秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

インドの質屋

2010-07-10 | シチの目
南インド出身のSさんから聞いたところによれば、南インドにも質屋がありました。
年によっては日照り干ばつで収穫が少ないときがあります。
そうした時は金製品でお金を融通してもらって、それで稲の種籾を買うのだそうです。

これに似た話ってどこかで聞いたことがあると思ったら、
古代の利子付貸付け制度・出挙(すいこ)でした。

話は前後しますが、日本での質屋の歴史をさかのぼってみます。

坂本龍馬の生家は、代々質屋や酒屋を営む土佐藩きっての豪商「才谷屋」でした。
龍馬は幼少その帳場で遊んでいたそうで、龍馬の商才、金銭感覚はここで培われたのではと言われています。

現在の三越の前身、越後屋の創始者・三井八郎左右衛門高利は江戸に出て呉服屋を開く前は質屋でした。

「質屋」という名称が用いられるようになったのは江戸時代になってから。
鎌倉時代には「庫倉」、室町時代には「土倉」または「土蔵」と称しました。

このように質屋の歴史は古く、貨幣経済が発達してきた鎌倉時代というのが定説です。
さらにはそのルーツは遣唐使の時代に遡るとも言われます。

奈良・平安時代の「出挙の制」は遣唐使が中国から伝えたものだという説です。
文武天皇の大宝元年(701年)に制定された大宝令の出挙には、
財物を貸与するもの、稲粟を貸与するものの二種がありました。

稲粟出挙に関しては、
「およそ稲粟をもって出挙するものは一年をもって限りとし、春時に受けて秋冬に報いよ、利は一倍を超えるを得ず」 と定めていました。

出挙を行うものは官、寺院、富豪等で、
官稲の出挙は貧困農家に限って行い、春耕秋収の時機を失わせないための救済制度が本来の目的でした。

一方、奈良朝以来隋唐に留学した僧侶が中国の寺庫無尽蔵の制を見て伝えたものが寺院出挙。
仏教の興隆とともに寺院の費用がかさみ、その財源として出挙の利が広く活用されていきました。

『類聚国史』によれば、桓武天皇の延暦14年(795年)に七大寺出挙が行われ、その利はきわめて大きかったと伝えています。

しかし出挙の制も、やがて本来の目的を逸脱し、制度自体自滅の方向に向かっていきます。
富豪に貸し付けて利殖を図るとか、無知な農家にみだりに貸し付けて返済の機を失わせ郷土を逃れて流浪する者随所に現るといった弊害が生じたようです。

システムの変遷はあったにしろ、
遣唐使が仏典と一緒に中国から持ち帰る以前、中国へは仏教と一緒にインドから入ったとも言われています。

2 コメント

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金融業 (悠々美術館通信)
2011-10-16 09:40:42
坂本竜馬の生家は土佐一の豪商だったのですね。

身分制度の時代に「坂本」という名字を名乗ることができたのは
たくさん税をおさめたからでしょうか。

江戸末期になると、幕藩体制も緩んできたのでしょうね。


質屋は、お金や資産を持っているから
成り立つ仕事です。

三井、鴻池など江戸時代から
金融業者として発展し現在に至っています。


明治以降の郵便局も、地域の資産家や
代表者が務めたはずです。


質屋や郵便局は地域の名士であったといえます。
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悠々美術館通信さんへ (おざさ)
2011-10-16 19:38:40
オザサ質店の先々代は、大阪空襲で大阪市内で被害に遭いました。
それで貸家とかを処分して戦後守口で開業したそうです。
当初の質台帳には国民服一式とか鍋釜とか書かれています。
昨夜最終回だった松下幸之助の奥さんを描いたドラマ「神様の女房」2回目で、質屋に着物を持っていくシーンがありました。

私が3代目で、2000年ごろの金が安値を付けていた頃、資金繰りのため高い時代に買い取ったり質流れした金を安値で売らざるを得ない時代でもありました。
まさか2011年高値となるなんて分かりませんものね。
当時パソコンやデジカメなどが質草として登場し、すぐにバージョンアップするので商品を調べるのに苦労してました。
今はインターネット検索ですぐに分かることが多いですが、昔は多きに渡る商品を調べるのは大変でした。
労多くして…ですよ~
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