喜多圭介のブログ

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樋口季一郎と相沢中佐

2006-03-30 15:14:54 | 樋口季一郎

樋口季一郎が日本史に関わったもう一つのエピソードがある。


樋口季一郎著『樋口季一郎回想録』に以下の記述がある。
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相沢中佐との別れ


 昭和十年八月十日前後のある日、私は当時ハルピンに本拠をもった第三師団司令部に赴任すべく福山を出発した。部下将兵知人多数の見送りを受けた。その中に軍刀を携えた相沢中佐もいた。私は彼に対しいつ赴任するかと訊ねたところ、間もなく立つ積りだと答えた。私の任地は満州であるから、家族は当分福山に残すこととなっていた。相沢が去ることでもあるから、その後で家族を移す考えであった。
 それから三日後の夕刻 (後で調べたところ八月十二日であった)、私は長春(後の新京)名古屋館の客であった。一風呂浴びて夕食の膳を前にせんとする頃、慌ただしく一人の新聞記者が飛びこんで来た。そして相沢中佐が大変なことをしましたという。何をしたかと聞くと、新聞記者は相沢が永田軍務局長を殺害したというのである。何たる馬鹿な又何たる大それたことをしてくれたのか.私はただ茫然たるばかりあった。まさかこのような直接行動の第一歩が数日前まで私の部下であった彼によって今実行されるとは考えなかった。それにしても、少なくとも彼はある場合その身を火中に投ずることは間違いないと思い、彼を最も安全なる地帯(私の案では台湾など)に置かんとしたものである。彼は家族同伴赴任する心組みてあり、そのため着々出発準備が整えられ荷物も今直ちに発送しうる態勢にあった。私は彼の台湾赴任を絶対に疑わなかったのであった。
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相沢中佐とは相沢事件、昭和十年八月十二日午前、東京三宅坂台上の陸軍省内の執務室で、軍務局長永田鉄山少将は、現役の陸軍中佐によって斬殺された。この陸軍中佐こそ相沢三郎中佐、四十六歳である。そしてこの事件が翌年二月二十六日の2.26の導火線ともなり、日本を大陸侵略の軍国化に走らせたのである。


樋口季一郎は部下であった相沢中佐が決起にはやり、何か事を起こすことを予感していたので、台湾に赴任させるつもりであったが相沢の行動の方が早くて止めることができなかった。


相沢事件に対して樋口はどのように身を処したかを見てみよう。潔い態度であった。
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 しかし何れにしても矢は既に弦を離れていた。賽は既に投ぜられていた。私の責任は重大である。私が第三師団参謀長であることは事実であり、彼相沢が台湾歩兵第九連隊附である.ことも間違いない事実である。それはそれとしても、二年間相沢の直属上官として指導すべき立場にあった私の責任は、相沢に次ぐ大なるものである。私は陸軍大臣に対し進退伺を捉出した。
 私の責任問題につき、第三、第五師団、陸軍省の三角関係において交渉があったようだが、結局私は最大限の重謹慎に処せられ、引続き業務を執るペく申し渡されたのであった。
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当時樋口は血気にはやる相沢らの動きをどう分析していたのか、樋口も彼らに共鳴していたのか、回想録から見ておこう。
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 「叛乱」によると相沢事件は、この八月定期異動が主なる原因となるようである。八月異動において真崎大将が教育総監を免ぜられ、いわゆる皇道派と見らるる連中が或いは左遷され、或いは引退した。これを永田を中心とする統制派の陰謀であると断じての事件とされている。
 そして彼ら直接行動派は、「他」の使嗾を受けたことは事実であるにしても、使嗾さるべく精神的に、はたまた思想的に準備されていたことに問題がある。準備とは何か。それは「天皇絶対」の思想であり、「現人神の信仰」である。昔はそれをおぼろげに意識していたにしても、それは主として教育勅語、軍人勅諭に基づくものであり、やや形式的性格を持っていたかと考えられるのである。ところが昭和六年八月、突如として満州事変が発生し、世界の包囲攻勢のさなかに立つと直感させられた国民、特に青壮年軍人層は「自由思想」による教育、政治ではこの苦難と危接を突破し得ずと感ずるに至り、絶対強固な政治の運営、しかしてその前提としての日本思想の確立を必要と感ずるに至ったのである。それは「誰か」にあらずして日本全体の本能的「思潮」でもあった。
 かかる思潮に重大影響を与えた人物に徳冨蘇峰、平泉澄、今泉定助の三先生があると私は信ずるのである。権藤正郷、安岡正篤、大川周明などの影響は微々たるものであったと思う。
 徳富蘇峰先生は、何もこの一、二年の思想、行動によるのではない。明治三十年頃、「静思余録」を書かれた時分から国家主義的進歩思想にどれだけ偉大なる感化をもたらしたものであろうか。彼の「日本国民史」のごときは余りにも宏大なる著述であるから比較的感化力に乏しいとしても、「世界大戦後の世界及日本」(第一次大戦)のごときは日本青壮年に偉大なる自覚を与えたと共に、アンチ・アングロサクソニズムを鼓舞している。平泉博士は、その日本歴史学において天皇の神性を唱道し国体の尊厳に対する理論的解明を与えていた。この両先生の思想を一歩前進せしめたのが今泉定助先生であり、彼は「三大神勅」を日本歴史と日本精神の基礎なりとなし、それが実践として「祓(みそぎ)」の必要をも唱道したのであった。
 かくして「日本思想」なるものは、その好むと好まざるとに拘わらず非常な勢いをもって燃え上り、僅かの水ではとても沈静消火せしめ得ざる程度に達したのであり、そこに最後的焦点として「天皇機関説」に対する国体明徴要求の議会論議ともなり、岡田内閣の命とりの問題と化したのである。
【中略】
 徳富、平泉両先生までは「天皇人間説」を捨てなかったであろうが、今泉先生に至っては「天皇即神」でなければその説は筋が通らなかったであろうし、それが又燃えさかる国体明敏論者の意に叶うのであった。
 これを逆に考えてみると、今泉あって徳富、平泉あり、徳富、平泉ありて国体明徴論あり、彼らにより国家改造論が強大なる世論となり、それを巧妙に操る好雄、鼻雄の存在によって相沢事件とも又二・二六事件ともなつたものと私は見るのである。【攻略】
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「叛乱」は立野信之著。


この文章を見る限りにおいては樋口は、冷静な分析をしており、相沢らを皇道派と見、そして連中呼ばわりしているところを見れば、その動きに同調している節は見られない。また統制派に属していたとも考えられない。樋口はこの二派に対しては傍観的立場であった。

樋口は軍人としてはなかなかの教養人である。相沢の項で次のようなことも書いている。
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 レフ・トルストイはその「戦争と平和」において、英雄と時勢(世論) の関係を論じているが、彼は英雄としてのナポレオンを極めて小さく扱っており、時勢、世論が彼を一種の傀儡として祭り上げ、彼をして対露遠征を決行せしめたるかに述べている。要するに彼においては一個人の力は非常に微々たるものであり、時勢、世論即ち衆の力の絶大を主張するのてある。
 およそ歴史の発展過程を大観すると、
 1 ある第一の個人が種子を蒔く
 2 大衆これに追随し、一つの世論が生れる
 3 ある第二個人が大衆の傀儡に担ぎ上げられる
 4 この個人が英雄(善、悪いずれかの) となる
 という四段の過程を持っている。第一の個人と、第二の個人との関係は何ら直接的でないにも拘わらず、第一の個人は第二の個人に対し、善悪いずれかの道義的責任を持たぎるを得ない立場に立つであろう。もし第一の個人の種子が仮に極めて「善」であったとしても、その種子より生れ繁茂するもの、必ずしも「善」であるとは眠らないことは人間界に免れ得ぎる現象であり、そこに悲劇が発生するのてある。
 そこで、右原則の第二の個人が歴史的に善の英雄となった場合、第一の個人は善の英雄を生んだ、第一の功労者として賞揚さるべきである。吉田松陰先生がその好例である。第二の個人が悪の英雄となった場合、第一の個人の立場は誠に泣くに泣かれぬ立場に立たされるてあろう。それが私の絶対尊敬する徳富先生の悲劇的立場である。
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ぼくは二派に対する樋口の態度を傍観的と表現したが、実際彼はどのような態度の軍人であったかそこを見ておきたい。回想録に──直属の部下、相沢中佐──という小見出しがある。
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 私が福山に着任して見ると、連隊の青年将校連は、歩一、歩三の若い者ほど思想的に尖鋭化していたとは考えられなかった。それでも東京方面からいろいろの連緒的文書が発送されて来る関係でもあろうか、いささか時世を論じ憤慨するの風があった。大尉以上は平静で静岡時代と変ったことはない。四十期以後の若者が少々ガタガタしていたにすぎない。相沢が来たというので、広島の歩二の若い者たちと一緒にぼつぼつ気勢を上げようという風がほの見えた。それでもその根本は極めて持弱であり、ただ日本改造法案を見たこと、読んだことがある位で、この頃の青年が「世界」、「改造」、「文藝春秋」を読んて知識人、文化人を装う程度にすぎなかった。
 相沢は自己の本務は忠実に行なうが、彼自身の生命は本務よりは遠ぎかっていたかに見えた。私は相沢が時折若い少尉あたりに天下の大勢を論じ、日本改造の必要を講釈する片鱗と、若い者が相沢を中心に動く気配を感じた。私はまず相沢を招致して「僕は今までは君の友人であったにすぎない。しかし今は違う。今君は僕の部下であり、僕は君の直属上司だ。僕は陛下の統帥権の一部を拝受している連隊長として、部下たる君を遇する決心だ。それが天皇に対する忠節絶対の真姿である。君は東北の連隊で相当広範な自由を得ていたようだが、今後はそれは許されないであろう。僕もこの頃の日本の政治は必ずしも良い状態で運営されているとは思わないが、それを改善せしむるのは、自ら他に方法がなければならぬ。彼ら政治家といえども馬鹿ばかりではない。非国民ばかりでもない。必ずや彼らの内部に革新運動が起り、政治の浄化作用が始まるであろう。また始まらねばならぬ。我
我軍人は自己の任務を忠実に実行すべきであり、それができぬ限り我々は政治家の仕事を批判する資格がないではないか。僕は君に要求するが、君は自己の任務を完遂すると共に、若い者たちにもし不心得のものがある時はよろしく私の今述べた精神に基づいて善導してもらいたい」と申し渡したのであった。彼は判ったような判らな
いような顔をしていた。
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ここに軍人樋口の姿を見ることが出来る。戦前の軍人である限り、〈天皇に対する忠節絶対の真姿〉であった。このことをもって彼を国粋主義、極右と見るのは間違っている。回想録を読了しても天皇そのものへのあつい忠誠心への口吻は伝わってこない。軍律が天皇への忠誠心をうたってあるから、その軍律に忠実な軍人であったと認識したほうがよい。


極右思想の持ち主は故人である良識的保守の軍人をすら我田引水に利用するのである。