Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

アンサンブル・ノマド/高橋悠治

2019年06月28日 | 音楽
 アンサンブル・ノマドの今回の定期は「出会いVol.1 高橋悠治と」と題されている。高橋悠治をゲストに招き、その作品を中心にしたプログラム。高橋悠治以外の作品も含まれているが、その選曲も高橋悠治がしたのかもしれない。

 1曲目はクセナキスの「モルシマ・アモルシマ」。コンピュータを使った作曲で知られる曲だが、(素人がこういってはなんだが)今の耳で聴くと、ずいぶん控えめな感じがする。

 2曲目と3曲目は高橋悠治の作品。2曲目は「飼いならされたアマリリス」。シロフォン独奏の曲だが、あまりにも短いので、よくつかめなかった。3曲目は「チッ(ト)」という曲で、フルートとピアノのための作品。高橋悠治の特徴の一つと思われる「歌の復権」が窺われるが、中断するように終わるその終わり方が唐突だ。

 4曲目はストラヴィンスキーの「2台のピアノのためのソナタ」。今までは、煩瑣になるので、演奏者名を省いてきたが、この曲では演奏者名を述べると、第一ピアノは中川賢一、第二ピアノは高橋悠治。流麗な中川賢一のピアノに対して、高橋悠治のピアノは(意図された)たどたどしさがあり、その妙がなんともいえない。

 休憩をはさんで5曲目はクレイグ・ペプルズCraig Pepples(1961‐)の「遊ぶサル」Monkeys at Play。この曲がめっぽう面白かった。2台ピアノのための曲だが、音の数が少なくて無心に遊ぶような部分と(それこそ高橋悠治的だ)、音の数が増えて勢いがある部分とが、何度か繰り返される。

 この曲では第一ピアノが高橋悠治、第二ピアノが稲垣聡。その高橋悠治のピアノが、ストラヴィンスキーの前曲とは打って変わって気迫があり、お茶目でもあれば、色気もあった。一言でいって、全然老け込んでいなかった。

 ペプルズは「30年以上香港に住むアメリカの作曲家」(プログラム・ノート)。当夜はペプルズ本人もステージに現れ、聴衆から盛んな拍手を受けた。

 6曲目以降は高橋悠治の作品。6曲目は「星火」Seong-hwa。ヴァイオリン・ソロの曲。野口千代光の演奏がヴィルトゥオーソ的だった。7曲目は「しばられた手の祈り」。ギター・ソロの曲。8曲目は「この歌をきみたちに」。メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」のヴァイオリンをヴィオラに替えた編成で、音色がずいぶん落ち着いた感じになる。アンコールに高橋悠治のピアノ独奏で「トロイメライ2012」の冒頭部分が演奏された。
(2019.6.27.東京オペラシティリサイタルホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペンデレツキ/都響

2019年06月26日 | 音楽
 ペンデレツキ(1933‐)が客演した都響のBプロ。1曲目はペンデレツキの「平和のための前奏曲」(2009年)。金管と打楽器のためのファンファーレで、演奏時間は約5分と短い曲。この曲だけはペンデレツキのアシスタントとして同行したマチェイ・トヴォレクMaciej Tworekという人が指揮した。

 平明なハーモニーなので、作曲者名を伏せて聴かせられたら、これがペンデレツキの曲だとは思わないだろう。初演はゲルギエフ指揮のワールド・オーケストラ・フォー・ピース2009という団体なので、なにかの機会音楽かもしれない。

 演奏は冒頭でアンサンブルが乱れて、バス・トランペット(ファースト・トロンボーン奏者の持ち替え)のテーマが不安定になったが、その後持ち直した。

 2曲目はヴァイオリン協奏曲第2番「メタモルフォーゼン」(1992‐95年)。アンネ=ゾフィー・ムターによって初演された曲。ペンデレツキの人気作といえるだろう。演奏時間約40分の大曲だが、変化に富み、飽きさせない。ペンデレツキの「聴かせ上手」な側面が遺憾なく発揮された曲だ。

 ヴァイオリン独奏は庄司紗矢香。曲をすっかり手中に収め、生き生きとした演奏だった。意味不明な音の動きは一切ない。大変な存在感だ。ペンデレツキの指揮は少々緩かったが、庄司紗矢香のヴァイオリンが演奏全体を引き締めていた。わたしはとくにコーダの、音楽が異次元に韜晦するような部分の、集中力ある表現に惹かれた。

 アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番から第3楽章ラルゴが弾かれた。凛とした音が、まるで透明な空に吸い込まれていくかのような演奏だった。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第7番。過去に何度かペンデレツキの指揮する都響や日本フィルの演奏会を聴き(余談だが、日本フィルのときもヴァイオリン協奏曲第2番をやった。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子で、それも名演だった。1999年11月のこと)、その指揮するメンデルスゾーンやドヴォルジャークの交響曲を聴いてきたので、ベートーヴェンがどのようになるか、大方の予想はついた。そしてその予想の範囲内で、最良の結果になった。

 都響のしっかりしたアンサンブルが演奏を支えていたのはいうまでもないが、ペンデレツキがそのアンサンブルにどっしり乗って、余計なことをせずに、幾分古風なオーラを放ったことが、良い結果に結びついたのだろう。
(2019.6.25.サントリーホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国立ハンセン病資料館「キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展」

2019年06月23日 | 美術
 国立ハンセン病資料館(東京都東大和市)で「キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展」が開かれている。菊池恵楓園(きくちけいふうえん)は熊本県にある国立ハンセン病療養所。金陽会はその入所者たちが作った絵画サークルだ。金陽会の作品展は熊本県内では熊本市現代美術館などで継続して開かれてきたそうだが、東京都内では初めて。

 本展では入所者10人の総計29点の作品が展示されている。ハンセン病療養所の入所者たちの作品というので、わたしは病気の苦しみや、被差別への苦しみを描いた作品を予想していたが、実際には、明るくポジティブな作品がほとんどだった(例外的に苦しみを描いた作品も数点あったが)。

 わたしはそれが意外だった。作品の一点一点を見ていくと、ほとんどの作品が1990年代以降に描かれているので(それ以前に遡る作品でも、せいぜい1980年代の後半までだ)、その頃になれば社会のハンセン病への差別や偏見も、大勢としては薄れていただろうから、明るい作品が多くなるのはそのためかと思った。

 また、本展の主催者が、あえて明るい作品を選んだことも考えられる。ハンセン病への差別や偏見はおろか、たとえ善意ではあっても、同情とかなんとか、そんなフィルターを通して見られがちな入所者たちを、その種の既成概念から救いたいという思いがあったかもしれない。

 だが、それと同時に、入所者たち自身が、差別と偏見を受けながらも、療養所の中で、せめてもの明るさをもって、人生を生きようとした証しかもしれないとも思った。これらの作品はその生のありのままの記録かもしれないと。

 ともかくわたしは、作品一点一点から、それを描いた人の強い個性や善良な人間性を感じ取り、それらの一人ひとりと親しく会話しているような気がしてきた。

 出品者10人の中には、公募展に出品しても入賞しそうな上手い人もいれば、素人っぽくはあるが、やむにやまれぬ執念を持って描いている人、とぼけたユーモアを漂わせる人、ほのぼのとした雰囲気を感じさせる人など多士済々で、それが本展の魅力の一つになっている。

 同資料館は国立ハンセン病療養所「多磨全生園」の敷地内にある。外部の人も入れる食堂があるので寄ってみた。中に入ると、高齢の入所者が一人食事をしていた。食堂の方が「どうせ生きるなら明るく生きなくちゃね」と声をかけたら、その人はニコッと笑った。
(2019.6.13.国立ハンセン病資料館)

(※)本展のHP

(付記)ハンセン病の元患者の「家族訴訟」の判決が、6月28日に熊本地裁で出る予定だ。注目したい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸の凸凹展

2019年06月22日 | 美術
 太田記念美術館で「江戸の凸凹 ―高低差を歩く」というユニークな展覧会が開かれている。同館が所蔵する浮世絵の中から、高低差のある江戸の地形を捉えた作品を選んで展示したもの。昔も今も地形は変わらないので、現在の東京を作品に重ねて、その地形を再発見する面白さがある。

 たとえばチラシ(↑)の最上段にある鯉のぼりの作品は、歌川広重の「名所江戸百景」から「水道橋 駿河台」という作品。題名のとおり、本作は現在の本郷台から水道橋と駿河台方面を見ている。鯉のぼりの尾ひれが掛かっている川が神田川。その向こうの緑色の土手が駿河台。チラシの図では原画の一部がカットされているので、はっきりわからないが、右端の鯉のぼりの竿の下のほうに水道橋が見える(本展のHPに原画が掲載されているので、そちらを見ると、はっきりする)。駿河台の奥に広がる町並みは飯田橋方面。富士山が見えるのは今も変わらない。

 私事で恐縮だが、わたしが長年勤めた職場が駿河台にあったので、本作に描かれた緑の土手を見ると、「昔はこうだったのか‥」と感慨深い。通勤には水道橋駅を使っていたので、定時に帰れたときには、水道橋駅に向かって下りる坂道から、夕日がきれいに見えた。

 本作でもわかるとおり、駿河台と本郷台は神田川をはさんで向かい合っている。つまり神田川が両者を分断して、深い谷間を作っている(今は神田川に沿ってJRの中央線と総武線が走っている)。その神田川は人工の川だったことを、本展で知った。

 江戸時代に、神田山の台地を削って、神田川を通す大工事が行われたそうだ。その工事は仙台藩が担当した。大規模で、かつ難工事だったが、1661年に完成し、神田川が開通した。

 再びチラシ(↑)に戻ると、中ほどに赤い横長の作品が掲載されているが、これも歌川広重の作品で、現在のお茶の水から水道橋方面を見たもの。赤い地肌がむき出しになっている。神田川をはさんで、左側が駿河台、右側が本郷台で、その上の道は湯島聖堂への道。神田川の先に掛樋が見えるが、今はない。その奥には水道橋が見える。

 チラシ(↑)のさらに下の緑の多い作品も同一地点だが、少し下流の昌平橋からお茶の水方面を見ている。手前の崖が駿河台、奥の崖の上の道が湯島聖堂への道。

 本展は江戸(東京)を地形として捉えた点が新鮮だ。地形は昔も今も変わらないが、高い建物が立ち並ぶ今の東京では、地形を意識することは少ない。
(2019.6.12.太田記念美術館)

(※)本展のHP
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ペッカ・クーシストのCD

2019年06月19日 | 音楽
 先日、日本フィルの横浜定期で聴いたペッカ・クーシスト(1976‐)というヴァイオリニストが大変面白かったので、その後いくつかのCDを聴いてみた。わたしがアクセス可能なのはナクソス・ミュージック・ライブラリーなので、そこで聴いた範囲だが、その感想を記したい。

 横浜定期で聴いた曲はシベリウスのヴァイオリン協奏曲だが(オーケストラはインキネン指揮日本フィルで、インキネンのやりたいことがよくわかる演奏だった)、冒頭のヴァイオリン・ソロの深く沈潜した表現と、聴こえるか聴こえないかというくらいの最弱音に惹きつけられた。また、第1楽章と第3楽章では、弾みのあるノリのよい演奏が展開され、思わず目をみはった。

 それらの演奏を思い出させるCDは、まず深く沈潜した表現では、チャールズ・アイヴズのヴァイオリン・ソナタ第4番「キャンプの集いの子供の日」の第2楽章ラルゴが挙げられる。その集中力ある演奏は並大抵ではないと思う。

 一方、ノリのよい演奏では、バッハのヴァイオリン協奏曲ホ長調BWV1042の第3楽章アレグロ・アッサイの展開部が挙げられる。目覚ましい躍動感がある。オーケストラはタピオラ・シンフォニエッタだが、指揮者を置かずに、クーシストが弾き振りしている。

 これらのCDで先日のわたしの印象は裏付けられたが、それと同時に、クーシストへの興味がますます募るのを感じた。古典派の曲も聴いてみたいと思い、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」を聴いてみた(オーケストラはオッリ・ムストネン指揮タピオラ・シンフォニエッタ)。ピリオド様式を取り入れたその演奏にひじょうに惹かれた。また、パガニーニのヴァイオリンとギターのための協奏的ソナタイ長調は、古典的な様式感を備えていた。

 もっとも注目したCDは、セバスチャン・ファーゲルルンドSebastian Fagerlund(1972‐)というフィンランドの作曲家のヴァイオリン協奏曲「光の中の闇」(2012年)だ(オーケストラはハンヌ・リントゥ指揮フィンランド放送響)。その演奏は水を得た魚のようだ。

 なお、ファーゲルルンドはポスト・モダンの作曲家で、2016/17のシーズンにアムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウのコンポーザー・イン・レジデンスを務めた。

 余談だが、クーシストの父のイルッカ・クーシスト(1933‐)は作曲家で、1984~92年までフィンランド国立オペラの総支配人を務めた。兄のヤッコ・クーシスト(1974‐)はヴァイオリニストで、兄弟のデュオのCDもある。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クーシスト/インキネン/日本フィル

2019年06月17日 | 音楽
 先週の土曜日は、N響の定期が終わった後に、日本フィルの横浜定期へ向かった。両方の定期が重なることは時々あるが、N響が終わるのが17:00くらい、日本フィルが始まるのは18:00なので、約1時間でNHKホールから横浜みなとみらいホールまで移動しなければならず、大急ぎだ(可能であればN響を振り替えるのだが、今回は所用のため、それができなかった)。今回のN響は長いプログラムだったので、NHKホールを出たのは17:10を過ぎていた。結局日本フィルの1曲目(シベリウスの「フィンランディア」)には間に合わず、2曲目から聴いた。

 2曲目はシベリウスのヴァイオリン協奏曲。楽員がステージに揃って、当日のソリストのペッカ・クーシストというヴァイオリン奏者が出てきたときは、頭を丁髷(ちょんまげ)に結っているのでびっくりした。なにかの冗談かと思ったが、そうでもないらしい。これはお洒落か、自分らしさの表現のようだ。

 演奏が始まって、またびっくりした。思い入れたっぷり、というのを通りこして、なにかに憑かれたような演奏。完全に自分の世界に浸っている。でも、それは独りよがりではなく、音楽の文脈に沿っているので、オーケストラから離れない(暴走しない)。

 インキネン指揮日本フィルも、この曲のオーケストラ・パートをどう演奏するか、そのイメージをはっきり持った演奏で、オーケストラだけを聴いていると、まるで交響曲のように聴こえた。

 これは大変個性的だが、奇をてらったとかなんとか、そんなうわべの演奏ではなく、真摯に作品に取り組んだ、真面目この上ない演奏だと思った。わたしは大変驚いた。

 クーシストはアンコールに「悪魔の踊り」というフィンランドのフォークダンスを弾き、足を踏み鳴らしながら、超絶技巧を披露した。これにも驚いた。そしてもう一曲、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番から「サラバンド~ドゥーブル」を弾いた。普通のバッハとは一味違うユニークなバッハに、わたしは完全にノックアウトされた。

 プログラム後半はシベリウスの交響曲第5番。楽員が出てくると、なんとセカンド・ヴァイオリンの最後方にクーシストが座っているではないか! 神妙な顔をして弾くクーシストが気になって仕方がなかった。

 ペッカ・クーシストPekka Kuusistoは1976年生まれのフィンランド人。帰宅後調べてみると、父も祖父も作曲家、兄はヴァイオリニストで、音楽一家の出らしい。
(2019.6.15.横浜みなとみらいホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2019年06月16日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のCプロは、わたしの好きな曲が並んだ。1曲目はバッハの「音楽の捧げもの」からウェーベルン編曲の「リチェルカータ」。冒頭の(一音一音を別の楽器に受け継ぐ)主題が、ソットヴォーチェで演奏された。心優しい柔らかい音。もちろん最後は盛り上がるのだが、それも全体の印象を覆すほどではなかった。わたしは意外な感じがした。事前には、もっと鋭い、刺激的な演奏を予想していた。

 2曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」。ヴァイオリン独奏はギル・シャハム。冒頭の音列が1曲目の「リチェルカータ」とよく似たソットヴォーチェで演奏された。でも、さすがにこの曲では、それで通すわけにはいかないだろうと、その後のドラマを期待した。だが、そうはならなかった。オーケストラは控えめで慎重だった。独奏ヴァイオリンも、闊達ではあるが、ある一線を越えないところがあった。わたしはその全体が予定調和的に聴こえた。

 アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番から「ガヴォット」が演奏された。明るく、弾むような、喜びに満ちた演奏だった。それは一級品だった。ギル・シャハムの美質と、あえていえばエンターテイメント性が、よく発揮された演奏だった。わたしは留飲を下げた。

 3曲目はブルックナーの交響曲第3番(第3稿/1889年版)。今まで演奏されたパーヴォのブルックナー、とくにその初期作品(第1番と第2番)は、引き締まった音と歯切れのいいリズム、そして輪郭のはっきりした造形とで、わたしは惹かれた。今回の第3番もその例にもれなかった。

 弦楽器の最弱音からトゥッティの最強音まで、そのダイナミック・レンジの幅広さ、どんなにオーケストラが鳴っても音が混濁しない、そのハーモニーの清澄さ、どんな小さな音型でも正確に処理する完璧さ、リズムの弾みのある鋭角性、それらのどれをとっても、パーヴォ/N響の演奏スタイルの最良の部分が現れていた。

 パーヴォはN響の潜在的な個性をそれらの点に見出し、その個性を最大限に引き出そうとしているのではないか。もしパーヴォが別のオーケストラを振ったら、別のブルックナー演奏をするような気がする。これはN響仕様の演奏だろう。そんなパーヴォをシェフに持つ今のN響は、大事な時期を過ごしていると思う。

 当日はコンサートマスターとヴィオラのトップに外人奏者が入った。懸命に弾く二人の効果も大きかった。
(2019.6.15.NHKホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィリップ・マヌリの音楽

2019年06月14日 | 音楽
 「コンポージアム2019」のフィリップ・マヌリ(1952‐)の音楽。1曲目はドビュッシー作曲/マヌリ編曲の「管弦楽組曲第1番より《夢》」。ドビュッシーにそんな曲があったのかと驚くが、ドビュッシーの若書きらしい。

 藤田茂氏のプログラム・ノーツによると、管弦楽組曲第1番は《祭り》、《バレエ》、《夢》、《バッカナール》の4曲からなり、「1884年2月の音楽院の試験に提出されたものと思われる。」。今世紀になって、ピアノ4手用の楽譜とともに、本来の管弦楽版の自筆譜が見つかったが、管弦楽版には《夢》だけが欠けていた。そこでマヌリが、ピアノ4手版をもとに、オーケストレーションを引き受けた。

 ドビュッシー的な香りが匂い立つ色彩豊かなオーケストレーションだ。すっかりドビュッシーの世界に引き込まれた。演奏はペーター・ルンデル指揮の都響。都響の好調ぶりが感じられる。それにしても、この曲は魅力的だ。あとの3曲はどんな曲だろう。マヌリのこの編曲を交えて、4曲全部を聴いてみたい。

 2曲目はマヌリの「サッカード」(2018年)。フルート独奏をともなう(単一楽章の)一種のフルート協奏曲。フルート独奏はマリオ・カローリ。カローリはコンポージアム2011の「サルバトーレ・シャリーノの音楽」にも登場した。コンポージアム2011は、当初は2011年5月に開催予定だったが、東日本大震災の影響で、2012年1月に延期されたことを思い出す。

 マヌリは「サッカード」を「架空の演劇作品」と見ており、「[独奏]フルートはというと、オーケストラ全体を向こうに回しているかのようである。わたしは(引用者注:マヌリは)、これを闘争のようなものとして構想した。」(プログラム・ノーツ)。たしかにそうかもしれないが、そこに演劇的な身振りを読まなくても、単純にフルートの饒舌なおしゃべりと、オーケストラのテクスチュアの変転と、その両者が絡み合うスマートな展開を聴くだけでもおもしろかった。

 カローリはアンコールにドビュッシーの「シランクス」を吹いた。フルート一本で描く音楽のラインに、緩急、強弱、方向感などの絶え間ない変化があり、どこへ漂っていくとも知れない。それが現代的に聴こえた。

 3曲目は「響きと怒り」(1998‐99/2016年)。上品で洗練された音が、ブーレーズの作品を思い出させる。後半で荒々しい音楽が展開するが、それも下品な印象はなかった。ルンデル指揮都響の演奏は、この作品の真価を伝えたと思う。
(2019.6.13.東京オペラシティ)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2019年06月10日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ/N響のAプロは、前半にバリトンのマティアス・ゲルネを迎えて、マーラーの「こどもの魔法の角笛」から7曲が演奏された。ゲルネは、艶やかな弱音から野太い強音まで、多彩な声で「角笛」の世界を表現した。「角笛」ほど、中世、ルネサンス、バロックと続く音楽の歴史の背後に、多くの人々の貧困と死の悲惨な状況があったことを端的に語るものはない、と感じさせるに足る演奏だった。

 N響は、完璧に合ったピッチで、一糸乱れぬバックをつけた。繊細で、ニュアンス豊かで、けっして声を邪魔しないバック。ゲルネも歌いやすかっただろう。むしろN響に触発されて、一段と高いレベルを志向したかもしれない。

 「こどもの魔法の角笛」は今年1月に、テノールのイアン・ボストリッジの独唱、大野和士指揮都響の演奏で聴いたばかりだ。ボストリッジもゲルネも、いずれ劣らぬ名歌手だが、演奏はずいぶん違った。テノールとバリトンの声質の違いはいうにおよばず、ドイツ語を母語とするか否かの違いや、ブリテン歌いのボストリッジと、ドイツ系のレパートリーのゲルネとの個性の違いもあった。

 また「こどもの魔法の角笛」から、どれを、どういう順序で歌うかという選択の違いもあり、興味深かった。

 ゲルネのほうは、(1)ラインの伝説、(2)トランペットが美しく鳴り響く所、(3)浮世の生活、(4)原光、(5)魚に説教するパドヴァの聖アントニオ、(6)死んだ鼓手、(7)少年鼓手、という配列。

 (1)と(2)はともに恋人たちの歌だが、(1)では恋の成就の希望があるのに対して、(2)では死別の予感が漂う。(3)と(4)はアタッカで演奏され、(3)で餓死した子どもが、(4)で天国に向かうように感じられた。(4)と(5)が連続することで、交響曲第2番「復活」の世界が広がった。(6)と(7)はともに兵士の不条理な死を描く。

 ボストリッジの場合は、(1)ラインの伝説、(2)魚に説教する……、(3)死んだ鼓手、(4)少年鼓手、(5)トランペットが……、という配列だった。最後の(5)は、(3)と(4)で死んだ兵士の弔いのラッパのように聴こえた。

 プログラム後半はニルセンの交響曲第2番「4つの気質」。「角笛」の抑えた演奏から一転して、オーケストラがよく鳴り、壮麗な演奏になったが、わたしは段々退屈した。ニルセンの個性が出てくるのは、次の第3番「広がりの交響曲」からのようだ。
(2019.6.9.NHKホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インキネン/日本フィル

2019年06月08日 | 音楽
 インキネン/日本フィルの意欲満々のプログラム。1曲目は湯浅譲二(1929‐)の「シベリウス讃―ミッドナイト・サン―」(1991年初演)。詳細は省くが、1990年のシベリウス生誕125周年を記念して書かれた曲。

 湯浅譲二の透明な音響がシベリウスの澄んだ音響にシンクロしたような曲。ミッドナイト・サン(白夜の太陽)の薄明な光が感じられる。湯浅譲二特有の音響がシベリウスと相性がいいのが意外な発見だ。湯浅譲二を解くキーワードが一つ増えたように感じる。インキネン/日本フィルの演奏も純度が高かった。

 演奏後、今年90歳になる湯浅譲二が、杖を突きながら、ゆっくりした歩調でステージに上がった。会場から大きな拍手が起きた。その拍手に応え、インキネンと握手を交わした後、再びゆっくりと自席に戻る湯浅譲二を、聴衆はずっと拍手で送った。

 2曲目はエサ=ペッカ・サロネン(1958‐)の「ヴァイオリン協奏曲」(2017年初演)。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子。全4楽章、演奏時間約29分(プログラム表記による)のこの曲の(第3楽章結尾を除いて)ほとんど出ずっぱりの独奏ヴァイオリンを、諏訪内晶子は目の覚めるような技巧で弾き通した。

 オーケストラもおもしろかった。独奏ヴァイオリンに呼応するかのように、絶えずどこかで(たとえば第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの後方プルトで)細かい音型が動いていたり、独奏ヴァイオリンの素早い動きがヴィオラの首席奏者に波及し、それがチェロの首席奏者に引き継がれたりする。あるいは12‐12‐10‐8‐8という低音に比重のかかった弦楽器と、バス・クラリネットやコントラ・ファゴットはおろか、コントラバス・クラリネット(珍しい!)や音程付きのゴングなどが、低音のアクセントを添えたりする。

 難易度の高そうなオーケストラ・パートだが、インキネン/日本フィルは見事に演奏して、実演ならではのおもしろさを伝えた。

 諏訪内晶子はアンコールにバッハの「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番」からルールを弾いた。楽器がよく鳴って美しかった。

 3曲目はシベリウスの組曲「レンミンカイネン」(4つの伝説)。終始張りのある音で、緊張感を途切れさせず、ニュアンス豊かに、よく練り上げた演奏が展開された。インキネン/日本フィルの名演の一つが生まれた。このコンビは、4月のヨーロッパ公演後、一皮むけたと思う。当夜はゲスト・コンサートマスターの白井圭の力も大きかった。
(2019.6.7.サントリーホール)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

難波田龍起、舟越桂のことなど

2019年06月05日 | 美術
 東京オペラシティ・アートギャラリーで収蔵品展「コレクター頌 寺田小太郎氏を偲んで」が開催されている。寺田小太郎(1927‐2018)は「東京オペラシティ街区の地権者の一人」で、「1991年、新国立劇場建設をはじめとする官民一体の再開発事業に参加し、街区内の美術館創設に協力するため、収蔵すべき作品の蒐集に努めた」(同展のパンフレット)。

 同氏のコレクションの中核をなすものが難波田龍起(なんばた たつおき)(1905‐1997)の作品。わたしは同ギャラリーで過去に何度か難波田龍起の作品を見るにつけ、不思議に惹かれるものを感じていたので、その作品をまとめて見られる本展に行ってみた。

 難波田龍起の作品は11点展示されていた。どれも抽象画だが、もっとも惹かれた作品は「生の記録 3」(1994年)。3枚のキャンバスをつなげた162.1×390.9㎝の大作だ。青色一色だが、よく目を凝らすと、微かな濃淡があり、文様が朧げに浮き出る。その文様は見る人によって異なったものに見えるかもしれないが、わたしは夜の森のように見えた。月明りが射さない真っ暗な森。だが、目が慣れるにつれて、木々の様子がわかってくる。

 真ん中のキャンバスには、両側に木々が生い茂り、その中央に細い道が奥に向かってのびているが、その先には木々が立ちふさがっていて、行き止まりだ。向かって左のキャンバスには、何本もの倒木が乱雑に道をふさぎ、奥には行けそうもない。右のキャンバスにも倒木が横たわっているが、多少整然としている。

 題名は「生の記録 3」なので、本作は人生の苦しみの暗喩かもしれないが、死後に(死の国に向かって)歩む道のようにも見える。また逆に、生れ出るときの胎内の記憶のようにも見える。

 ある一色で塗りつぶしてはいるが、そこに微かな濃淡があり、それが見るものを画中に引き込むという点では、抽象表現主義の画家マーク・ロスコ(1903‐1970)を思わせるが、ロスコの場合の哲学的な思索とは異なり、難波田龍起の場合は、みずみずしい抒情性が感じられる。

 本展では難波田龍起の作品以外にも惹かれる作品がいくつかあったが、今でも記憶に鮮明なのは舟越桂(ふなこし かつら)(1951‐)の「「午後にはガンター・グローヴにいる」のためのドローイング」(1988年)だ。「午後には……」は同氏の木彫作品だが(北海道立旭川美術館蔵)、本作はそのためのドローイング。繊細に震える感性がこの作家らしい。
(2019.5.28.東京オペラシティ・アートギャラリー)

(※)本展のHP
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川瀬賢太郎/東京シティ・フィル

2019年06月01日 | 音楽
 川瀬賢太郎の指揮を聴くのは、2013年1月の日本フィル横浜定期以来だ。そのときの記憶はあまり残っていないが、川瀬はその後、神奈川フィルの常任指揮者に就任して、堅実な活動をしている様子。また各種の音楽賞を受賞するなど、好調なようだ。そんな川瀬が東京シティ・フィルの定期を振るので、楽しみにしていた。プログラムはオール・ショスタコーヴィチ・プロ。しかも選曲がユニークだ。大曲かつ深刻な曲は避けて、短く軽快な曲ばかり。思わずニヤリと笑ってしまう。

 1曲目は交響詩「十月革命」。その前に書かれた交響曲第11番「1905年」や第12番「1917年」の路線を行く曲。冒頭の暗い苦悩の音楽が、大きな身振りで、思い入れたっぷりに演奏された。テンポが速くなって、戦闘的な部分に入ると、激しい棒さばきで、やる気満々の演奏が繰り広げられた。

 2曲目はピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏は田村響。終始クリアーな音で、テンポの速い両端楽章は危なげなく、またショパンのような(あるいは映画の一場面のような)中間楽章は美しく、しかし甘くはなく、凛とした佇まいで演奏された。

 アンコールは何だろうと思ったら、ショパンの遺作のノクターンだった。今弾いたばかりのピアノ協奏曲第2番の第2楽章からの連想だろう。なるほどと膝を叩いた。その演奏は、クリアーで、甘さを抑えた、前曲から一貫したものだった。

 3曲目は交響曲第9番。第1楽章冒頭の弦のリズムが軽快に出て、やがてトロンボーンの「タ・ターン」という音型が、びっくりするような大きな音で鳴った。全体のバランスを失する素っ頓狂な音。思わず笑ってしまった。それが何度も出る。その都度、可笑しさがこみ上げる。そうか、この音型はこうやって演奏するのかと、目から鱗が落ちる思いだった。

 第2楽章以下でのクラリネットやフルートのソロも光ったが、白眉は第4楽章から第5楽章にかけてのファゴットのソロ。トロンボーンとチューバの重々しい、威嚇するような音型にたいして、ファゴットの弱々しい、卑屈な音型(第4楽章)と、おどけるような躁状態の音型(第5楽章)との、その意味深長なドラマの主役を見事に演じた。

 川瀬賢太郎の指揮は、やりたいことをやり、飾らない、本音の演奏で、同氏の師の広上淳一の、血気盛んな若い頃を彷彿とさせた。

 アンコールに芥川也寸志の「トリプティーク」から第2楽章が演奏された。ショスタコーヴィチから芥川也寸志へと、その選曲の妙に再度膝を叩いた。
(2019.5.31.東京オペラシティ)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする