喜多圭介のブログ

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落ちこぼれ親鸞(1-1)

2007-02-11 15:26:26 | 宗教・教育・文化
親鸞を知る人は親鸞を落ちこぼれだという。私も落ちこぼれ親鸞に近親感を抱き、悩める高校生の頃から『歎異抄』を座右の銘のように再読してきた。浄土真宗開祖親鸞の生涯は落ちこぼれの生涯だった。ここでは簡単に親鸞の落ちこぼれ振りを記載してみたい。私自身、親鸞を認識することによって今日まで生かされたという面がある。

一言断っておくと親鸞は自ら浄土真宗を興したのではないということ。親鸞は浄土宗開祖法然に帰依、法然の教えを全うしようと勤めただけで、浄土宗と独立した形での教団は興さなかった。法然の教えの真意を浄土真宗として表現した。自らも浄土宗の一員であり法然の弟子であるという思いに変わりはなかった。

この辺のことについては私は詳細でないが、親鸞の死後、おそらく浄土真宗中興の祖と称えられた蓮如あたりで浄土真宗という強力教団の姿を成していったのではないか。

親鸞は、平安末期の承安三年(1173)に、京都は宇治の近くの日野の地に、藤原氏の一門の公家の長男として生まれました。父は日野有範、母は吉光女と伝えられているが定説はない。

親鸞が生まれ育った時代は、公家社会から武家社会へと移り変わろうとする政治の混乱の時代であった。戦乱や地震・竜巻などの天変地異が続いた。また前世紀より「末法」に入ったとされ、この世の終わりをどことなく感じ、宗教に対する期待も変わりつつあった。混沌とした世紀末感覚は現代とも相通じるものがありはしないか。

貴族といっても身分は低く、長男でありながら親鸞は九歳(数え歳、満で七歳か八歳)で、仏門に入れられた。体裁のいい口減らし。

こういう年齢で家族、とくに母親と引き剥がされた男の生涯はほとんど波瀾の生涯を生きることになる。親鸞は肉親の愛から先ず落ちこぼれた。おそらくなぜ自分はこの世に生まれてきたのか、生きていく甲斐はあるのか、生きる目的は? と十二、三歳頃から煩悶したのではないか。

末法とは釈尊が入滅(亡くなる)してから時代が下がるにつれて、釈迦の教えがことごとく実行されなくなるとする仏教の歴史観。時代を正法(教えと実践と悟りがある時代)・像法(教えと実践のみの時代)・末法(教えしかなくなった時代)の三時に区分。末法思想は平安中期頃から日本に広まった。そのため極楽浄土に往生することを願う信仰が盛んになり、宇治の平等院もこのころ建立された。

幼名を松若麿と名のっていた親鸞は、九才になった春、出家のため伯父範綱(のりつな)に付き添われて京都粟田口(あわたぐち)にある青蓮院(しょうれんいん)を訪ねた。その時のことがこのように言い伝えられている。年が若かったために、青蓮院の慈円(じえん)から出家を暫く待つようにと言われた。しかし親鸞は外に咲く桜の花を指さし、

明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

と歌い、慈円感ずるところあり出家を承諾した。

親鸞出家の理由の一つに当時は「一人出家すれば九族天に生ず」といわれ、日野家の将来の繁栄祈願が両親にあったのではないか。が本音は子供を養育できなかったのであろう、親鸞は五人兄弟の長男だったが、あとの四人もそれぞれ出家したと伝えられている。『方丈記』に「飢え死ぬるものの類、数も知らず」と伝えた当時の有様は、荒涼としていた。本願寺に伝わる親鸞の伝記(親鸞の曾孫に当たる覚如が執筆したもので、正式には『本願寺聖人伝絵』という)には、「真実を明らかにし、多くの人を救いたい」という願いがあったとだけ出家の動機を伝えている。

慈円(1155~1225)は藤原忠通の子で九条兼実の弟に当たる。親鸞得度の戒師といわれる。後に天台座主になる。

父母は「私」の存在を確かめるこの世の最大の手がかり。しかし出家するということは父母の縁から切り離されること。親から見放された「ひとりぼっち」の自分を親鸞は淋しさの中に自覚していった。

家族から落ちこぼれた親鸞二つ目の天台宗の修行からも落ちこぼれた。九才で出家し二十九才まで天台宗の僧侶として修行を積んだがこの二十年間、どのような修行をしていたのかほとんど分かっていない。天台宗にいたときの足跡が残されていない。不思議な事実であるが目立つ存在でなかったのだろう。一時は親鸞という人物の存在すら疑われたが、大正時代に西本願寺から親鸞聖人の妻、恵信尼に手紙が見つかり、そこに親鸞の一生が簡単に書かれていたことから、実在の人物であることが定説となった。その手紙によると、親鸞は堂僧という身分で比叡山にいた。

比叡山は日本天台宗の総本山延暦寺のある場所。天台宗の流れは六世紀の中国に始まるが最澄が日本に伝え、延暦寺を開いた。やがて延暦寺は国家公認の僧侶養成機関、仏教研究機関となった。延暦寺の建物は比叡山の各地に広がっており、一時は三千余坊とも言われ、その中心は根本中堂。

ここでのエリートは学問により仏道を極めようとする学生(がくしょう)だったが、親鸞は厳しい行を中心に悟りを開こうとする堂僧だった。ここで名もない一修行僧として二十年あまりを過ごした。