散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

ハンナ・アーレント(1)~「全体主義の起源」への永井陽之助のコメント

2013年11月23日 | 永井陽之助
タイトルが「ハンナ・アーレント」で映画が作られたのには驚きであった。偶々、パンフレットが手元に届いたからわかったのであるが。どうして届いたのか、忘れてしまったが、それを見たとたん、必ずこの映画を観ようと決めた。岩波ホールで12/15までだ。

 岩波ホール「ハンナ・アーレント」

映画の中味は「エルサレムのアイヒマン」(大久保和郎訳(みすず書房)1969)が巻き起こした激しい論争を巡ってのもので、著者が本のエピローグでも触れ、訳者も出版された論争集に触れている。

それにしても、日本では同じ様な例があるのだろうか、と考えると、日本と欧米との知識人のあり方、論争に対する評価などの違いが鮮やかに示されていることになる。しかし、筆者がアーレントの著作を読み始めた時のことを考えると、別な感想が浮かんでくる。

大学紛争による学生ストは筆者の2年次に始まり、3年次の夏まで続いた。2年次に履修していた永井陽之助教授の政治学はリースマン「政治について」(永井訳 みすず書房)のレポート提出が求められ、それほど理解したとも思えないが、問題意識には強く関心を持ったことは確かだった。また、教授の大学紛争に関連した論文も読み興味を持った。
 『序にかえてー追悼の辞~永井政治学に学ぶ 110502』

他の著作を探した処、「現代人の思想」というアンソロジーのシリーズに「政治的人間」(永井編 平凡社1968)があり、教授も「解説 政治的人間」を書いていた。判るかな?と少し迷ったが、図書館から借りて(後で買ったが)、読んでみた。

アンソロジーのトップにアーレント「革命について」が取り上げられ、「解説」でアーレントの思想を丁寧に紹介していた。丁度同じ時期に、志水速雄氏が同じ本を訳している。アーレントを日本に紹介したのは、このふたりが嚆矢であろう。教授の次の言葉は、大学紛争で焙り出されている革新系知識人の革命に対するロマンティックな思い入れを厳しく批判するものであった。

「1950年を境に、西洋知識人に衝撃的な影響を与えた三冊の書物が、相前後して出版された。D・リースマン『孤独な群衆』(1950年)、J・オーウェル『1984年』(1949年)、H.アーレント『全体主義の起源』(1951年)がそれである。わが国では、幸か不幸か、後の二冊は、わが国知識人社会で殆ど無視された。」

「…わが国知識人は…スターリン体制をナチ体制と同じ全体主義の語で一括することに、大きなためらいがあり、今日でも依然そうである。フルシショフのスターリン批判とハンガリ事件の、わが国知識人に与えたショックの大きさは、そうした認識のズレを明白に露呈していた。」

確かに、オーウェルは受験英語でお目に掛かり、親しみがあるが、そのエッセイが本格的に紹介され論じられたことがあっただろうか。筆者の記憶に残っているのは旺文社の受験勉強番組の英語で「Shooting an Elephant」を読んだこと。象を撃ち、それが倒れるときの描写は印象深い。

また、アーレントは、この頃から翻訳が出されるようになり、「全体主義の起原」全3巻は聖アウグスティヌスの言葉「始まりが為されんがために人間は創られた」を最後に、1974年12月に第3巻が出版され、全体が終了した。

その頃は、過激派学生が1971年の「よど号事件」を“始まり”として、大学紛争から外に向けてテロ活動に走っていた時期になる。あそらく、アーレントの著作のインパクトは雑音にかき消されていたかもしれない。とんでもない始まりに、アーレントは何を考えただろうか。

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