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喜多圭介のブログ

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落ちこぼれ親鸞(5-2)

2007-02-11 18:08:03 | 宗教・教育・文化
私はこの件でもセンサーの毀れた親鸞を見ることになる。確かに親鸞の処置は今後の浄土真宗のことを考えると正しかった。しかし一人間として親鸞を見ると八十四歳にして妥協を知らない親鸞の冷酷無比の精神に触れる思いがした。

一昔に連合赤軍の若者達にそれまでの仲間をリンチ、死に至らしめた事件があった。殺したがわには妥協がない。彼らと親鸞を同一列には並べられないが、いくら社会正義だ、革命だと叫んでも連合赤軍の面々のこころのセンサーは毀れていた。

親鸞には「暖かい家族に囲まれて」というような境遇は無縁だった。親鸞は夫としても親としても落ちこぼれた八十四歳の一老人

関東を離れたのちも幕府からの念仏者への迫害が次々と起こる。外からの力により念仏者の信仰が問われてきた。また念仏を申す仲間の中からも「造悪無碍」という問題が起こってくる。「念仏はいかなる罪をも滅する力があるから、どのような悪を犯そうともかまわない」という念仏への間違った理解。「悪いことをすればするほど救われる」という有名な悪人正機の教えとなって誤解が広まった。

実は私が高校生の頃から『歎異抄』を読み出したのは、誤解した悪人正機への魅力だった。以下は『歎異抄』にある有名な文章。私もこれにやられた。高校生の私の罪意識はわずらわしい「性」の問題だった。純愛中でも性の妄想に悩んだ。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを哀(あわれみ}たまいて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因(しょういん}なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰さふらひき。

同じく『歎異抄』には「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々」とある。

しかしこの言葉は、知らず知らずのうちに犯している罪の深さへの懺悔(仏教用語では、サンゲと読む)と、罪深い私にも無条件に至り届いていた言葉と光への感動を指し、そしてその罪が、どれだけ重くともその罪を引き受けて、決して悔いることのない勇気を与えると教えているのであって、悪いことをしろと奨励はしていない。が元からの悪人は「悪いことをしても極楽往生できるのだ」と手前勝手な解釈で悪を積み重ねた。

阿弥陀に出会うとは、必ず自らの罪の深さに出会うという一面を持っている。それを自分の野望や都合を正当化するために、念仏の教えを誤利用していくあり方を「罪福信」と言う。「造悪無碍」もそのひとつ。一切のものを自分の都合をかなえるための材料にしていくという私たちのあり方が「自力」と言われるものであり、他力を教える念仏もそのような中で受けとめられていった。

わたし達はついつい努力という言葉に乗って自力で生きようとする。これはこれで悪いことではない。しかしながら自力ではどうすることもできないことも多い。というより現代社会では多すぎる。自力の迷路の壁に絶望して自殺したり、壁を自暴自棄に足蹴りしたりするが痛みは我が身に返ってくる。。

自力についてはもう少し親鸞の言葉に添って見ておこう。

自力の解釈については末燈鈔で「自力ともおすことは、行者の各々の縁に随いて、余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わが計の心を以て、身、口、意の乱れ心を繕い、めでとう為なして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり」と親鸞は言っている。

「わが身をたのみ」とは、自分の能力、自分の働きを頼りにして、私の可能性を信じる深い自己肯定の心。「わが計の心をもって」とは、自分の行い、言葉、心のもち方を、悪い所は直し善い所は伸ばすように心がける。「めでとうなして」は立派にする。「浄土へ往生せんと願う心」は、宗教を達成しようとする。これを自力というのだと言っている。

浄土へ往生するとは死ぬことではなくて、小さな殼を破って大きな世界に出ることである

自力とは自分の力と書いてあり、自力更生というから善いことだと思うが、これは聞違い。本当は自力のはからいをいう。それが打ち消されたところ、否定されたところ、超えられたところを無義という。

無義とは何か。念仏においては、はからいがないということである。

自力は今日的解釈では我(エゴ)である。この我を超えられたところに本当の念仏の世界がある

科学技術の進歩発展は人類の自力の姿であったが、この自力に巨大資本の錬金術師的野望という自力がジョイントされると、地球の隅々までに野望と享楽と怠惰が行き渡った。これを文明の進歩とも発展とも呼んでいるが、この間にどれだけ多くの善良なひとや地球環境が切り捨てられ、ひとの「こころ」や「いのち」はときにはティシュペーパーよりも軽く扱われ、一秒前の過去よりも高速に忘却の彼方に消滅し、忘れ去られていった。「こころ」、「いのち」と錬金術師の手中に堕ちた科学技術の進歩発展とのズレが、「切れる」現象をも生み出した。錬金術師たちも時折「心の時代」、「心の教育」とジェスチァーするが、手前勝手なご都合主義という土俵に「心」を乗せ、弄んでいるにすぎない。

親鸞が関東の同行に送った別の手紙に「仏法をやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとえたるには、『獅子の身中の虫の獅子をくらうがごとし』とそうらえば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげそうろうなり。よくよくこころえたまうべし」とある。

親鸞の晩年は民衆との繋がりの中で、信仰とは何かを否が応でも問うていく日々だった。最晩年に至っても安穏ではなかったが、親鸞そのものは悟りの境地を開いていたのだろう。

世界の名著『人生論』を書いたトルストイの晩年も決して幸福な境遇ではなかった。わたし達はキリスト、釈迦、マホメット、ソクラテス、プラトン以来の精神の開拓者の犠牲の上に知性を築いてきたようにも思えるが、はたして人類の叡智は築かれたのであろうか。

自力から他力への認識を深める世紀が訪れた

最後にこころを病んでいる人達へ 親鸞とてこころを病んでいた、あるいは私もそうかも。センサーが毀れているのなら何処かにセンサーを修理できる工場があるかもしれない、それを探す旅があなたの生涯となるように。親を恨んでも加害者を恨んでも社会を恨んでも解脱はしない。生まれつきの身障者、脳性麻痺のひとたちはだれを、何を恨めばよいのか。【終わり】

落ちこぼれ親鸞(5-1)

2007-02-11 18:00:37 | 宗教・教育・文化
越後を離れた親鸞一家は常陸国笠間郡稲田郷に粗末な草庵を結び移り住んだ。『御伝鈔』によると「幽栖(ゆうせい)を占むといえども、道俗跡をたずね、蓬戸(ほうこ)を閉ずといえども、貴賎衢(ちまた)に溢る」と伝えられ、多くの人が親鸞のもとを訪ねてきた。

この地を中心に、ほぼ二十年ちかく関東一円から東北の一部に教化の足を延ばした。次第に、他力念仏の教えに触れ、教えを生活の中心にして生きる人々の交わりがおおきくなっていった。

このような人々の集まりを仏教の言葉でサンガという。親鸞は各地にあった太子堂にご本尊をかけ、一日の仕事の終わった後や、法然の命日に法座を開き、勤行や法話、お互いの信を深めるための話し合いをした。地域によって人の集まりの多いところには道場を建てた。やがて寺院となった。

しかし親鸞に寺院建立の意図はなかった。いつでもどこでも人の集まる場があれば、本尊をかけ、法座を開いた。このような伝統が「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」という浄土真宗中興の祖、蓮如の言葉となった。

ところで当時の人々の暮らしはどんなだったか。今日の私たちの暮らしとは比べものにならないほど苦しい生活だった。それでも多くの人は小銭を出し合い、奉仕の時間を作り真宗の教えに触れていった。このことが苦しみ多く、報われることのない人生を生きていく生き甲斐となった。

現代社会の仏教は葬式や法事だけのつながりしかない方が多い。教えといっても先祖供養・精神修養や道徳が仏教と混同している、あるいは「ナムアミダブツ」と唱えて高いところから滝壺に飛び込む、自殺の合図と勘違いしているのもいる。

他力念仏の教えは私たちに深い意味での生きることの執着、「生きる」「生きたい」と真に言わしめる力。人間は自分の想像世界を生きようとする。その想いが通じている間は、活き活きとしている。しかし想像外の状況に投げ出されると、とたんに生きる力を喪失しやすい。親鸞も幼少の頃から状況は同じだった。

ただ親鸞は悲しみが悲しみだけでは終わらない道を見出した。それが南無阿弥陀仏。「阿弥陀」とは、限りがないと言うこと。宇宙と置き換えてもいい。「仏」とは私を導き目覚めさせようとするはたらき。「南無」とは私への呼びかけ。悲しいことや苦しいことの中に、必ず私に呼びかけてくる大いなるはたらきがある。無限の命がある。この頷きが「南無阿弥陀仏」であり、この世界に出会った感動は「南無阿弥陀仏」としか表現のしようがない。

この感動はどれだけ状況が悪化しようと、それを越えさせる力となっていく。

親鸞はこの地で「教行信証」という著書の執筆をする。ひとまずの完成が五十二歳の頃だが、晩年まで手を加え続けた。世間に出すための書物というよりは、自らの信仰を確かめ続けた、その覚え書きのようなものだった。

この頃、晩年の親鸞の世話をした覚信尼が生まれた。

六十歳頃、親鸞は関東を離れ京都に向かった。

親鸞の一生は解らないことだらけ。住み慣れた関東の地を離れ、三十五歳まで生活していた京都へ戻った。関東には、弁円(べんねん)をはじめ深い信仰で結ばれた多くの念仏の仲間がいた。それらの人々と別れ、何故京都へ向かったのか。その理由はさだかではない。

京都へは六十三歳頃に着いた。いくらなんでも長旅、誰と一緒に京都への旅をしたのか、何処に立ち寄ったのかもあまり判っていない。しかも妻である恵信尼は同伴していなかった。恵信尼(えしんに)は越後に戻っていた。所領の管理をして、三人の子供(小黒女房・信蓮房明信・益方有房)を養育していた。この地方の豪族の三善為教の娘であった恵信尼は、いくばくかの所領を相続していたと思われる。この地で生涯を閉じた。お互いに看取る、看取られることなく。

親鸞はわずかなお供とあちらこちらに立ち寄りながら京都へ向かった。

京都に着いた親鸞は関東の信仰を共にした人々から送られてくる金銭を生活の糧にし、住居も定めることなく、縁に従ってあちらこちらへと住まいを移した。今の時代ならば「ホームレス」といったところ。まぁ釈迦だって何も仕事をせずに托鉢生活をした人。だが当時の社会はこうした風采の人達を受け入れる社会だった。風采や地位ですべてを決めかねない現代は、なんと許容力のない社会か。

親鸞の「生」を支えていたのは純粋な信仰の世界への意欲だけ。

『歎異抄』に関東から信仰上の問いを抱えて、はるばるやってきた人々とのやりとりが記されている。親鸞はこれらの人々に「それぞれの選びである」と言い切る。

外からも内からも念仏の教えが乱れていく出来事が起こった。関東からは多くの同行(共に念仏を申す仲間)が親鸞の元を訪ねた。その内の一人唯円坊とのやりとりが『歎異抄』となった。

親鸞もしばしば消息を送り、関東の人々の疑問に答えていった。またこのような混乱を収めようと、八十歳になる頃長男に当たる善鸞を関東に送った。しかし、善鸞は散りじりになった人々の心を集めようとしたのか、教えにないこと、父親鸞が語りもしなかったことを語り始めた。信仰が人々を集めるための道具にされていった。善鸞が関東に行ったことにより、かえって弟子の取り合いということが起こった。

『歎異抄』に「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉がある。誰の弟子でもない、まして親鸞の弟子でもない。すべて如来の弟子であり、如来の言葉をただ聞いていく道、これが他力念仏の教え。その道を歩もうとするのかどうかは、「それぞれの選びだ」と断言した。ここにもセンサーの毀れた親鸞を見る思いがする。

この人たちは親鸞を経済的に支える人々。そのような人々に対しても人間的な情や妥協を一切加えることなく、信仰の世界を見つめている親鸞の晩年の姿があった。すでに述べたが親鸞には情を温情として心の蔵に蓄積するためのセンサーが毀れていた。仏道の厳しさからだけ出た姿ではない。

長男である善鸞との親子の縁を切る事態にまでなった。

親鸞八十四歳の時、関東の同行の中心であった性信房に一通の手紙を書く。そこには、「自今已後は、慈信(善鸞)におきては、子の儀おもいきりてそうろうなり」とあり、「このふみを人々にもみせさせたまうべし」と結んでいる。どのような気持ちでこの手紙をしたためたのか。晩年に親子の情でこのような悲しみに出会うとは、親鸞とて思いもよらなかったことである。

落ちこぼれ親鸞(4)

2007-02-11 17:55:00 | 宗教・教育・文化
法然上人の仰せ「ただ念仏」に頷き、その他の行は捨てたはず。にもかかわらず、念仏以外の行で民衆救済を願っていく親鸞がいた。

この出来事は親鸞が五十九才の時、風邪をひき高熱を出して夢の中で思い出したことだった。十七、八年経っても未だにそのことを引きずっていた。

悟ったと思えた「親鸞にも迷いがあったのだ」と思えてくる。親鸞の一生は迷い続けていく生涯だった

ここで思い出すことは、いつだったか、五十過ぎの男性から「書いた物」を出版できないか、ノート三冊分あるので単行本三冊にはなると。文芸社に原稿を送ったら自費出版ならという話であった。HPにも一部掲載してあると書いてあったので、彼のサイトを訪ねてみた。少し走り読みした。これは駄目だ、と即断した。本にする文章ではなかった。サイトの文章には小説ではなくとも切々とこちらの胸に訴えかけてくる手記という形もある。しかし彼のは単なる作文だった。それもなにか悟り澄ましたような文章で、自分は自然とともに生きたいと、誰でもが思いつきそうなことが書いてあった。

エッセーを読んで涙を流されるひともいたとも。私自身自分の書いた物に涙することがあるとも。どうも自己陶酔気味だな、と私は正直辟易(へきえき)した。なにか新興宗教臭い。メールのほうを注意して読むと、三十年間の某宗教の信者であった。その新興宗教のサイトもあるということでそこにもアクセスしたら、なんとも陰気な雰囲気で掲示板しかなかった。信者が「何もおかげがない、集会に行くたびに金もかかるので止めようかと思う」とかの書き込みに「ちょっとお待ちください、それは早計なお考え」と管理人が返答しているという具合。

こんなものの信者だったのかと、だからあんな風な悟り澄ましたことを書いて仲間内で持ち上げて貰うことに得々としていたのだ。「自然とともに生きる」とメールに書いてあったが、「おかげ」がないのか現実の彼は体を壊し、親族縁者に借金して暮らしていた。奥さんも働いていた。私は周囲、家族を構わず、自分一人で自己満足して生きている男が好きになれない。

その上に私が出版費用を全額持つ企画出版の話だった。企画出版はどこの出版社にしても社の命運をかけた大仕事だ。自分の書いた物がこれに見合うものであるかの現状認識が彼にはまったくないようだった。

私にはひとは死ぬまで悟りきれないのだ、という思いがある。変に悟ったことを言う人物はマヤカシでないかと疑うことにしている。

仏門にいる親鸞とて同様なのだ。

このときも佐貫の苦しむ衆生を前にして、「おまえは何ができるか」と自分に問うた時、ふと思い立ったのが「三部経」読誦だった。

思い返してのち念仏を称えて民衆救済を願ったかといえば、そのようでもない。

私たちは苦労から逃れて仏教に救いを求めるとき、何かの苦行の結果として救いがあると考えがち。親鸞は行の中から念仏一つを選び、その他を捨てたのだと思ってしまうがそうではなかった。

親鸞が捨てたと言っているのは、「あてにする心」。「あてにする心」とは自分には選択力があって、「あれがいい」とか「こっちの方が効果がある」と選ぶ心。その心が問われている。そのことを問うているのは、私ではなく限りない智慧の光(阿弥陀)の働きと親鸞は悟っていた。

私たちができる仏教の行の中で、いちばんたやすい行が念仏。だから「易行」とも言う。阿弥陀如来が、多くの行の中から念仏を選び私たち衆生に勧めるのは、単にたやすいからではない。たやすければたやすいほど、「あてにする心」が浮き彫りになってくる。楽ほど怖いものはない。だが楽のなかにこそ往生の道があるとすればこの「楽」とは何か。

数ある行の中で最もたやすいといわれる念仏からも親鸞は一時期落ちこぼれた。しかし「あてにする心」が問われ、「念仏」から落ちこぼれたことが、そのまま親鸞の姿を照らしだす阿弥陀の存在への確信となった。

これは人間の起こす行ではない。阿弥陀が選び阿弥陀が差し向けた行だと覚ると、「あてにする心」で称える念仏からどれだけ落ちこぼれようとも、いっこうにかまわないとなる。そのことを覚ると親鸞には念仏が「いよいよたのもしく」思えてきた。『歎異抄』に「他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」とある。煩悩に惑わされている痛ましい自分の姿を見出し、親鸞はこのことに阿弥陀のはたらき(他力の悲願)をますます確信するようになった。どうしようもなく落ちこぼれていく自分の姿に、逆に阿弥陀の大慈悲を感じ取っていく

ここで私が以前から気に掛かっている人物を紹介しておこう。

渥美清が寅さんシリーズの完結後に演じたいと山田監督に希望していた人物である。二人して墓前に詣でている。尾崎放哉、後半生の人生は「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」の実践だったのだろうか。妻子からみればなんと身勝手、なんと暗澹とした晩年ではなかったか。私は十五年近く、彼の生涯を思案しているが結論を得ていない。二度墓前に立ったが、初めて墓前に立ったとき、暗鬱とした予感がよぎって不吉な気分を味わった――もしかしたら自分の最晩年の姿かもと。病床で酸素吸入とリンゲル注射の管と喉に栄養物の管を差し込まれている姿とどちらがいいのだろうか?

尾崎放哉記念館

落ちこぼれ親鸞(3)

2007-02-11 15:40:44 | 宗教・教育・文化
親鸞は流罪以降の名として、自らを「愚禿」と呼ぶようになった。「愚」とは、おろかの意。自分には智慧もなく、しかし智慧があると思い込み、その智慧をたよりとして人を傷つけ、自分だけ泥沼からはい上がろうとする。そのことに気づくことも痛みもない、そんな愚かな自身の姿を表した呼び名。

深い自己反省のようにも聞こえるが、「愚」とは自己反省の中にもある密かな自己肯定、反省によって向上するのではないかという、執拗な期待感をも見抜いた表現でもあった。愚かさの徹底でありながら、決して暗さのない「自覚」。如来のまこと(真実)が自分のところまで届き照らしていたからこそ、自覚し得た呼び名かもしれない。

この世にこころを病んでいる男女、とくに私は自称フェミニストだから、病んでいる女性を知るとたまらなくなるが、同時に力のなさをも痛感して自己嫌悪に陥る。だが脱出も早い。中学生の頃に武者小路実篤の作品を読み過ぎたせいだ。

「愚」とは、自らへの愚かさへの悲しみと、如来の光に照らされている自覚への随喜の表現。愚かであることをごまかし、「落ちこぼれ」であることに目を閉ざして、「向上心」をたよりとする生き方との決別宣言。

師法然上人からいただいた「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」との教えの実践でもあった。

一般に向上心は奨励されるべき言葉として使われる。私たちはやがて来るであろう栄光を期待して努め、幸福の材料である金銭、地位、健康を集めようとするが、どれだけ努めても望む栄光には届かない。一生はただ努めるだけで終わっていくひとは多い。「向上心」とは裏を返せば、現状の自分を認知しがたい、満足を知らない心とも言える。人間の「生」を支えているのは、希望や夢ではなく「不満」の心でもある。

だが「不満」の心に弄(もてあそ)ばれることほど愚かなことはない。テレビドラマ「北の国」の田中邦衛演じるところの黒板五郎の生き方はどうだろうか。あるいは故渥美清が演じた寅さんの生き方はどうだろうか。

「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」、これは『末灯鈔』という親鸞の手紙を集めたものの中に出てくる言葉。

「禿」は、髪の毛のまばらな頭のことを指す。僧侶であるならば頭を剃り、僧侶でないならば髪の毛を伸ばすが、そのどちらにも属していないことを表している。「僧」からも「俗」からも落ちこぼれていながら、本当の落ち着き所として見つかった念仏者としての自分の姿、ここから立ち上がった親鸞の自覚。

『教行信証』の最後に、「真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす」と、流罪を縁に「禿」と名乗ったことが書かれている。

越後に流されてから足かけ五年を経て流罪が解かれた。この時期に法然は亡くなっている。親鸞が関東に家族を伴って移ったのは、四十歳を過ぎてからのことだった。

どのようなことが理由で関東に旅立ったのかははっきりとしない。妻恵信尼につながる三善家の領地が関東にあったからとも解釈されている。

当時の関東は京都から見れば辺境の地だったが、茨城県の鹿島神宮には大蔵経が所蔵されており、新興の文化圏でもあった。親鸞が法然より与えられた大切な課題、旧来の仏教と決別、「ただ念仏」と念仏一つを選び取った理由を明らかにすることだった。

「歎異抄」に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と、法然上人からいただいた言葉として書かれている、この課題だった。

このことを教理の上から明らかにするため、大蔵経のある関東の地を積極的に選んだとも解釈されている。のちの親鸞の行実から想像すると、このことがもっとも大きな理由の一つであったと思われる。そしてやがては「教行信証」という書物となる。

「ただ念仏」を課題にしながらも関東に移る途中で一つの出来事が起こる。

恵信尼の手紙によると、佐貫(さぬき)の辺りで、衆生利益のために「三部経」を千部読誦(どくじゅ)する事を始めた。しかし四、五日の後「人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべし」と思い返して経典読誦をやめた。

この頃関東では大飢饉が起こり、多くの人が亡くなっていった。その時思いついたのが、「三部経」読誦による民衆救済だった。これは経典読誦の功徳により、色々な利益を得ようとするもので、それまでの仏教では当然のことだった。

落ちこぼれ親鸞(2)

2007-02-11 15:36:32 | 宗教・教育・文化
数え九歳で両親、兄弟の繋がりを絶たれた親鸞の胸中は、ほとんど晩年まで孤独であったと私は想像する。仏の悟りを得る得ないにかかわらず胸の寂寥は拭えなかっただろう。「フリーセックスへの呼び水」で昨今の切れる男女の様相を少し書いたが、幼児、少年少女期に親や他人からの虐待を体験したり、親、とくに母親の人肌の温もりから隔絶されて育ったひとは、ひとの温情を感じ取るこころのセンサーが毀(こわ)れている場合がある。ひとから親切にされると親切にされたことは理解できる、だから感謝の言葉を言ったり書いたりする。しかしひとの親切が温情として胸裡に蓄積されていくかというと、センサーが毀れているために胸裡には届かない。他人だけでなく親・兄弟から示された親切に対してもぶっきらぼうな感謝の応対をするだけで、こころから感謝を感じているようにはならない。

だからいっとき良い関係であってもちょっとしたことがきっかけで切れる言葉や態度を表にして壊してしまう。壊した後は防御的、断絶的状況を作り出し、アライグマが穴に閉じ籠もったような態勢をとる。親鸞とて同様ではなかったかと想像する。それだけに苦悩が深い。

『歎異抄』に親鸞の言葉として以下が伝わっている。

親鸞は父母の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情(うじょう)は、みなもって世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に仏になりて、たすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を廻向(えこう)して、父母をもたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生(ろくどうししょう)のあいだ、いずれの業苦(ごうく)にしずめりとも、神通方便(じんつうほうべん)をもって、まず有縁(うえん)を度(ど)すべきなりと云々

つまり親鸞は親のために拝んだことは一度もないと言っている。「一辺にても」とわざわざ言っている感情は冷たい。あとを読めば高邁な精神、仏の悟りに達しているのだが、親鸞の境涯を思うと親鸞には親・兄弟への愛情、温情は元よりなかったと思う。親鸞もまた温情を感受するセンサーの毀れたひとであった。ただ親鸞の偉さは自分が欠陥人間であることを強烈に自覚していたという点である。そしてこんな自分を克己、解脱しようと苦悩し、ひたすら法然に帰依した。穴籠もり人間とはここが違う。

親鸞は比叡山の修行に疑問を抱いただけではなく、比叡山暮らしが合わなかったのであろう。比叡山での足跡がないということは、尊敬すべき先輩僧や学友もいなかったことを物語っている。

欠陥人間の親鸞にとって法然上人との出会いは感涙にむせぶものだった。親・兄弟に流す涙は出なくとも、自分の救済者に出会えたことに感動する喜びは持っていた。親鸞は自らのことを書き残した形跡は少ないのだが、だから実在しなかったとまで疑われたのだが、この親鸞が法然との出会いを仏や菩薩の言葉を並べた引用だらけの『教行信証』に珍しく自分の言葉で記している。

教行信証は親鸞の主著であり、浄土真宗立教開宗の根本聖典。正式には『顕浄土真実教行証文類』という。全6巻。釈迦の言葉(お経)や弟子の言葉(論・釈)によって、「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」ということを体系的に著したもの。最後の部分に、法然上人との出会いを「愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す……」と感動を述べている。

また法然上人を語る言葉として『歎異抄』に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と語っている。この「よきひと」とは法然のこと。

これまでの親鸞の人生は家族の暖かみや仏教の救いから落ちこぼれながらも、それを乗り越えるための求道だった。孤独な人生だった。そして初めて法然の言葉をとおして聞き得た念仏の教えだった。

浄土真宗では、「出会い」ということが大切なキーワードになっている。私たちの常識では姿を「見た」ということは「出会った」と言うこと。しかし浄土真宗ではそのものをそのようにさせている根元(因)に出合うことがなければ、そのものに出会ったことなはならないと教えている。法然の草庵には数百人の人が集まっていた。多くの民衆に混じって名のある僧侶も集まった。しかしその出合いは本当に確かだったのか。法然という偉いお坊さんの姿を見ていただけではなかったか。このことの「確かめ」が浄土真宗という教えの根幹であり、二十九才の親鸞の上に起こった、たった一度であり、しかも一生を支えていく事実だった。この出会いを成り立たせたものが、比叡山からの「落ちこぼれ」だった。

この間には色々な出来事があり、出会いをより深く確かめていく六年間となった。

しかしただ念仏して救われるなどという教えは、当時の仏教界からは受け入れられるはずがなかった。しかも法然は聴衆に菩提心(悟りを開こうと願う心)は必要がないと説いた。

これではそれまでの比叡山や奈良の仏教は成り立たない。悟りを開こうと厳しい自力行の修行をしていたのだから、法然や朝廷には多くの批判が寄せられた。法然の人徳で何とかしのいでいる有様だったが、このようなとき朝廷に仕える女官が法然の弟子に従って出家してしまうという事件が起こった。このことがきっかけとなり法然とその弟子の多くが死罪または流罪となった。僧侶の資格を奪われて罪人となり、法然は土佐へ、親鸞は越後へと流された。親鸞、法然との今生の別れとなった。親鸞三十五歳、法然七十五歳の出来事。

当時の世俗社会の中心は京の都。そして仏教界の中心は京都(比叡山)と奈良。親鸞は世俗社会の都からも罪人として追い出され、仏教界からも僧籍を剥奪された。その当時の社会を構成している二つの枠組みから落ちこぼれた。

切れる男女のことに戻ると、自分の精神を健全化するには場合によっては神経科への通院も大切だが、それよりも親鸞のように我執(エゴ)を捨て、仏の慈悲に頼ってみればいい。前半生を波瀾に生きた女流作家、瀬戸内晴美は天台宗大僧正今東光(作家)の得度によって剃髪、寂聴という尼となり哀れな女救済の仏の灯を灯し続けている。彼女もまた穴籠もり人間ではなかった。

親鸞三十五歳で越後に流罪。その当時、僧侶は罪人とすることはできなかった。還俗(俗人に戻す)させて、俗名を与えて流罪にした。俗名を藤井善信。

どのようにして越後にたどり着いたのかは詳細がない。国分(現在の直江津市)で流人としての生活を始めた。現在は五智国分寺の一角に「竹の内草庵」跡として、当時をわずかに伝えるものがあるがその他のことは不明。

延喜式によると、流人は貴賤男女大小を問わず一日米一升と塩一勺を支給され、来年の春になると種籾が与えられる。秋の収穫がすめば、米・塩・種子の支給は一切絶たれて、自給自足の農耕生活を強いられる。このようなことを考えると、北陸の地での生活は、京都で生まれ育った親鸞にとって、かなり厳しいものだった。

しかしいつのことか不明であるがこの地で恵信尼という女性と結婚生活をし一女をもうけていた。

親鸞を取り巻く環境は、自然環境を始めことごとく京都とは異なっていた。自給自足に近い生活であった。しかし親鸞にとってはこれまでの人生の中で、もっとも人間的な時間だったかもしれない。きっとそうだろう。このような厳しい環境を親鸞が生き抜けたのは、善し悪しもない、ただひたすら大地にへばり着き生きることのみにあくせくしなければならない、民衆の姿があったからこそである。民衆の「生きる」ことの凄まじさを目の当たりにした。それまでの僧としての文化人、教養人意識は粉微塵に崩れた

親鸞が法然に出会えた喜びの背景には「落ちこぼれ」という自分への思いがあったが、親、比叡山、都、仏教界から落ちこぼれてきた親鸞の目前には、こんな思いなどは贅沢、どこにも通用しない困窮暮らしの民衆が存在した。親鸞は自らの「落ちこぼれ」意識は「思い上がり」だと覚っていく。自分の足が民衆と同等の大地に着いていないことを自覚した。民衆からも落ちこぼれていたのだ。

釈迦如来の教えは、いかなる地を生きるいかなる人々にも「生きよ」と命じている。親鸞は、その教えの意味を確かめつつ、民衆とともに大地を生きる人となっていく。北陸の地では美味い酒の味を覚えただけでなく、女との歓びも、念仏の教えも熟成させていった。

落ちこぼれ親鸞(1-2)

2007-02-11 15:28:45 | 宗教・教育・文化
天台の教えは仏教の教えに背き続けるような者さえも悟りを開くことができると説く「一乗」と言われる教えだった。

一乗の「乗」とは乗り物の意味。その乗り物によって悟りに至る。一つの乗り物とはその一つの教えによってどんな人も等しく仏になるということ。これに対して、たとえば三乗というのは、衆生の能力や性質によって、それぞれに教えと悟りに至る道と結果があるという意味。

しかし親鸞にとってはどんなに教えはすばらしくとも、厳しい修行の中で見えてくるものは悟りの世界ではなく、ちょっとしたことに心が波立ち濁っていく、どうしようもない自分の姿だった。仏の教えからも落ちこぼれていく自分だった。親鸞の子孫に当たる存覚(ぞんかく)は「定水を凝らすと雖も識浪頻りに動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う」と親鸞の比叡山時代のことを伝えている。

どこかで決着を付けなければならない、そんな時期がやがて訪れた。

建仁元年(1201)春まだ浅い頃、日本最初の寺と伝えられる頂法寺(ちょうほうじ)の百日間参籠を親鸞は決意する。理由は定かではないが恵信尼の手紙(前述)には、「後世を祈らせ給いける」とある。そして九十五日目の暁、聖徳太子が夢枕に現れ、その示現に従って吉水(よしみず)の法然を訪ねた。親鸞、生涯の師との出会いであった。

頂法寺は京都市中京区烏丸六角通りにある天台宗の寺。寺名のいわれは本堂が六角形になっていたことによる。聖徳太子の開創と伝えられる。ご本尊は聖徳太子の本当のお姿といわれる観音菩薩で、親鸞も聖徳太子ゆかりの寺と知って参籠したと考えられる。

聖徳太子(574~622}は用明天皇の皇子で、推古天皇の摂政として活躍した。仏教への造詣も深く、法隆寺などを建立し、自らもお経の注釈書を作り、仏教の心を以て政治の改革に取り組み、十七条憲法を制定した。このようなことから日本仏教の開祖として尊ばれ、様々な太子信仰が生まれた。親鸞の著述を見ると聖徳太子を実の父母の如くに慕っている。仏教の心を以て政治の改革に取り組んだ太子の姿が、人生に挫折し岐路に立たされるたびに親鸞を励まし支えていた。真宗の寺院では本堂に聖徳太子のお姿を奉っている

吉水は京都東山の円山公園の東にある地域。法然はこの辺りで念仏の教えを説いていた。吉水という地名の由来は辺りで仏教の儀式に使う清らかな水が湧いていたことから名付けられた。現在吉水の草庵を伝えるものは安養寺という時宗のお寺。親鸞が出家した青蓮院とは歩いて十分ぐらいの所。

法然(1133~1212}は浄土宗の開祖で、黒谷上人と呼ばれた。美作出身で、九才の時争いに巻き込まれ死んでいく父の遺言に従って仇討ちをせず、仏門に入る。生死解脱の道を求め、広く深く一切の経典や各地の碩学を訪ねて学んだが、悟りを見出すことはできず、再び比叡山に戻り善導(中国の僧。「観無量寿経」の解説書を著した)の言葉にうたれ、専修(せんじゅ)念仏に帰入した。仏教の教えの一つに念仏の教えはあったが、法然は念仏だけでよいと説いたためにそれまでの仏教から敵視され、七十五歳の時流罪となる。

法然も親鸞と同じように若い頃比叡山で学んだ。法然は智慧の法然坊と言われ、その当時宗教界の将来を担う人物として期待されていた。その法然が天台宗を捨て比叡山を下り、四十三才の頃から一般庶民をはじめ貴族・武士などあらゆる階層に向かって念仏の教えを説いていた。法然と親鸞との年の差は四十才、親鸞が青蓮院の門をくぐった頃には法然はすぐ近くで念仏の教えを説いていたことになる。親鸞は法然の存在を早くから知っていた。しかしすぐには法然の元へは行かなかった。

比叡山は総合仏教研究機関で、念仏も天台の教えの一つだった。一乗という課題を自らに課した親鸞にとって、「念仏ならばここででも学べるではないか、自らの努力を放棄するような教えが仏教だろうか、ただ念仏だけですべての人が助かるはずがない」と自問自答していた。このこだわりが二十年間、親鸞を比叡山から下ろさせなかった。

その二十年間の総決算が百日間の参籠。そして夢の指示に従い、法然の元を訪ねた。仏教の本筋から落ちこぼれたという思いと、ようやく出会うことができたという思いの交錯する日々だった。比叡山から通い続けた日は百日間だったと恵信尼の手紙は伝えている。落ちこぼれてようやく出会うことのできた人が法然だった

親鸞は自らの落ちつき処を見つけたのだった。

親鸞の晩年の弟子唯円が、親鸞の言葉の中で深く心に残ったものをまとめた「歎異抄」という書物の中で、「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」と記している。「すかされまいらせて」とは、だまされていようともの意で、たとえ法然に騙されていようとも自分には念仏の道しかなく、これで地獄に堕ちたとしても悔いはないという、親鸞の凄まじいばかりの、あるいは必死の姿を想像することができる。大成する人物は男女にかぎらず何処かの時点で覚悟を得る。親鸞もここにきて覚悟を得た。

落ちこぼれ親鸞(1-1)

2007-02-11 15:26:26 | 宗教・教育・文化
親鸞を知る人は親鸞を落ちこぼれだという。私も落ちこぼれ親鸞に近親感を抱き、悩める高校生の頃から『歎異抄』を座右の銘のように再読してきた。浄土真宗開祖親鸞の生涯は落ちこぼれの生涯だった。ここでは簡単に親鸞の落ちこぼれ振りを記載してみたい。私自身、親鸞を認識することによって今日まで生かされたという面がある。

一言断っておくと親鸞は自ら浄土真宗を興したのではないということ。親鸞は浄土宗開祖法然に帰依、法然の教えを全うしようと勤めただけで、浄土宗と独立した形での教団は興さなかった。法然の教えの真意を浄土真宗として表現した。自らも浄土宗の一員であり法然の弟子であるという思いに変わりはなかった。

この辺のことについては私は詳細でないが、親鸞の死後、おそらく浄土真宗中興の祖と称えられた蓮如あたりで浄土真宗という強力教団の姿を成していったのではないか。

親鸞は、平安末期の承安三年(1173)に、京都は宇治の近くの日野の地に、藤原氏の一門の公家の長男として生まれました。父は日野有範、母は吉光女と伝えられているが定説はない。

親鸞が生まれ育った時代は、公家社会から武家社会へと移り変わろうとする政治の混乱の時代であった。戦乱や地震・竜巻などの天変地異が続いた。また前世紀より「末法」に入ったとされ、この世の終わりをどことなく感じ、宗教に対する期待も変わりつつあった。混沌とした世紀末感覚は現代とも相通じるものがありはしないか。

貴族といっても身分は低く、長男でありながら親鸞は九歳(数え歳、満で七歳か八歳)で、仏門に入れられた。体裁のいい口減らし。

こういう年齢で家族、とくに母親と引き剥がされた男の生涯はほとんど波瀾の生涯を生きることになる。親鸞は肉親の愛から先ず落ちこぼれた。おそらくなぜ自分はこの世に生まれてきたのか、生きていく甲斐はあるのか、生きる目的は? と十二、三歳頃から煩悶したのではないか。

末法とは釈尊が入滅(亡くなる)してから時代が下がるにつれて、釈迦の教えがことごとく実行されなくなるとする仏教の歴史観。時代を正法(教えと実践と悟りがある時代)・像法(教えと実践のみの時代)・末法(教えしかなくなった時代)の三時に区分。末法思想は平安中期頃から日本に広まった。そのため極楽浄土に往生することを願う信仰が盛んになり、宇治の平等院もこのころ建立された。

幼名を松若麿と名のっていた親鸞は、九才になった春、出家のため伯父範綱(のりつな)に付き添われて京都粟田口(あわたぐち)にある青蓮院(しょうれんいん)を訪ねた。その時のことがこのように言い伝えられている。年が若かったために、青蓮院の慈円(じえん)から出家を暫く待つようにと言われた。しかし親鸞は外に咲く桜の花を指さし、

明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

と歌い、慈円感ずるところあり出家を承諾した。

親鸞出家の理由の一つに当時は「一人出家すれば九族天に生ず」といわれ、日野家の将来の繁栄祈願が両親にあったのではないか。が本音は子供を養育できなかったのであろう、親鸞は五人兄弟の長男だったが、あとの四人もそれぞれ出家したと伝えられている。『方丈記』に「飢え死ぬるものの類、数も知らず」と伝えた当時の有様は、荒涼としていた。本願寺に伝わる親鸞の伝記(親鸞の曾孫に当たる覚如が執筆したもので、正式には『本願寺聖人伝絵』という)には、「真実を明らかにし、多くの人を救いたい」という願いがあったとだけ出家の動機を伝えている。

慈円(1155~1225)は藤原忠通の子で九条兼実の弟に当たる。親鸞得度の戒師といわれる。後に天台座主になる。

父母は「私」の存在を確かめるこの世の最大の手がかり。しかし出家するということは父母の縁から切り離されること。親から見放された「ひとりぼっち」の自分を親鸞は淋しさの中に自覚していった。

家族から落ちこぼれた親鸞二つ目の天台宗の修行からも落ちこぼれた。九才で出家し二十九才まで天台宗の僧侶として修行を積んだがこの二十年間、どのような修行をしていたのかほとんど分かっていない。天台宗にいたときの足跡が残されていない。不思議な事実であるが目立つ存在でなかったのだろう。一時は親鸞という人物の存在すら疑われたが、大正時代に西本願寺から親鸞聖人の妻、恵信尼に手紙が見つかり、そこに親鸞の一生が簡単に書かれていたことから、実在の人物であることが定説となった。その手紙によると、親鸞は堂僧という身分で比叡山にいた。

比叡山は日本天台宗の総本山延暦寺のある場所。天台宗の流れは六世紀の中国に始まるが最澄が日本に伝え、延暦寺を開いた。やがて延暦寺は国家公認の僧侶養成機関、仏教研究機関となった。延暦寺の建物は比叡山の各地に広がっており、一時は三千余坊とも言われ、その中心は根本中堂。

ここでのエリートは学問により仏道を極めようとする学生(がくしょう)だったが、親鸞は厳しい行を中心に悟りを開こうとする堂僧だった。ここで名もない一修行僧として二十年あまりを過ごした。

言語について

2007-01-02 10:09:37 | 宗教・教育・文化

五年前から短歌も作るようになったが、小説や現代詩を創作するぼくが、言語とは人間にとってどんな機能を果たすことなのかを考察することは、かなり重要なことだと考えている。


 


随分昔のことだが「奇跡の人」という洋画を観た。子どもの頃から盲人で聾唖(ろうあ)という三重苦を背負った、7歳のヘレン・ケラーを教育するサリヴァン夫人とヘレン・ケラーの互いの人生を掛けた凄まじい格闘劇といってもよい、感銘の残る映画であった。7歳のヘレン・ケラーは獣に等しい状態であった。きょうは内容の一部を採り上げて人間の言語活動について考察してみる。ヘレン・ケラーについては以下に概要がある。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%A9%E3%83%BC


 



 私は非常に重要なことが起ったので、今朝あなたに手紙を書かなくてはなりません。ヘレンが、彼女の教育上、第二の大きな進歩をしたのです。彼女は、どんな物も名をもっているということ、そして、手のアルファベットが彼女の知りたいと思っている、あらゆることに対する鍵であるということを学びました。(夫人はヘレンに物を触れさせるとヘレンの掌にその物の名前を書いて、一つ一つ覚えさせていた)


 


 ……その朝、彼女が顔を洗っていたとき、彼女は水という名前を知りたいと思いました。彼女が何かの名前を知りたいと思うとき、それを指(さ)して、私の手をそっと叩くのです。私はwaterと綴りました。そして、朝飯の後まではそのことは何も考えませんでした。……〔その後で〕私達はポンプ小屋に行きました。そして、私はヘレンに私がポンプをおしている間、水の出口の下に、コップをもたせておきました。冷たい水がどっと流れ出てコップを充たしたときに、私はヘレンの、何も持っていない方の手に、waterと綴りました。手の上にかかってくる冷たい水の感覚に、密接に結びついてきた、この言葉は、彼女を驚かしたようでした。彼女はコップを落し、釘づけにされたように立っていました。新しい光明が彼女の顔に現われてきました。彼女は数回waterと綴りました。それから彼女は地上にしゃがんで名をきき、ポンプと垣根を指さしました。そして急に振返って、私の名をきいたのです。私はteacherとつづりました。家に帰る途中彼女はすっかり興奮していて、さわるものの名前をみな覚えましたので、数時間のうちに、彼女は彼女の知っている言葉に、新しい言葉を三十もつけ加えたのでした。翌朝、彼女は輝いた仙女のように、起き上りました。彼女は物から物へ眼を移し、すべての物の名前をきき、非常によろこんで私にキッスしました。――今や、すべての物が名前をもっているはずです。どこに行っても、彼女はうちで学ばなかった物の名前を熱心にききました。彼女は友達に綴ることを熱望し、会う人ごとに、字を教えてくれとせびりました。彼女は代るべき言葉を用い始めるや否や、それまで使っていた合図と身振りをやめました。そして新しい言葉を覚えることに、最も生き生きしたよろこびをおぼえるのです。そして、私たちは、彼女の顔が毎日毎日と豊かな表情となるのに気づいているのです。(下線は喜多)


 


昨今はペットブームで、犬の暮らしとか猫の暮らしという雑誌まで発刊されているようだ。犬猫と暮らしていると婚期が遅れるとか、結婚することが大儀になる女性もいるようだし、熟年離婚した女性が、その後はペット相手に暮らしている話も聞く。


 


猫が飼い主に忠実であるかどうかは疑問だが、犬は忠犬ハチ公で通っている。チンパンジー、イルカもそうだが、こうした動物は人間の言葉を解しているかのように振る舞う。怒り、恐怖、絶望、哀しみ、訴え、願望、陽気さや楽しさまで身振りで表出するのであるから、厄介な男と暮らしているよりは、ペットと暮らしている方が楽かもしれない。


 


専門家は動物たちの言語を動物言語と呼んでいる。情動言語(emotional language)である。人間の赤ちゃんは一時期はこれを使うし、狂人もこれを使う。7歳のヘレン・ケラーの感動的なエピソードを紹介したが、実は彼女はこの時点まではサリヴァン夫人によって、一つ一つの物の名前をスローテンポで覚えていったのであるが、これは犬猫の情動言語の範囲であった。それがある日突然先の体験を通じて人間の言葉、命題言語(propositional language)を悟るのである。


 


命題言語とはシンボル(象徴)である。人間と他の動物との区別はシンボルを扱っているかである。だから人間はシンボルを操る動物と表してもいい。ペットが人間に動物言語で反応するのは、人間が出すサイン(合図)、シグナル(信号)に反応しているに過ぎない。人間の言葉を命題言語として反応しているのではない。音声も犬猫にとってはサインである。したがって犬猫、チンパンジー、イルカは人間がいくら教育しても人間と同じレベルには到達しない。ヘレン・ケラーもそうであったが、7歳の体験で突如として命題言語を理解したのである。


 


この結果、ヘレン・ケラーは後年偉大な女性へと成長したのであった。


 


命題言語の定義を理解することはなかなか難しいが、情動言語の特徴を述べることである程度の輪郭は得られる。犬猫、チンパンジー、イルカの発音の範囲は、全く主観的であり、情動を表出することができるだけで、決して物を指示したり、記述したりすることはできない。たとえば飼い主が忠犬ハチ公と野原を散歩しているとき脳卒中か何かで倒れるとする。忠犬ハチ公はこういう場合、家族の処にとって返しサインめいた身振りを示すことがあるが、このとき人間のほうが、その身振りから飼い主の変事を推察すれば飼い主は助かるかもしれない。しかし、だからといって忠犬ハチ公が人間の駆使する命題言語を使ったとは言えない。


 


別の角度から説明すると動物の条件反射は、人間のシンボル思考の根本的特徴と甚(はなは)だしく異なっているのみならず、反対でさえある。シンボルはたんなるシグナル(信号)に還元することはできない。できれば将来ロボットがターミネータ(アーノルド・シュワルツネッガーが演じた殺人ロボット)のような人間に化することが可能であろうが、シグナルとシンボルは理論上、二つの異なった世界に属する。すなわちシグナルは物理的な存在の世界の一部であり、シンボルは人間的な意味の世界の一部である。シグナルは一種の物理的または実体的存在であるが、シンボルはただ機能的価値のみを持っているのである


 


かりに人間の言語が犬猫のようにサイン(合図)・シグナル(信号)といった感覚だけで成り立っているとしたら、三重苦のヘレン・ケラーにとっては絶望的である。ヘレン・ケラーは人間的知識の源泉を奪われたことになる。それは現実からの島流しといってもよい状況である。しかし彼女はある日突然、人間の言語がシンボルによって成り立っていることを悟ることによって、急速に言葉数を増殖していった。
 


このことから指摘すると、社会の場での人間との接触を拒みペットと暮らしている人たちは、全身とまではいかないが半身は情動言語の世界に埋没しているのかもしれない。こうした傾向のヒトがたまに他人と会話すると、すぐに唸ったり吠えたり(切れる)の症状を起こすかもしれない。切れるところまでいかないヒトは鬱に陥ったりする。


 


つまり命題言語による人間関係のトレーニングをさぼっていると、現代病と呼ばれる神経症に悩むことにもなる。



◆追記――情動言語と命題言語についての理論はドイツの哲学者カッシラーの『人間』(岩波文庫、宮城音弥訳)に詳細がある。文中のヘレン・ケラーに関するサリヴァン夫人の記録は、この本より引用した。


 


哲学とは何か

2007-01-01 19:44:42 | 宗教・教育・文化

哲学とは何か、ぼくなりの言葉で表すと自分探しということになるのだけど、これではあまりにも安っぽく聞こえるので、もう少しまともなことを書く方がいいかもしれない。中学2年生頃から武者小路実篤の人生論のようなものを愛読したせいで、亀井勝一郎、堀秀彦の著作へと発展していった。亀井勝一郎の人生論には影響を受けたが、堀秀彦は薄っぺらな印象だった。中学3年生になると書店で見付けた定価50円の雑誌「人生手帳」を毎月購読した。この雑誌の内容は働く青少年向け人生論といったもので、文理書院から発刊されていた。

 

ここから哲学の文庫本を書店で探すようになった。ヤスパース著『哲学入門』、ウィル・デューラント著『西洋哲学物語』上下、三木清著『哲学ノート』、西田幾太郎著『善の研究』、ショウペンハウアー著『自殺について』、モンテニュー著『随想録』全巻などを、二十歳になるまでには読んでいた。京都山科の一燈園の西田天香の書いた物なども読んでいた。それで中学校を出ると一燈園に入門しようと夢想したこともあった。


哲学は自分探しなんだから、とくべつ大学で学問するようなものではないのだが、紀元前7世紀ごろの古代ギリシアから始まっており、哲学という表現を最初に用いたのはピュタゴラスである。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった人物が自分探しを始め、その後今日まで様々な哲学者による自分探しがあるわけだから、これらの学者によって何が見付かり、何が見付かっていないかを知識的に整理する意味では大学の哲学科に学ぶのも価値のあることだが、そこで学んだからといって自分が見付かるものでない。将来大学に残って哲学を教えたり、哲学概論の書物を書いてみたいというヒトには向いているだろう。

 

学問以外の形で自分探しをするヒトの動機は、自分が生きていることの意味を問うところから始まっているのでないか。少なくともぼくはそうだ。小学高学年から厭世観のあるぼくにとっては、生きる意味を問うことは三度の食事よりも重要なことで、生きる意味が無であれば生きていることはないのであるから、三度の食事も必要なくなるのである。いわばぼくにとって哲学は死活問題である。

 

とはいえ哲学書を読むと自分探しは大雑把に分けると、科学者のように外観から調べ上げる方法と宗教家のように内観から調べ上げる方法とがある。外観からとなると最小限医学の学問を必要とする。内観からだと悟りの修行なるものが必要。凡人なまくらなぼくにはどちらも無理そうで、もう少し飛び越えられそうなハードルの低い方法を見付けなければと思案していたら、30歳頃に自然と文学表現に落ち着いてきた。何も見付からなければ鬱に陥るか狂人になるしかなかったであろうが、子どもの頃からの読書好きが幸いしたのかもしれない。

 

ぼくがオプティミストなのは武者小路実篤の理想主義、楽天主義と「人生手帳」の影響が大きい。昨今は社会主義を志向する風潮が薄れているが、5、60年代はそうでなかった。「人生手帳」はこの頃に発刊され、左翼系の哲学者、評論家、文学者が青少年向きに執筆した唯物史観、唯物論の解説を載せていた。宗教のような観念論よりも先にこの思想に触れておいたことが、右往左往の観念の渦巻きの中でノイローゼになったり、無批判に狂信的組織に近付いたりすることを制御するブレーキの役割を果たしてくれた。物事を一応客観的に眺める性向となったが、だからといって現世を唯物史観、唯物論の観点からだけ観ているのでもない。

自分探しは、底なしの井戸を掘り進んでいるような気分のものである。デカルトの「我思う故に我あり」という言葉に、なるほどと納得しかかっていたら、その我とは何のことやということになり、モンテニューの「世界で最大のことは自分自身を知ることである」は、一筋縄では行かないことに気付く。

ぼくなりに自分がわかる頃とは、おそらく命の灯の消滅する寸前でなかろうかと想像してみる。そのとき、ぼくはこんな風に生きた自分に結構満足しているのではないか。


読書人

2006-12-31 11:52:43 | 宗教・教育・文化

新聞(ウェブニュースは読んでいるが)やテレビも見ない暮らしをしている。こうしないと読書に時間がとれないだけでなく集中できない。

 

ぼく個人の人生でなにより感謝していることは両親が、ぼくを読書好きに産んでくれたこと(多少は育つ環境が関係している)、本の内容にもよるが読書して五分の一、二は理解できる知能のあるように産んでくれたこと、アルコールよりも飴好き(甘党)に産んでくれたこと、一人で静かに暮らせるように産んでくれたこと、社会の在り方を批判することはあってもぼくの境遇については不平不満を抱かないように産んでくれたこと、究極の処では鬱に陥らないオプティミスト(楽観論者)に産んでくれたことなどである。

 

このうちでも読書好きに産んでくれたことは、生まれてきて良かったと思う最大の要因である。母親の胎内の温かい羊水(ようすい)に丸まった姿勢で浮かんで眠っているのも居心地は良さそうだが、これでは読書は無理なのでやはり現世に押し出してくれてよかった。

 

絵本、童話、少年雑誌、講談本、探偵小説と経て、十代中頃からは人生論、哲学、心理学、宗教と進んできた。二十代に乗るまでは文学は武者小路実篤、有島武郎の小説を読む程度で、そんなに読書したい気は起こらなかった。ただ武者小路実篤の作品は相当数読破したので、ぼくのオプティミスティクな面はこの頃に育てられた。この頃に太宰治の作品に耽溺(たんでき)していたならば、案外早い時期に自殺していたのではないか。

 

人生論、哲学に耽溺していったのは子どもの頃から厭世観(えんせいかん)があり、生きている意味を探りたい気持ちが強かったのであるが、気質・性格も無関係でないと心理学にまで手を伸ばしていった。

 

二十歳を過ぎた頃に書店で『文藝首都』という同人誌を手に取ったのが、創作の目覚めであった。『文藝首都』は丹羽文雄主宰の「文学者」、小谷剛主宰の「作家」と並ぶ全国的同人誌で保高徳蔵が主宰、芝木好子、大原富枝、半田義之、上田広、北杜夫、なだいなだ、佐藤愛子、田辺聖子、中上健次、勝目梓などを輩出した。

 

この同人誌は原稿百枚前後、二十枚から五十枚の短編、原稿三枚程度の掌篇と分けられており、入門者はまず掌篇からのスタートであったが、いきなり短編を創作して掲載されるヒトもいたと思う。

 

ぼくが加入していた時期は二年ほどであったが、中上健次、勝目梓が短編で活躍していた。

 

とくべつ作家になろうという野心もなく、小説の書き方がわからなかった。創作よりも読書のほうが楽しく、なにより掌篇を気に入っていた。そのうち川端康成の作品に『掌(てのひら)小説百篇』(?)上下の文庫本を書店で見付けて、これなどを参考にぼくも掌篇を原稿用紙に創作しはじめたのだが、三枚でも物語を完結するのに苦労した。どうも空想癖が乏しいのか、物語風にならない。それでも書き上げると今度は小説と作文の区別は何処にあるのかと悩む。悩んでいるうちに書くよりは読む方が楽しいと読む方に廻る。しかし小説を読むよりは哲学書を読む方が面白いと哲学に戻る。一向に文学の創作修行は進展しない。

 

いまでもそうで創作よりは読書の方が楽しい。そのうち屁理屈を思い付く。創作は創った作品を他人に読んで貰いたいという欲望があるから創るのではないか、ぼくにはこの欲望がない。だから創作への情熱が湧かないのではないかと。さらに後年になって気付くことは自分の書いた物を本にしたいヒトが結構いる。ぼくの長年の文学仲間にもこういうヒトがいる。褒められた小説でもないのに自費出版する。自費出版した本を送り付けてくる。出版パーティまで自分でお膳立てして悦に入っている。ぼくにはこうしたことで自己満足する気持ちがほとんどない。

28歳のとき英国に長期滞在した。帰国はアリスの「秋止符」を聴く頃であった。ぼくは文字は右で書くがボール投げは左、本来ギッチョなんだろう。歌詞が気に入ってよく耳を傾けていた。すると無性に小説を創作してみたくなった。80枚ほどの作品で題名を『秋止符』として同人誌に掲載したら、「文学界」の同人誌評でベスト5にランクされ、芥川賞の下選考作品になった。このことで小説はこんな風に創作するのかと、多少納得するものがあり、次にまた原稿80枚ほどで『淀川河川敷』を創作した。これは「文学界」では無視されたが、毎日新聞、神戸新聞の同人誌評でピックアップされた。

 

小説を創作することに自信がつき始めた頃であったが、一方では二人の娘を育てるための金儲けの時期でもあった。創作だけに気持ちを集中することはできなかった。そうなるとまたも読書に、それも小説ではなく哲学、心理学の書物を読み耽(ふけ)った。