Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「絵画のゆくえ2019」展

2019年01月31日 | 美術
 本展は「FACE展」の2016年~2018年のグランプリと優秀賞受賞者の各受賞作品とその後の作品の展覧会。FACE展とは「年齢・所属を問わず、真に力がある作品」を公募するもので、損保ジャパン日本興亜美術財団の運営。FACEとはFrontier Artists Contest Exhibitionの頭文字を取ったものだ。

 今、東京ではフェルメール、ルーベンス、ムンクなどの展覧会が開催中だが、本展のような公募展には、どんな才能に出会えるか、という楽しみがある。

 本展では、グランプリ受賞者3名と優秀賞受賞者8名の合計11名、総数101点の作品が展示されている。作風はさまざまで、まさに「年齢・所属を問わず」の理念が具現化した感がある。プロなら、本展で将来性のあるなしを見るのだろうが、わたしのような素人は、自分の感性に合う作家を探すことになる。

 一番感銘を受けたのは、遠藤美香(えんどう・みか)という作家の2016年グランプリ受賞作品「水仙」だ。チラシ↑の右上に掲げられた作品で、木版画(墨・和紙)、縦182㎝×横91㎝。チラシだとはっきりしないが、実物を見ると、びっしり彫り込まれた水仙の群生と、そこに溶け込むような女性の姿が、息をのむほど繊細に表現されている。

 その女性の姿だが、スカートの裾を丸めて、中腰になって歩む姿が、チラシだと奇妙に見えるかもしれないが、実物だと自然で説得力がある。少し昔の女性像かもしれないが、女性は原っぱや磯辺をこういう格好で歩いたものだ。

 遠藤美香は1984年生まれなので、けっして年配の方ではないが、古風な感性の持ち主かもしれない。

 わたしが驚愕した作品は、2017年の優秀賞受賞作家、石橋暢之(いしばし・のぶゆき)の諸作品。鉄道関連の風景をリアルに描いたそれらの作品は、なんとボールペンで描かれている。ボールペン?と近寄って見るが、それがボールペンとはわからないほど繊細な線だ。もう一つ驚く点は、この作家が1944年生まれということ!

 最後にもう一人あげると、仙石裕美(せんごく・ひろみ)の2018年グランプリ受賞作品「それが来るたびに跳ぶ 降り立つ地面は跳ぶ前のそれとは異なっている」(チラシ↑の左下)などの諸作品。この人の作品には一種の強さがある。その強さが透明感と重なり合って、独自の画面を作っている。1982年生まれ。
(2019.1.29.損保ジャパン日本興亜美術館)

(※)本展のHP
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ソヒエフ/N響

2019年01月28日 | 音楽
 N響のAプロ。わたしは2日目の会員なのだが、今月は用事があったため、1日目に振り替えた。1曲目はリャードフの交響詩「バーバ・ヤガー」。この曲や「魔の湖」など、リャードフは視覚的に鮮やかな曲を書いた人というイメージがあるが、さて、その全貌となると、さっぱりイメージがわかない‥。

 「バーバ・ヤガー」は演奏時間約3分の短い曲だが、その中には山も谷も作りこまれていて、さすがだと思った。ソヒエフ/N響は息の合った演奏を聴かせた。

 2曲目はグリエールのハープ協奏曲。ハープ独奏はグザヴィエ・ドゥ・メストレ。これはメストレの名演に酔う演奏だった。優雅なだけでなく、時には力強く、アグレッシヴに弾いていく。ほとんど聴こえないくらいの微小な音から、NHKホールの巨大な空間に鳴り響く太い音まで変幻自在。それらの音に翻弄される心地よさを堪能した。

 それにしてもこの曲はロマンチックな曲だ。懐かしい映画を観ているような曲。でも、プログラム・ノーツを読んで気が付いたのだが、作曲年代は1938年。ヒトラーが政権を取ったのが1933年だから、それから5年後だ。当時のヨーロッパ情勢は緊迫の度を深めていた。と同時にソ連ではスターリンの大粛清が吹き荒れていた。そんなご時世に頓着なく、春風駘蕩(といっては失礼だが)のこんな曲をよく書けたものだと思った。

 グリエールってどういう人だろうと、少し調べてみた。1875年生まれ(没年は1956年)のロシア人(時代的にはむしろソ連人)。生地はウクライナのキエフだが、父はドイツ人、母はポーランド人で、ロシア人の血は入っていない。革命後のソ連ではモスクワ音楽院で教鞭を執り、またソ連作曲家同盟の要職にも就いた。

 と、こういう人なのに、社会主義リアリズムの痕跡もないことが、むしろおもしろいと思った。時々演奏会のプログラムに載るコロラトゥーラ・ソプラノのための協奏曲も、ハープ協奏曲と似たような曲なので、そんなロマンチックな作風には案外反骨精神が隠されていたかもしれない。

 メストレのアンコールがあった。ゴドフロワの「ヴェニスの謝肉祭」。舌を巻くような名演だった。

 3曲目はベルリオーズの「イタリアのハロルド」。ヴィオラ独奏はN響首席の佐々木亮。悪い演奏ではなかったが、演奏中はしきりにカンブルラン/読響の名演(2014年1月)が脳裏に浮かんだ。あのリズムのキレの良さは、今回の演奏にはなかった。
(2019.1.26.NHKホール)
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未来を乗り換えた男

2019年01月26日 | 映画
 ドイツの作家アンナ・ゼーガース(1900‐1983)の代表作の一つ「トランジット」が映画化されたので、観に行った。映画の原題はゼーガースの小説と同じ「トランジット」だが、邦題は「未来を乗り換えた男」となっている。「未来」を「乗り換えた」という言葉のつながりが、日本語として落ち着かない気がするが、トランジットという原題からの苦肉の策なのかもしれない。

 ともかく、本作はゼーガースの小説の映画化なのだが、単なる映画化ではなくて、時を現代に移している。ゼーガースの小説は、ナチスに追われた作者が、ナチス占領下のパリを脱出して、マルセイユ経由でメキシコに逃れる実体験を書いたものだが(残念ながら、わたしは原作を読んでいないので、資料に基づく知識だが)、映画では上述のように時を現代に移し、さらにナチス時代のユダヤ人迫害を現代の難民問題に置き換えている。

 現代のパリとマルセイユを舞台にした映画で、フランスが再びドイツ軍に占領されるという設定がリアリティを持ちうるか、という点がまずわたしの興味の的だった。

 その点に関していえば、リアリティは希薄だったと言わざるを得ない。とくに本作で大きなウェイトを占めるマルセイユの場面では、のんびりした日常風景が(それはマルセイユでロケした実景だ)、ドイツ軍がリヨンを越えてマルセイユに近づいているという設定の緊迫感を薄めた。

 もう一つ、先年の映画「帰ってきたヒトラー」で大きく取り上げられた難民問題が、本作ではどう扱われているか、という点にも興味を持っていたが(「帰ってきたヒトラー」では、ナチス当時のユダヤ人問題と現代の難民問題との相似性にゾッとしたものだ)、その点についても掘り下げが足りないと感じた。

 それらの点で、本作はわたしには満足できなかった。着想はおもしろいのだが、表面的な扱いに終わったように思った。

 本当は(もしわたしがゼーガースの原作を読んでいたら)、原作がどのように翻案されたかという観点から、興味深い点を発見できたのかもしれないが、それは(残念ながら)不勉強なわたしの力に余ることだった。

 本作での収穫は、ファシズム化するドイツから逃れるドイツ人男性を演じたフランツ・ロゴフスキの繊細な演技と、数奇な運命でその男性とめぐり合うドイツ人女性を演じたパウラ・ベーアの襞の多い演技だ。その二人の瑞々しい演技が本作を支えた。
(2019.1.25.新宿武蔵野館)
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METライブビューイング「マーニー」

2019年01月23日 | 音楽
 METライブビューイングで新作オペラ「マーニー」を観た。ニコ・ミューリーの作曲。1981年生まれの若い人だ。本作は3作目のオペラ。2017年にイングリッシュ・ナショナル・オペラ(以下「ENO」)で初演された。メトロポリタン歌劇場(以下「MET」)での初演は2018年10月。

 「マーニー」はヒッチコック監督の映画で有名になった。原作はウィンストン・グラハムの小説。METライブビューイングの幕間のインタビューによると、今回演出を手掛けたマイケル・メイヤーがMETにオペラ化を持ちかけた。「作曲はだれに頼む?」と訊かれて、「もちろんニコだよ!」と答えたそうだ。

 それから5年かかった。ENOでの初演後、METでの初演に向けて、さらに手直しをした。新作オペラが生まれるまでの創造行為が窺われる。それと同じことが今、新国立劇場でも行われ、「紫苑物語」が誕生しようとしているわけだ。

 オペラ版「マーニー」の台本はニコラス・ライトの作成。わたしは映画も小説も未見(未読)だが、これも幕間のインタビューによれば、オペラ版は映画よりも小説のほうに近いという。

 マーニーとはある美女の名前。だが、本当の名前はだれも知らない。マーニーには盗癖がある。どこかの会社に雇われては、金庫から金を盗み、行方をくらます。名前を変えて別の会社に雇われて、金庫から金を盗んでは、また行方をくらます。それを繰り返す。なぜマーニーには盗癖があるのか。マーニーの心の中にはどんな闇が潜んでいるのか――という話。

 暗い話だが、オペラでは(思いがけず)マーニーに共感できる。マーニーだけではなく、マーニーを取り巻くマーク(マーニーの盗癖を知りながら雇用し、マーニーの盗みの現場を押さえて、警察に通報しない見返りに、結婚を強要する)やテリー(マークの弟。マーニーをポーカー・ゲームに誘い出し、犯そうとする)にも共感できる部分がある。この辺は「カルメン」の場合のメリメの暗い小説と、ビゼーのオペラとの関係に似ているかもしれない。

 ニコ・ミューリーの音楽は、ジョン・アダムズやフィリップ・グラスの音楽をもっとポップにしたようなもの。平易で口当たりがいい。マーニーを歌ったイザベル・レナードはスター性十分。マイケル・メイヤーの演出は、瞬時に、しかも転々と変わる場面を、なんの無理もなく舞台化した。演出で何ができるかの見事な実例だ。
(2019.1.21.新宿ピカデリー)
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山田和樹/読響

2019年01月19日 | 音楽
 山田和樹らしい濃いプログラム。1曲目は諸井三郎の「交響的断章」。諸井が小林秀雄や河上徹太郎、中原中也らと「スルヤ」をやっていた頃の作品だ。スルヤ!懐かしい。中原中也の愛読者だったわたしは、その名をよく知っている。諸井はその頃中也の「朝の歌」に作曲したはずだ。どんな曲だろうと思いながら、(数えてみると)40年以上たってしまった。

 「交響的断章」はロマン派風の曲。演奏時間は約14分。明らかに習作だが、ともかく東大の文学部に通いながら、独学で作曲を学んだ諸井の、当時の面影がしのばれる。諸井はその後、ベルリン高等音楽院で学び、本格的なシンフォニストになった。わたしたちはその姿に、サントリーホール・サマーフェスティヴァル2017で演奏された交響曲第3番で触れた。

 2曲目は藤倉大のピアノ協奏曲第3番「インパルス」。ピアノ独奏は小菅優。単一楽章で演奏時間約24分の大作だ。ピアノはほとんど出ずっぱり。繊細な音をインパルス(信号)のように発し続ける。オーケストラはそのインパルスに反応して、インパルスを返す。そのやりとりが乱れずに(ある意味で電子的に)続く。

 インパルスが途切れたり、高揚したりすることもあるが(言い換えれば、山もあり谷もあるのだが)、全体を聴き終えたときの印象は、一つのアイディアで押し切った曲、というものだった。

 わたしは、曲の感銘よりも、小菅優の優秀さに対する感銘の方が大きかった。小菅優を聴くのはこれが初めてではないが、その優秀さにあらためて驚いた。人間の生理を超えたような音の連なりを、これだけ長時間弾き続けることは、わたしの想像を超えていた。

 アンコールに藤倉大のピアノ小品「ウェイヴス」が弾かれた。これは楽しかった。

 3曲目はワーグナーの「パルジファル」の第1幕への前奏曲。山田和樹のワーグナーを聴くのは初めてではないだろうか。ゆったりと、かつ楽々と呼吸するような、そして大きな弧線を描くような演奏だ。なるほど、これが山田和樹のワーグナーか、と。この調子で「パルジファル」全曲をやったらどんな演奏になるんだろう‥。

 4曲目はスクリャービンの交響曲第4番「法悦の詩」。わたしには、実演もCDも含めて、間違いなくこの曲の一番わかりやすい演奏だった。大きな道も細い枝道もすべてを辿りながら、道に迷うことなく、常に生き生きと道を歩むような演奏だった。
(2019.1.18.サントリーホール)
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大野和士/都響

2019年01月16日 | 音楽
 大野和士指揮都響のAプロ。1曲目はブゾーニの「喜劇序曲」。ある架空の喜劇のための序曲というか、実際の喜劇は存在せず、序曲だけが書かれたもの。「これからどんな喜劇が始まるんだろう」というワクワク感がある。そう感じたのは、演奏がよかったからでもあるだろう。大野和士のオペラ指揮者としての蓄積が滲んでいた。

 2曲目はマーラーの「少年の不思議な角笛」からの抜粋。テノール独唱はイアン・ボストリッジ。「ラインの伝説」と「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」では、往年のボストリッジの声の伸びがなく、もう峠を越えたかと思われた。続く「死んだ鼓手」と「少年鼓手」では、声の伸びには欠けるものの、寂寥感の表出が意欲的で、ボストリッジのやりたいことが感じられた。最後の「美しいトランペットの鳴り渡るところ」では、往年の声の伸びが垣間見られた。

 ボストリッジは、ピーター・ピアーズの現役時代を知らないわたしには、現役では最高のブリテン歌いだった。その歌唱には今でも深い敬意を払っている。そのボストリッジの「今」に接したこともまた意味があると思う。

 大野和士が振る都響の演奏は、ボストリッジ以上に雄弁だった。たとえば「少年鼓手」で最後に残る小太鼓の寂しそうな音、また「美しいトランペットの……」での透明な空気感。

 3曲目はプロコフィエフの交響曲第6番。オペラ「炎の天使」のスペシャリストである大野和士なので、当然ながら、堂に入った解釈だ。Aプロのブルックナーの交響曲第6番では、どこか気負いが感じられたが、プロコフィエフのこの曲では、自然体でドラマトゥルギーを追っているように感じられた。

 全体的に、楽観的なのか、悲観的なのか、どちらともつかないような曲想だが、まさにその曖昧さを捉えた演奏。そして、それにとどまらず、終楽章の末尾近くでの絶叫には、底が抜けたような悲劇性があった。ジダーノフ批判で槍玉にあげられた曲だが、そのときソ連共産党は(同党の立場から)この曲の真の意味を見抜いていたと思った。

 余談だが、会場入り口で受け取ったチラシで、今年のサントリーホール・サマーフェスティヴァルの「ザ・プロデューサー」は大野和士の担当で、ジョージ・ベンジャミンのオペラ「リトゥン・オン・スキン」をやることを知った。なるほど、そういう手があったか!と(新国立劇場ではこのオペラはやれないだろうから)。
(2019.1.15.東京文化会館)
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ドゥネーヴ/N響

2019年01月13日 | 音楽
 フランス近代音楽を中心としたニューイヤーらしいプログラム。1曲目はルーセルの「バッカスとアリアーヌ」第2番。最後の狂宴(バッカナール)での興奮はラヴェルの「ダフニスとクロエ」の最後を彷彿させた。ステファヌ・ドゥネーヴ指揮N響の演奏も、アンサンブルが見事だった。

 2曲目はサン・サーンスのチェロ協奏曲第1番。チェロ独奏はゴーティエ・カプソン。わたしは初めてではないが、あらためてその姿を見ると、典型的な美男子だ。1981年生まれというので、今では渋さも加わり、惚れ惚れするような紳士の雰囲気を漂わせている。そんな渋さと甘さを兼ね備えたフランス紳士がサン・サーンスのこの名曲を演奏する姿は、まことに様になっている。

 その演奏は、甘くしようと思えばいくらでも甘くできるこの曲を、むしろ渋めに演奏した。弱音中心でとくに中間部の出だしは、オーケストラともども、ほとんど聴こえないくらいの弱音だった。わたしはこの曲の真の姿を見る(聴く)思いがした。通常の演奏はポピュラー名曲的な甘い演奏かもしれない。

 アンコールではびっくりした。なんと指揮者のドゥネーヴのピアノ伴奏で、サン・サーンスの「白鳥」が演奏された。思いがけない新年のご祝儀のような趣向だった。ドゥネーヴのピアノは繊細でチェロとよく合っていた。

 3曲目はベルリオーズの「ローマの謝肉祭」。これもポピュラー名曲といえばポピュラー名曲だが、演奏はお祭り騒ぎにならずに、整ったアンサンブルで演奏された。総じてN響は、ドゥネーヴの指揮の下で、演奏しやすそうだった。不必要に煽らず、安定したテンポで要所を決めるタイプだからだろうか。

 4曲目はレスピーギの「ローマの松」。この曲でもびっくり仰天の仕掛けがあった。例の第3部「ジャニコロの松」の後半部で登場するナイチンゲールの鳴き声が、なんと蓄音機で再生された。アンチークな蓄音機が打楽器パートの脇にあり、そこにSPレコードをかけて、専任の奏者(?)が慎重に針を下ろした。そこから出てくる音は思いがけず明瞭で、客席までよく通った。

 第4部「アッピア街道の松」でのバンダは、オルガン席にトランペット2本とトロンボーン2本、その向かいのバルコニー席にトランペット2本が配置された。頭の部分でオルガン席のトランペットの呼びかけに答えるバルコニー席のトランペットは、カーテンの陰で吹くという芸の細かさだった。
(2019.1.12.NHKホール)
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大野和士/都響

2019年01月11日 | 音楽
 大野和士が振る都響の1月定期は、ブルックナーとプロコフィエフの各々の交響曲第6番をメインに据えたプログラム。同じ第6番でもベートーヴェンやマーラーではない点がお洒落だと思う。昨日はブルックナーの方だったが、ブルックナーではなくショスタコーヴィチ(の交響曲第6番)でもよかったかと、一夜明けた今は思う。でも、その話題に入る前に、演奏順に1曲目から。

 1曲目はシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はコパチンスカヤ。現代の異才(=鬼才)だ。その人気ゆえか、チケットは完売だった。シェーンベルクのこの曲は、キリル・ペトレンコ指揮ベルリン・フィルと3月の定期で共演し、また夏のザルツブルク音楽祭でも共演する。

 すばらしいというか、すごい演奏だった。そんな月並みな表現では何も表現できていないと思うほど、その演奏は際立っていた。それをどう言い表したらよいだろう。わたしは、身体を大きく動かしながら、何かに挑むように演奏するその姿に、森の中の動物を連想した。

 その演奏に大野和士/都響がぴったり付けていった。常に明瞭な音像を保持しながら、敏捷に付けていく。ベルリン・フィルはこんなにぴったり付けられるだろうかと、これは贔屓目かもしれないが、正直そう思った。

 小室敬幸氏のプログラム・ノートに、この曲がベルクのヴァイオリン協奏曲と同時期に書かれたことが触れられているが、ベルクのその曲がロマン的な(陰影の濃やかな)響きを持つのに対して、シェーンベルクのこの曲は新古典主義的な(照度の高い)響きを持つことが実感された。

 それにしてもこの曲は、その後に書かれたピアノ協奏曲のように、隠れたプログラムがあるのではないだろうかと、特に第3楽章を聴きながら思った。そしてコパチンスカヤも大野和士も、じつはそのプログラムを知っていて、それを体現しているのではないだろうかと、そんな気のする演奏だった。

 2曲目のブルックナーの交響曲第6番では、大野和士にはブルックナーでもやるべきことがあると納得できる演奏だった。しなやかなフレージング、熱量を持った音、転調の瞬間の細心な作り方。そのブルックナーは、崇高さとか、ゲルマン的とか、そんな既成の価値観には当てはまらない生身のもの。だが、一方で、そのスタイルはまだ発展途上にあることも感じさせた。
(2019.1.10.サントリーホール)
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黒井千次「流砂」

2019年01月08日 | 読書
 2018年10月に発行された黒井千次(1932‐)の小説「流砂」(りゅうさ)。新聞各紙の書評欄で取り上げられたので、話題作といってもいいだろう。発行当時、作者86歳。その作者が70代の「息子」(作者自身)と90代の「父親」を主要な登場人物として書いた長編小説。もっとも、本作は完結せず、今後3部作に発展する。本作はその第1部。

 たしかに今後の展開を予感させる構成だ。多くの謎が仕掛けられ、それらの謎がどうなるか、興味が持続する。謎とはいっても、大仰なものではない。「父親」が戦時中に書いた「思想犯の保護を巡って」という研究報告がその中心にあり、思想検事として戦時中の一時期(二・二六事件の頃)を送った「父親」の生き方、そして今はそれをどう思っているか、と「息子」が抱く疑問(疑問というよりも、かすかな想い)が綴られる。

 かすかな想い、と言い直したのは、「息子」が「父親」に当時のことを問いただすのではなく、「父親」がなにか言っておきたいことがあるなら、「息子」はそれを聞いておきたいと思っているからだ。そのような微妙な感覚がわかる年代に、わたしもなったらしい。

 長編小説ではあるが、全体の構成には少しの緩みもない。これが86歳の作品であるかと、失礼ながら、驚く。

 もっとも、この作品は12章からなり、その1章ずつは、連作小説「流砂」として文芸誌「群像」の2012年2月号から2018年4月号までに断続的に発表されたもの。一気に書き下ろしたわけではない。だからこそ、構成および文体の緊密さが保持された面もあろうかと思う。

 文体の緊密さの例をあげると、たとえば「息子」が古いアルバムを開く場面(第2章)。写真が一斉に剥がれ落ちてしまう――。

 「そう思いながら取り上げたアルバムをめくろうとした時、乾いた音をたてて台紙の間から一斉に写真が流れ落ちるのに驚いた。貼りつけるのに用いられた糊が歳月の経過によって変質し、接着力を失って台紙が写真を手放したようだった。呆然として彼は落下するブローニー判の映像の群れを眺めやった。それは時間の長さに耐えきれずに起された映像達の叛乱ででもあるかのようだった。」

 上記の箇所の執筆当時、作者は何歳だったか、正確にはわからないが、緊張感を湛えた、緩みのない文体だと思う。そのような文体が、乱れずに続く。

 3部作は完結するのだろうか――完結することを願いたい。
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新作オペラとその台本

2019年01月06日 | 音楽
 2018年後半には新作オペラが3本世界初演(または日本初演)された。野平一郎(1953‐)の「亡命」、藤倉大(1977‐)の「ソラリス」そして松平頼暁(1931‐)の「The Provocators~挑発者たち」。それら3作は、音楽的にはそれぞれの作曲家らしいスタイルを持つものだが、台本には疑問を感じるものがあった。

 まず「亡命」だが、その台本にはがっかりした。ハンガリーの作曲家リゲティ(1923‐2006)とクルターグ(1926‐)をモデルにした(と思われる)登場人物の「亡命」を軸にした人生の軌跡を描くストーリーだが、とくにオペラの後半は伝記的な事実をなぞるだけで、著しく平板になった。また随所に挟み込まれるナレーションがまだるっこかった。

 台本作成は野平多美。失礼ながら、台本作成にどれだけの経験をお持ちなのか、疑問を感じた。もし経験が乏しいなら、本作はその事実を残酷なまでに露呈したと言わざるを得ない。またそのような人物を起用した関係者の問題にもなるだろう。

 一方、「ソラリス」は、スタニスワフ・レムの長編小説を、簡潔に、テーマを外さずにまとめた手際のよさが光った。その台本作成が、ダンサーで振付家の勅使川原三郎であることには驚いた。勅使川原はパリでの世界初演で演出と振付を担当しているので、台本作成から一貫して本作にかかわったのかもしれない。

 「The Provocators~挑発者たち」の場合は、先に3曲の歌曲ができて、それらをつなぐものとしてオペラが構想されたようなので、通常のオペラとは性質が異なるが、オペラとして上演される以上、台本が厳しく評価されることは避けられない。

 作曲者自身によるその台本は、オペラの台本として見た場合は「?」と思うが、仮に3曲の歌曲のためのフォーマットのようなものだと考えた場合でも、歌曲以外の部分がストーリー性を持ち過ぎて、あらずもがなのものに思える。

 日本にかぎらず、むしろ欧米が先行する形で、新作オペラの発表が相次いでいる。それは一種のブームのように見える。そのこと自体は大歓迎だが、だからこそ、台本にたいしては慎重でなければならないと、あらためて感じた。無論、現実の作品は種々の制約の結果だろうが、それでもだ。

 その意味では、今年2月に初演予定の西村朗のオペラ「紫苑物語」では、台本作成に詩人の佐々木幹郎が起用されているので、期待が高まる。
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2018年の回顧

2019年01月03日 | 音楽
 2018年はどんな年だったろうと振り返ると、個人的な出来事はさて措き、音楽では2017年のカンブルラン/読響の「アッシジの聖フランチェスコ」(メシアン)のような圧倒的な感銘を受ける演奏会はなかったというのが、まず思うことだ。

 だが、もちろん、記憶に残る演奏会はあった。最初に思い浮かぶのは、ピエール=アンドレ・ヴァラド/東響の「プリ・スロン・プリ~マラルメの肖像」(ブーレーズ)。サントリー芸術財団サマーフェスティバル2018での演奏。ソプラノ独唱は浜田理恵。この曲が日本初演されたとき(故若杉弘/都響の演奏だった)、わたしは出張と重なったので、涙をのんだ。それ以来、生で聴くのが念願になっていた。

 演奏は驚くほど精密なものだった。無数の均質な音で作られた精巧なガラス細工のような感触、といったらよいか。わたしは2015年の同フェスティバルで聴いた大野和士/都響の「ある若き詩人のためのレクイエム」(B.A.ツィンマーマン)を思い出した。以前ドイツで聴いた同曲の演奏(マティアス・ピンチャー/hr響)とはまったく異なり、理路整然とした演奏だった。

 両曲とも20世紀の難曲といわれるが、それを日本人の演奏家がきちんと準備をした上で演奏するとこうなるのか、という思いがした。

 それと似ているが、新国立劇場が上演した細川俊夫の「松風」も記憶に残るものだった。わたしはこのオペラをベルリンで観たことがあるが、そのときと今回とではかなり印象が異なった。

 それはオーケストラの演奏の違いによる。指揮者は同じであるにもかかわらず(デヴィッド・ロバート・コールマン)、今回演奏した東響は、ベルリン国立歌劇場のオーケストラより、細川俊夫の音楽の静謐さの意味をはるかによく理解し、それが故に(逆説的ではあるが)雄弁な演奏になった。

 もう一つ記憶に残る演奏会をあげると、それはラザレフ/日本フィルの「ペルセフォーヌ」。ストラヴィンスキーがアンドレ・ジッドの台本に音楽を付けた作品だが、これがストラヴィンスキーかと我が目を(耳を)疑うような繊細さだった。新古典主義の時期の作品だが、他の作品に比べて、その繊細さは群を抜いていた。

 ラザレフはスケールの大きな豪快な演奏をするイメージがあるが(そして事実その豪快さは並外れたものだが)、同時に繊細で、軽やかで、淡い色彩感をもつ演奏もできることを示した。いうまでもないが、ラザレフは大指揮者だ。
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