Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

イザベル・ムンドリー「オーケストラ・ポートレート」

2022年08月29日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバル2022の最終日。今年のテーマ作曲家のイザベル・ムンドリー(1963‐)の委嘱新作その他の演奏会。オーケストラは東京交響楽団。指揮はミヒャエル・ヴェンデベルク。ヴェンデベルクは現在ドイツのハレ歌劇場の第一カペルマイスターを務めている。2000~05年にはパリのアンサンブル・アンテルコンタンポランのピアニストでもあった。ピアノの腕前も相当なものだろう。

 1曲目はムンドリーの「終わりなき堆積」(2018/19)。静―静―動の3部分からなる。とくに前半の2つの静の部分は、夜の音楽のように聴こえる。全体的に音色への傾斜が感じられる。8月24日の室内楽・独奏曲のときとは趣が異なる。

 2曲目はムンドリーが「影響を受けた曲」として選んだドビュッシーの「遊戯」。8月24日の印象からは、ムンドリーがドビュッシーを選ぶのは意外な感じがしたが、1曲目と(後述する)4曲目の委嘱新作とを聴いて、ドビュッシーの、とくに「遊戯」を選んだことが得心された。それはともかく、演奏はこの曲のドラマとしてのメリハリがあり、おもしろく聴けた。ヴェンデベルクは暗譜で振っていた。

 3曲目はムンドリーが「今後を嘱望する若手作曲家」として選んだフィリップ・クリストフ・マイヤー(1995‐)の「Dear Haunting」(2020)。何度かの中断をはさみながら音楽が進む。沈思するような瞬間もあるが、一方、中間部にはノスタルジックに聴こえる音の動きもある。そのへんが現代の若者か。

 4曲目はムンドリーの委嘱新作「身ぶり」(2022)。ヴィオラの独奏を伴う曲だ。ヴィオラ独奏はニルス・メンケマイヤー。優秀な若者のようだ。演奏の前にムンドリーのプレトークがあった。実際に音を出しながら、曲の解説をした。それがひじょうに効果的だった。いつも感じるのだが、初めて聴く曲のときは、どんな音が出るのだろうと緊張する。事前にさわりだけでも音出しをしてくれると、その緊張が解ける。

 曲は音色が美しかった。威圧的な音は避けられている。比喩的な表現で申し訳ないが、森の中の忘れられた池のような(そういいたくなるような)、ひっそりとしたたたずまいがある。だれの音楽に近いだろう。武満徹かとも思ったが、武満徹とは異なり、ムンドリーの場合は音の輪郭が鮮明だ。

 わたしは8月24日の室内楽・独奏曲との印象のちがいに戸惑った。あのときは感覚的に聴くことを拒むような厳しさがあった。一方、「身ぶり」にはそれを許すような柔らかさがある。わたしはやっとムンドリーの入り口に立ったようだ。
(2022.8.28.サントリーホール)
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クラングフォルム・ウィーン「クセナキス100%」

2022年08月27日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバル2022。クラングフォルム・ウィーンの最終公演はクセナキス・プログラム。1曲目は6人の打楽器奏者のための「ペルセファッサ」。ステージ上に2人、1階客席の左右に各1人、1階客席の後方に2人が配置される。写真(↑)を撮ってきたが、1階客席の後方2人の位置、1階客席の(ステージから見て)左側の位置、ステージ上の1人の位置が見える。

 1階席中央に座った人は、前後左右から打楽器の音に囲まれる。わたしは2階席中央に座ったが、音の移動が視覚的にわかり、それはそれでおもしろかった。

 野々村禎彦氏のプログラムノートによれば、全曲は6部に分かれる。その第1部は「単純な等拍リズムで始まり、3連符や5連符が混ざり始め、複雑なカノンに至る」とある。おもしろいことには(残念なことには、というべきかもしれないが)、サントリーホールの残響が豊かすぎるので、リズムの複雑化の過程が残響と入り交じり、明瞭に浮かび上がってこない。初演は「イランのペルセポリス遺跡を会場とするシーラーズ芸術祭」でおこなわれたそうだ。その会場が野外なら、そのほうが効果的だろう。

 一方、第6部は「一見単純なパルスに戻るが、そのアクセントが回転運動を始めて徐々に加速し、空間配置を活かしたクライマックスを迎える」。そのクライマックスはサントリーホールの豊かな残響がプラスに働き、華麗な音響効果を生んだ。

 演奏者は、ステージ上にイサオ・ナカムラと神田佳子、1階左右に前川典子と畑中明香、1階後方にクラングフォルム・ウィーンのメンバー2人が陣取った。イサオ・ナカムラの実力はいうまでもないが、わたしは今回、名前だけは知っていたが、実演を聴くのは初めての神田佳子の躍動感のある演奏に注目した。

 2曲目はバレエ音楽「クラーネルグ」。室内オーケストラとテープのための音楽だ。鋭い動きをする室内オーケストラの生音と、気体か液体のように流動するテープ音楽との対比が鮮やかだ。もっともその対比は、対話なのか、融合なのか、抗争なのか。それは判然としない。振付はいかようにもできそうだ。YouTubeにはGraeme Murphyの振付とLuca Veggettiの振付が(それぞれ短い動画だが)載っている。まったく異なる振付だ。

 演奏は(いうまでもないが)クラングフォルム・ウィーン。アグレッシブで、アンサンブルとしてのまとまりが見事で、透明感のある鮮烈な演奏だった。クラングフォルム・ウィーンの本領発揮だ。音響デザイン(テープ音楽)はペーター・ベーム。混濁せず、生音の効果を妨げない、繊細な音響だった。
(2022.8.26.サントリーホール)
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イザベル・ムンドリー「室内楽ポートレート」

2022年08月25日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバル2022のテーマ作曲家はイザベル・ムンドリーIsabel Mundry(1963‐)。ドイツの女性作曲家だ。ミュンヘンやチューリヒの大学で教えている。日本の秋吉台や武生の音楽祭にも参加したことがあるそうだ。

 ドイツ語圏はもちろん、日本の音楽関係者にも知られた存在なのだろう。だが、わたしの主なフィールドの在京オーケストラでは、プログラムにその名を見たことはなかった。どんな作曲家なのだろう。

 当夜はムンドリーの室内楽(独奏曲をふくむ)が5曲演奏された。煩瑣かもしれないが、まず曲名を列挙すると、演奏順に、「時の名残り」(2000)、「『誰?』フランツ・カフカ断章」(2004)、「リエゾン」(2007~09)、「バランス」(2006)、「いくつもの音響、いくつもの考古学」(2017/18)。

 個々の曲の感想よりも、ムンドリーとはどんな作曲家なのかと、当夜考えたことを書いてみたい。まず端的な例として、「いくつもの音響、いくつもの考古学」についてムンドリー自身が書いたプログラムノートを引用すると、「この曲は、ポリフォニー、旋律、応唱(レスポンソリウム)、三和音、開放弦、演奏行為の固有時、終止音といった、楽器の性質とその奏法の特性までを含む、音楽史上のさまざまな原型(アーキタイプ)に捧げられている。これらの原型に、私は考古学者のように精神を集中させた」という。そして「これらの原型は、現代の私も対話できるよう、今なお語りかけているのか、あるいはどのように語りかけているのか、という問いに取り組むために」という(訳は柿木伸之氏)。

 後半の「問い」が典型なのだが、ムンドリーの思考法にはつねに「問い」が幾重にも積み重ねられている。答えが重要なのではない。自らに、そして他者に問い続けることが重要なのだ。それは哲学的な思考法といえるかもしれない。ムンドリーの音楽はその思考法が音楽のかたちをとって現れたものと思われる。一聴してすぐに特徴がわかる音楽ではないが、じっくり聴くと、その濃密な音と到達点の高さに圧倒される。

 演奏は日本人の演奏家たち。ほんとうは全員の名前をあげたいのだが、それも煩瑣になるので、二人だけあげると、まず「バランス」(これはヴァイオリン独奏曲だ)を演奏した成田達輝。なにかを語り続けるような、水際立った演奏だ。もう一人は「『誰?』フランツ・カフカ断章」(ソプラノ独唱とピアノ)を歌った太田真紀。迫真の歌唱だった。

 おりしもクラングフォルム・ウィーンが来日中だが、当夜演奏した日本人演奏家たちも充実した演奏を繰り広げた。けっして引けを取らない。
(2022.8.24.サントリーホール小ホール)
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クラングフォルム・ウィーン「室内楽プログラム」

2022年08月24日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバル2022。クラングフォルム・ウィーンの演奏会の第二夜は9人の現存の作曲家の小品を集めたもの。

 演奏順に記すと、1曲目はゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953‐)の「光のなかへ」(2007)。短い曲だ。戸惑う。2曲目はサルヴァトーレ・シャリーノ(1947‐)の「夜の果て」(1979)。チェロ独奏。震えるような弱音で終始する。いかにもシャリーノらしい神経質な曲だ。じつは当初はホルンの独奏曲「アジタート・カンタービレ」が予定されていたが、ホルン奏者が口内炎になったとのことで、「夜の果て」に変更された(それに伴い曲順も一部変更された)。この曲を聴けてよかった。

 3曲目はレベッカ・サンダース(1967‐)の「行きつ戻りつ」(2010)。距離を置いて向き合うヴァイオリン奏者とオーボエ奏者の緊張をはらんだ対話。相手の音を聴き、その音を敷衍するように音を重ね、相手はその音をまた敷衍する。わたしには未知の作曲家だったが、その音の世界に惹きこまれた。

 4曲目はオルガ・ノイヴィルト(1968‐)の「夜と氷のなかで」(2006/07)。ファゴットとアコーディオンのデュオ。わたしが勝手に題名から想像した曲想とはちがって、動きのある曲だった。5曲目はエンノ・ポッペ(1969‐)の「汗」(2010)。独奏チェロがタラーっと流れる汗のような音型を繰り返し、バス・クラリネットとバス・フルートが憂鬱なハーモニーをつける。ユーモラスな曲だ。

 6曲目はフリードリヒ・チェルハ(1926‐)の「4つのパラフレーズ」(2011)。オーボエ、チェロ、ピアノの三重奏。第4曲にはヨハン・シュトラウスのお馴染みの音楽が引用される。聴衆サービスの一曲か。7曲目はジョルジュ・アペルギス(1945‐)の「夜のない日」(2020)。コントラフォルテというコントラファゴットの改良楽器(2001年開発)のための曲。

 8曲目はベルンハルト・ラング(1957‐)の「シュリフト3」(1997)。アコーディオンの独奏曲。細かく動き回る音の敏捷性。ポップなビート感。演奏も良かったにちがいない。9曲目はベアート・フラー(1954‐)の「ピアノ四重奏曲」(2020)。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの伝統的な編成のピアノ四重奏曲だが、音楽は激烈で、アットランダムに音が飛び交い、ピチカートが鋭く打ち込まれる。息をのんだ。

 以上、演奏者の名前は省略したが、1990年以来とか1993年以来とかのベテラン・メンバーが多かった。若くて腕利きのメンバーだけではなく、ベテラン・メンバーも多いことがクラングフォルム・ウィーンの特徴かもしれない。
(2022.8.23.サントリーホール小ホール)
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クラングフォルム・ウィーン「大アンサンブル・プログラム」

2022年08月23日 | 音楽
 サントリーホール サマーフェスティバル2022が始まった。今年のプロデューサーはウィーンの現代音楽アンサンブル「クラングフォルム・ウィーン」だ。第一夜は比較的大きな編成の曲を集めたプログラム。指揮は現代音楽に強いエミリオ・ポマリコ。

 1曲目はヨハネス・マリア・シュタウト(1974‐)の「革命よ、聴くんだ(ほら、仲間だろう)」(2021)。シュタウトの作品は、2016年10月にカンブルラン指揮の読響でヴァイオリン協奏曲「オスカー」(ヴァイオリン独奏は五嶋みどり)を聴いたことがあり、おもしろかった記憶があるので、今度も楽しみにしていたが、それほどでもなかった。中間部でちょっとしたパフォーマンスがあり、その部分で音楽が陰りをみせたことが印象に残る。

 2曲目はミレラ・イヴィチェヴィチ(1980‐)の「サブソニカリー・ユアーズ」(2021)。未知の作曲家だ。長い持続音のうえに短音が次々に生起する。その音の生きの良さに惹かれる。全体的に明るいテクスチュアだが、後半になって変化が生じた。

 3曲目は塚本瑛子(1986‐)の「輪策赤紅、車輪」(2017)。これも未知の作曲家だ。ベルリン在住とのこと。題名はドイツ語でrad rat rot red, raederとなり、韻を踏んでいる。無音の間(ま)が頻出し、断片的な音楽が続く。音が鮮明だ。2曲目のイヴィチェヴィチと似たところのある作りだが、二人それぞれ自分の音をもっている。

 4曲目は武満徹(1930‐96)の「トゥリー・ライン」(1988)。この流れのなかで(とは、いまを生きる作曲家たちのなかで、という意味だが)、武満徹がどう聴こえるか、一抹の不安があったが、いざ演奏が始まると、なるほどこれはドビュッシーの直系だと、それはそれなりに受け止めることができた。音の輪郭が明瞭だったことが幸いした。

 5曲目はゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953‐)の「ああ、たとえ私が叫ぼうとも、誰が聞いてくれよう…」(1999)。ハースは2017年の当フェスティバルのテーマ作曲家で、ヴァイオリン協奏曲第2番が世界初演された。わたしはいまでもその曲の第8部「純正音程」の美しさが忘れられない。今回の曲では、何者かの呼吸のような不穏な音型が繰り返され、そこに金属系の打楽器の微細な音が鳴り続ける。息をひそめるような緊張感から解放されない音楽だ。

 全般を通して、クラングフォルム・ウィーンの演奏は、緻密でしっとりまとまったアンサンブルを聴かせた。わたしは2015年8月にザルツブルク音楽祭でブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」などを聴いたが(指揮はカンブルラン)、今回はそのときのキャラが立った演奏とはだいぶ印象が異なる。日本人演奏家がかなり参加していたことも一因か。
(2022.8.22.サントリーホール)
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ポペルカ/東響

2022年08月21日 | 音楽
 当初はドイツの作曲家・指揮者のマティアス・ピンチャーが指揮する予定だった東響の定期だが、ピンチャーがキャンセルして、ペトル・ポペルカPetr Popelkaという指揮者が代役に立ち、曲目も一部変更になった。

 プロフィールによると、ポペルカはチェコのプラハ出身。2010~19年にドレスデン・シュターツカペレで副首席コントラバス奏者を務めた。2016年から指揮を始め、2020年8月からノルウェー放送管弦楽団の首席指揮者、2022年9月からはプラハ放送交響楽団の首席指揮者・芸術監督に就任予定とのこと。

 1曲目はウェーベルンの「夏風の中で」。冒頭の弦楽器の最弱音が、ピンと張った絹糸のような艶と透明感があった。だが、その後の展開には、もったりしたところがあり、冒頭の最弱音から期待したほどの緊張感はなかった。

 2曲目は、当初はピンチャーの作品が予定されていたが、ベルクの歌劇「ヴォツェック」から3つの断章に変更された。ソプラノ独唱は森谷真理。2021年8月の東京二期会の「ルル」でタイトルロールを歌った歌手だ。あのときの見事な歌唱は鮮明に記憶に残っている。その記憶を蘇らせるような歌唱だった。もっとも、遊戯性のあるルルの音楽と、シリアスな「ヴォツェック」のマリーの音楽との対比が浮き上がったことのほうが、わたしとしては大事だった。一方、今回のほうが森谷真理の声の立派さが印象付けられた。

 余談だが、当初予定されていたピンチャーの曲は「牧歌――オーケストラのための」という曲だった。その関連で(‘牧歌’つながりで)1曲目はウェーベルンの「夏風の中で」が選ばれたのではないだろうか。だが、ピンチャーが来日中止になり、曲目の変更を余儀なくされたとき、今度はウェーベルンの「夏風の中で」をキーにして、その関連でベルクの曲を選んだことは、別の文脈を作るという意味で、見事な解決策だったと思う。

 3曲目はラフマニノフの「交響的舞曲」(これは当初予定通りだ)。演奏は意欲的で、彫りが深く、(2曲目のベルクのオーケストラ演奏もよかったのだが、それを超えて)目が覚めるような出来だった。弦楽器が分厚く鳴り、金管楽器も逞しかった。ポペルカがドレスデンのシュターツカペレ出身だという先入観のためもあるかもしれないが、少なくとも弦楽器はドレスデンのシュターツカペレを連想させる瞬間があった。

 ステージマナーから察するに、ポペルカはスター然とした指揮者ではなく、オーケストラとの協働を楽しむタイプのように見える。そんな好ましさがステージから伝わった。今回の東響への客演を契機に、日本でも活動の場を築いてほしい。
(2022.8.20.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2022年08月13日 | 音楽
 高関健のサントリー音楽賞受賞記念コンサート。オーケストラは東京シティ・フィル。1曲目はルイジ・ノーノ(1924‐90)の「2)進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレ・タルコフスキー」(1987)。初めて聴く曲だ。事前にナクソスミュージックライブラリーを覗くと、2種類のCDが登録されていた。そのどちらだったか、ともかくひとつを聴いた。だが弱音過ぎてほとんど聴こえない。時々ドンと打楽器が鳴る。そんな音楽が約30分続く。正直いって面喰った。

 ところがその曲が、実演で聴くと、おもしろかった。終始微細な音が聴こえる。オーケストラは7群に分かれて配置される(ステージ上と2階のP、RA、RB、LA、LB、Cの各ブロックの後方)。そのどこかから、たとえていうと虫の声のような、かすかな音がたえず聴こえる。時々打ち鳴らされる大太鼓とティンパニは雷鳴のように轟く。それらの音の鮮やかさはCDでは想像できなかった。

 演奏はたいへんな名演だったのではないか。音楽にたいする理解と献身、音にたいする繊細さと集中力、くわえて高関健の統率力。さらにいえばサントリーホールの音響のすばらしさ。それらが相まって、わたしに得難い経験をもたらした。

 長木誠司氏のプログラムノートに興味深い点が2点書かれていた。いずれも題名にかんしてだが、1点目は、その題名は原語に即して訳すと「進む道はない、ただ進むだけだ」くらいになるらしい。現行の題名の「進むべき道はない、だが進まねばならない」では余計な脚色が入る。もう1点は、ノーノ自身はその題名をスペインのトレドの修道院の壁に見いだした碑文からとったものだといっているが、実際にはセビリャ出身の詩人アントニオ・マチャード(1875‐1939)の詩からの引用だそうだ。

 2曲目はマーラーの交響曲第7番。これもたいへんおもしろかった。どうおもしろかったかというと、じつに克明な演奏だったので、とくに第1楽章と第5楽章で、後続楽句が先行楽句につながらないような、妙にぎくしゃくした流れが、そのまま聴こえたからだ。そのためメタ音楽(音楽にかんする音楽、音楽を成立させているものにかんする音楽)のような側面が際立ったように思う。そう思うのは、わたしがメタ演劇の作家・ピランデッロ(1867‐1936)の戯曲をいま読んでいるからかもしれない。妙にピランデッロとこの曲とがシンクロした。

 第1楽章の冒頭のテノールホルンはエッジの立った鋭い演奏だった。第2楽章と第4楽章では1番ホルンの谷あかねが健闘した。コンサートマスターは見かけない人だったが、どなただったのだろう。オーケストラをよくまとめていたように思う。終演後は高関健のソロ・カーテンコールがあった。ブラヴォーの声が上がったような。
(2022.8.12.サントリーホール)
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久生十蘭短篇選

2022年08月09日 | 読書
 久生十蘭(ひさお・じゅうらん)(1902‐1957)には根強いファンがいるようだ。わたしはいままで読んだことがなかったが、先日、あるきっかけから、岩波文庫の「久生十蘭短篇選」を読んだ。

 同書には15篇の短編小説が収められている。一作を除いて、あとは戦後間もないころの作品だ。どの作品にも戦後社会が色濃く反映している。わたしは学生のころ(もう50年も前だ)、野間宏などの第一次戦後派の作品を読んでいた(もうすっかり記憶が薄れているが)。今度、久生十蘭の作品を読んで、戦後社会の実相というか、庶民的な感覚は、久生十蘭の作品のほうがよく反映しているのではないかと思った。

 戦中に書かれた一作をふくめて、15篇すべてがおもしろかったが、あえてベストスリーを選ぶとしたら、どうなるだろうと自問した。お遊びのようなものだが、やってみた。まずベストワンは「母子像」だ。16ページあまりの小品だ。そのなかで凝縮したストーリーが展開する。

 極端に短いので、ストーリーを紹介するまでもないだろう。推理小説にも似た展開だ。ストーリーの背景には、戦争末期のサイパン島での日本人の集団自決、戦後間もないころの戦争孤児、朝鮮戦争の勃発、米兵相手の日本人女性の売春など、戦中・戦後の社会の諸相が織りこまれる。そんな社会の荒波にもまれた少年の悲しい物語だ。

 本作品は1954年に讀賣新聞に発表された。その後、吉田健一が英訳して1955年の「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」主催の第2回世界短篇小説コンクールで第一席となった。久生十蘭は1957年に食道がんで亡くなったので、その2年前の朗報だ。

 「母子像」と同じくらい印象的だったのは「蝶の絵」だ。こちらは46ページあるので、15篇中では長いほうだ。ストーリーは二転三転する。その二転三転のなかで、スマトラ、ニューギニアなどでの日本兵の飢餓、マニラでの情報工作、住民虐殺、そして戦後それらの記憶に苦しむ人物が織りこまれる。本作品には「マリポサMariposa(蝶)」という唄が出てくる。ティト・スキーパTito Schipa(1889‐1965)という歌手(調べてみると、意外なことにオペラ歌手だ)が1922年にうたった唄だ。いまでもYouTubeで聴くことができる。便利な時代になったものだ。

 もう一作は「黄泉から」を選ぶ。敗戦の翌年の1946年(昭和21年)7月13日のお盆の入りの出来事を描いた作品だ。戦後の喧騒に紛れてお盆などは眼中にない人々と、戦争で亡くなった人々を悼む人々とのコントラストを背景とする。作中に「コント」(conte=フランス語で短編小説)という言葉が出てくる。本作品は上質なコントだ。
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2022年08月05日 | 音楽
 フェスタサマーミューザで藤岡幸夫指揮東京シティ・フィル。いかにもサマーコンサートらしいプログラムだ。1曲目はコープランドのクラリネット協奏曲。クラリネット独奏は現代のレジェンド、リチャード・ストルツマン。御年80歳だ。椅子に座ってこの曲を吹くストルツマンの姿が目に焼き付いた。

 椅子に座ってとはいうが、ストルツマンは元気だ。演奏終了後、カーテンコールでは小走りに出てくる。勢いあまって指揮台の先まで行ってしまい、Uターンする。満場の喝さいを浴びたのち、また小走りに引っ込む。拍手が鳴り止まないので、もう一度小走りに出てくる。今度も指揮台の先まで行ってしまい、Uターンする。お茶目だ。

 2曲目はチック・コリアの「スペイン」。「アランフェス協奏曲」の第2楽章のテーマがチラッと出てくる曲だ。それをジャズの六重奏(ピアノ、ベース、ドラムス、トロンボーン、ソプラノサックス、ソプラノサックス/フルート持ち替え)とオーケストラとの協演用に編曲したものという予告だったが、実際にはマリンバも加わり、ジャズの七重奏とオーケストラとの協演になった。

 個々の名前は省くが、六重奏のメンバーはいずれ劣らぬ名手らしい。マリンバはリチャード・ストルツマン夫人のミカ・ストルツマン。日本人だが、この方も世界的に活躍するマリンバ奏者とのこと。これらの人々が繰り広げるアドリブ演奏に、聴衆はその都度拍手を送った。

 余談だが、なにか特別な機会のクラシック・コンサートにジャズが入ると、会場はなぜこんなに活気づくのだろう。日本でもそうだが、ヨーロッパでも、みんな(演奏者も聴衆も)ノリノリになる。サマーコンサートとか大晦日のコンサートとか、そんな機会にジャズは特別な出し物だ。

 休憩をはさんでリムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」とレスピーギの「ローマの松」。ともにサマーコンサートの定番だ。演奏は「ローマの松」のほうが練れていた。第1部「ボルゲーゼ荘の松」の各パートの正確な演奏、第2部「カタコンバ付近の松」のステージ裏からのトランペットの見事な演奏、第3部「ジャニコロの松」のクラリネットのしっとりした音色と弦楽器のこみ上げるような熱い演奏、第4部「アッピア街道の松」の壮麗な演奏と、各部それぞれ聴きどころのある演奏だった。

 コンサート全体を通して、オーケストラの音が鮮明で、しっかり構築され、豊かに鳴ることが印象的だった。東京シティ・フィルの好調さを感じた。また藤岡幸夫のポジティブなキャラクターがコンサート全体に反映していたことも特筆ものだ。
(2022.8.4.ミューザ川崎)
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「芸術家たちの住むところ」展

2022年08月02日 | 美術
 用事があって、さいたま新都心に行った。ついでなので、うらわ美術館に行ってみた。JR浦和駅から徒歩10分くらい。ロイヤルパインズホテル浦和という大型ホテルの3階にあった。同美術館を訪れるのは初めてだ。

 同美術館では「芸術家たちの住むところ」展が開催中だ。浦和には多くの画家が住んだらしい。関東大震災の後、東京から多くの画家が浦和に移ったためだ。当時は「鎌倉文士に浦和絵描き」という言葉があったそうだ。

 本展はそれらの画家30人余りの作品を展示したもの。前期と後期に分かれている。いま開かれているのは後期だ。2章構成になっている。第1章は「描かれた土地の記憶」。のどかな田園地帯だった浦和の自然やレトロな洋館建築など、いまでは懐かしい風景を描いた作品群だ。浦和には縁がないわたしにも楽しめる内容だった。

 第2章は「戦後:それぞれの道」。画家たちが戦後、それぞれの作風を追求した作品群だ。そのなかでわたしは瑛九(えい・きゅう)という画家に注目した。実感としては、瑛九を「発見」したといったほうがいい。

 瑛九は1911年に宮崎県に生まれた。1951年に浦和市仲町に移り、翌年、浦和市本太に引っ越した。1960年に同地で亡くなった。わたしは、うろ覚えだが、瑛九という名前を知っていた。作品も目にしたことがある。だが、まとめて見るのは初めてだ。本展では第1章に5点、第2章に8点が展示されている。それらの作品を通して、瑛九とはどんな画家か、初めてつかめたような気がした。

 第1章の5点には、瑛九自身がフォト・デッサンと名付けた技法による作品が3点ふくまれている。写真を基盤とした白黒の影絵のような作品だ。「かえろ、かえろ」、「散歩」そして「あそび」と名付けられたそれらの作品は、ノスタルジックで詩情豊かな、レースのように繊細な作品だ。

 第2章の8点の中では「田園」という油彩画に衝撃を受けた。眩しいほどの夕日に照らされた田園風景だ。夕日が眩しいので、風景はほとんど見えない。風景画というよりも、太陽の圧倒的な力の表現のように思える。人間はもちろん、自然をも超えた、ある絶対的な力の啓示のような作品だ。本作品は瑛九が亡くなる前年に描かれた。そのためなのかどうなのか、ろうそくが燃え尽きる前のような異常な輝きが表れている。画像を紹介したいのだが、残念ながら本展のHPには画像が掲載されていない。上記のフォト・デッサンも同様だ。チラシ↑に使われている作品は瑛九の「作品」(部分)だが、この作品から「田園」は想像できないだろう。
(2022.7.15.うらわ美術館)
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