Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カンブルラン/読響

2018年09月29日 | 音楽
 カンブルランらしい多彩なプログラム。来年4月以降はこういうプログラムが姿を消すのだろうか。そうだとすると寂しい。

 1曲目はペンデレツキの「広島の犠牲者に捧げる哀歌」。冒頭の不協和音が美しい。以降の点描風な箇所も、巨大なクラスターの盛り上がりも、どこか理知的で、繊細な神経が通っている。けっして情念の音楽ではない。今まで聴いたこの曲の演奏の中では一番透明な演奏だった。

 2曲目はシマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子。存在感十分の演奏。諏訪内晶子の演奏には、納得できるときと、できないときとがあり、実のところ、納得できないときも多いのだが、今回はよかった。濃厚なオリエンタリズムと官能性、一筋縄ではいかない複雑な構成が、彼女の音楽性に合っているのかもしれない。

 アンコールにイザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番から第1楽章が演奏された。グレゴリア聖歌の「怒りの日」が何度となく引用される本作は、この日のプログラム全体のコンセプトにふさわしい。その選曲の妙は諏訪内晶子ならではだ。

 3曲目はゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953‐)の「静物」(2003)。静物とは絵画の静物画の静物だが、曲はむしろ動的だ。全3部に分かれているが、切れ目なく演奏される。第1部では奇妙な音塊が浮遊する。柴辻純子氏のプログラム・ノーツの言葉「エッシャーのだまし絵の螺旋階段のような効果」を思い出した。それはハースの前作「イン・ヴェイン」(2000)を評した言葉だが、本作にも当てはまる。

 第2部では「すべての楽器が16分音符のリズムを刻み、グリッド状のリズムが作られる」(同)。一言でいって、格好いい音楽。体が揺れる。

 第3部では「長い音価の自然倍音列による異なる二つの和音は重なり合い、響きのずれを生み、独特のうねりを作り出す」(同)。スペクトル楽派の面目躍如の音楽。ジェラール・グリゼーの「音響空間」を彷彿とさせる澄んだ音響が、積乱雲のように立ち上がる。この部分の音楽がもっとも印象的だった。

 4曲目はラヴェルの「ラ・ヴァルス」。聴き慣れたラヴェルの音にホッとしたが、それも束の間、どうも様子が違う。テンポが遅めで、浮き立つような気分になれない。最後の崩壊が驚くほどはっきりと演奏された。それはこの日のプログラム全体を終わらせる明確な意思をもった演奏だった。
(2018.9.28.サントリーホール)
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宮本常一「塩の道」

2018年09月26日 | 読書
 宮本常一の「忘れられた日本人」を読んだわたしは、その広大な世界に惹かれたので、他の作品も読んでみたくなった。多くの作品が出ているが、その中から「塩の道」(講談社学術文庫)を選んだ。

 本書には表題作の他に「日本人と食べもの」と「暮らしの形と美」が収められている。どれも講演録で「一般の人を対象にしたもの」(田村善次郎氏の解説)なので、噛んで含めるように、平明に語られている。しかも「最晩年に行なった講演」なので、宮本常一の最後の時期の日本人観が垣間見えて興味深い。

 まず「塩の道」だが、糸魚川沿いの「塩の道」は聞いたことがあるが、それ以外にも全国各地に「塩の道」があったようだ。なるほど、生活の必要からいえば、たしかにそうだろうが、わたしは今までそんなふうに考えたことがなかった。本書では三陸地方その他の「塩の道」が紹介されている。

 おもしろいのは、それだけではなく、次のようなことだ。塩を運ぶには馬よりも牛を多く使った。「この牛は、中山道のような広い街道は通らないで、それに沿うた細道を歩いています。腹が減ったかなと思うと途中で牛を止めて、草の多いところでそれを食わせるので餌代が助かる。と同時に牛はそれを喜ぶのです。」

 わたしはそれを読んで、旅人が行き交う中山道のそばで、草むらや立木が生い茂る中を、牛を引いた男が歩く姿が目に浮かんだ。テレビや映画や、あるいは歴史書にはあまり描かれない姿だ。たしかにそういう姿があったのだろう。中山道とそれに沿う細い道(塩の道)との二重構造が、当時の社会の実相だった。

 「日本人と食べもの」にも興味深い話が多かった。それを紹介してもキリがないが、一つだけ例をあげると、戦国時代は100年ほど戦争が続いた。でも、人口はあまり減らなかった。それは戦争をしている人たち(武士の社会)と食べものを作っている人たち(農民の社会)とが別々だったからという話。

 この話には宮本常一の日本人観がよく出ている。日本の社会はけっして単一のものではなく、いくつかの要素が重層しているという見方、そして性質的には平和な面を有しているという見方。だが、宮本常一自身、日本人のその性質が崩れる危険性を予感している。わたしはハッとした。

 「暮らしの形と美」にも興味深い話があった。もう引用は止めるが、わたしはそれらを通して、宮本常一が心に抱いた日本人観の優しさにうたれた。
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2018年09月23日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ/N響のシベリウス・プロ。当初の発表では「フィンランディア」(男声合唱付き)と「クレルヴォ」の2曲だったが、その後「レンミンケイネンの歌」と「サンデルス」(いずれも管弦楽伴奏付き男声合唱曲)が追加になった。合唱はエストニア国立男声合唱団。

 その「レンミンケイネンの歌」と「サンデルス」は大変おもしろかった。わたしなど、こんな機会でないと、まず聴かない曲だが、どちらも初期のシベリウスの熱い情熱がみなぎっている。いずれも交響曲第1番よりも前の作品なので、当日のプログラムは、「フィンランディア」が交響曲第1番と同時期だが、あとはそれより前のシベリウスということになる。

 「レンミンケイネンの歌」と「サンデルス」では、合唱の精度が今一つだった。声の均質性にバラつきがあった、といわなければならない。わたしはプログラム後半の「クレルヴォ」が心配になった。

 前半を締めくくる「フィンランディア」ではN響の合奏力に惹きこまれた。うねるような弦の音は、さすがに一流のオーケストラだ。合唱は、出番が少ないためか、あまり気にならなかった。

 さて、「クレルヴォ」だが、第1曲「導入」が始まると、オーケストラの情感たっぷりな演奏に思わず身を乗り出した。パーヴォ/N響の今までの演奏では聴いたことがないものを感じた。それが何なのか、わたしは演奏を追いかけた。

 第2曲の「クレルヴォの青春」も基調は変わらなかった。ロマン的な情緒にあふれ、あえていえば大衆性のある演奏。誤解を恐れずにいえば、大河ドラマの音楽のように感じた。そして、こういう演奏もN響はうまいと思った。N響にかぎらず、他のオーケストラもうまいかもしれず、わたしは日本人のその種の音楽への相性のよさを感じた。パーヴォもそれを最大限引き出そうとしているようだった。

 第3曲「クレルヴォとその妹」では合唱が入るが、心配していた合唱は、見違えるほど精度が高まった。ハーモニーが澄んで、焦点が合った。わたしはホッとした。独唱はソプラノがヨハンナ・ルサネン、バリトンがヴィッレ・ルサネンという姉弟コンビ。ともにフィンランド国立歌劇場の主要歌手というだけあって、大変見事だった。

 第4曲「戦闘に赴くクレルヴォ」はオーケストラ曲だが、その躍動的な演奏は映画を見るようだった。第5曲「クレルヴォの死」では合唱が情感深く歌った。
(2018.9.22.NHKホール)
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宮本常一「忘れられた日本人」

2018年09月20日 | 読書
 友人と3か月ごとに開いている読書会が今月ある。テーマは交替で選んでいるが、今月のテーマは友人が選ぶ番で、友人が選んだのは宮本常一の「忘れられた日本人」。宮本常一の著作を読むのは、わたしは初めてだった。

 最初はゆったりとしたテンポについていけなかったと、正直に言わなければならない。とくに「名倉談義」(「忘れられた日本人」は全13話からなっており、「名倉談義」はその一つ)に含まれる老人4人の昔語りは、テンポのゆったりさが際立っていた。

 だが、最後まで一通り読んだ後で、印象深かった話をいくつか再読する中で、「名倉談義」をもう一度読むと、そのテンポが不可欠であり、なんとも言えない味があることに気が付いた。そのテンポだからこそ語られた昔の出来事とか生活とかの、そのディテールが大事だと分かった。

 「名倉談義」の昔語りを読んでいると、老人一人ひとりの個性が感じられる。テープ起こしのような記述だ。取材はいつだったのか、わたしの読んだ岩波文庫には明記されていないが、たぶん戦後間もない時期ではないか。ともかく文庫本で23頁にわたる長い昔話なので、テープを取っておかないと、これほど正確に一言一句を再現することは難しいと思うのだが。

 でも、テープを取っていたとしても、4人の個性をこれほど生き生きと滲ませるのは、宮本常一の文才だろう。その意味でも驚嘆した。

 「名倉談義」は本書の性格を端的に表しているので、まず「名倉談義」に触れたが、わたしがもっとも強烈な印象を受けたのは「土佐源氏」だ。土佐の山中の橋の下で粗末な小屋に住んでいる盲目の乞食の老人の話。若い頃は馬喰をしていた。その頃の女性遍歴が語られる。

 一読して驚き、再読してまた驚いた。あけすけな性の話。エロ話とか猥談とか、そういうレベルに止まらず、昔の日本の習俗とか民衆のエネルギーとか、そんなことを感じさせる。わたしは大学生の頃に見た今村昌平監督の映画「神々の深き欲望」を想い出した。「土佐源氏」にはそれに加えてユーモアもある。(※)

 もう一つあげると、「梶田富五郎翁」も印象深かった。幼い頃に両親に死なれ、みなしご同然となった梶田翁は、漁船に乗って対馬に通ううちに、その原野を切り拓き、船着き場を作り、やがて人々が住みつくようになり、村ができるに至った。それまでの苦労話。日本の近代化の歩みの、その底辺で無名の人々が歩んだ苦難の道がしのばれた。

(※)追記
 偶然ながら、当ブログをアップした今朝(9月20日)の日経新聞文化欄に、「土佐源氏」を一人芝居にして全国で演じ続けている坂本長利氏の手記が載っていた。今88歳だそうだが、お元気だ。なお「土佐源氏」については、井出幸男氏の「宮本常一と土佐源氏の真実」(梟社)という興味深い著書がある。また木村哲也氏の「『忘れられた日本人』の舞台を旅する」(河出書房新社)でも触れられていて参考になる。
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2018年09月17日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ/N響のAプロは、ウィンナ・ワルツとポルカにマーラーの交響曲を組み合わせるという、意表を突く、斬新なプログラム。

 前半がワルツとポルカ。曲名を書くだけでも長くなるが、書かないわけにもいかないので、以下列記すると、ヨハン・シュトラウスⅡ世の「こうもり」序曲、同「南国のばら」、同「クラップフェンの森で」、同「皇帝円舞曲」そしてヨーゼフ・シュトラウスの「うわごと」。いずれ劣らぬ名曲ばかり。

 1曲目「こうもり」序曲では、細かいところの作り込みが、パーヴォらしく徹底していたが、それらの細部が全体の構成に組み込まれ、流れが淀まないことも特筆すべき点だった。華やかな、浮き立つような演奏ではなかったかもしれない。クールというと語弊があるが、たとえていうとガラス細工のように、すべてが透けて見えるような演奏だった。

 2曲目以降は、細部の作り込みというよりは、音楽の流れに任せる演奏だった。だが、さすがにパーヴォとN響だけあって、高度な水準を保っていた。

 プログラム後半は、マーラーの交響曲第4番。これは超絶的な名演ではなかったかと思う。どんな演奏かというと、パーヴォが今までN響と繰り広げてきた第1番「巨人」、第2番「復活」あるいは第8番「千人の交響曲」といった、テンションの高い、極限まで緊張しきった演奏と違って、透明で、静謐なテクスチュアを織り上げる演奏だった。

 わたしがとくにおもしろかったのは第2楽章だ。調弦を変えた独奏ヴァイオリンが「死の舞踏」を踊るが、それだけではなく、木管、金管の各パート(第1奏者だけでなく)が乱舞し、ことに第1ホルンはほとんど出ずっぱりだった。独奏ヴァイオリンと同等、あるいはそれ以上の活躍ぶり(今井さんの名演!)。

 第3楽章での、透明で、音が消えていくような、究極的な弱音の美しさは、一種の限界まで達していたと思う。弦のその演奏に息をのんだ。

 第4楽章でソプラノ独唱を務めたのはアンナ・ルチア・リヒター。ヴィブラートを控えめにして、澄んだ、少女のような声を聴かせた。それはおそらく意図したものだろう。貧しくて、飢えによる衰弱で死んでいく少女が、その直前に見る天国の風景がこの曲だろうから。

 この曲は「こどもの不思議な角笛」の中で「この世の暮らし」と対になる作品だろう。ドイツ語の原題からいってもそれが窺われる(※)。
(2018.9.16.NHKホール)

(※)「Das himmlische Leben」/「Das irdische Leben」
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高関健/東京シティ・フィル

2018年09月16日 | 音楽
 高関健が指揮する東京シティ・フィルの9月の定期は、ラヴェルのオペラ「スペインの時」が演奏されるので注目したが、その前のモーツァルトの交響曲第39番も楽しみだった。同曲はわたしの好きな曲の一つで、第40番や第41番よりも好きなのだが、意外に実演で聴く機会が少なく、今回は何年ぶりかで聴く実演だった。

 演奏は後半の「スペインの時」と比べると、弦の音がザラザラして、全体に重かったかもしれないが、実演でないとわからないことがあった。それは独特のオーケストレーションによる同曲の響き、音色、そしてそれを計算したモーツァルトの意図だ。

 いうまでもないだろうが、同曲の木管は、フルート1、クラリネット2、ファゴット2で、オーボエを欠いている(金管はホルン2とトランペット2)。なので、高音はフルートのみに頼り、中音域のクラリネットとファゴット、ことにクラリネットに比重がかかっている。そこからくる暗めの音色が背景を構成する。

 そんなことは同曲の解説の一頁に出ているといえばそれまでだが、それを実演で実感する意味は大きかった。クラリネットは第3楽章メヌエットのトリオで印象的なデュオを繰り広げるが、それ以外にも曲の全般にわたって、光の陰の暗い部分を作っていた。

 さて、ラヴェルの「スペインの時」だが、この作品はラヴェルの生涯のいつ頃作曲されたのだろうと思っていたら、高関健がプレトークで語ってくれた。細かい点は省略して、ざっくりいうと、本作はラヴェルの初めてのオーケストラ作品といわれる「スペイン狂詩曲」よりも前に作曲され、「『スペイン狂詩曲』も『ラ・ヴァルス』も、その後のすべてがこの中にある」と。

 実演を聴いて、たしかにそうだと納得した。その後の多くの作品の萌芽を聴くことができた。ラヴェルという天才の、その独特のあり方というか、最初の一歩がすでに完成されたもので、その後の作品は最初の一歩に含まれていた微細な点の拡大と展開にすぎないという「天才」のあり方に想いを馳せた。

 高関健/東京シティ・フィルの精彩のある演奏がそれを実感させた。張りがあり、ディテールの性格を明確に捉えた、雄弁な演奏だった。

 歌手も見事だった。コンセプシオンを歌った半田美和子は、歌はもちろん、豊かな表情とちょっとした仕草で、聴衆をオペラの世界に引き込んだ。個々には触れないが、男性歌手4人も文句なし。
(2018.9.15.東京オペラシティ)
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「紫苑物語」余談

2018年09月12日 | 読書
 石川淳の「紫苑物語」で気になっている点が二つある。一つは既存のオペラを連想させる部分があるという点。もう一つは、本作のルーツというか、どこから本作が生まれたのかという点。

 まず1点目だが、岩山のむこうの桃源郷は、ワーグナーの「パルジファル」のモンサルヴァートを連想させ、またそこからの脱落者「藤内」(とうない)はクリングゾルを連想させるということは、以前書いたので、もう繰り返さない。

 では、「宗頼」はパルジファルかというと、そうともいえる。だが、「宗頼」は仏(=善)に挑戦する男なので、パルジファルのキャラクターを180度転換している。一方、「千草」はクンドリか。国や館で起きることを隅々まで知っている点で、クンドリと似ている。また「平太」に恨みを持っている点もそうだ。

 だが、わたしが一番気になるのは、「藤内」という名前だ。「藤内」とは、加賀、能登、越中では被差別民の集団を指す言葉だ(網野善彦「宮本常一『忘れられた日本人』を読む」岩波現代文庫147頁)。石川淳がそれを知らずに命名したはずはない。では、そう命名したのはなぜか。しかも「藤内」の描き方は徹底して意地が悪いが。

 わたしはその描き方にワーグナーの「ジークフリート」でのミーメや、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でのベックメッサーの描き方に通じるものを感じる。石川淳に被差別民への蔑視があったとは思えないので(「修羅」を読めばわかる)、「藤内」はワーグナーのユダヤ人蔑視のパロディーではないかと思う。

 その他にも、最後に「千草」が炎となって館を焼き尽くす場面は、「神々の黄昏」でのヴァルハラ城の炎上のようだし(鬼の歌はラインの乙女たちの歌に対応する)、また、ワーグナーではないが、「宗頼」が谷川のほとりで「千草」を見つける場面は、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」でゴローがメリザンドを見つける場面とそっくりだ。

 以上のことは偶然なのか。石川淳のことだから、偶然などあり得ないと思うが。

 さて、2点目の本作のルーツだが、直接的な先行作品としては、坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を考えてよいと思うが、もう一歩進んで、安吾のそれらの作品が生まれたのはなぜだろうと考えると、当時の日本には説話文学の再興のような気運があったのではないだろうか、と思う。敗戦直後の社会状況が影響しているのかどうか、興味深い点だ。
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山田和樹/日本フィル

2018年09月08日 | 音楽
 山田和樹/日本フィルの意欲的な、むしろチャレンジングな、といったほうがよいようなプログラム。1曲目はプーランクの「シンフォニエッタ」。暖色系のやわらかなテクスチュアが織られる。それが心地よい。どこか懐かしい感じがする。戦後の作品だが、古き良き時代の香りを漂わせる。

 2曲目は三善晃のピアノ協奏曲。鮮明な、現代に息づく音。プーランクの前曲に比べて、一気に照度が上がった感じがする。ガス灯からLEDへ。オーケストラが雄弁だ。演奏のせいだろう。シンフォニックな演奏。

 ピアノ独奏は萩原麻未。歯切れのよい、パンチのきいた演奏。日本人離れした、という言い方はもう過去のものになったが、では、どういったらよいのか。世界の第一線で活躍する演奏家の凄み、か。

 でも、そんなピアノ独奏もオーケストラの中に組み込んで、全体の一部として機能させるシンフォニックな演奏だった。山田和樹のオーケストラ(それはピアノを含めた演奏全体という意味だが)の掌握はすさまじい。その音で若き日の三善晃の尖った音楽性と輝きを捉えていた。

 3曲目はデュカスの「魔法使いの弟子」。ただしストコフスキー版。山田和樹は以前ムソルグスキーの「展覧会の絵」をやったときも、ストコフスキー版を使った。ストコフスキーへのシンパシーがあるのだろう。で、その「魔法使いの弟子」だが、整然としたアンサンブルで、派手というよりも、むしろすっきりと演奏された。意外に短く感じたのだが、原曲と比べてどうなのだろう。

 最後はデュティユーの交響曲第2番「ル・ドゥーブル」。カンブルラン/読響が2016年10月に冴えきった名演を繰り広げた。山田和樹/日本フィルは、それと比べると、自然な呼吸感に特徴がある演奏。個性の違いが大きい。あえていえば、カンブルラン・チームは聴く者を極度の緊張へと誘い、山田チームはくつろいで聴かせる。

 この曲は全3楽章のすべてが弱音で終わる。ブラームスの交響曲第3番のようだ。だが、デュティユーの場合は、その弱音に独特なニュアンスが込められている。それを小沼純一氏がプログラム・ノートで的確に解説しているので、以下引用する。「どの楽章も、デュティユー自身のことばを借りると「全三楽章各々の結末は音楽的に一種の疑問形になって」おり、特に第3楽章終結部は、初演のあとで手が加えられ、その傾向がつよめられている、という。」
(2018.9.7.サントリーホール)
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ヴィト/都響

2018年09月07日 | 音楽
 未明に北海道胆振地方で大地震があった。その後の続報で最大震度7とのこと。地崩れを起こした山並みが赤茶けた山肌をむき出しにしている。停電や断水のニュースも入ってくる。被災者のことを思うと気が引けたが、夜は予定通り都響の定期へ。

 指揮はアントニ・ヴィト。日本のオーケストラをいくつか振っているが、都響定期は初登場のようだ。1曲目はワーグナーの序曲「ポローニア」。ワーグナー若書きの曲。珍曲だと思っていたが、意欲作といったほうがよいかもしれない。さすがにワーグナー、人々を熱狂させる力と大衆性がある。

 ヴィトは暗譜で振っていた。これにも驚いた。ちなみにポローニアとは「ラテン語あるいはイタリア語で「ポーランド」という意味。しかもポーランド語では、祖国を去って外国へ移住・亡命することとなったポーランド人も指す。」(小宮正安氏のプログラム・ノート)。ポーランドの名匠ヴィトの名刺代わりの曲か。

 演奏は、弦の音に厚みがあり、管には切れ味があって、目が覚めるような快演だった。今日の都響は好調だと思った。

 2曲目はショパンのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はシャルル・リシャール=アムランという人。ピアノの音が、くすんだような、艶消しの音に聴こえた。どこのピアノだろうと思って、演奏終了後に見に行ったら、YAMAHAだった。

 演奏そのものは、甘く切ないショパンではなく、どこかマイペースだった。第3楽章など、ニュアンス濃やかな演奏なのだが、聴衆とのコミュニケーションは念頭になく、自分の世界に浸っているような感があった。アンコールにショパンのノクターン第20番(遺作)が弾かれた。それもよかったのだが、同様の感が拭えなかった。

 3曲目はルトスワフスキの交響曲第3番。ルトスワフスキの傑作の一つだが、その真価を明らかにする鮮烈な名演だった。ワーグナーのときに感じた弦の厚みと管の切れ味のよさとがさらにパワーアップし、打楽器を交えたオーケストラ全体が、くっきりした明暗のコントラストをつけて鳴り響いた。

 ルトスワフスキの代名詞となった「管理された偶然性」が全開だが、それが少しも古びた感じがしない。ルトスワフスキにとっては必然性のある手法だったのだと納得できたことが嬉しかった。曲の終盤ではっきりと調性的な音に収斂していくときの、その表現力の凄まじさ!
(2018.9.6.サントリーホール)
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「紫苑物語」をどう読むか

2018年09月05日 | 読書
 新国立劇場の小冊子「2018/2019シーズンガイド」を見ていたら、2019年2月に初演される新作オペラ「紫苑物語」の紹介文の中で、「芸術家の生き様を、現実と異界が交叉する世界で描いた物語」というくだりがあった。芸術家の生き様?と引っ掛かるものがあった。わたしが原作を読んだときには、それが芸術家の生き様を描いたものとは思わなかったからだ。

 その後、同劇場から情報誌「ジ・アトレ」の9月号が届いた。オペラ「紫苑物語」を特集していたので、さっそく読んでみた。同オペラの作曲者・西村朗は、インタビュー記事の中で、とくに芸術家の生き様と特定して捉えているわけではないので、わたしはホッとした。

 もう一つ、同オペラの監修者・長木誠司のエッセイが載っていた。そこに「宗頼という一種の芸術家の自己克服と、それが成就するところの必然的な自己崩壊」というくだりがあった。なるほど、シーズンガイドの紹介文のルーツはこれかと思った。

 だが、それは「一種の芸術家」であって、それを「芸術家の生き様」と言い切ってしまうと、内容に齟齬が生じる。そして読者(同オペラを観るかもしれない人)をミスリードする可能性があると思った。

 「一種の芸術家」とは、原作者・石川淳が「宗頼」という登場人物に造形した精神の活動の、破滅をも恐れぬ急進化を指す言葉ではないだろうか。それは「宗頼」を芸術家のアレゴリーと捉えることとは根本的に異なる。

 気になったので、「紫苑物語」に関する評論をいくつか読んでみた。まず読んだのは、澁澤龍彦の「評伝的解説」。その一節には「さて、みずから敵を欲するところの精神の運動が、ただ純粋に弁証法的に展開するだけで、そのまま一篇の美しいロマネスクを織りなしたかのような感をいだかしめるのが名作『紫苑物語』であろう。」とあった。わたしは同感した。

 次に読んだのは、野口武彦の「『紫苑物語』論」。そこでは「だが、わたしが『紫苑物語』が象徴小説であるといったのは、決して主人公宗頼が芸術家の象徴であるなどといったなまはんかな意味ではない。」と明快に述べていた。

 わたしは以上の評論で満足したが、参考までに渡辺喜一郎の「『紫苑物語』試論」も読んでみた。そこには「知の矢」は知識の力の象徴、「殺の矢」は散文という方法の獲得の象徴、「魔の矢」は想像力の象徴という解釈があった。でも、そんなに限定的に解釈する必要はないのではないか、と思った。
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フランス音楽回顧展Ⅱ

2018年09月02日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバルの最終日は、今年のプロデューサー野平一郎の「フランス音楽回顧展Ⅱ」。ブーレーズの「プリ・スロン・プリ」をメインに据えた演奏会。

 1曲目はラヴェル作曲/ブーレーズ編曲の「口絵」。ラヴェルにそんな曲があったのかと驚く。2台のピアノ/5手のための曲(つまり演奏者は3人必要)で、演奏時間は「わずか2分あまり」(プログラム・ノート)。それをブーレーズがオーケストレーションした。

 大きく分けると前半部と後半部になるようだが、とくに前半部はブーレーズの精緻なオーケストレーションと相俟って、まるで現代音楽のようだ。もしラヴェルの名を伏せられたら、それがラヴェルの曲だとは思わないだろう。

 演奏もよかった。ピエール=アンドレ・ヴァラド指揮の東響だが、精妙なアンサンブルと豊かな色彩感で、東響の好調ぶりがよく分かった。ヴァラドの指揮を聴くのは2度目。2008年のサマーフェスティバルでジェラール・グリゼーの「音響空間」を振った(オーケストラは東フィル)。そのときの衝撃は忘れられない。

 2曲目はフィリップ・ユレルの「トゥール・ア・トゥールⅢ」。わたしには未知の作曲家だったが、「音響空間」を彷彿とさせるホルンの動きがあり、またスペクトル楽派的な音の美しさが際立っていた。プロフィールに「スペクトル楽派の第二世代を代表する作曲家」とあった。グリゼー、ミュライユに次ぐ世代。

 3曲目はブーレーズの「プリ・スロン・プリ」。ソプラノ独唱は浜田理恵。フランス在住とはいえ、日本人の歌手がこの作品を歌う時代になったことに感慨を覚える。オーケストラの演奏も見事なもの。演奏が難しいはずのこの曲が、整然と解析するように演奏された。

 昔からCDでは何度となく聴いた曲だが、実演だとCDでは分からないことが多いことに気が付いた。まずオーケストラの配置だが、客席から向かって左側(下手)に弦楽器、右側(上手)に管楽器、中央に打楽器が配される。それらの3つの楽器群は独立して動く。3群のオーケストラのようだ。第5曲の「墓」では壮麗な音が鳴り渡るが、それはこうして生まれたものだった。

 第3曲「マラルメによる即興Ⅱ」と第4曲「マラルメによる即興Ⅲ」は、音楽が進むにつれて、だんだんテンポが遅くなったように思うが、実際はどうだったのだろう。わたしの体感だけだろうか。
(2018.9.1.サントリーホール)
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ヴィトマンの管弦楽

2018年09月01日 | 音楽
 今年1月の読響定期(カンブルランの指揮でヴィトマンのクラリネット協奏曲「エコー=フラグメンテ」が演奏された)は、都合で聴けなかったので、今回のサマーフェスティバルはわたしのヴィトマン初体験だった。

 先日の室内楽コンサートもすばらしく、わたしは一気にヴィトマンのファンになった。さすがに旬の作曲家だけあって、音の生きのよさは群を抜き、また細川俊夫とのアフタートークで見せた人柄は、率直で飾らず、お茶目な面も備えていた。

 今回の管弦楽コンサートは、期待にたがわず、室内楽コンサートでの印象を裏付け、新たな面も見せた。

 1曲目はウェーバーのクラリネット協奏曲第1番。ヴィトマンの弾き振り(吹き振り?)だった。コンサートマスターの方を向いて吹くだけではなく、それと同等以上にチェロの方を向いていたのが興味深い。手を使った指揮でないと、低弦パートが遅れがちになるのだろうか。

 2曲目はヴィトマンの弟子ヤン・エスラ・クールの「アゲイン」。バッハの和声を借用したというアルカイックな音型から始まり、破壊的・威圧的な部分を経て、澄んだ響きに収斂する。その響きはオルガンのようだった。

 3曲目はヴィトマンの「コン・ブリオ」。ヤンソンス/バイエルン放送響がベートーヴェンの交響曲第7番・第8番とともに演奏するために委嘱した曲。ベートーヴェンの音を残すとともに、それを解体・異化した曲。だが、それだけではなく、ユーモアを兼ね備えている。本作はCD化されているが、ユーモアの要素は実演でないとわからない。

 4曲目はヴィトマンの「クラリネット独奏のための幻想曲」。その演奏は神業だった。ヴィトマンがオーボエのハインツ・ホリガーと並び称せられる所以だ。なお本作もCD化されているが、実演で聴くと(それもヴィトマン自身の演奏で聴くと)、細かな仕草がおもしろく、なにか具体的なイメージ(アニメのような?)があるのではないかと感じられた。

 5曲目は新作の「ヴァイオリン協奏曲第2番」。室内楽コンサートのときには、まだパート譜ができていないといっていた、出来立てほやほやの曲。妹のカロリン・ヴィトマンのために書かれた曲で、ヴィトマンはヴァイオリンのできること、できないことのすべてを妹から学んだというだけあって、妹の演奏は曲と一体化し、寸分の隙もなかった。第2楽章の甘く切ない音楽は異色だが、なにかの想い出か。
(2018.8.31.サントリーホール)
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