようです

北側の民家の位置も廓だったのでしょうか

少し南へ進むと道路が東へ回り込んでいます

道路西側に駐車帯が有って、説明板が有ります

   高久館跡
 高久の東南の角「舘(たて)」にあり、八幡館ともいう。
 永仁元年(1293)に大掾氏の家臣鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたといわれる。
 鎌倉後期に佐竹氏支族の馬淵小三郎景義が高久に移って再築し、高久氏の始祖となった。
 天文十二年(1543)の陸奥久保田・関山の合戦には、高久氏は佐竹軍の配下として
 従軍し。九代義時・十代義貞・その子宮寿丸は、窪田陣帰陣時関山で討死し、十代二百
 数十年続いた高久館は廃された。
                         城里町教育委員会
                                 
  

廓と思しき所は、地域の墓地に成っています

茨城県北部で「城」と「館」の違いは無かったと、あるホームページに記載が有りました

確かに、この高久館は、廓の数や堀・出丸などを考えると、「城」のイメージですよね

「館」と言うと、単郭で、領主が通常暮らしていた所でしょうか

「根小屋」も、「館」に近い物でしょうか


では、次へ行きましょう
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県城里町、平治館跡です!!

2015-01-21 21:01:00 | 城跡・館跡・陣屋跡
平治館跡は、城里町役場の北約2km、国道118号線の西側に続く段丘上に有ります

大山城跡の南約1.5kmほどの所に成ります

大山城跡の記事の最後の南側に有る橋の所を南に進んで、右側の段丘に登った所に有ります

平治館址の標柱です

標柱の脇に説明版が有ります

 指定文化財(史跡)
平治館址
 
この館は元弘二年(1332年)当地方を治めていた常陸大掾高幹の世、
佐貫氏はじめて築きのち穂高平治が居住した。
天正年間頓(徳)ヶ原合戦のときは大山氏の出丸城であった。



館への入口です

館の郭内です


内部のほとんどが刈払いをされて良い状態で維持されている様です

大山城跡から上がって来た道路です

台地の上には、広い田圃が広がっています

標柱の直ぐ西側の畑です、堀跡が薮の中に残ります

西側の畑です

では、次へ行きましょう
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県城里町、大山城跡です!!

2015-01-20 05:39:21 | 城跡・館跡・陣屋跡
大山城跡は、城里町役場の北約4km、国道123号線をきたに向かって進むと

左手奥の丘の上に御城のような建物が有ります、実は宿泊施設なのですが

此の丘が大山城跡です

丘の基部東側の宿泊施設上り口です、「大山城」の看板が立てかけられています

町指定史跡の標柱です

説明版が有ります

   大山城跡
  長承元年(1132)大掾(だいじょう)氏の家臣鈴木五郎高郷という者が、舘山に初めて城を築いたといわれている。
  その後、貞治元年(1362)十代佐竹義篤は、四男義孝を大山村に封じた、
  義孝は白を再構築、地名をとって大山氏と称し、大山氏の祖となった。
  以後、九代二百三十余年間にわたって居城した。
  文禄四年(1595)九代義則の時、佐竹領内知行替えで小高城(行方郡麻生町)へ移り、大山城は廃された。

                                          城里町教育委員会 

説明版の裏側から登ってみましょう

急な山道を登ります

ささが刈払われて歩きやすく成っています


宿泊施設の建物脇に登ってきました、国道から見えた建物です


左手が城跡、本丸虎口の様です


本丸です


虎口の脇の一段高い所に祠が祀られています、物見台の様です

草刈がされていて、よく管理されているようですが、木立が多くて眺めは得られません

では、次へ行きましょう

南側から眺めた館山です、国道からの眺めがより雰囲気有りです                     
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県城里町、下圷(しもあくつ)館址です!!

2015-01-19 09:22:27 | 城跡・館跡・陣屋跡
下圷館址は、城里町役場の北東2kmの那珂川河川の段丘上に有ります

国道123号線の町役場の北がわ一度谷底へ降りた所を県道61号線で東へ

那珂川の手前を北へ入ります、道なりに進むと



道路脇に案内標識が有ります



そばには、説明版が有ります

城里町指定文化財(史跡)

字堀之内あたり南は平地で入口を大門、北を八幡平と言い水田をめぐらす、
佐竹支族石塚宗義が住んだが、のち石塚城に移ったので、その後桐原氏が住んだという
                             城里町教育委員会


館址への上り口です

登り口の脇の水路は堀跡の様です

館址は、墓地に成っています

尾地の南側は薮の中に堀が残るようです

では、次へ行きましょう
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県那珂市、南酒出城跡です!!

2015-01-18 18:58:13 | 城跡・館跡・陣屋跡
南酒出城跡は、那珂市役所の北約3kmの所

県道104号線から東に入った蒼龍寺の境内と

その、南側に城跡が有ります


県道の入口にある案内板です

蒼龍寺の石碑です。蒼龍寺の入口に駐車場が有ります

説明板が有ります

  南酒出城跡
所在・・那珂市酒出   築年・・天正末年  築城者・・佐竹氏

  酒出の歴史
 佐都西郡酒出郷は平安末期には佐竹氏の所領であったが、治承四年(1180)源頼朝が佐竹秀義を討伐した後
奥七郡并太田、額田ともに収公された。
 秀義はのち文治五年(1189)頼朝の奥州征伐に参陣し御家人となり、二男義茂、三男助義はそれぞれ、南酒
出氏、北酒出氏を名乗った。
 承久三年(1221)承久の乱で宇治川の戦いで南酒出氏は戦功を挙げ、その後多くの支族を分立させたが、戦
国期後半にいたりその名跡は佐竹一門の東家が受け継いだ。
  南酒出氏略系譜
 佐竹秀義―――義茂―――義俊―――義遠―――義頼―――義長―――義興―――義氏・・・・・義忠
      (南酒出氏)     (田谷氏)(森戸氏)     (白鳥氏)(町田氏)  (酒出氏)
        助義(北酒出氏)
  城の歴史と構造
 現在の残されている南酒出城跡は内宿集落より低く東に偏っており、南酒出氏の城ではなく、額田城を攻撃するため
佐竹氏が設けた付城、向城であったと考えられる。
 天正十匕年(1589)江戸重道は佐竹氏の支援を得て額田小野崎昭道と戦ったが和睦した。
 秀吉の天下統一後の同十九年佐竹氏は額田氏を攻撃して落城させ、昭道は伊達氏を頼って落ち延びた。
 城は南の谷に沿った台地縁辺部にⅠ郭、Ⅱ郭、Ⅲ郭と東西90m、南北60mの連郭式城郭の構で造られている。
 Ⅰ郭の北の堀とⅡ郭の西の堀は屈曲し横矢掛かりとなっている。
 城の北の蒼龍寺周辺も曲輪Ⅴ郭となり、城の北のⅣ郭との間には堀が東西に掘られている。

  平成25年3月                               那珂市歴史同好会


縄張り図です

一郭へ行きましょう

土塁と堀跡が残ります


林の中にも堀跡や土塁が残ります

本廓入口です

先の民家は三郭に建っています、手前には土塁が確認できます

一郭入口です、大きな土塁が有ります

入口の土橋です


両側に深い薬研掘りが伸びています

一郭です、杉林に成っています

土塁が廻っています

土塁の上を進んでみます

南側の土塁を東へ進みます

南側の谷地です

北側の四郭との間の堀跡です

一郭の中ほどに水の手が有ります

一郭北側の堀跡です

一郭北東側の櫓台のような部分です

堀の向こう側は二郭です

一郭入口へ戻ってきました

蒼龍寺に行きます、本堂です、南酒井出城の五郭の跡に建っています

枝垂れ桜です

軒下に接続した形の鐘楼です

蒼龍寺の説明版です


市天然記念物のカヤの木です

では、次へ行きましょう


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茨城県東海村、長松院です!!

2015-01-17 20:44:45 | 文化財・寺社
長松院は、石上城主の菩提寺です

石神城跡の南に有ります、外廓の位置です

県道358号線の信号北側に南入口が有ります



南側入口に大きな看板が有ります、石神城主歴代霊廟の文字も見えます


本堂です


案内版が本堂の脇に有ります

墓地入口です

霊廟です

霊廟前に石碑が有ります

  石神城主小野崎氏墓碑
石神小野崎氏は、平安時代に秀郷流藤原氏として常陸国久慈郡に勢力を張っていたが、源義光の久慈郡佐竹郷進出
にともない、その子孫の佐竹氏の家臣となり、佐都西郡小野崎郷を本貫の地とした、南北朝時代には足利尊氏方と
して佐竹貞義、義篤に従い、各地を転戦した、貞和四年に小野崎通郷が多賀郡友部の櫛形城に本拠を移したが、二
男道房は旧地にとどまり八百技城に移り石神氏の初代となった
永享四年、山入の乱にともなう石神城合戦で、小野崎越前三郎道房(初代道房の孫)は戦功を立て鎌倉公方足利持
氏より感状を与えられた、佐竹家内紛である山入の乱は約百年続いたが、その間近隣諸豪族の介入が強まった。
延徳元年、伊達、会津、白河、小山、結城一同が佐竹領に侵入した時、小野崎道綱は佐竹義治の身代わりとなって
久慈郡深萩で戦死し、佐竹軍を大勝の導いた、その功績によりその子道老に那珂郡石神三百五十貫、久慈郡川井三
百五十貫の地が与えられた。
山直、石神、額田の小野崎三家は同族の江戸氏と共に佐竹氏の宿老であったが、有力国人として強い独立性を持っ
ていた。
明応三年には、江戸氏・小野崎氏は岩城氏の仲介で山入氏との同盟を破棄し佐竹義舜と和睦し、永正十四年久慈郡
薩都郡宮に佐竹義舜・一門・一族ともに小野崎越前守通老・道長父子も銭を奉納している、しかし、亨徳二年部垂
の乱で佐竹家中が再び動揺すると、石神城主小野崎大蔵太夫道長と額田城主小野崎下野守篤道との間で領地争いが
起こり、天文十六年には額田氏の攻撃により石神城が落城した、しかし、永禄元年頃、佐竹義篤への戦功により、
帰城が認められ、石神城鎮守住吉神社を再建し戦死者の供養を行った、その後、道長の子小野崎越前守道隆は佐竹
義篤・義重の軍事動員に応じ、配下の人衆、足軽を引き連れ奥州南郷・常陸中南部・下野那須・芳賀郡に進出した
天正五年には道老の二男の讃岐守道真が、北条氏の北関東進出を防ぐため結城晴朝を支援し、佐竹義重のもとで三
百五十人を率いて参陣している。
文禄四年に佐竹義宜が領内の知行割を行った祭、小野崎千代房(通広)に那珂郡石神のうち九百石が与えられた、
しかし、慶長七年佐竹義宜が徳川家康によって秋田への移封を命ぜられると、小野崎義広もそれに従い秋田へ行き
石神城は廃城になった。
当墓碑は宝暦年中に元の墓碑が破損したため、旧領の石神内宿、外宿、白方、北河原の四か村が再建したもの。
それぞれの俗名は、没年の古い順から小野崎通老(天文九年没)道長(通老の長男天正十年没)通実(通老の二男
文禄四年没)である、もとの墓碑は文禄四年九月二十日に小野崎久三郎通広が三十石の田畑を菩提寺の長松院に寄
進しているので、この時に建立されたと考えられる。

当墓碑も長年の風雨にさらされ磨滅、破損が甚だしくなったため、平成十三年匕月長松院檀家有志の手により覆堂
が建てられ、保存が計られた。

では、次へ行きましょう
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする