透明な気圏の中から

日々の生活の中で感じたこと、好きな作家についての思いなどを書いてみたいと思います。

「亘理伊達家中」の皆さんから学んだもの

2015-10-09 21:31:37 | 日記

雨のち曇り時々晴れ。最低気温9.4℃、最高気温13.8℃。

雨と風は峠を越えたようだが、後遺症のために遅れがちなJRで札幌へ向かい、「第7回かでる講座」を受講してきた。「伊達市を作った人々~亘理伊達家中とはなに者か?~」という講座で、講師は伊達元成(だてもとしげ)氏。

伊達元成氏は伊達市噴火湾文化研究所学芸員で、亘理伊達家第20代当主仙台藩伊達家一門11家の一つで、現在の宮城県亘理町の周辺一帯を治めていたそうだ。亘理伊達家は伊達政宗重臣の伊達成実を初代とし、二代目は政宗の九男宗実が養子として入っている。江戸時代を通じて家中最大の2万4千石を領していたという。

ところが、戊辰戦争後に仙台藩に処罰が下され、亘理伊達家一族も領地を没収され、2万4千石から58石と激減となった。一族は流浪するか、南部藩の農民になるかの選択を迫られることになる。

その様な状況の中、蝦夷地開拓の計画を思い立つ。樺太がロシアの侵略を受けているので北門の警備が必要となろう。仙台、会津、南部、津軽、秋田、庄内の奥羽六藩に蝦夷各地を分担させてはどうかなど。

政府も対ロシアの南下を食い止めたい、大量の失業武士の再雇用を急がなければなどとの思いがあった。

亘理伊達家の考えは、北海道開拓を成功させて朝敵の汚名をはらすこと、北方警備となれば帯刀が許されるはずで、そこに武士としての活路を見つけることができるだろうということだった。

この考えに政府も応じることになった。

こうして、第一期移住は明治3年に行われた。この際にも亘理伊達家独自の柔軟な発想が見られる。例えば、移住人員男女250人、戸数60戸を標準とすることとしたうえで、単身移住を許さず、戸主は夫婦連帯としたこと。人員のなかに、木挽き、桶屋、鍛冶屋および漁師を引き連れること。半年分のお米を準備すること等々。

他に伊達家の個人事業と位置づけ、現代に換算すると約15億円を家宝等を売って調達したとのことだ。

当初の目的である、移住計画を実行し、北海道開拓を成功させ、朝敵の汚名を返上することは明治18年の士族復籍、西南戦争への参戦、琴似地区入村140年をもって為し得たようだ。亘理伊達家中をもって仙台藩の再興にあてるという目的は現在進行形なのだろうか。

約2時間の講義で印象に残ったことを私なりに(勝手に)まとめてみると。

1:藩校にて多様な状況に対応できる学問を身につけた。→生きた教育の重要性。

2:北海道において、農業基盤の町づくりが可能なことを証明した。→厳寒の北海道でも可能な限り地産地消で安定したくらし。

これらをふまえて。

ノーベル賞受賞が相次いだのは1980年から1990年代の業績に基づいているからだという考えもある。短期間に成果を求められる環境の中では、十分な基礎研究もできず、世のため人のためになるような、また、真理とは何かのヒントとなるような発見が得られにくいと思う。学問にお金をかけることを厭わないで欲しい。

やっと北海道でも美味しいお米がとれるようになり、酪農や畜産、漁業など暮らしの重要な部分の食の分野で安心できそうだと思っていたのに、それが根こそぎもぎとられそうで不安だ。これについての納得できる情報が欲しい。

                     

 

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