散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

大衆社会におけるシンボリックヒーロー~公共財としての有名人

2014年07月14日 | 現代社会
70年代前半、高度経済成長によって日本の地位は急速に向上し、また、急激な国際化を伴い、日本自身と欧米の日本に対するイメージの違いが急速に膨らんだ時期だ。以下は1972年当時の永井陽之助の見立てだ。

更に、テレビ、週刊誌に示される大衆消費社会、情報拡散の全面化と深く係わる問題が日本にも表れるようになった。それは、「…大衆は常に公的な役割を自分に代わって演ずるシンボリックヒーローを求める…」「…そのシンボルと化した人間はその役割を演じざるを得なくなる」ことだ。
「M・モンロー、A・ヘミングウェイ、三島由紀夫、川端康成…公共財と化した虚像との心中か、虚像による嘱託殺人の感じ…」との感想だ。
 『イメージギャップの中の日本1972年140614』

更に大衆は、政治家層を初めとして公的役割を演じる指導者を求める。当時は美濃部都知事が大量得票で当選し、ミノベスマイルで一世を風靡した。その後のタレント政治家も様々に輩出したが、その選挙で当選するのに適当な票が獲れる程度の任期であって、シンボリックというには程遠い。

近くは自民党をぶっ壊すと云った小泉純一郎、大阪都構想の橋下徹がそれに該当するだろう。しかし、その橋下氏のメッキも剥がれ、現時点ではシンボリックな指導者の人材に乏しい。安倍首相の政治発言は官僚の作文で、文脈の中で個人の信念がでる箇所がない。また、個性を感じる歯切れの良さもない。

こんな時には、芸能人、文化人などが担がれることが多い。
そこで、最近の報道で頭に浮かぶのは、音楽家・坂本龍一が中咽頭がんの治療で、音楽活動を一時休止し、治療については医者と相談すると発表したことだ。

それだけでは、本記事とは関係ないが、それに付随して「がんに効果的とされる放射線治療は、反原発運動の先頭にたってきた立場から拒否する」との報道があったことに筆者は引っかかった。

先ず、現段階の発表では、少なくとも、特定の報道機関が適当にデッチ上げた可能性が大きい。単に一時活動休止との報道がほとんどだからである。放射線治療拒否の記事は、「治療は医者と相談」の部分に想像力を働かせて付加し、反原発のシンボリックリーダーとしての坂本像を書き立てて、話を大きくしようとする手法に見える。

このような手法は、例えば、橋下市長の慰安婦問題の発言についても見られる。主題と関係ない僅かな発言を捉えて、拡大解釈し、センセーショナルに書き立てる手法だ。但し、ここでは指摘だけで止めよう。
 『橋下徹発言(5/13)の真実20130513』

今回のテーマに戻って、仮にその部分は想像力を逞しくしたものであったとしても、何故、それがニュースとして大衆的に受けると、その報道機関が考えたのか、ということだ。そこに反原発のシンボリックリーダーが大衆的に求められ、それをこのタイミングで持ち上げ、報道機関として他の報道機関を出し抜こうと考えたのだと思う。

ジャーナリスディックにみれば、反政府的な政党活動及び市民運動に関して、シンボリックリーダーになる人物は現状、全く見当たらない。大江健三郎氏も既に手垢に塗れた存在であり、管直人元首相も政策不通であった(「通」ではないとの意味)。そこで、小泉元首相が注目されたりするのだ。

その意味で、大衆の中に潜む、自分に代わって公的な役割を演ずるヒーローを求める心は満たされないままに、開放を待つ爆発物のようだ。それが、いつ、どのように点火されるのか、不気味さが残されている。