秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

言語学の観点からみた古代史 

2009-03-28 | 古代史のミステリー
日本列島周辺の中国語、韓語・朝鮮語、日本国内のアイヌ語などは
日本語とまったく系統的関係がないことは周知のことです。

国立民族学博物館 崎山理教授の比較研究の結果、
日本列島をはさんで北のツングース諸語と、南のオーストロネシア諸語は、
縄文時代中期以降日本列島でたがいに接触、混合することによって
現在の日本語の母体を形成したことが分かってきました。

日本語の中の単語の多くはオーストロネシア語に、
助詞や助動詞という文法要素の大部分はツングース語に負っているそうです。

ところが時々理解不能な言葉や副詞、囃子言葉などがあります。
前回、囃子言葉が古代ヘブライ語に似ている話は書きました。

例えば、「ぺらぺらよくしゃべる」
この「ぺらぺら」はヘブル語では、「ペー エラ ペー」
意味は(口から 口へと休みなく)

「然り」は「シカー リー」(それは私にとってのぞましい)
この語は「サハル」とも発音され、日本語の「さりながら」「さり」「され」にも派生していると。

ヘブライ語の「L」は弱い発音なので容易に消滅し、「R」は訛って「エ」に変っていたりまったく脱落している事が多いそうです。
語頭のLとRの韻が抜け落ちているためヘブライ語と気付かれない。
古代ヘブル語が日本に定着する時に、
ウラルアルタイ語の古代朝鮮民族の持つ文法がフィルターになったからかもしれないと推論されています。

岩手県北部から青森県南部にかけて「ナニャドヤラ」という盆踊りがあるらしい。
この意味不明な言葉をいろいろ解釈したのがウキペディアでも紹介されています。

川守田教授はこの「ナニャドヤラ」は専門のヘブライ語であることに気づかれ、その意味を調べるとイスラエルの軍歌に相当することがわかったそうです。

その後各地の民謡を調べたところ、囃し言葉に古代ヘブル語が残っているのは340余り、
さらに日本語の中に1200余りのヘブル語原を発表されています。


島根県津和野町では祭礼時
伊波礼 許能於 延牟 伊波羅 弥栄(イハレ コノオ エン イハラ ヤエ)
ヘブライ語でその意味は、(伊波礼彦と称えたまいしところは、彼、エホバの神を賛美すればなり)

仙台地方の地固歌には、
「イワレ コノーエーン ヤハラー ヤーエー」と歌っていますが、
(伊波礼と改名された理由は、彼を讃える所からである)

この「イワレ」とは何か?

神武東征の神武天皇は大和に入られる前、
「伊波礼」と改名され、日本書紀では「磐余」と表記。
この改名の意味については江戸時代の国学者本居宣長も不明としていました。

「伊波礼」は、ヘブル語で「イワレエル」意味は(彼、神を称える)
岩「イハ」も磐「イハホ」も共に、エホバの神名です。

そしてイハレとなる前の神武天皇の幼名は狭野「サノ」
ヘブル語でサルヌとは(われらの皇子)という意味。

サノ節の「サーノ サー」は(狭野命・われらの王子は主権者にて在す)
ササ ヤレコナサ ササ ヤーアレ コノーハサー
(汝ら喜べ、磐余日子は主権者なりと名乗らせたまえり)


川守田氏は言語学の観点からの考察で、
「日本民族は、先住民族と征服者の融合した民だが、言語学上は様々な言葉が混在している。
根幹に据えられるのは、古代朝鮮民族の延長としてのツングース族の言葉、つまりウラルアルタイ系の文法骨子だ。(複数形が無い)
それに南方民族からの言葉や、アイヌ語、インドネシアなどの南洋語、漢語、梵語、西洋語などが混入したが、
支配階級であった天孫族(ヘブライ民族)の言葉が相当強力に影響している」

「前722年北のイスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされ、
ヤハウェから召命をうけた預言者イザヤは、南のユダヤ王国の危機を訴え新バビロニアによるユダヤ王国の滅亡を預言します。
事前に危機を察知したイザヤは、神から選ばれたインマヌエルという名のダビデ王家の王子と前712年頃ユダ王国を離れ、新天地を求めて東漸しシルクロードの東の果ての島々(日本)にたどり着き、
そこに聖書にいうモーセ以来の理想の神の国を建設に取りかかります。
この建国が、神武天皇の即位である」

「日本の民は南朝ユダ王国出身ではあるが、キリスト出現よりはるか以前に国を出たので、キリスト処刑には関係しなかったという事になる」

ただし青森県戸来(へらい)村の村名はヘブライに由来するとした説や、遺伝情報調査結果から日ユ同祖論の傍証となっていますが、
全くの奇説であり、大多数の日本人はおろか、外国では全く認められておらず、またその根拠としているものも、学術的な論拠にもならない。
とウィキペディアのキリストの墓で書かれています。

4 コメント

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Unknown (spaspaboy)
2009-03-28 18:19:02
素晴らしい内容でした!
週末は郊外の温泉などに宿泊し、丹沢山系の山並など眺めたりしつつ古代史関係の書などをひもとくことが多い(現に今もそうしています)のですが、今後はこちらのブログを(バックナンバー記事も含めて)読ませていただきます。
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spaspaboyさんへ (おざさ)
2009-03-29 10:57:17
お読みいただきありがとうございます。
前回記事書いたときから次編としてすでに頭の中にありました。
でもこのブログで書くのはどうか思案していて、お蔵入りになりそうでした。

私も秦氏のことは大変興味があります。
高校時代に仁徳天皇御陵を発掘したらエロイムエッサイムが出てくるという冗談もずっと心の底でひっかかっていました。

この古代史のミステリーのカテゴリーの記事は、すべてネット検索によるその時々の疑問や思いです。
あとで読み返すに耐えるものではないかもしれません。
ご不審な点や筋が通らない所を発見されましたら、ご教示賜ると幸いです。
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旅のおもいで (spaspaboy)
2009-03-30 21:36:38
古墳群は比較的お近くなのでしょうか。じつに羨ましい。。私はかつて十数年間兵庫県芦屋に住みながら、当時は古代史なぞに一切興味をひかれず、それが昨年頃から熱に浮かされたように日本列島の四世紀前後の状況をむしょうに知りたくなり、昨年になって漸く、東京人として関西を訪れた折、大仙古墳に立ち寄りました。土木建築の方法論から見て、墳丘長100m級と、応神・仁徳陵のような400mを超える規模のものとでは、投入される労働力の量以前に要求されるテクノロジーの次元が根本的に違うそうで、広隆寺の弥勒菩薩の造形を見ても、何か既存の倭人とは全く発想のレベルから違う連中がやってきたんだな、と感じます。私は古墳の実物よりもむしろ堺市博物館に展示してあった造営当時の仁徳陵の再現模型を見て忘我の境へ赴いてしまったのですがw また帰りは阪堺電軌だったかを利用したと思いますが、住吉の社が視界に入った瞬間には、言おうようない海洋的なもの、栄光やら屈辱やらが一緒くたになってひしめくようなあまたの航海の記憶が押し寄せてきて、寄る辺ない不思議な気分に満たされました。陵墓といい社といい建設者そして企画者の意識はもっぱら海へ大陸へ更に遠くの地へと向けられている気がしました(いずれも確たる根拠はありませんw)
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spaspaboyさんへ (おざさ)
2009-03-30 22:02:23
4世紀が不思議、私もここからスタートしました。
去年から熱に浮かされたがごとくも同様で、近親者からヒンシュクかうほどです。

ほんのつい最近まで全く興味なかったのに。
それまでは古墳であれ神社仏閣どこにいっても物見遊山、しっかり見たことありませんでした。
しかし関心を持ってみるといろいろ発見あるのがまた楽しいものですね。
大仙古墳から住吉大社まで、わざわざ東京からこられたとなると、これは私以上の高熱ですよ。

もともとサスペンス・ミステリーは大好きでした。
今は謎の4世紀のジグソーパズルがスコーンと当てはまるまでやめられない気分です。
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