3年間勤めた染色会社をやめ競馬記者になったのが21歳の春。丁度その一年
後には弥富トレセンに厩舎が移転しましたが、当時は競馬場の周りに厩舎が点在。
競馬場正面のすぐそば、川間町に安アパートにすんでいたのですが、夜中の2時過
ぎになるとアスファルト道路をカッポカッポと音を立てて競馬場へ調教に向かう馬
で起こされました。このアパートには伊藤定幸調教師や末吉厩務員(後の調教師)
が住んで居ました。それにしてもボロでしたよ。
さて当時は競馬エース、競馬東海、競新、そして私の入社した中部優駿の4社。
売り上げはエース、東海の2社が優位で次いで競新。私の中部優駿は断トツのビリ
でした。中部優駿は競輪部門では東海地区では名の通った専門紙でしたが、こと競
馬に関してはマイナー。よく厩舎関係者からゴムチューブ(中部)とひやかされた
のを覚えています。
中部優駿は笠松にA記者、名古屋にB記者。名古屋に配属された私はB記者の
下で競馬を覚える事(調教タイム係)になったのです。ところがところが、調教を見
る小屋で(向こう正面に9畳くらいの小屋があった。笠松では現在もあります)4
社並んで時計を取るのですが、このB記者が実際に教えてくれたのはほんの2、3
日だけ。すぐに厩舎取材に行ってしまい。素人同然の私はなすすべもなく、他の記
者の取った時計を見せてもらうのが関の山。当時はエース社・光岡さん、東海・森
岡さん、競新・杉本さん(兄)の3名。皆さんは何もしらないアンちゃん(私)に
親切に採時した時計や、時計の取り方までも教えてくれました。
一方、厩舎取材に行ったB先輩は殆ど仕事もせずに(朝は)いたようです。ただ、
その頃は他社の厩舎取材の記者もいい加減な連中が多かったような記憶があり、競
馬開催日には、この連中にアンちゃん(私)はよく馬券買いに走らされました。
そんないい加減な取材記者の中に宗野(エース)と言う人物が居ました。光岡さん
とは大学が同期(中京大学)でその関係から競馬ファン→競馬エースの道をたどっ
たようです。光岡さんは名門・光岡厩舎の次男で長男は光岡静馬調教師。
その宗野記者は根っからのギャンブル好きで、開催の合間には競艇、オートレー
スに誘われ、ある時は栗東トレセン見学にも行きました。見学と言っても、正門か
ら手続きを取ってのものではなく、破れたフェンスから進入するとんでもないもの。
でも、栗東トレセンは広く、馬場、調教スタンドも地方競馬とはケタ違いだった事
を覚えています。 ある時、その宗野記者に馬券を頼まれたのですが、それを買い
忘れてしまい8万近い配当を(2500円くらの配当を特券3枚)を払う破目になりま
した。その時の勝ち馬に騎乗していたのが、あの坂本敏美騎手であります。1400m
戦でもバテていた馬を、何とマイル戦をもたせてしまったのだからビックリしまし
たよ。と言うより買い忘れた事で頭が真っ白でしたが…。
それから少し後だと思いますが、名古屋競馬では『神様、仏様、坂本様』と言わ
れるようになったようです。その宗野記者にその日の夕方にステーキをゴチになり
ましたが、おいしかったようなそうでなかったような…。今はその宗野さんも競馬
を離れ違う道を歩んでいます。時々電話等で話をしますが、先日年賀状に坂本騎手
の写真が入っていました(宗野さんはプロの写真家を目指しているので、毎年写真
のみの年賀状が多い)。その写真(年賀状)を無断ながら掲載します。 佐々木
後には弥富トレセンに厩舎が移転しましたが、当時は競馬場の周りに厩舎が点在。
競馬場正面のすぐそば、川間町に安アパートにすんでいたのですが、夜中の2時過
ぎになるとアスファルト道路をカッポカッポと音を立てて競馬場へ調教に向かう馬
で起こされました。このアパートには伊藤定幸調教師や末吉厩務員(後の調教師)
が住んで居ました。それにしてもボロでしたよ。
さて当時は競馬エース、競馬東海、競新、そして私の入社した中部優駿の4社。
売り上げはエース、東海の2社が優位で次いで競新。私の中部優駿は断トツのビリ
でした。中部優駿は競輪部門では東海地区では名の通った専門紙でしたが、こと競
馬に関してはマイナー。よく厩舎関係者からゴムチューブ(中部)とひやかされた
のを覚えています。
中部優駿は笠松にA記者、名古屋にB記者。名古屋に配属された私はB記者の
下で競馬を覚える事(調教タイム係)になったのです。ところがところが、調教を見
る小屋で(向こう正面に9畳くらいの小屋があった。笠松では現在もあります)4
社並んで時計を取るのですが、このB記者が実際に教えてくれたのはほんの2、3
日だけ。すぐに厩舎取材に行ってしまい。素人同然の私はなすすべもなく、他の記
者の取った時計を見せてもらうのが関の山。当時はエース社・光岡さん、東海・森
岡さん、競新・杉本さん(兄)の3名。皆さんは何もしらないアンちゃん(私)に
親切に採時した時計や、時計の取り方までも教えてくれました。
一方、厩舎取材に行ったB先輩は殆ど仕事もせずに(朝は)いたようです。ただ、
その頃は他社の厩舎取材の記者もいい加減な連中が多かったような記憶があり、競
馬開催日には、この連中にアンちゃん(私)はよく馬券買いに走らされました。
そんないい加減な取材記者の中に宗野(エース)と言う人物が居ました。光岡さん
とは大学が同期(中京大学)でその関係から競馬ファン→競馬エースの道をたどっ
たようです。光岡さんは名門・光岡厩舎の次男で長男は光岡静馬調教師。
その宗野記者は根っからのギャンブル好きで、開催の合間には競艇、オートレー
スに誘われ、ある時は栗東トレセン見学にも行きました。見学と言っても、正門か
ら手続きを取ってのものではなく、破れたフェンスから進入するとんでもないもの。
でも、栗東トレセンは広く、馬場、調教スタンドも地方競馬とはケタ違いだった事
を覚えています。 ある時、その宗野記者に馬券を頼まれたのですが、それを買い
忘れてしまい8万近い配当を(2500円くらの配当を特券3枚)を払う破目になりま
した。その時の勝ち馬に騎乗していたのが、あの坂本敏美騎手であります。1400m
戦でもバテていた馬を、何とマイル戦をもたせてしまったのだからビックリしまし
たよ。と言うより買い忘れた事で頭が真っ白でしたが…。
それから少し後だと思いますが、名古屋競馬では『神様、仏様、坂本様』と言わ
れるようになったようです。その宗野記者にその日の夕方にステーキをゴチになり
ましたが、おいしかったようなそうでなかったような…。今はその宗野さんも競馬
を離れ違う道を歩んでいます。時々電話等で話をしますが、先日年賀状に坂本騎手
の写真が入っていました(宗野さんはプロの写真家を目指しているので、毎年写真
のみの年賀状が多い)。その写真(年賀状)を無断ながら掲載します。 佐々木
反対側の本宮町。サカエツキヒメの榊原厩舎がありました。車の行きかうアスファルトの道を馬が普通に歩いていたことが思い出されます。
丁度、本宮公園の北側のアパートに6年ほど居まし
た。私が移った頃はすでに弥富に厩舎が移籍した後
なのでほとんど駐車場になっていましたが、よく公
園でランニングもしましたし、夜鳴きした娘をおぶ
ってウロウロした事を思いだします。昨年、行った
時にはすでにマンションになってました。