Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

いとうせいこう「福島モノローグ」

2021年04月30日 | 読書
 いとうせいこうの「福島モノローグ」が出た。わたしは東日本大震災に想を得た小説「想像ラジオ」(2013年3月発行)に感動したので、「福島モノローグ」も読んでみた。「想像ラジオ」とは性格が異なるが、これも印象的な作品だ。

 「福島モノローグ」はインタビュー形式のドキュメンタリーに似ている。福島在住の人が6人と一組(一組というのは4人の座談会だ)および宮城県の気仙沼の人が一人登場する。それらの延べ11人の人たちが東日本大震災の発生当時のことや避難生活のことを、あるいはいま取り組んでいることを語り続ける。みなさんすごいバイタリティだ。

 聴き手は著者のいとうせいこうだが、著者の言葉は省かれている。たぶん話を引き出すためにさまざまな問いや相槌をしているのだろうが、それらの言葉は消され、延べ11人の人たちが語り続ける形をとっている。本作の題名が「モノローグ」である所以だ。

 全体は8章からなる。各章とも語り手がいきなり語り始める。説明は一切ない。どんな人なのか、年齢とか、性別とか、居住地とか、そういう予備知識は与えられない。みなさん軽妙な語り口だ。その語り口に惹きこまれて読んでいくうちに、年齢とかなんとか、その人の属性がわかってくる。驚いたことに、みなさん女性だ。なぜ全員女性なのか。巻末には著者の「あとがき」が付いているが、その説明はない。読者の想像にゆだねられる。

 端的にいって、女性の話のほうがおもしろいからではないだろうか。男性の場合はもっともらしく理屈をつけて話す傾向があるのにたいして、女性の場合は思ったことをそのまま話す傾向があるように思う。それが登場人物を全員女性にした理由ではないかと、これはわたしの想像だが。

 みなさんには女性ならではの生命力が感じられる。どんな過酷な経験をしても、その渦中にいるときはともかく、少し状況が落ち着くと、そこから立ち直る力がある。いつまでもめげてはいない。周囲から孤立してはいない。

 どの人も前向きだ。明るくて強い。そしてなにかをしている。その「なにかをしている」ことが大事ではないだろうか。各人各様の語り口から語られるみなさんの取り組みに、わたしたちは驚き、感心し、そして笑う。笑いこそが本作の本質だ。

 みなさんは原発事故で(気仙沼の人は津波で)ひどい目に遭った。著者はみなさんの話を恨み節や嘆き節のトーンでまとめることもできただろう。だが、明るく前向きな話で塗り固めた。わたしたち読者は著者の意図を受け止め、著者のみなさんへの共感を共有すればするほど、みなさんの話の裏側にある悲劇に思いがいたり、暗然とする。
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ラザレフ/日本フィル

2021年04月25日 | 音楽
 ラザレフが来日して日本フィルの定期演奏会を振った。ラザレフの心意気に感じて、わたしは金曜日の定期会員だが、土曜日のチケットも買い(日本フィルの定期演奏会は金曜日と土曜日の2回ある)両方聴いた。久しぶりのラザレフだ。その演奏と聴衆とのコミュニケーションの両方を満喫した。

 演奏は両日とも基本的には変わらなかった。「金曜日よりも土曜日のほうがいい」といわれることもあるが、とくにそうは感じなかった。個々のプレーヤーではソロが金曜日よりも土曜日のほうが余裕を持って演奏しているように思える人もいたが、それはわたしのほうが(2度目なので)そのソロに注目していたせいかもしれない。

 プログラムはグラズノフの交響曲第7番「田園」とストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1947年版)。両曲共通して、演奏は引き締まったアンサンブルとスケールの大きさが特徴だった。それはもとよりラザレフの特徴なのだが、久しぶりに聴くと、その特徴が常人の域を超えて、桁外れなものに感じられた。

 グラズノフの交響曲第7番「田園」は、日本では演奏機会が稀な曲だが、ほのかなロシア情緒と西欧的な(野暮ったくない)オーケストレーション、そしてなによりもポジティブな感覚が横溢する曲だ。ラザレフはグラズノフの交響曲(全部で8曲ある)を順次取り上げているので、今回第7番になったのは偶然だろうが、コロナ禍で疲れているわたしたちには良い贈り物になった。

 ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」は、照度が一段と上がった。眩いばかりの明るい音色と鋭角的なリズム。そしてそれらの要素と共存する豪快さ。その豪快さこそラザレフらしさの所以だろう。今回は3管編成の1947年版が使われたが(初演時の1911年版は4管編成)、新古典主義云々といわれる1947年版にもかかわらず、その演奏は重量級といったらよいか、パワーあふれるものだった。

 そして忘れてはならないことは、ラザレフの聴衆とのコミュニケーションだ。カーニバルの市場に香具師が現れて、フルートを吹き「見物人を魔法にかけていく」(山崎浩太郎氏のプログラム・ノーツより)の場面で、ラザレフは客席を振り返り、「このフルートを聴いてくれ」といわんばかりの仕草をした。客席はドッとどよめいた。

 終演後の拍手は盛大だった。ラザレフがさらに拍手を煽るので、拍手は一段と大きくなった。ラザレフと聴衆とのコミュニケーションが続いた。楽員がステージを去っても拍手が鳴りやまず、金曜日も土曜日もラザレフのソロ・カーテンコールになった。
(2021.4.23&24.サントリーホール)
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B→C 滝千春ヴァイオリン・リサイタル

2021年04月21日 | 音楽
 若手ヴァイオリン奏者の滝千春が出演するB→Cコンサートに出かけたのは、共演者の多彩さに注目したからだ。ピアノの中野翔太、チェロの山本裕康、ドラムスの橋本現輝、マリンバの藤沢仁奈、バロックギターの尾尻雅弘という顔ぶれ。これでどういうコンサートになるのか、興味津々だった。

 まず柿沼唯(1961‐)の「サルヴェレジナ」から。グレゴリア聖歌をもとにした曲だ。滝千春の演奏は2声の動きがきれいに出ていた。アタッカでビーバー(1644洗礼‐1704)の「ロザリオのソナタ」から最終曲の「パッサカリア」へ。一挙に約300年前の音楽に移行したわけだが、そのつなぎになんの不自然さもなかった。

 次にマリンバとの共演でデーヴィッド・P・ジョーンズ(1958‐)の「リーガル・ハイズ」。軽いスマートな曲だ。巨匠ジョン・コリリアーノ(1938‐)の「ストンプ」は、足を踏み鳴らしながら演奏するヴァイオリン独奏曲。その演奏は水を得た魚のように鮮やかだった。次はピアノとの共演でジョージ・アンタイル(1900‐59)の「ソナタ第2番」。ピアノの大音量に圧倒される迫力満点の演奏だった。この作品は1923年にパリで作曲されたそうだ。まさにパリの狂騒を思わせた。

 休憩をはさんでプログラム後半は、まずバッハ(1685‐1750)の「シャコンヌ」から。ノンヴィブラートで音を短く切る演奏だ。そこからは滝千春の、だれの真似事でもない、等身大のバッハが現れた。大変おもしろかった。プログラム前半のコリリアーノとアンタイルでの乗りに乗った演奏と、バッハへの自分の言葉でのアプローチと、その両面でわたしの滝千春への注目度は増した。

 次は人気作曲家、挟間美帆への委嘱作品「B↔C」。猛スピードで演奏される超絶技巧曲だ。挟間美帆はジャズ畑出身で、現在もジャズの作品を書いていると思うが、この曲にはジャズの要素は感じられず、純然たる現代曲だ。滝千春の演奏は目が覚めるようだった。

 シャリーノ(1947‐)の「6つのカプリッチョ」から第2曲「アンダンテ」は、極端な弱音に傾かず、その結果音がやせずに、詩的な演奏だった。驚いたことに、曲の末尾からドラムスのリズムが入りこみ、次の木山光(1983‐)の「Death Metal Rock with Head Bang」に雪崩れこんだ。これは絶叫の音楽だった。

 最後はチェロとバロックギターの通奏低音が加わり、ビーバーの「チャコーナ」が演奏された。生き生きとした愉悦が感じられる演奏だった。乗りの良さでは現代作品に引けを取らなかった。わたしはますます滝千春に注目した。
(2021.4.20.東京オペラシティ・リサイタルホール)
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鈴木雅明/N響

2021年04月18日 | 音楽
 鈴木雅明は昨年10月にブロムシュテットの代役で初めてN響を振った。わたしはその演奏会を聴かなかったが、評判はすこぶる良かった。それに引き続き今回は2度目のN響登場だ。一言でいって、すばらしい演奏会だった。

 1曲目はハイドンの交響曲第95番ハ短調。ロンドン・セット(あるいはザロモン・セット)と呼ばれるハイドン最晩年の12曲の交響曲のうち、唯一短調で書かれた曲だ。その冒頭の音が鳴るやいなや、「ああ、いい音だな」と思った。快い緊張感のある音がまっすぐ客席に飛んできた。会場は東京芸術劇場だったが、癖があり、必ずしも鳴らすのが容易ではないそのホールが心地よく鳴った。

 弦は10‐10‐8‐6‐3の編成でノンヴィブラート奏法だった。張りがあり、澄んだその音に、わたしの耳は洗われるようだった。N響のノンヴィブラート奏法も堂に入っていた。またオーケストラ全体としても、N響をこのように鳴らすことは、鈴木雅明の力量の証明だと思った。

 2曲目はモーツァルトのオーボエ協奏曲。オーボエ独奏は吉井瑞穂。いわずもがなの名手だが、さすがに余裕綽々、肩の力を抜いてオーケストラのなかに入っていった。第2楽章の息の長いフレーズでは、「ブレスはどうしているのだろう」といぶかしむほど、細くて長い弧を描いた。

 吉井瑞穂のアンコールがあった。わたしの知らない曲だったが、どこか素朴な曲が、まるで山間の谷間にひびく牧童の笛のように、ホールに鳴り響いた。小さな曲のようだが、巨大な曲のように聴こえた。N響のツイッターによると、トマーの「神とともにいまして」という曲だそうだ。

 3曲目はシューマンの交響曲第1番「春」。金管が気持ちよく鳴った。冒頭のトランペットはもちろんだが、3本のトロンボーンのハーモニーにも惹かれた。交響曲第3番「ライン」を思い出すことが何度かあった。いままでそんなことを感じたことはなかった。弦は12‐12‐8‐6‐5の編成で、もちろんヴィブラートは普通にかけていた。ハイドンのときの澄んだ音は失われたが、その代わり幅のある、(良い意味での)雑味のある音になった。

 そのシューマンは切れば血の噴き出るような演奏だった。誤解を恐れずにいえば、たとえばモーツァルトの歌劇「イドメネオ」のエレットラのアリアのように、怒りの音楽だった。それは負の感情ではなく、生々しい人間の感情という意味だ。春風駘蕩のシューマンではなく、いまの時代にアップデートされたシューマンだった。
(2021.4.17.東京芸術劇場)
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「夜鳴きうぐいす」&「イオランタ」

2021年04月12日 | 音楽
 新国立劇場の新制作でストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」とチャイコフスキーの「イオランタ」のダブルビルを観た。どちらも舞台で観るのは初めてだ。結論から先にいうと、どちらも楽しかった。実感としては、わたしの体内のオペラ好きの細胞が、久しぶりに活性化するのを感じた。

 両作品は性格が異なるオペラだが、その性格のちがいを簡潔に示し、また童話を原作とするオペラという共通性も感じさせた。端的にいって、どちらも良いオペラだな、と思った。当プロダクションは新国立劇場のオリジナルなので、今後とも上演を重ねるだろうが、青少年向けの公演などにも活用できそうだと思った。

 指揮は高関健。予定されていた指揮者がコロナ禍のために来日せず、急遽代役を頼まれたようだ。わたしの知っているかぎりでは、高関健は東京シティ・フィルや静岡交響楽団の演奏会と掛け持ちで準備を進めたようだ。ハードなスケジュールだったと思うが、オーケストラ(東京フィル)をよくまとめ、ストラヴィンスキーの変則的なリズムと、チャイコフスキーの抒情性とを的確に描き分けていた。

 演出・美術・衣装はヤニス・コッコス。ストレートな演出で、とくに問題提起などはなかったが、めったに舞台上演されない両作品なので、これはこれでいいと思った。特筆すべきは美術のほうだ。「夜鳴きうぐいす」のポップな明るさと、「イオランタ」の青を基調としたしっとりした情感が美しかった。

 「夜鳴きうぐいす」の結末は夜明けの場面となり、「イオランタ」の結末は(イオランタの)視覚の回復の場面となるので、両作品は「光」の場面で終わる共通点がある。そのことを観客に意識させるかのように、両作品のエンディングでは、舞台奥を明るく照らしだし、歌手たちが黒いシルエットになる点で共通していた。

 違和感をもった点がひとつあるので、それもいっておきたい。「イオランタ」でヴォデモン伯爵が盲目のイオランタに、神の恩寵としての自然の美しさを説く場面で、白銀に輝くアルプスの山々や、広大な原野に流れ落ちる滝の映像を使っていたが、わたしの感覚では、もっと身近な、たとえば樹林の木漏れ日とか、草の上の露の一滴とか、そんな小さなもののほうがふさわしいと思った。

 歌手ではタイトルロールの三宅理恵(「夜鳴きうぐいす」)と大隅智佳子(「イオランタ」)が公演の成功を支えた。「イオランタ」でヴォデモン伯爵を歌った内山信吾は、高音が出ずに不調だったが、それでも懸命に声をコントロールしていた。わたしは心中ひそかに声援を送った。
(2021.4.11.新国立劇場)
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カーチュン・ウォン/読響

2021年04月07日 | 音楽
 カンブルランの代役に立ったカーチュン・ウォン。プログラムは一部変更になったが、変更後のプログラムがメッセージ性に富み、しかもそのメッセージ性は、実際に演奏会を聴くと、思いがけないほどの手ごたえをもって感じられた。

 1曲目と2曲目はカンブルランのプログラムを引き継いだが、曲順が変更になった。1曲目は細川俊夫の「瞑想―3月11日の津波の犠牲者に捧げるー」。カーチュン・ウォンの指揮する読響は、集中力があり、気合の入った演奏だった。カーチュン・ウォンは比較的小柄な人だと思うが、その音楽は巨大だ。腹の座ったフォルテが叩きこまれる。微小な音の動きは繊細だ。しかも(これがポイントだと思うが)全体に無理のない呼吸感がある。

 2曲目はデュティユーのヴァイオリン協奏曲「夢の樹」。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子。デュティユーは好きな作曲家だが(そしてこの曲も好きなのだが)、当夜の演奏はなぜか印象が薄かった。諏訪内晶子の演奏は音がくっきり聴こえ、またオーケストラの演奏も部分的には美しいと思ったが、全体として訴求力が弱かった。

 3曲目のマーラーの交響詩「葬礼」と4曲目の同じくマーラーの交響曲第10番から「アダージョ」は、カンブルランのプログラムにはなかったものだ。カーチュン・ウォンはその2曲をつなげて演奏した。その効果は想像以上だった。つなぎが自然なだけではなく、2曲がつながることで、言外の意味のようなものを生んだ。

 「葬礼」が作曲されたのは、交響曲第1番「巨人」の初演の前年だった(江藤光紀氏のプログラムノーツによる)。「巨人」の成立史は紆余曲折をへているが、その最初の初演(という表現も変な気がするが)の前年なので、「葬礼」はマーラー最初期の作品ということになる。実際に聴くと、交響曲第2番「復活」の第1楽章の初稿のように感じる。

 その「葬礼」を交響曲第10番の「アダージョ」とつなげると、一人の作曲家のスタート地点と終着地点とを一挙に見る思いがする。モノクロームの色彩とストレートな表現から、カラフルで艶のある色彩と、自由自在で襞の多い表現への変貌。それを思ったのは、カーチュン・ウォン指揮する読響が、「アダージョ」でクリアーな音像を結んだからだろう。

 もうひとついうと、わたしは1曲目の「瞑想」を想起せざるを得なかった。津波で流された人々への想い(「瞑想」)、それらの人々の弔い(「葬礼」)、そしてそれらの人々の浄化(「アダージョ」)という物語がわたしのなかで鮮やかに浮かび上がった。その物語は東日本大震災の発生から10年のいま聴くにふさわしいものに思えた。
(2021.4.6.サントリーホール)
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いとうせいこう「想像ラジオ」

2021年04月04日 | 読書
 今年の3月11日には東日本大震災の被災地に行こうと思っていた。だが、コロナ禍で叶わなかった。3月21日に緊急事態宣言が解除されたので、手始めに(といってはなんだが)水戸を訪れ、水戸芸術館で「3.11とアーティスト:10年目の想像」展を見た。アーティストの3.11への各人各様の取り組みが興味深かった。

 3月11日の前後にはメディアでさまざまな特集が組まれた。細かな取材をふまえた力作もあった。その努力は尊いと思うが、一方で3月11日がすぎた後でどれだけ継続的な取り組みがおこなわれるかが大事だとも思った。それは自分にたいしてもいえる。そこでまず東日本大震災に関連する文学作品をいくつか読んでみようと思った。

 まず手に取ったのは、いとうせいこうの「想像ラジオ」だ。印象的な題名なので、頭の片隅に残っていた。2013年3月に単行本が出て、2015年3月には文庫本になった。読んでみて、しみじみとした感情にひたった。東日本大震災の津波と原発事故の惨状を前にして、わたしたちは安易に言葉を発することができないが、それでもためらいがちに言葉を発するなら、こういう言葉になるのではないかと、そんな優しさの感じられる言葉だった。

 津波が去った後の高い杉の木の上に男の死体が引っかかっている。その場所には放射能が降り注いだので、だれも入れない。木の上に放置されたその死体は、ラジオ放送を始める。番組名は「想像ラジオ」。パーソナリティのその男はDJアーク。軽妙で明るいトークだ。リスナーは津波で亡くなった人々だ。命は落したが、まだ魂は被災地の上をさまよっている。そのような無数の魂が番組に耳を傾ける。

 本作は5章からなる。そのうちの第1章、第3章、第5章がその番組だ。繰り返すが、軽妙で明るいトークだ。音楽もかけられる。たとえば「じゃあ、ボサノバの巨匠アントニオ・カルロス・ジョビンで『3月の水』。知らないけどって方も想像でお聴きください。」という具合に。3月の水を想像するとは……。

 第2章と第4章は生者で本作の書き手の「S」の生活だ。Sは第2章で被災地へのボランティア仲間と「亡くなった人々の声が聴こえるか」という点を議論する。第4章では亡くなった恋人(東日本大震災ではなく、その前に事故で亡くなった)と想像上の会話をする。Sの生活とDJアークの番組とは第5章の最後で不思議な接点をもつ。

 著者のいとうせいこうは、本作を出版する河出書房新社のサイトで、「どうぞ皆さんの耳にも想像ラジオが聴こえますように。そして投稿、リクエストなどなどいつまでも御参加下さい」といっている。わたしは「何をリクエストしようかな」と想像した。そんな開かれた作品が本作かもしれない。
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日本オーケストラ連盟「オーケストラの日2021」

2021年04月01日 | 音楽
 日本オーケストラ連盟が毎年3月31日に開催する「オーケストラの日」コンサートは、昨年はコロナ禍のために中止になったが、今年は各オーケストラの演奏映像と事務局のトークをつなぐ動画の配信でおこなわれた。17:00から21:00までの延々4時間におよぶ長丁場だったが、飽きなかった。(※)

 同連盟に加盟するオーケストラは38団体。そのうち35団体が演奏映像とトークに参加し、1団体がトークのみ、2団体が不参加だった。ともかく35団体という膨大な数なので、1団体当たりの演奏映像とトークは短かったが、それが配信全体に軽快なリズムを生んだ。

 各団体が異口同音にいっていたことは、昨年3月以降活動が休止した後、6月または7月頃に初めて音を出したときの感動だ。楽員は各自自宅で練習を続けていたが、オーケストラとして全員が顔を揃えて音を出したときは、全身の細胞を目覚めさすような、あるいはオーケストラの一員としてのアイデンティティを呼び覚ますような、なにか特別な感覚があったようだ。

 それはわたしたち聴衆も同じだ。7月頃に久しぶりにオーケストラを聴いたときの感動は忘れられない。聴衆も3月以降はCDやストリーミングで音楽を聴いていたので、音楽から遠ざかっていたわけではないが、生の音の豊かさは録音とは別物だった。このようにして聴衆とオーケストラが同じ感動を味わう稀有な瞬間が生まれた。

 そんな経験をへて迎えた今年の「オーケストラの日」は特別だった。わたしはまず、次から次へと登場するオーケストラを見て、日本にはなんてたくさんのオーケストラがあるんだろうと思った。東京、大阪はもちろんのこと、それ以外の都市にもオーケストラがある。しかも増え続けている。わたしは中部フィル、岡山フィル、瀬戸フィルなど、名前は聞いたことがあるが、どんな活動をしているか、ほとんど知らないオーケストラの演奏映像を見て、その熱い演奏に共感した。

 あるオーケストラの事務局が「まず潰れるのはうちだと思った」といえば、別のオーケストラの事務局が「それはうちも同じです」と応じた。どちらも実感がこもっていた。ともかくいまのところは、オーケストラ連盟の加盟38団体が、ひとつも潰れずに、なんとか持ちこたえている。今年の「オーケストラの日」はそれを聴衆とともに確かめ合う場になった。

 コロナ禍は収束のきざしが見えない。それどころか、いまは第4波の襲来が懸念されている。オーケストラの演奏活動が元に戻るのはいつか、だれにもわからない。そんな苦しい状況にあるオーケストラを支えたい。

(※)「オーケストラの日2021」の配信動画(アーカイブとして2週間残るそうです。)
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