Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

サントリーホール・サマーフェスティバル:川島素晴・鈴木優人/東京フィル

2020年08月31日 | 音楽
 サントリーホール・サマーフェスティバルの最終日は、ザ・プロデューサー・シリーズの管弦楽演奏会(2)で、新作初演3曲という意欲的なプログラムだった。

 1曲目は川島素晴(1972‐)の管弦楽のためのスタディ「illuminance/juvenile」。illuminanceとは「物理学・光学でいう「照度」の意味」、juvenileとは「幼年性、少年・少女向けの、といった意味」(作曲者自身のプログラム・ノートより)。

 第1楽章「illuminance」は「20に及ぶ自然界の「光の現象」をテーマにイメージが紡がれ、織り成していく」(同上)。その音はアニメの動きを音楽化したような活きの良さがあった。視覚的な音楽というか、むしろ視覚の音楽化といったらよいか。表題通り、照度の高い音の光景が展開し、その光景は目に焼きついた。

 第2楽章「juvenile」は川島素晴らしいパフォーマンス音楽。第1楽章でアニメの動きを連想したわたしは、その関連から、アニメの舞台化のように見えた(詳細はネタバレになるといけないので、記述を控えるが)。演奏は指揮が作曲者自身(そこがポイントだ)、オーケストラは東京フィル。東京フィルの演奏は鮮度が良かった。

 2曲目は杉山洋一(1969‐)の「自画像」。冒頭でスペイン・バロックの作曲家カバニーリェス(1644‐1712)の「皇帝の戦争」(バターリャ第1番)が高らかに演奏され、それが杉山洋一の生まれた1969年(その年はシュトックハウゼンが各国の国歌その他をコラージュした電子音楽「ヒュムネン」が作曲された年でもある)から現代にいたるまでの世界各地での戦争・紛争で攻撃された側の国歌・州歌・県歌の連鎖になだれ込んだ。途中でアメリカ国家が登場した。それは9.11同時多発テロを象徴する。最後はイタリア軍(杉山洋一はミラノ在住)の弔いのラッパが吹奏された。

 「皇帝の戦争」も陽気な音楽だが、その後の国歌・州歌・県歌の連鎖も、勇壮な打楽器のリズムに乗って、躁状態の、興奮した音楽となった。何かに駆り立てられているようだ。その音楽の背後には、死体が累々と続いていく。そんなイメージがわいた。最後の弔いのラッパがむなしく鳴る。音楽そのものよりも、音楽の背後に映像インスタレーションを見るような、今まであまり経験したことのない音楽だ。

 2曲目から指揮は鈴木優人に代わった。3曲目は一柳慧の交響曲第11番「ピュシス」。ピュシスとはギリシャ語で「自然」の意味。急‐緩‐急の3楽章からなる交響曲だ。作曲者の自然にたいする問題意識は共感できるが、曲からはその問題意識が伝わらず、挨拶に困るような感じがした。
(2020.8.30.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2020年08月30日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの4月定期の振替公演。4月定期ではデジェー・ラーンキのピアノ独奏でブラームスのピアノ協奏曲第2番とリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」が予定されていたが、ラーンキは来日できず、「ツァラトゥストラ‥」は4管編成で舞台が密になるため、プログラムが大幅に変更された。その変更後のプログラムが、意図が明確で、内容充実の、思わず唸ってしまうプログラムだった。

 1曲目はコープランドの「市民のためのファンファーレ」。冒頭の打楽器の音が重く、抉るような叩き方だったので、ギョッとしたが、それに続くトランペットの音が明るく、輝かしかったので、ホッとした。打楽器はともかく、金管、とくにトランペットは快演だった。トランペットにかぎらず、金管アンサンブルが、立体的というか、陰影の豊かな、曲の構造がよくわかる演奏を繰り広げた。

 2曲目はショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。ヴァイオリン独奏は山根一仁。山根は1995年生まれ。現在はミュンヘン音楽演劇大学に在学中。細身の青年で、曲に食い込むような、鋭い演奏をする。その激しさに惹きこまれた。とくに最終楽章は圧巻の演奏だった。「圧巻の」という言葉はよく使われるので、わたしは極力避けているが、この演奏はそれ以外に形容のしようがないものだった。

 休憩後の3曲目はリヒャルト・シュトラウスの「13管楽器のためのセレナード」。木管9本とホルン4本のための曲。穏やかな曲想にホッとした。前曲のショスタコーヴィチとは好対照だ。演奏もハーモニーが美しかった。最後のフルートのしゃれたフレーズに笑みがこぼれた。いかにもシュトラウスらしい。

 4曲目は同じくシュトラウスの「メタモルフォーゼン」。副題に「23の独奏弦楽器のための習作」とあるように、元来は23名の弦楽器奏者(ヴァイオリン10名、ヴィオラ5名、チェロ5名、コントラバス3名)のための曲だが、それを48名(22名、10名、10名、6名)で演奏した。たしかに効果的だった。各パートをつねに2名で弾くのではなく、音圧が強まるところで人数を増強している。その演奏は堂々として雄弁だった。細かなニュアンスにも事欠かなかった。東京シティ・フィルの弦が、高関体制になって、フレキシビリティを増していることが感じられた。

 以上のようなプログラムだった。金管、木管、弦の各セクションに出番を作り、それはすなわち各セクションにアンサンブルの向上を促していることが明瞭だった。コロナ禍にあっても、けっして手を抜かないプログラムを組み、目標を高く掲げることは、指揮者本来の役割だ。高関健はそれを果たしている。そのような指揮者をもつオーケストラは幸せだ。
(2020.8.29.東京オペラシティ)
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サントリーホール・サマーフェスティバル:杉山洋一/読響

2020年08月27日 | 音楽
 今年のサントリーホール・サマーフェスティバルは、テーマ作曲家のイザベル・ムンドリーの演奏会は中止になったが、一柳慧が企画したザ・プロデューサー・シリーズの演奏会は無事に開催された。一柳慧の企画は「2020東京アヴァンギャルド宣言」と題して2つの室内楽演奏会と2つのオーケストラ演奏会で構成。それらの演奏会には6曲の新作初演がふくまれている。昨日はオーケストラ演奏会の第1回があった。オーケストラは杉山洋一指揮の読響。

 1曲目は高橋悠治(1938‐)の「鳥も使いか」(1993)。三絃の弾き語りとオーケストラのための曲だ。この曲にはCDが出ているので、わたしも聴いたことがあるが、CDで聴いた印象と実演の印象とでは、雲泥のちがいがあった。実演で聴くと、三絃の華やかな音がホールを満たし、オーケストラの薄く透明な音とあわせて、聴き手が自由に呼吸できる点が魅力だった。他に類例のない曲だ。三絃独奏は本條秀慈郎。

 2曲目は山根明季子(1982‐)の「アーケード」(新作初演)。巨大なオーケストラ編成が目を奪う。ステージでの密を避けるため、1階の前方6列の客席を取り払い、そこもピットのように使っている。その巨大なオーケストラから、カラフルで流動的な音楽が、客席にむかって氾濫する。高橋悠治の「鳥も使いか」が静の音楽だとすると、これは動の音楽だ。

 3曲目は山本和智(1975‐)の「『ヴァーチャリティの平原』第2部(ⅲ)浮かびの二重螺旋木柱列」(新作初演)。2台のマリンバとガムラン・アンサンブルとオーケストラのための曲。ガムラン・アンサンブルに興味を惹かれるが、実際に聴くと、2台のマリンバのパワーに圧倒される曲だ。2台のマリンバが炸裂し、曲全体は鮮烈な音楽が展開する。わたしは息をのんで聴き入った。マリンバ独奏は西岡まり子と篠田浩美。見事の一語に尽きる。ガムランはランバンサリ。

 4曲目は高橋悠治の「オルフィカ」(1969)。この曲もCDが出ているので、何度も聴いたことがあるが、今まではあまりおもしろいと思ったことはなかった。だが、そんな先入観は覆された。前3曲とくらべて、これがもっとも前衛的に聴こえた。では、前衛的とはなにか、と自問した。前衛的という言葉が、否定とか解体を示すなら、この曲は解体された音楽の風景のように感じた。ステージと1階客席前方にくわえて、2階のステージ左右の客席後方にも分散配置されたオーケストラが、無機的といっていいかどうか、あらゆるコンテクストから解放された音を発する。それが少しも退屈ではなく、美しく感じた。

 この演奏会を聴くために今年の夏はあったと思った。そう思ったのも、読響の優秀な演奏があったればこそ、だ。
(2020.8.26.サントリーホール)
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北條民雄「いのちの初夜」

2020年08月22日 | 読書
 2019年6月に東京都東村山市の多磨全生園を訪れた。同園は全国に13か所ある国立ハンセン病療養所の一つだ。そこを訪れたのは熊本県の菊池恵楓園の中の絵画サークル「金陽会」の作品展を見るためだ。10人の方々の合計29点の作品は、各人の個性を生き生きと映していた。

 同展は多磨全生園の中の国立ハンセン病資料館で開かれた。作品展を見てから、わたしは同館を見て回った。ハンセン病とは何か、感染者とその家族への差別の歴史、ハンセン病の現状(ハンセン病はいまでは治療可能な病気で、日本ではほとんど発症例がなくなったが、世界ではまだ治まっていない)などが説明されていた。

 資料館を出て、わたしは敷地内を歩いた。いまでは一般に開放されているその敷地は、緑豊かで、静かな、すばらしい環境だった。食堂があるので、入ってみた。先客がいた。その人は何かの取材に訪れているようだった。わたしと入れ違いに出ていった。わたしは何種類かある定食の一つを頼んだ。しばらくすると老人が入ってきた。その人は入所者で、食堂の人とは顔なじみのようだった。食堂の人が「ね、明るく生きなくちゃね」というと、破顔一笑した。

 1年あまり前のこの話を思い出したのは、「ハンセン病文学全集1(小説一)」(加賀乙彦責任編集、晧星社刊2002年)で北條民雄(1914‐1937)の作品を読んだからだ。北條民雄は1933年にハンセン病を発症し(当時は「癩病」と呼ばれた)、1934年に多磨全生園(当時は「全生病院」)に入院した。入院後書いたそれらの作品は、すべて同病院が舞台だ。そこで描写された園内の様子は、いまの緑豊かな環境を彷彿とさせる。

 当時ハンセン病は不治の病とされた。家族から引き離され、終身隔離された。入所者は体が腐り、死を待つだけという恐怖と絶望の日々をすごした。北條民雄の作品はそういう日々をテーマとする。だが、そこにも自然の慰めがあり、また感動のドラマがあった。それらのエピソードを丹念に書いている。

 一番有名な作品は「いのちの初夜」だろう。著者自身と思われる「尾田」の入院初日を描いている。入院5年目になる「佐柄木」が尾田の世話をする。佐柄木は小説を書いている。わたしは、佐柄木は入院5年目の著者自身だろうと思った。5年の歳月をへた著者が入院初日を振り返っている、と。だが、予想は外れた。全集に収められた短編小説6篇を読んだ後、北條民雄の年譜を調べると、北條民雄は入院後3年で亡くなっていた。わずか3年の間にそれらの作品を書いたのだ(他にも全集に収められていない作品がある)。どれもうまく、また感性に触れるポイントが少しずつちがう。どの作品がお気に入りかは、読み手によってさまざまだろう。
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Choose Life Project「“わたし”にとっての戦争責任とはなにか」

2020年08月16日 | 身辺雑記
 8月15日にはネット番組「Choose Life Project」(以下「CLP」)の「“わたし”にとっての戦争責任とはなにか」を視聴した。出演者は憲法学者で東大教授の石川健治氏、戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏、若い哲学研究者の田代伶奈氏と永井玲衣氏。進行役は田代氏が務めた。田代氏はいまミュンヘンにいるそうだ。地球上のどこにいても対話に参加できるのがZOOMのよさだ。

 わたしは今年5月の検察庁法改正案のときにCLPの取り組みに注目した。それ以来ほとんど漏れなく視聴している。どれもテーマの設定がタイムリーで、しかも当事者が集まって対話をするので、大変参考になる。問題を掘り下げて、しかも身近に捉えることができる。

 今回のテーマでは「“わたし”にとっての」という問題の立て方に共鳴した。わたしはいままでそのように一人称で戦争責任を考えたことがなかった。そんな自分の迂闊さをつかれた思いがした。

 石川氏は、責任という言葉にはresponsibility、accountability、liabilityなどのいくかの意味がある。それぞれ意味が異なる。responsibilityには問いにたいする答えという意味がある。戦争責任については、問いはすでに立てられているが、答えが出されていない、と語った。

 山崎氏は、戦争責任には5つの種類がある。(1)戦争を遂行した政府の責任、(2)その政府を支持した一般人の責任、(3)戦争行為をした軍人の責任、(4)過去になにがあったかを知る責任、(5)未来に向けて同じことを繰り返さない責任。このうち(1)~(3)と(4)~(5)とは性格が異なる。(1)~(3)は戦争当時の人々の責任だが、(4)~(5)は戦後のわたしたちの責任だ、と語った。

 以上の要約は、わたしが聴きとったものなので、もしかすると正確性を欠くかもしれない。ともかくどちらも「“わたし”にとっての戦争責任」を考えるうえで重要な視点だと思う。それらを入り口にして対話は進んだ。興味のあるかたはYoutubeでアーカイブを視聴願いたい。

 番組の最初に当日(8月15日)の全国戦没者追悼式での安倍首相の式辞の一部が流された。また番組の最後には1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送が流された。わたしはそれらの録画・録音が奇妙に似ているように感じた。どちらも甘い自己憐憫に満ちている。アジアの人々への加害性には盲目だ。それは戦後の精神構造に深く根を下ろしている。つねに自らを被害者の立場におく。加害者としての立場を引き受けない。その精神構造はすこし幼くはないだろうか。
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高関健/東京シティ・フィル

2020年08月13日 | 音楽
 3月定期が延期になった今回の東京シティ・フィルの定期は、曲目が「トスカ」の演奏会形式上演からブルックナーの交響曲第8番に変更になった。オペラがまだ難しいのは当然として、変更後の曲目がブルックナーの大曲とは、指揮者の高関健と東京シティ・フィルのコロナに負けない意欲が感じられる。

 弦は12型、3管編成のフルサイズ。ブルックナーの12型に物足りなさを感じる向きもあるようだが、わたしはこのくらいがちょうどいい。14型でも許容範囲だが、16型になると(いくらオケが優秀でも)重く感じる。いったいブルックナーの時代にはどのくらいの編成でやっていたのか。

 東京シティ・フィルは8月7日にフェスタサマーミューザでブルックナーを演奏したばかりだが、そのときの飯守泰次郎指揮の交響曲第4番「ロマンティック」と比べると、指揮者の演奏スタイルのちがいが顕著だ。飯守泰次郎は頭にブルックナーのイメージがあり、それを表現しようとするが、高関健はすべてのパートをしっかり歌わせ、その集積としてのブルックナーを考えている。

 どの楽章も安定したテンポで、各々のパートをはっきり発音させ、フレーズの最後まできっちり歌わせる。ことに弦の各パートは強弱と明暗を細かくつける。金管の輝かしい音はサマーミューザ以来だ。ホルンも好調だ。木管ではフルートの竹山愛が、さすがにソロ活動も積極的なだけあって、張りのある音と大きなフレーズで目を引いた。

 どこがどうよかったとかというよりも、上記のような基本姿勢が全楽章に一貫し、充実した音が全編にわたって鳴り響いたといったほうがいい。高関健と東京シティ・フィルがしっかり噛み合い、東京シティ・フィルの演奏能力が最大限に引き出された演奏だ。

 東京シティ・フィルはコロナの困難な時期に高関健を常任指揮者にもって幸せだ。高関健は東京シティ・フィルの6月26日の演奏活動再開時にも(そのときは藤岡幸夫の指揮で無観客ライブ配信となった)リハーサルに立ち会い、また前記のサマーミューザでもオンラインで演奏を見守った。そのような頼りになる指揮者がオーケストラとともにいてくれる。その信頼感がこの日のブルックナーの交響曲第8番に表れたのではないだろうか。

 余談だが、この日の聴衆の座席は、前後左右を空ける市松模様ではなく、基本的には自席で聴く方式がとられた(ステージ寄りの2列は空けられ、また入場者数は定員の50%以下に抑えられたが)。希望により他の席に移ることも可能だったが、意外に皆さん(隣にだれかいても)自分の席で聴いているようだった。考えてみると、電車の中では隣にだれか座っていることも多いので、演奏会だけ神経を使うのもおかしな話かもしれない。
(2020.8.12.東京オペラシティ)
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日本音楽芸術マネジメント学会(2)

2020年08月10日 | 音楽
(承前)シンポジウムで日本フィルの平井理事長が語った日本フィルの現状は、以下のとおり。冒頭の発言をベースに、質疑応答を適宜加味して、要点を紹介したい(いうまでもないが、文責はわたしにある)。

・コロナ禍はオーケストラの中では想像を絶する惨事だ。
・日本フィルは楽団存続の危機にある。
・2月29日~6月末までに47公演を中止した。夏休みの親子コンサートは1回のみの公演となり、また東日本大震災の被災地への訪問(すでに293回実施)と東北夢プロジェクトは中断している。
・再開後の公演では、ソーシャルディスタンスの楽員配置と聴衆の50%規制がきつい。
・今後は年末の第九公演と来春の九州公演を危ぶんでいる。

・3月以降6月までは収入ゼロ。固定費のみが出ていくので、2億円の赤字となった。
・年間の公演数は150回→40~50回程度となり、演奏会収入は9億5千万円→2億円程度に落ち込む見込み。公演にともなう企業からの協賛金も入ってこない。
・2020年度は4億円をこえる赤字で、3億円をこえる債務超過となる見込み。公益財団法人は2年連続で3百万円をこえる債務超過になると、解散させられるので、その事態が危惧される。
・現在は楽員の給与カットと定昇ストップをおこなう一方、国と民間の資金を確保し、キャッシュフローの確保に努めている。

・財政面以外では、(1)芸術性の毀損と(2)社会性の毀損が大きな問題だ。
・日本フィルは昨年のヨーロッパ公演で芸術性を高めたと自負しているが、その芸術性が演奏活動の自粛により毀損されている。
・また、年間20万人以上の聴衆とのコミュニケーション、親子コンサートのコミュニケーション、東日本大震災の被災地訪問のコミュニケーション、東北の夢プロジェクトのコミュニケーションなど、社会性が毀損されている。
・日本フィルにかぎらず、文化芸術団体のすべてが大きく毀損されている。その毀損されたものをどのように回復するか。

・銀行からの借り入れが厳しくなる。そこで、国にたいしては、文化芸術団体への資本性の劣後ローンの導入を強く要望したい(引用者注:資本性の劣後ローンを導入すると、バランスシートの悪化が避けられる。)

・オンライン配信は、地方との関係で、ひじょうに重要になってきた。
・コロナ禍で被災地訪問ができないため、宮古高校吹奏楽部とオンラインでディスカッションをした。また南相馬市と宮古市でこの度初めてライブビューイングをする。
・もう一つ、新しいリアルとオンラインのミックスとして、10月13日に落合陽一さんの映像とのコラボをする。

・再開した演奏会では「やっぱり生はすばらしい」と涙を流すお客様が多かった。
・今後は効率第一主義から脱却して、社会・経済・文化が同列にならぶ社会を何としても作っていかなければならない。(了)
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日本音楽芸術マネジメント学会(1)

2020年08月10日 | 音楽
 日本音楽芸術マネジメント学会の夏の研究会が開かれた。「After/Withコロナ時代を生きる~音楽で明日の社会をひらくために」と題して、3つの分科会とシンポジウムでの構成。分科会はZOOMで、シンポジウムはYouTubeで配信されたので、たんなる聴衆にすぎないわたしも視聴できた。

 分科会は、7月27日に分科会1「オーケストラ」(東京都交響楽団の芸術主幹・国塩哲紀氏など5名が報告)、7月29日に分科会2「アーティスト」(株式会社AMATIの代表取締役社長・入山功一氏など4名が報告)、8月4日に分科会3「劇場・音楽堂」(神奈川県立音楽堂館長の永井健一氏など4名が報告)が開かれた。コロナ禍にあって、音楽界の広範な分野で多大な打撃を蒙っていることが実感された。

 その内容を要約して紹介したいのだが、膨大なレポートになりそうなので、腰が引けてしまう。また、それらの報告では、現場の苦労といったディテールにおもしろいエピソードが多かったので、それらを文字に起こすのは大変な手間だ。音楽評論家の渡辺和氏と加藤浩子氏が、Facebookまたはブログで各分科会の概要をお書きになっているので、興味のある向きは参照願いたい。

 シンポジウムは8月9日に開かれた。登壇者は、文化庁政策課長の榎本剛氏、日本クラシック音楽事業協会会長の入山功一氏(分科会2のAMATI社長)、東京芸術劇場事業企画課長の鈴木順子氏、日本フィルハーモニー交響楽団理事長の平井俊邦氏の4名。

 文化庁の榎本課長は、フリーランスおよび団体向けに、約500億円の予算を確保し、各種の助成制度を講じているので、ぜひ利用してほしいと呼びかけた。約500億円の予算規模は文化庁としては破格のうえ、フリーランスへの助成はかつてないことらしい。申請が伸び悩んでいるようだ。たしかに予算を使い残すと、文化庁は財務省その他との関係で、今後やりにくいかもしれない。

 日本クラシック音楽事業協会の入山氏は、コロナの副産物として、業界内の横断的な組織「クラシック音楽公演運営推進協議会」が設立されたことをあげた。その活動の一例として、7月におこなわれたクリーンルームでの飛沫・エアロゾルの測定検証を紹介した。

 東京芸術劇場の鈴木氏は、自主公演と貸し館事業の両面で受けた打撃と、各方面からの要望・課題への対応状況を語った。一例をあげると、「50%規制の間は貸し館料を半額にしてほしい」という要望があるが、対応できていないとのこと。

 日本フィルの平井氏は、日本フィルの現状を具体的に語った。オーケストラはわたしの関心事なので、その内容を詳しく紹介するため、稿を改めたい。(続く)
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飯守泰次郎/東京シティ・フィル

2020年08月08日 | 音楽
 フェスタサマーミューザで飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルを聴いた。最近流行のショート・プログラムではなく、堂々2時間の通常プログラムだった。やっぱり聴き応えがある。日常が戻った感があった。

 1曲目はワーグナーの「タンホイザー」序曲。冒頭のホルンのテーマが、深々としたドイツの森を感じさせた。コロナ以前だったら、年中オーケストラの演奏会を聴く中で、たまたまこの曲がプログラムに載ったとしても、そんなふうに「ドイツの森」とか何とかは感じなかったろう。数か月ぶりのワーグナーの生音が、うぶになったわたしの感受性に、強く働きかけたのだと思う。

 そのホルンのテーマの裏でハーモニーをつけるクラリネットやファゴットが、わたしには朗々と聴こえた。それも驚きだった。バランスがいつもと違うということではなさそうだった。これもうぶになっているわたしの感受性が発見した驚きだったろう。

 その直後にチェロが奏する嘆きの旋律の、思い入れの深さにも惹きこまれた。飯守さんの共感のこもった歌わせ方のためだろう。その共感がチェロ・セクションに伝わり、聴衆のわたしにも伝わった。久しぶりのワーグナー。その新鮮さを指揮者とオーケストラと聴衆のわたしとが共有した瞬間のように感じた。

 最後の金管合奏による巡礼のテーマは、金管合奏の音の厚みと輝かしさに、体がふるえる思いがした。そんな思いがするとは、夢にも思っていなかった。金管合奏とはすごいものだと思った。ワーグナーが書いた音の効果に開眼した思いだ。

 2曲目はブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」(ハース版)。演奏の精度は一段と上がった。飯守さんのブルックナーを熟知している東京シティ・フィルが、飯守さんのブルックナーを、ほとんど理想的に表現した。それはたとえば朝比奈隆のブルックナーのように押し出しの強いブルックナーではなく、アグレッシヴな鋭角性を残しながらも、余計なものを削ぎ落した、純粋で、謙虚で、すべての功名心から遠く離れたブルックナーだ。崇高といってもいいそんなブルックナーを、飯守さんと東京シティ・フィルは、水も漏らさぬ一体感をもって表現した。

 ホルンの1番奏者は、いつもの小林祐治さんではなく、谷あかねさんが務めた。全曲を通してほとんど出ずっぱりのパートだ。細かい瑕疵がなかったわけではないが、それに動揺せずに、最後まで吹ききった。大健闘だ。終演後、ホルンのメンバー全員が谷あかねさんと肘タッチを繰り返した。
(2020.8.7.ミューザ川崎)
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下野竜也/広響「被爆75年2020「平和の夕べ」コンサート」

2020年08月07日 | 音楽
 下野竜也指揮広島交響楽団の「被爆75年2020「平和の夕べ」コンサート」がライブ配信された。コンセプトのはっきりした、いかにも下野竜也らしいプログラムだった。

 1曲目はペンデレツキの代表作の一つ「ポーランド・レクイエム」から「シャコンヌ」。これは「ポーランド・レクイエム」の中でももっとも抒情的な曲だ。被爆75年の記念コンサートにこれほどふさわしい曲はない。演奏については、わたしのパソコンから流れてくる貧弱な音では云々できないが、ともかくわたしはこの曲に聴き入った。

 2曲目は藤倉大の委嘱新作「ピアノ協奏曲第4番《Akiko’s Piano》」。ピアノ独奏は萩原麻未。単一楽章で、演奏時間は約20分。薄めのオーケストラを背景に、独奏ピアノが透明で、時には速いパッセージを交えながら、穏やかな(時折緊張感のはしる)心象風景をつづる。最後にカデンツァがくる。そのカデンツァは「明子さんのピアノ」で弾かれる。

 「明子さんのピアノ」とは、広島で原爆を被爆し、翌日亡くなった河本明子さん(当時19歳)のピアノだ。そのピアノは2002年に発見され、修復された。アルゲリッチが弾き、ピーター・ゼルキンが弾いた。カデンツァはそのピアノで弾かれた。わたしは「明子さんのピアノ」のシチュエーションからいって、甘い音型が弾かれるのではないかと懸念したが、それは杞憂だった。抑制された音型が、静かに明子さんをしのんだ。

 演奏終了後、ステージ横の大画面に、ロンドン在住の藤倉大が映し出された。日本への帰国は叶わないが、ロンドンでライブ配信を視聴していたのだ。その嬉しそうな顔と、折り鶴を掲げる姿が、会場との一体感をかもしだした。

 3曲目はベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番から「カヴァティーナ」(弦楽合奏版)。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲の中でも、とくに印象的な楽章の一つだが、前後の脈絡なしに、これだけ取り出した演奏だと、あまり曲に入り込めないことを感じた。

 4曲目はマーラーの「亡き子をしのぶ歌」。メゾ・ソプラノ独唱は藤村実穂子。当コンサートの性格から、この曲がたんに我が子を失った親の嘆きではなく、原爆で子どもを失った親たちの悲しみを表しているように感じられた。藤村実穂子の精神的な歌の神々しさは、パソコンの音からも伝わってきた。

 5曲目はバッハの「シャコンヌ」(齋藤秀雄編曲)。残念ながらわたしには、この曲だけは被爆75年の想いが感じられなかった。アンコールにプーランク(下野竜也編曲)の「平和のために祈ってください」が演奏された。本プロで多少こわばった気持ちが、優しくほぐされた。
(2020.8.6.広島文化学園HBGホール)
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大岡昇平「事件」

2020年08月04日 | 読書
 大岡昇平の「事件」は推理小説だ。自らの従軍体験にもとづく戦争小説や、戦後の世相を背景とする恋愛小説など、「純文学」の書き手だった大岡昇平が、なぜ推理小説を書いたのかと、わたしは前から気になっていた。そこで「事件」を読んだ。文庫本で527ページの長編小説なので、手に取ったときはギョッとしたが、読み始めると、一気に読めた。第1回公判、第2回公判と、裁判の場面を柱にしているので、自分がいまどこにいるか、迷子にならずに済むからだろう。

 事件そのものは単純で、いまの世の中でも、普通にありそうな事件だ。犯人も自供している。だが、裁判が重なるにつれて、意外な人間関係が浮き上がってくる。事件の細部にはあいまいな点があることも気になってくる。推理小説なので、少なくともわたしは、どんなトリックが潜んでいるのか、真犯人がいるのではないか、といった点に興味があった。

 本稿ではこれ以上内容には立ち入らないが、ともかく検察側も弁護側も、ともに納得できる判決が出た後で、最後に「真実」という章がくる。読者をホッと一安心させた後で、でも、真実はどうだったのか、という疑問を呼び起こす。「真実」ではそれなりの推理は書かれるが、むしろ疑問を増幅するともいえる。わたしは最後まで読み終えてから、つらつらと考えるうちに、わたしなりの真実を思い描いた。それで落ち着いた。

 思うに、これは読者へのサービスだったのではないか。読者に疑問を起こさせて、自ら考えるように仕向ける。そして各人に真実を思い描かせる。各人の胸に宿る真実をもって本作は完結する、という仕掛けではないか。

 「事件」は1978年の第31回日本推理作家協会賞を受賞した。本業の推理小説家から本格的な推理小説と認められたわけだが、その一方で、大岡昇平の既存の作品を彷彿とさせる点もある。第一に「野火」のクライマックスで主人公の田村一等兵が記憶を失う点だ。それと似たようなプロットが本作にもある。わたしは本作にも「野火」に類するトリックを想定した。

 第二に「俘虜記」の冒頭の「捉まるまで」との類似だ。自分はなぜ米兵を撃たなかったのかと、繰り返し、あらゆる側面から考える、その執拗さと似た構造がある。「捉まるまで」の凝縮した思索と、本作の裁判を通じて次第に人間関係が明らかになる過程とは、ニュアンスが異なるが、執拗さの点では似ている。

 前述のように、「事件」はどこかに疑問を残して終わるが、わたしは最後の段落に(もっといえば、最後の1行に)胸をうたれた。そこでは真実も何もかもすべてが人生の平凡さに溶解していく。事件の真実は読者に委ねられるが、作品は完結している。
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