関栃沢地区は、深浦町役場の、深浦町役場戸瀬支所の南東約700mのところ
山の斜面に「甕杉」が在ります(JR五能線の陸橋の上から見ました)
国道101号線いこいの駐車場に入りました
「片曽のイチョウ」から旧道を東へ
右手の斜面上に「甕杉」を見上げました
上り口の標柱、と菅江真澄の道の標柱です、文面には・・・深浦を出立して鰺ヶ沢に向かう真澄は、寛政9年(1779)5月7日(「つがろのおち」)、関邑の安浄寺(浄安寺)の「しりよりいりて」甕杉、阿弥陀杉を見る。
「あみだ杉とて田のほとりにあり」(現在はない)「かめ杉は山ぎはの小高き処にあり、その木のもとに貞和3年(1347)貞治6年(1367)の石ぶみどもたてり」と記している。当時すでにこの杉の下に石碑が置かれていた。
石碑には「有名なる亀杉の下に600年前の古碑あり」と有りますので新しものかもしれません
石段を上がります
石段の先に目的のスギが見えて来ました
中段に
甕杉延命地蔵菩薩の祠
説明版です
関の甕杉と古碑群(供養碑)
甕杉はこの地方を遊覧した菅江真澄の記録にも図示され、甕の形に似ているのでこう名づけられた。たらちねの大銀杏と共に安東氏ゆかりのものか。推定樹齢は1000年。
樹下の古碑(板碑)は南北朝時代(14世紀)安東一族によって建てられ北朝年号が刻まれている供養塔で、付近の田畑に散在していたものをここに安置した。
阿弥号の人もあるので時宗の影響も考えられる。
津軽深浦
甕杉の立つ面に上がって来ました
南東側から太い幹を見上げました
東側から、目通り幹囲8.2mの巨木です
町の巨樹・古木の標柱です、名称は「関の杉」です
北東側から
北側から
北西側(古碑の前)から
南西側から見ました
古碑群と刻字説明版があります
古碑群(42基)です、左から右へ3枚分で並んでいます
刻印の一部は読めなくなっています
更に北側にも数基の板碑が並んでいます
説明版です
県指定史跡
関の古碑群
昭和30年1月7日指定
この古碑は、61cm~160cmある大小不同の自然石を使用した供養碑で、この場所から42基出土されており、最も古い碑は暦応3年(1340)で新しいのは応永8年(1401)と判明しています。
この碑には死者の冥福を祈る追善供養碑と、生前に仏事を修めて死後の冥福を祈念する逆修石塔があります。
碑面には、安倍という姓が刻まれていることから、その一族を供養するために建てられたと推測されます。また、この周辺には城跡があり「折曽の関」といわれていることから、歴史的に重要な資料であります。
宗派的には”阿号”が判明されているので、一遍上人を開基宗祖とする時宗の信徒によったものと考えられます。
深浦町教育委員会
東側に祠です
北側に広がる日本海を見ました
では、車に戻って次へ行きましょう
山の斜面に「甕杉」が在ります(JR五能線の陸橋の上から見ました)
国道101号線いこいの駐車場に入りました
「片曽のイチョウ」から旧道を東へ
右手の斜面上に「甕杉」を見上げました
上り口の標柱、と菅江真澄の道の標柱です、文面には・・・深浦を出立して鰺ヶ沢に向かう真澄は、寛政9年(1779)5月7日(「つがろのおち」)、関邑の安浄寺(浄安寺)の「しりよりいりて」甕杉、阿弥陀杉を見る。
「あみだ杉とて田のほとりにあり」(現在はない)「かめ杉は山ぎはの小高き処にあり、その木のもとに貞和3年(1347)貞治6年(1367)の石ぶみどもたてり」と記している。当時すでにこの杉の下に石碑が置かれていた。
石碑には「有名なる亀杉の下に600年前の古碑あり」と有りますので新しものかもしれません
石段を上がります
石段の先に目的のスギが見えて来ました
中段に
甕杉延命地蔵菩薩の祠
説明版です
関の甕杉と古碑群(供養碑)
甕杉はこの地方を遊覧した菅江真澄の記録にも図示され、甕の形に似ているのでこう名づけられた。たらちねの大銀杏と共に安東氏ゆかりのものか。推定樹齢は1000年。
樹下の古碑(板碑)は南北朝時代(14世紀)安東一族によって建てられ北朝年号が刻まれている供養塔で、付近の田畑に散在していたものをここに安置した。
阿弥号の人もあるので時宗の影響も考えられる。
津軽深浦
甕杉の立つ面に上がって来ました
南東側から太い幹を見上げました
東側から、目通り幹囲8.2mの巨木です
町の巨樹・古木の標柱です、名称は「関の杉」です
北東側から
北側から
北西側(古碑の前)から
南西側から見ました
古碑群と刻字説明版があります
古碑群(42基)です、左から右へ3枚分で並んでいます
刻印の一部は読めなくなっています
更に北側にも数基の板碑が並んでいます
説明版です
県指定史跡
関の古碑群
昭和30年1月7日指定
この古碑は、61cm~160cmある大小不同の自然石を使用した供養碑で、この場所から42基出土されており、最も古い碑は暦応3年(1340)で新しいのは応永8年(1401)と判明しています。
この碑には死者の冥福を祈る追善供養碑と、生前に仏事を修めて死後の冥福を祈念する逆修石塔があります。
碑面には、安倍という姓が刻まれていることから、その一族を供養するために建てられたと推測されます。また、この周辺には城跡があり「折曽の関」といわれていることから、歴史的に重要な資料であります。
宗派的には”阿号”が判明されているので、一遍上人を開基宗祖とする時宗の信徒によったものと考えられます。
深浦町教育委員会
東側に祠です
北側に広がる日本海を見ました
では、車に戻って次へ行きましょう