【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「わたし出すわ」:白山上バス停付近の会話

2009-11-11 | ★草63系統(池袋駅~浅草雷門)

五右衛門ていやあ、日本国中、知らない者はいない大泥棒だ。
盗んだお金は、何に使ったのかしらね。
「わたし出すわ」みたいに高校時代の友だちにやっちゃったのかもしれないな。
あのねえ、五右衛門のころには、高校なんてないし・・・。
それにしても、不可解な映画だな、森田芳光監督の最新作「わたし出すわ」は。
東京へ出て行った小雪が函館に戻ってきて、株で儲けたらしい大金を高校時代の級友たちに大盤振る舞いして帰っていくっていう物語。
どうして函館が舞台なんだろう。
同じ北海道でも、銭函ならわかるのにね。
銭函だから、銭の話?それじゃあ、単純すぎるだろう。
生き馬の目を抜くような都会の生活に疲れた女性が舞い戻る安らぎの大地として、本州から遠く離れた土地を設定したのかもね。
理屈で考えれば、虚業に疲れた女が、それで儲けるような人生を清算すべく、身奇麗になってやり直そうと決心する。貯めたお金は、高校時代に声をかけたくれた級友たちに恩返しとしてあげちゃおう、って話なのかもしれないけど、そういった事情は、曖昧模糊としてしか表現されない。
そんな彼女には、寝たきりの母親がいる。
そして奇跡が起きる。人に施してやれば、自分やその家族に返ってくるっていうおとぎ話にも見えなくもない。
それも、観ているほうが想像するしかないんだけどね。
こういう時代だからこそ、お金についてみんなで考えてみようってことなのかもしれないけど、「スペル」のように単純な娯楽映画のほうが、よっぽどお金について考えてしまう。
お金の話は慎重にしないと痛い目に遭うぞ、っていうことよね。
小雪は、あの映画に登場した哀れなばっちゃんにこそ、お金を出すべきだった。
たしかに、お金を出す相手は、困窮するほど切羽詰まっていない人たちばかり。
でも、いつもの森田芳光のように、映像感覚や会話の間合いの取り方は心地いい。決して不快ではない。
実は、そこがいちばんだいじ。何かについて切羽詰るほど深刻に考える映画って、いままでの森田芳光にはなかったような気がする。
そのぶん、映画としての感覚的な自由さが保証されていて、なんとなく気分よく観終わってしまう。
育ちがいいのね、きっと。
ああ、だからお金にまつわる話なのに、一向にドロドロした展開にならない。
ドロドロした展開は、同じ北海道を舞台にした「海猫」の失敗で懲りてるのかな。
というより、森田芳光の資質にはもともとないんだろう。
反対に、この映画には彼の資質が表れている、と。
ああ、なにか、上をなぞっていくような感覚は、誰が観たって森田芳光の映画だなあと思うはずだ。
観客をケムに巻くのがうまいのよね。
石川五右衛門みたいにな。





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ふたりが乗ったのは、都バス<草63系統>
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