金沢競馬&佐々木(ホープ社)

東海公営(中部優駿)→金沢競馬(カナザワ→フォーカス→ホープ)と渡りあるいた競馬記者歴35数年のおっちゃんのブログです。

⑦あの頃は良かった

2008-01-30 08:44:17 | Weblog
私が競馬記者になって直ぐに地方競馬のピークが来ました(たぶん昭和55年頃)
正月開催や連休。あるいは重賞時にはものすごい入場者があり、ある時は名古屋
で4万人も入った記憶があり、記者席から見るとファンでぎっしり。スタンド前
のスペースまでファンで真っ黒(満員電車のようにギュウギュウ詰めで上から見
ると頭ばかりが見えたから)その当時はパチンコが低迷期(数年してフィーバー
機が登場する)もあり、競馬人気は大変なもの。馬券は枠複だけ(単勝、複勝も
ありましたが)で、今にして思えば物足りないのですが、それでもファンは支持
してくれたのです。

数年して前述のパチンコフィーバーが訪れた事もあり下り坂。ところが昭和62
年(1987)に中央で武豊騎手がデビュー。中央競馬が再び活気を取り戻し、数年
後にはその余波が地方競馬にも波及。私が金沢競馬に来た平成2年頃(1990)か
ら金沢も再び売り上げが伸び始め、日曜には2万人に迫る入場者がありひと開催
の売り上げも20億くらいありました(6日間開催)。それが徐々に減りはじめて
現在に至ります。

たしかに武豊騎手だけでそんなに大きな変化があったとは言いすぎかも知れま
せんが、回復の起爆剤であった事は間違いないと思います。その当時金沢競馬で
は大きな改革はなかった筈です(6枠連単はそれ以前からあった)。現にその頃
先輩記者が『今の盛況ぶりは中央の影響が大きい』と言っていたのを思い出しま
す。私も地方競馬人気の盛り返しは武豊騎手の影響が大きいと思っています。

                               佐々木

※次回は佐々木、北陸・金沢を目指す。の予定です。

⑥新米記者の出合った人々

2008-01-28 06:03:05 | Weblog
弥富トレセンに厩舎が移転してから記者連中も毎日にように弥富まで通わなくて
はなりません。エース社・光岡さん、東海。森岡さん、競新・杉本裕(兄)さん、
中部・佐々木が調教担当でしたが、杉本裕編集長は免許を持っていない事もあって
私がちょくちょく乗っけて行くようになりました。それから晩御飯をゴチになった
り、何度か飲みにも連れていってくれました。昭和50年代と言うと、まだコンビニ
もありません。正月などは商店街も軒並み5日頃まで休みでした。独身のアパート
暮らしの私には助かりましたねえ。また、杉本さんの奥さんの料理がどれもこれも
美味いのです。まさに理想の嫁さん像でした。その甲斐もあって私も料理の巧い嫁
さんを貰うことがでしました(よけいな事か?)

杉本裕編集長はビールをこよなく愛し、当時下戸に近かった私にはえらく格好よ
く見えたものでした。また酔うと決まって競馬の話。青山功調教師との親交も厚く
競走馬の理想像について、聞かされたものでした。その時に決まって出てくるのが
<長く短ぱい>と言う理想の競走馬の体型を表す言葉です。漢字はよくわからないの
ですが、背中のラインが長く、おなかのラインが短いと言う意味らしいです。当然
新米の私にはわかるわけもなく、また始まったと言う感じで聞いてましたが…。

競新社には前出の宗野さんも一時在籍。市原記者(かっチャン)は今はパン屋さ
ん。気さく人とで、入りたての私にも気軽に声を掛けてくれた馬券の下手な人でし
た。辻村記者(ネイチャ)は津島出身。私と同年代で、私同様によく杉本編集長の
酒の相手をされました。また現在エース社の戸谷記者も競新出身であります。杉本
裕編集長の弟さんは笠松の責任者。ちょっと異色の新聞社でありました。
                                 佐々木
※次回はあの頃は良かった、の予定です。 

⑤新米記者が出会った人々

2008-01-26 05:44:25 | Weblog
弥富トレセンでの調教が始まると、調教監視塔にはちょくちょく調教師が出入り
するようになりました。なにせこの調教監視塔の記者席はビルの5階立てくらいの
高さがあり、馬場が一望できるのです。また、前述の通り、当時は調教助手と騎手
が主に調教を担当。年輩の調教師はとくに調教を監視するいい場所だったようです

あの頃、調教監視塔によく登って来られたのが斉藤弘光調教師、調教が終わって
時々卵を持って来てくれた安達調教師などですが、追い切り日になると毎日によう
に登って来られたのが水谷文平調教師です。水谷文平師と言えばサンチャイナだそ
うですが、私が記者にななる前の馬で記憶にはありません。私が記者になってから
はアラブ大賞典(大井)を制したミヤノダービーが記憶に残っています。サラ並み
の切れ味が自慢の差し馬で、大賞典に向けてサラ挑戦を繰り返しスピードへの対応
も万全。案の定、本番では直線一気の脚で決めてくれました(当然、観戦に大井ま
で行きました) 水谷調教師は親分肌ではないのですが、記者連中には大変よくし
てくれました。調教監視塔ではしょっちゅう朝飯(騎手食堂からオニギリ&玉子焼
き)をゴチになりましたし、競馬開催が終わると記者4、5人を連れて焼肉屋によ
く連れて行ってくれました。大賞典の当日も表彰式の終わった後で、これで帰りに
メシでも喰っていけと、小遣いをもらった記憶もあります。とくに一人暮らしの私
は貧乏くさかったらしく、なにかと目を掛けてくれたようです。

その水谷先生も病に倒れ亡くなられて20年近くになります。弟子には塚田調教師
(ミヤノダービー騎手)、荒木調教師、児島騎手がいるように、その志は確実に受
け継がれているようです。いつの日にかこのファミリーから全国区の馬が出る事を
期待します。                        佐々木

※次回は杉本裕編集長(競新)の予定です。

④新米記者が出会った馬と人

2008-01-24 09:07:16 | Weblog
調教時計も何とか取れるようになり一年。弥富トレセンへ引越し。車の少ない
時間帯とはいえ、片道20分。朝2時半前に起きての調教へ行く日が月に20日余り。
寝起きはよい方でしたが、名古屋を離れるまで(金沢転居)13年間続きました。

私が新米記者になった当時は前述の通り、坂本全盛時代。名白楽・安達小八調教
師とのコンビで地方競馬をリードしていました。安達調教師の手がけた名馬は数知
れず、有名な処ではアラブのシナノリンボー(種牡馬)、トキテンリュウ(種牡馬)
サラではジュサブロー(オールカマー①着)の3頭でしょうか。

 シナノリンボーは種牡馬になって、それも晩年になってからトチノミネフジ、レ
オグリングリン(残念ながらいずれも他地区・東海地区ではカヅミネオンのみ?)
の怪物を輩出しましたが、私はむしろ競走成績、種牡馬成績等でひと周りスケール
の見劣るトキテンリュウが印象に残ります。

 当時のアラブの最高峰のレースと言えば暮れの大井・アラブ大賞典であります。
その頃は会社から交通費が支給されていたので、競馬の日程さえ合えば毎年のよう
に観戦に行けました。たしか二度目の挑戦だったと思うのですが、クビか頭の小差
で差し切りました。丁度、その時来賓席へ上がるエレベーターの中で草野さん(タ
レンント・司会業)や記者席で中本工事さん(ドリフターズ)に合い、『さすがに
東京の競馬場だがや』と思ったのもでした。その後、種牡馬になったトキテンリュ
ウはシナノリンボーとは比べものになりません。ただ、自身のレースぶり同様にス
ピードこそないながらも、息の長い脚を使う産駒を多く輩出しました。

 ジュサブローは安達調教師の名を中央に知らしめた名馬であります。馬主・角田
氏の娘さんが人形師・辻村じゅさぶろーのファンだった事から命名したようで、た
しか坂本騎手が落馬した後で、鈴木騎手が主戦を務めていました。たしかにオール
カマーはそんなに強敵は居なかった記憶がありますが、ジャパンカップ挑戦など、
名古屋のファンに夢を見せてくれた一頭であります。

安達調教師は調教にも乗る(当時、名古屋では調教助手や騎手が主に担当)人で
そのせいか、いつも鼻をグシュグシュしていたのを思いだします。弥富トレセンで
はニワトリを放し飼いにしており、時おり調教監視塔まで持ってきてくれました。
その卵を焼いて何度か朝食に…。放し飼いの卵はおいしかった。その安達調教師は
大変、馬を大事にする調教師で、『今はソエが出たらすぐ焼いてしまう。もう一度
リセットする面倒な事は誰もやらなくなった』と嘆いていた事を思いだします。
また、ある時デビューから期待していた3歳馬(今は2歳馬)に『この馬のいい処
は何処ですか?』とおそるおそる聞いたことがあります。てっきり母系がどうのこ
うの、近親には何々…。と返ってくると思っていたのですが(安達調教師は血統も
かなり詳しかった)『クビさしの美しさだよ』とひと言。その当時は何の事やらさ
っぱり解りませんでした。経験を積んでようやく解ったのですが、頭から肩にかけ
てのラインは、馬の体型の特徴を表す部分だったのです。このラインが美しければ
理想的な馬体になる(むしろ理想的な馬体でないとクビさしが美しくないと言った
方が正解かも…) 記者歴1、2年の新米のアンちゃんには難しすぎたようです。

※次回は週末の予定です(水谷文平調教師の思い出)       佐々木

③新米記者が出会った人々

2008-01-22 18:33:20 | Weblog
相変わらず続く坂本騎手の神がかり的な活躍。11連勝もその頃。後日談にな
りますが、私が金沢に来た時に河端記者(現・立ち予想)に『 坂本騎手が騎手招
待で金沢に来た時に入着も無理と思われた馬に乗って3着に来た時にはほんとうに
ビックリしたよ 』と言う話を聞いた事があります。騎乗スタイルは華麗ではありま
せんでしたが、今でも地方競馬史上に残るジョッキーの一人でしょう。
                                
あの頃ようやく中央との騎手交流が始まり(馬の交流はまだ)、ある時名古屋
競馬から坂本騎手と山田義男騎手が招待され(阪神だったと思う)8枠に同居した
両騎手でワンツーで決まった時は嬉しかったですね(2頭とも△×程度の印)。
 その山田義男騎手も追えるジョッキーで、回転ムチ、豪腕の山田と言われた人で
す。私はダイタクチカラ(笠松)での活躍が印象に残ってますが、ある時、大井競馬
に遠征し重賞を勝った時の表彰式で、ガラの悪いファンから『 おい、やまだぁ~ 』
と声が飛んだ時、にらみ返していたほど気の強い存在感のあるジョッキーでした。
勿論、新米記者の私などは口も聞けない程。後に調教師になりましたが無理な減量
がたたったのか、私が金沢に来て数年後になくなられました。

坂本騎手も落馬事故で騎手を引退。10年くらい前になりますが、河端さんと福井
の勝山の療養先を訪ね、昔話に時も忘れ話し込んだ事もありました。しばらくして
福永洋一騎手(中央)も落馬で引退。このひと達がもう少し現役を続けていたなら
と残念でなりません。                     佐々木

※なにせ古い話で各所に間違い、思い違いがあるかも知れません。あしからず。

②新米記者が出会った人々

2008-01-20 14:42:21 | Weblog
 3年間勤めた染色会社をやめ競馬記者になったのが21歳の春。丁度その一年
後には弥富トレセンに厩舎が移転しましたが、当時は競馬場の周りに厩舎が点在。
競馬場正面のすぐそば、川間町に安アパートにすんでいたのですが、夜中の2時過
ぎになるとアスファルト道路をカッポカッポと音を立てて競馬場へ調教に向かう馬
で起こされました。このアパートには伊藤定幸調教師や末吉厩務員(後の調教師)
が住んで居ました。それにしてもボロでしたよ。

さて当時は競馬エース、競馬東海、競新、そして私の入社した中部優駿の4社。
売り上げはエース、東海の2社が優位で次いで競新。私の中部優駿は断トツのビリ
でした。中部優駿は競輪部門では東海地区では名の通った専門紙でしたが、こと競
馬に関してはマイナー。よく厩舎関係者からゴムチューブ(中部)とひやかされた
のを覚えています。

中部優駿は笠松にA記者、名古屋にB記者。名古屋に配属された私はB記者の
下で競馬を覚える事(調教タイム係)になったのです。ところがところが、調教を見
る小屋で(向こう正面に9畳くらいの小屋があった。笠松では現在もあります)4
社並んで時計を取るのですが、このB記者が実際に教えてくれたのはほんの2、3
日だけ。すぐに厩舎取材に行ってしまい。素人同然の私はなすすべもなく、他の記
者の取った時計を見せてもらうのが関の山。当時はエース社・光岡さん、東海・森
岡さん、競新・杉本さん(兄)の3名。皆さんは何もしらないアンちゃん(私)に
親切に採時した時計や、時計の取り方までも教えてくれました。

 一方、厩舎取材に行ったB先輩は殆ど仕事もせずに(朝は)いたようです。ただ、
その頃は他社の厩舎取材の記者もいい加減な連中が多かったような記憶があり、競
馬開催日には、この連中にアンちゃん(私)はよく馬券買いに走らされました。

そんないい加減な取材記者の中に宗野(エース)と言う人物が居ました。光岡さん
とは大学が同期(中京大学)でその関係から競馬ファン→競馬エースの道をたどっ
たようです。光岡さんは名門・光岡厩舎の次男で長男は光岡静馬調教師。
 その宗野記者は根っからのギャンブル好きで、開催の合間には競艇、オートレー
スに誘われ、ある時は栗東トレセン見学にも行きました。見学と言っても、正門か
ら手続きを取ってのものではなく、破れたフェンスから進入するとんでもないもの。
でも、栗東トレセンは広く、馬場、調教スタンドも地方競馬とはケタ違いだった事
を覚えています。 ある時、その宗野記者に馬券を頼まれたのですが、それを買い
忘れてしまい8万近い配当を(2500円くらの配当を特券3枚)を払う破目になりま
した。その時の勝ち馬に騎乗していたのが、あの坂本敏美騎手であります。1400m
戦でもバテていた馬を、何とマイル戦をもたせてしまったのだからビックリしまし
たよ。と言うより買い忘れた事で頭が真っ白でしたが…。

 それから少し後だと思いますが、名古屋競馬では『神様、仏様、坂本様』と言わ
れるようになったようです。その宗野記者にその日の夕方にステーキをゴチになり
ましたが、おいしかったようなそうでなかったような…。今はその宗野さんも競馬
を離れ違う道を歩んでいます。時々電話等で話をしますが、先日年賀状に坂本騎手
の写真が入っていました(宗野さんはプロの写真家を目指しているので、毎年写真
のみの年賀状が多い)。その写真(年賀状)を無断ながら掲載します。 佐々木

①迷い込んだ競馬道

2008-01-19 14:27:23 | Weblog
 殆どの人は学生時代、あるいは社会人になってから競馬に接します。私も

名古屋に就職してから競馬を知り、いつのまにやら競馬の道に迷いこんでしまいま

した。しばらく時間の余裕もあり、そのいきさつをぼちぼち書いていきたいと思い

ます。  よろしかったら読んでください。

 早いもので名古屋に行ったのはもう35年余り前、昭和48年でした。染色会社

に就職して三交代勤務。あの頃は休みは日曜だけでしたが、夜勤明けだと土曜日の

朝には解放されるので、ヒマなのです。一つ上に T と言う先輩が居ました。同郷で

職場もとなりと合わせ、この先輩が競馬好きで、休みが合うとよく笠松競馬場に連

れていってくれました。笠松では宮下騎手の全盛時代。他にも瀬口騎手、池田寛騎

手などを思い出します。中央競馬ではロングホーク、ロングファスト、…。

とにかく競馬を見るのは初めて。あの頃の給料は3万円弱、仕送り等もあって小遣

いは食費も含めて1万円ほど。馬券の単位は200円券(バラ券)と1000円(いわゆる

特券とういうやつ・特券で取ったぞぉ、などと使います)の2種類。

当然バラ券になるのですが、一日に使える額はしれているので、儲かったと言う記

憶は殆どありません(当時は枠複が主力でした。他は単勝と複勝だけ)

そんなおり染色関係に不況のあおり。ただ、多方面は景気が良く、20歳前後の若者

は引く手あまたでした。三交代勤務も辛かったので、丁度、笠松競馬で買った競馬

新聞に求人広告が出ていた事もあり、面接を受けました。何と給料は7万円。一気

に倍以上。とにかくうれしかった。今では考えられない事です。

こうして名古屋競馬担当のトラックマンになったのが21歳。あの頃は競馬人気は大

変なもので、正月開催(と言っても元旦、2日は休み)では4万人の入場があった

事を記憶してます。2回の記者席からみると人の頭で真っ黒。名古屋競馬では坂本

騎手の全盛時代でした。名古屋競馬の思い出はこの次に書きます。   佐々木 

うっ! いかん中毒になりそうだ

2008-01-13 07:48:01 | Weblog
先日9日はえんパチで一日。10日は社会保険、失業保険の手続き。ついでに

恒例の?献血に行ってきました。

社会保険は3月まで任意継続に、失業保険は毎年冬場仕事が出来ないために入っ

ています。ただ、今年からは40日分の支給(昨年までは50日分)に減額されました

献血は年に2回を最低のノルマとしています。血液検査も後日、詳しく分析され郵

送されるので、年に2回の健康管理と思っています。以前とは違って針も細くなり

殆ど注射と同じ程度の感触。そんなに痛くありません。冬場は血液が不足する傾向

があり、とくに奇人変人が多いとされるAB型(佐々木)は絶対数が少ないので…

と言う気持ちですが、まぁ使用量も少ないか…。今回で成分献血34回目でした。

 11日、12日はいずれも朝9時半になると、お尻がむずむず。テレビ画面に

表示されている時計が気になります。9日の日に一日パチンコを打っただけなのに

しかもかなり疲れたのに…。まるで覚せい剤のようなパチンコ。殆ど無意識のうち

にヤクを打っていまいした(パチンコのこと)。まして11日は8時間、12日は11時

間もハンドルを握っていた事から、かなりの重症と思われます。

今週も多分行くでしょう。いや行きたくなると思います。競馬にもパチンコに似た

中毒症状があるのか?パチンコで言えば、店員のような目で競馬を見ているので、

その辺りはよく解りませんが、競馬ファンも競馬をしないとお尻がむずむずしてく

るのでしょうか?今後ともそのような中毒患者(競馬ファン)が増える事を祈りま

す。でもあくまで小遣いの中で楽しむような軽程度の中毒でお願いします。



                         佐々木



えんパチ体験記&冬季遠征馬

2008-01-09 19:25:40 | Weblog
  昨日、宣言しました必殺仕置き人Ⅲを打ちに行ってまいりました。

私は開店から行く主義なので9時45分にさっそうと某店駐車場に乱入。と言っても

田舎なので勿論、一番乗りです。10時の開店時でも10数人。楽々とえんパチコーナ

ーの必殺仕置き人Ⅲの台へ。昨日下見しておいた台をゲット。一人でした。500円

投入すると玉が出るわ出るわ。フィーバーもしてないのに『玉を抜いてください』

と台から音声が…。あんた(パチンコ台)の言うとおりにお客がみんな玉を抜くと

パチンコファンはみんなオカマになっちまうわい!とオヤジギャグを一人でかまし

ながら、言われた通りに抜きました。どんだけ~。

  『ヨシ!気合を入れてだすぞ!』とハンドルを回して数回転目でした。

ピキピキと刀のサヤが開いて光り、あっと言う間に確変をゲット。実はここだけの

話、引きは結構強いのです。それが4連荘(れんちゃんて麻雀の連荘でいいのか

な)ただ、その後は単発を2回引いて、お決まりのハマリ。4箱あったドル箱のう

ち3箱をつぎ込んで、最後のひと箱を台に乗せた時にようやく当りを引きました。

それが6連荘。一気に7箱にふやしたのです。『ヨシ今日は大勝ちだぁ~』と心の

中で叫びましたよ。まぁ、その後はいつものお決まりのパターン。500回転あまり

ハマリ、ドル箱3箱を残して終了しました。PM3時です。パンフレットに激アツ!

と出ていたゼブラ泥棒を二度外しました。なにが激アツなんでしょう。パチンコ用

語で激アツとくればほぼ当確の事。そうではないのですか?

 ドル箱3箱で4200発あまりでした。えんパチなので、等価交換でも

4200円。交換すると3800円でした。0.9円の交換率です。ドル箱30箱積んでも4万円

さすがえんパチ。とても儲かるものではありません。ただ、遊びと考える人には格

好でしょう。本日は5時間遊んで3000円余りプラス。まぁ、負ける事を思えばいい

じゃないですか。『明日からも遊びにいくぞ~』   佐々木


※冬季遠征馬のリストです。一部は今週の笠松から出走しますが、多くは13日から
の名古屋開催と思われます。

◆名古屋選定馬
ハーベストターフ
パープルパンチ
オーミプラネット
ケイジーウィナー
スンダール
マヤノサムサラ
マヤノスザク
カクメイセンシ
エクストラナンバー
ココロノオアシス
ユーワロンシャン
エンゼルトップ
イズミムテキ
エリモフラッパー
マイトガイ
バトルエリーゼ
イケグットフェロー
エイシンアサヒオー
コーワティアラ
マイネルマトゥーロ
ビジョンパースート
カッサイノアラシ
スペースファイヤー

◆名古屋自主遠征
リュウヨウ
ディグアップアイリ
マイフラッグ
チョウヨオコナミ
キングオーサム
レーザーセンター

◆名古屋補欠馬
オーバーカム
ラッキーラッキー
スフィアー
ダイヤサウスポー
ワライナガラ
ノーブルシーズ
エミネントソニック
オーミバンディエラ

◆笠松選定馬
キセキノオーラ
シルクアメイジング
ニシノエメラルド
エイトサンデー
ダイヤサンダー
スプリングシャラ
ウェルスビューロウ
ハウプトローレ
コウエイレインボー
ベルモントパンドラ
ジョウショーモアー
フジマイヒメ
バブルビッグワン
フアンノネガイ
ドリームサンダー
ハシリタガール
アンバーエイト

◆笠松自主遠征
ココチャンス
グレートキャプテン
ワイプイン
スズシルクロード
スズノライコウ
キンノワラジマル
ナムラコロンブス
トーアキンボシ
タガノバイヨン
ケンゴウザン
ハヤテサンデー
オウゴンスター
アジルメンテ

◆笠松補欠
ステイクール
ルビーリップス
グロリアスソード
グローリアスイモン
カザバナジョウ
ジェイケイバクシン
リーガルマインド
スズマリナー
フェイロン
ヤマノルージュ
メイデンヨシムネ
ヘクターハイツ
トーアギンガ
テイオープリンス
ハヤテカントリー
アタゴナデシコ
オリエンタルブロー
サイレントルドルフ
ブルーアロハ

※選定馬は輸送費用の補助や優先出走権があります。自主遠征馬はその特典があり
ません。補欠馬は選定馬が、体調不良等で遠征できなかった場合に繰り上がります

明日は必殺に決めました!

2008-01-08 18:42:40 | Weblog
5日の土曜に金沢競馬が一応終了しました。何だかんだと残務整理をして

ようやく明日から休みでおます。まず明日はパチンコに行きます。当然えんパチ。

思えば昨年のゴールデンウィーク直後以来、何ヵ月ぶりでしょうか?仕入れた情報

によりますと、京楽系の台がいいと聞きました。必殺仕事人かそれとも仮面ライダ

ーかと言う処でしょう。ヨシ!おとつの涙を見に行こう。(詳しいのは記者席にあ

るパチンコ雑誌をチラチラ見てるから…)その結果は明日報告しましょう。たぶん

負けると思うけど…。

先日落馬負傷して最終日の騎乗をキャンセルした桑野等騎手は大丈夫

です。7日に白銀争覇に出走するマツノショウマ、ケンゴウザンの追い切りを取り

に行った処、元気にマツノとマツノヴイェロン(こちらは土曜日の京都・飛梅賞に

出走)の追い切りに騎乗してました。ほっ!ほっ!連絡が遅れ申し訳ありません。

 明日仕事の皆さん、申し訳ありません。私は久しぶりのパチンコを満喫して

まいります。 でも最後の課題はいかに我が家の財務省(大蔵省は昔の話)から軍

資金を調達するか。う~ん、これが難しいのです。ブログはこのへんで切り上げ、

今からコインランドリーで乾燥、そして猫の世話、それと食器洗い。当然、明日の

朝食も作らなくてはならぬでしょう。競馬が終わったとは言え男はつらいのです?

最後にシーズン中はこのブログを見てくださりありがとうございました。

仕事に追われる事がなくなるので、これからちょくちょく書きます。  佐々木