秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

道成寺縁起とかみながひめ

2015-08-16 | 古代史のミステリー


和歌山県日高にある道成寺は、安珍清姫伝説で有名です。
絵とき説法の予約入れてあったので、縁起堂でまずお話聞いて続いて宝物殿を拝観しました。

一番気になったのが宮子姫像でした。






道成寺は、大宝元年701年創建の和歌山県最古のお寺で、
本堂のご本尊は、日本で二番目に古い千手観音像です。

928年、福島県白河から来た修行僧の安珍が、熊野詣の往路に和歌山県田辺の清姫に惚れられます。
帰路必ず寄ると言ったのに約束をたがえ逃げます。
60km以上追いかけられ、道成寺の釣鐘に隠れるも、大蛇に化した清姫に焼き殺されるというお話。

この安珍清姫伝説に基づく古典芸能が道成寺物。
謡曲や日本舞踊で有名です。
記録に残っている道成寺物の作品数は200以上、
今も上演される演目は約30、日本中で年間100公演以上が演じられてるそうです。









先に書いたように、私には宮子姫が一番気になりましたので調べてみました。

道成寺は文武天皇の勅願寺で、その縁起は宮子姫=髪長姫の物語がもとにありました。

有吉佐和子さんが文を書かれ、秋野不矩さんが絵を書かれた絵本
「かみながひめ」



まず、あとがきより
道成寺は、文武天皇の勅願寺です。
資料によれば、日高の村長(むらおさ)に生まれた女が
母親の犠牲によって、丈なす黒髪に恵まれ
やがて、藤原不比等の養女となって入内し
文武天皇の妃となり、聖武天皇を出産したことになっています。
そのために道成寺は、女人開運を祈願するお寺として有名でした。
 



なんで、延長6年(928年)に安珍清姫の伝説に上書きされて、
この髪長姫縁起が隠されてしまったのでしょう。

清姫のおどろおどろしい恋よりも髪長姫のほうがずっと美しくて素敵です。




絵本の文そのまま写させてもらいます。

むかし、きのくにのひだかのさとに
うつくしい女の子が生まれました。
子どもはすくすくと育ちましたが
どういうわけか、かみのけがはえません。

そのころ海は荒れて、
いくにちもさかなのとれない日が続きました。
海の中にあるひかりもののせいで
海が荒れるのではないか。
その噂をきいた女の子の母親は
自分がそのひかりものをとりにいく決心をします。

「子どもの髪がはえないのは
わたしがこれまで、わがままをしてきた報い。
わたしが海に入ってあのひかりものを
取ってくれば、神様が許してくださるかもしれない」
そう思った母親は、ある夜、海にとびこみました。
自分の命を犠牲にしてまで
海の底から持ち帰ったひかりものは一体の観音様でした。

母親が葬られた場所に観音様をお祀りすると
その日から、女の子の頭に髪がはえはじめました。
やがて人々は、この女の子をかみながひめとよぶようになりました。

お母さんが命とひきかえて、観音様からいただいた髪だというので、
女の子は、髪が抜けても捨てるようなことはせず
桜の枝にかけておきました。

ある日、1羽のつばめが 枝にかかった髪の毛をくわえて
みやこの方へ飛んでいきました。

ある朝、ふじわらのふひとは、屋敷にあるツバメの巣から
ながいながい髪の毛をみつけました。
この髪の持ち主ならきっと美しい姫に違いないと思った
藤原氏は、姫をさがしあて、養女にしました。

やがて、姫は、天子さまのもとへ嫁ぎます。
妃になったかみながひめは、生まれ故郷のひだかの
さとに、お母さんと、観音様をお祀りするお寺の建立を
お願いしました。

そのお寺の名前は、道成寺といって
今でも和歌山県日高郡というところにあります。



16 コメント

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Unknown (TM)
2015-08-19 21:44:24
聖武天皇の生母が藤原不比等の娘宮子だということは知っていましたが、その宮子が養女だという言い伝えは知りませんでした。どの程度の信憑性があるんでしょう?面白いですね。
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TMさんへ (ulala)
2015-08-20 14:30:57
文武天皇に正妃がいなかったのは歴史から消されたという説があるそうです。
梅原猛さんの『黄泉の王』では、
正妃は紀竈門娘であったが弓削皇子との不倫発覚し嬪という妃の身分を廃された。
さらに『海人と天皇』で、
「文武天皇が紀州御坊へ療養の旅をしていたとき、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった。」とする説を考証している。

Wikiでは、文武天皇即位直後の元年8月20日(697年9月10日)に夫人とした藤原不比等の娘藤原宮子が妻の中で一番上位であった。
同日嬪となった石川刀子娘と紀竈門娘がいる。

紀皇女と弓削皇子は処刑されたのか?
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-3e6f.html
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「妃」であった二人は713年に降格された (ulala)
2016-02-20 10:51:21
二人の「妃」とは、紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)と石川刀子娘(いしかわのとねのいらつめ)

>あまたの后と皇子がいる中で、皇太子になれるのは皇后から生まれた皇子だけだったのですが、藤原氏は王族出身の紀竈門娘と石川刀子娘の二人の「妃」を夫人より下位に降格することで「夫人」であった宮子を最上位にしたのです。「石川と紀の嬪は以後『嬪』を称することはできない」と記したのは、二人が「妃」であったことを隠し、「夫人」より下位の「嬪」だったことにして平民に落としたということかもしれません。
詳しくは以下ブログで
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/39921175.html

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玄と宮子姫 (吉田一氣)
2016-02-23 01:53:38
以前玄を調べているときに
道成寺には出向いたことがあります。
筆者ブログ『大宰府 観世音寺 No205』に示した通り
良弁の思いから玄の至誠を知ることが出来ます。
その思いは21年の時を経て首塚を建てていることより明白です。
さてこの玄はたぶん暗殺されたものと思われます。
玄と吉備真備は反藤原の先導でしたから
不比等の初孫?の藤原仲麻呂に暗殺されたのでしょう。
この藤原一族とは間違いなく暗殺業の血統です。
この玄が宮子姫を救い出し聖武天皇と会わせているのです。
宮子姫は聖武天皇を生んだ後に幽閉されていたんでしょう。
玄は俗姓は阿刀氏で716年に入唐。
唐朝及び天皇より紫袈裟を賜った最初の人物です。
阿刀氏では法相六祖の一人の善珠が723年-797年がいます。
空海の母系が阿刀氏で阿刀家の養子の大足がいたので
空海は804年、第十六次遣唐使に随伴し
入唐出来たと云われていますが、
私は善珠の導きがあったと思っています。
この善珠は、志貴皇子の第6子で光仁天皇の長子の
親王禅師・早良親王の怨霊の慰撫祭祀をしています。
さて藤原不比等によって713年道君首名公が築後に左遷。
藤原仲麻呂によって745年玄が築後に左遷。
藤原時平によって901年菅原道真が築後に左遷。
この三貴人を慰撫するのが私の役目だと思っています。
話が戻って玄は橘諸兄政権で活躍したのですが
この橘諸兄は呉系河童の元締でもあります。
※河童祭祀の潮見神社の祭神は
橘諸兄橘奈良麿橘公業橘島田麿及橘朝臣渋江等の橘氏一族
歴史を見る限り藤原氏を呪う思いは大きいようなのですが
不比等はこれを予想して神霊界に仕掛けを施しています。
それが奈良の佐保丘の藤原邸に祭祀される天神八座です。
狭岡神社と呼ばれています。
八座といえばふつうは天皇守護の大御巫八神です。
不比等が祀ったのは天神八座となっていますが
それは強力な竜神でした。
そしてなぜかこの佐保丘には少彦名神を祭る常陸神社が
その後789年に勧請されています。
菅原道真の呪いというのは少彦名神由来です。

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吉田一氣さんへ (ulala)
2016-02-23 15:57:56
狭岡神社って全く存じませんでしたので、地図で確認しました。
興福寺南側の猿沢の池に身を投げた采女を福島の郡山から連れてきたのが、橘諸兄でした。
>橘諸兄は呉系河童の元締 に驚きつながってるなぁ~と感慨深い。

その猿沢の池にすむ龍は、志度の海に繋がりました。
中臣鎌足が亡くなったときに、唐の高宗のきさきだった娘が玉を供えるように送りよこしたのが沈んだという伝説。
高宗のきさきにそれらしき名前が見当たりませんでしたが、何かありそう。

かつて鞍馬寺の記事
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/4bdfa157c6ab76a9fae21dff2e79a04f
SportsClick「武術の来た道」より引用
>日本で最古の拳法流派・平心流は藤原鎌足を流祖としている。
>定恵は帰国後、父・藤原鎌足の供養のため多武峰妙楽寺(後の談山神社=奈良県)を建立。ここで長安で学んだ仏法や拳法を教授した。その拳法の流祖を父・鎌足に仮託したものと思われる。

コメント返しにも書きましたが
>定恵は帰国した3ヵ月後に暗殺されたことになってるようです。・・・死んだことにしただけではないかと思う

定恵(643-666)
道昭(629-700)
653年同じ船に乗って入唐し、玄奘三蔵に師事したんですね。

660年白村江の戦い
665年定恵 帰国して3ヶ月後死去
668年高句麗滅亡
669年鎌足死去
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Unknown (吉田一氣)
2016-02-23 22:45:29
能楽の『海人=海士』は興味深い内容ですね。
「鎌足の娘で藤原不比等の妹君が唐の妃になられるにあたって、
唐の高宗皇帝から興福寺に三つの宝物が贈られました。
そのうちのひとつ『面向不背の珠』を
この地で龍宮にとられてしまいました。
大臣はその珠を奪い返すため身をやつしてこの地に来られ、
その際に海女の乙女と契りを結ばれ、その海女が命を賭して
『面向不背の珠』を取り返す」という御存じの話ですが
四国八十八箇所霊場の第八十六番札所の志度寺で
その話を私も知りました。
http://japanese.hix05.com/Noh/5/yokyoku501.ama.html
この海女は死んで龍女となり最後には成仏するという筋ですが
実際は不比等が竜神結界祭祀するにあたり
人身御供としていたんではないかと思います。
前述の竜神の加護はかなりの犠牲の上に成り立っていると
感じております。
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Unknown (ulala)
2016-02-24 16:50:31
リンク貼ってくださったページで、やっと面向不背の珠の意味わかりました。
お能って、数々の不思議な伝承を取り上げてて、真実をそれなりに知らせてる感じがしますね。
志度寺は続きを書こうと調べれば調べるほどドツボです。
讃岐にはいろんな方が左遷だけでなく国司としても滞在してました。
藤原房前は地名にも残ってますし、菅原道眞は888年前後数年間。
そして崇徳天皇と浄土宗の法然は配流されてます。

実は、昨日夕方投稿した追記コメントが微妙なので見えなくしてました。
何を書いてたかというと
「2016-02-23 18:07:15
玄が幽閉されていた宮子姫を救い出し、も存じませんでした。
中身が多岐にわたり、怨霊からつい気になってる讃岐院に連想が飛んで、意味不明なコメント返しになってました。
説明不足な部分を少し補足しておきます。
志度寺で調べていると、崇徳天皇の霊を弔い鎮めるために、京都の白峯神宮をつくられたのですよね。

関係ないけど、讃岐に流された崇徳天皇の諱は顕仁(あきひと) 、今生天皇は明仁、音が一緒ですね。」

明治になって讃岐院が見直されたのは何でかな?
返信する
玄昉と宮子姫 (吉田一氣)
2017-03-15 22:09:32
前回の吉田一氣のコメントで
藤原不比等が祀った藤原家繁栄の天神八座は竜神結界祭祀で
かなりの犠牲の上に成り立っていると記載していますが
この術は強力で現代まで残っていました。
義淵の弟子の玄昉・行基・隆尊・良弁・道慈・道鏡などは
皆この竜に太刀打ちできなかったのです。
師匠の義淵は竜使いでした。
悪竜と変じた大津皇子を調伏したとかいう
妖しい話が伝わっています。
義淵は百済聖明王の末裔と云われていて
不比等は百済王子豊璋の血統です。
私見ですが藤原家繁栄の天神八座の竜神結界祭祀を
仕切ったのは義淵の可能性が高いと感じています。。
海女の血統の宮子姫も人身御供の中心のはずだったものが
誰かがちょっかいを出したせいで人身御供から外れて
幽閉されたものと思われます。
でもそのおかげで藤原家は盤石ではなく
栄光と苦難と争いの大一族となったのでしょうね。
返信する
宮子さんって (りひと)
2017-03-15 23:37:34
橘や紀や石川は、みんな同じ一族なんですよね。
私の中では。なので不比等が表舞台に立てたのは多分お妃のおかげであり、不比等自体が政権関係者に入り込んだと思います。
ですのでそもそも宮古は一人で最初の妃です。
身分が低いわけありません。片一方を低くするとどうなるでしょうか?もう一方が上がります。
これはただの印象ですから実態ではないですけどその後の影響を与えて藤原の天下を作りますね。

そう鎌足は宮子の娘だと話はバッチリですよ。
本来の直系息子が定恵で政権から抹殺されて娘婿が入り込み娘婿が気が付いたら裏で動いて先代の政権のトップを抹殺して長男もどこかに隠しちゃって娘も従わざるしかない。また娘婿側の両親が出てきてそっちに持って行ってしまう。

この法則は結構歴史の中は頻繁にありますし、スサノオをそうです、今も結構正念場ですね。

多分定恵は生きていそうなので今井戸のうさぎさんは復活してきているので彼の評価も少し変わってくるでしょう。

また聖武のあの特殊能力と関東との縁を考えると不比等の子のわけもないはず。すでに宮子はお腹に子供がいてから不比等の元へ行ってるとも思います。

宮子と観音が縁があるならば多分確実に石川や橘や紀の流れでしょう。鉢かつぎ姫も交野の観音さんでしたよね。いよいよ時期がきたみたいですね。1年前ですか、まあその時知っていてもまあ時期がこないと身体が危ないだけなので、今がグッドタイミングなのでしょうね。

不比等と舛添さんと籠池さんは同じようなイメージ。その裏で絶対的な力を持っている人が出てくるのか?どこかの国みたいに暗殺があるのか?
起こった事を受け入れて行くのみですね。3276

物事のすり替えが超うまいはずなので譲れない所は解明しないとまた同じ歴史が繰り返されそうで。まあ、大事な方は、隠れて生き続けているのも確かで宮子の流れも定恵の流れも間違いなく生きるべき理由があり守られて生きていくのでしょう。
目をそらされないように注意しないとあとの祭りになる危機感を過去は置いておいて今持たないといけませんね。

日高は観音の聖地なのですね?また地図見てみます。3267私が消されたらあーそうなんだと思ってもらえる人いたらいいなあ。行動で全てが見えてくるし、それを見る事が出来る目は最近とても増えてきてる気がしますね。

そっか鎌足千葉で生まれてる、お母さんは奈良ですから定恵は伊豆辺りならビンゴですね。定恵と宮古の子が聖武だったらまた不比等はただの義理の父。また頭が痛くなったのでこのくらいにして逃げますね。考古学でどうにか結果出して欲しい。結果出しても消されてるのかなあ?関東の古墳結構凄いはずなので。若い方の活躍を見守るボスがいっぱいいるといいですね。出る杭は打たないで。甘いかな?1426
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吉田一氣さんへ (ulala)
2017-03-16 15:41:11
西国33箇所の 明日香村の岡寺、この春には参詣いこうと思ってました。
義淵僧正は、扶桑略記では大和国高市郡の出身で俗姓を阿刀氏というと書かれてありました。
>空海の母系が阿刀氏
と去年のコメントで触れてくださってますが、同じ阿刀氏?

熊野国造の系図によれば、成務天皇の御代にニギハヤヒの末裔すなわちモノノベ氏の大阿刀足尼(おおあとのすくね)が熊野国造となり、その子の稲比が熊野直のカバネを賜ったとする。
これは以下サイトでみました。
http://michi01.com/ochiai/405dst26740601.html

次の文も興味深かったです。
「土木作業力がいかに豊富でも、測量設計の技術がなければ田圃一枚造ることができないのである。
雲南から水田適地を求めて長江沿岸を流下した水田耕作民は、河南広漠の地で僅かの自然河川に沿って水田を作り、土着の越族と混住しながら半農半漁の生活を送るうち、ある切っ掛けで東支那海・南支那海を横断し、黒潮に乗って日本列島へ渡来することとなった。ここで、測量と水路設計技術と結びついたことが、日本列島における平地水田耕作の大発展をもたらしたのである。」
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