Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「異端の鳥」

2020年10月28日 | 映画
 映画「異端の鳥」をみた。時は第二次世界大戦中、所は東欧のどこか(特定されていない)。ナチス・ドイツのユダヤ人狩りが迫るなか、ある少年が老婆のもとに預けられる。ところが老婆が急死する。少年は逃げ出す。戦争、暴力、性的虐待など、あらゆる辛酸をなめながら、少年は状況に適応して屈辱に耐え、悪を身につけて生きのびる。少年はどこに行きつくのか――というサバイバル物語。

 少年を迫害するのはナチス・ドイツやソ連軍ではなく、普通の人々だ。少年が紛れこむ村々で生活する住民だ。それがなんともやりきれない。むしろ軍人の中にはひそかに少年を助ける人もいる。だが、普通の人々は過酷だ。偏見に閉ざされ、ナチス・ドイツにおもねる。

 この作品はナチス映画ではない。また戦争映画でもなく、ホロコースト映画でもない。今の世の中に無数にあるマイノリティへの迫害の物語――その寓話だろう。わたしたちの身のまわりにもたくさん起きている事象。たとえばいまの日本には(世界中かもしれないが)ヘイト感情が蔓延している。その加害と被害の一つひとつは、どれも小さな(あるいは大きな)「異端の鳥」のバリエーションかもしれない。

 本作の原題はThe Painted Bird。直訳すると、色を塗られた鳥。その原題が意味するところを語るシーンがある。少年が一時身を寄せた野鳥狩りの男が、一羽の小鳥に塗料を塗って空に放つ。小鳥は鳴きながら舞い上がる。その声を聞いた鳥の群れが現れる。小鳥は群れに加わろうとする。だが群れは小鳥を攻撃する。すさまじい攻撃だ。傷ついてボロボロになった小鳥は地に落ちる。少年は呆然として小鳥の死骸を拾う。集団の異質なものへの残酷さを象徴するシーンだ。

 本作は白黒映画だ。その映像は詩的で美しい。東欧の荒野、森、小川などの自然風景だけではなく、世界から見捨てられ、忘れられたような寒村でさえ美しい。全編169分の長編だが、時間の長さを感じさせない。物語の過酷さと映像の美しさと、その両方があいまって、本作をひとつの寓話に結晶させる。

 白黒映像の美しさのためだろう、わたしはタル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」と「サタン・タンゴ」を思い出した。両者は(わたしにとっては)いままでみた映画の中ではベスト作品なのだが、それらの作品が映画の極北に位置すると思われるのにたいして、本作はそこまで極限的なものではない。上記のようにナチス・ドイツにもソ連軍にも少年を助ける人がいるなど、小さな救いや幸運が組み込まれている。それが観客の希望をつなぎとめ、物語を前に進める。
(2020.10.20.TOHOシネマズ シャンテ)

(※)本作のHP
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小説「世界最終戦争の夢」とオペラ「アルマゲドンの夢」

2020年10月24日 | 音楽
 H.G.ウェルズ(1866‐1946)の「世界最終戦争の夢」(1901)を読んだ。11月15日から新国立劇場で上演予定の藤倉大の新作オペラ「アルマゲドンの夢」の原作だからだ。同劇場のホームページによると、スタッフ・キャストの外国勢はすでに入国して、リハーサルに加わっているらしい。入国制限の折からたいしたものだ。

 原作のストーリーは――、ロンドンに向かう電車の中で、著者はある男から話しかけられる。著者は夢にかんする本を読んでいたのだが、その男がいうには、「自分は夢の中で別の人生を生き、そして死んだ。毎晩夢を見た。その夢は連続していた。目覚めているときはこの世を生き、眠っているときは別の場所、別の時間を生きた」と。そしてその男は夢の中での人生を語る。それは奇妙に生々しい物語だった。

 それは戦争の物語だった。男は「北の国」の政界の指導者だったが、恋人との愛の生活を選んで、政界を去った。男の後継者は危険な男だった。軍備を増強して、戦争の準備を始めた。恋人は男に、政界に戻って、戦争を阻止するよう求めた。しかし男は恋人のもとを離れなかった。戦争が始まった。それはだれも想像したことのない大規模なものだった。男も恋人も戦争に巻き込まれて死んだ。

 以上が「世界最終戦争の夢」のストーリーだ。そこには、愛か義務か、言い換えれば、個人か社会かという問いかけがある。また戦争への扇動者と大規模な戦争の描写が、第二次世界大戦の予言のように思える。

 オペラの台本は脚色されているようだ。新国立劇場のホームページに演出家のプラン説明の模様が掲載されているが、正確を期すために、公演チラシによると、まず「ダンスホールに現れたインスペクターの扇動」とある。原作にもダンスホールのシーンはあるが、インスペクターは登場しない。また恋人のキャラクターが、原作では(上記のように)男に、祖国に戻って戦争を阻止するよう求めるものの、どちらかといえば受動的なキャラクターであるのにたいして、公演チラシでは「ベラ(引用者注:恋人)は自由を求め戦おうと必死で説得する。」とあり、能動的なキャラクターのようだ。その他、プラン説明によると、原作のストーリーの「著者」と「男」の役割が一部改変されているようだ。あとはオペラを観てのお楽しみか。

 「世界最終戦争の夢」は創元社文庫の「ウェルズSF傑作集2」に入っているのだが、そこに収められた他の作品もおもしろかったので、触れておきたい。全13篇の作品の中には、環境破壊への警告のように読めるものや、キリスト教の無力化への警告のように読めるものがある。その中でわたしが惹かれたのは「盲人の国」だ。そこにもいくつかの寓意が読み取れるが、それ以上に神話的な作品世界に惹かれた。
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辻彩奈&角田鋼亮/日本フィル

2020年10月18日 | 音楽
 日本フィルの横浜定期は、辻彩奈(つじ・あやな)をソリストに迎えて、新味のあるプログラムを組んだ。先にプログラムをいうと、演奏会前半はバッハの「シャコンヌ」、ヴァイオリン協奏曲第1番と第2番、後半はブラームスの交響曲第4番。指揮は角田鋼亮(つのだ・こうすけ)。

 辻彩奈のヴァイオリンは一度聴いたことがあるが(そのときも指揮は角田鋼亮だった。曲はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番。オーケストラは別のオーケストラだった)、そのときはあまりよくわからなかった。1997年生まれの若手で、2016年にモントリオール国際音楽コンクールで第1位という経歴なので、もう一度聴いてみたいと、この横浜定期を楽しみにしていた。

 結果は、すばらしいバッハだった。「シャコンヌ」では(いうまでもなく)オーケストラは登場せずに、辻彩奈が一人で登場したのだが、その演奏は、山あり谷あり、緊張と弛緩が交錯するこの大曲を、聴衆をひきこみ、気をそらさせず、最後の一音まで集中して聴かせた。それはかつての大家の、精神的な厳しさを感じさせるバッハではなく、明るく伸びやかなバッハだった。あえていえば、生きる喜びを感じさせるバッハ。もちろん(急いで付け加えるが)技術はたいへん高度だ。

 次にオーケストラが登場して、バッハのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏された。まず感じたことは、オーケストラが(8型だったと思うが、メモするのを忘れた)明るく鳴ったことだ。そのオーケストラをバックに、いや、オーケストラに溶け込み、会話するように、辻彩奈のヴァイオリンが鳴った。

 同第2番は「シャコンヌ」とならんで当夜の白眉だった。とくに第1楽章は、あるときは波が押し寄せるように、あるときは蝶が舞うように、音楽の愉しみを体現するような演奏だった。満場の拍手(といっても、当夜はなぜか聴衆の入りはよくなかったが、その聴衆からは熱い拍手が起きた)に応える辻彩奈のステージマナーは優雅で、落ち着いて、堂々たるものだった。

 ブラームスの交響曲第4番は、弦楽器、とくにヴァイオリン・セクションに粗さがあった。前半のバッハでは精緻なバックをつけていたのに――。わたしは1974年の春季以来の定期会員なので、日本フィルを愛しているが、残念ながら(9月の東京定期はよかったのだが、それ以降聴いた当夜をふくめて3回の演奏会では)アンサンブルの緩さが感じられる。今はすこし厳しいトレーナーが必要なのではないだろうか。なお、角田鋼亮は、しっかりした造形感をもった指揮ぶりだった。
(2020.10.17.横浜みなとみらいホール)
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沼尻竜典/東京シティ・フィル

2020年10月17日 | 音楽
 沼尻竜典が東京シティ・フィルの定期を振るのはこれが初めてらしい。ちょっと意外な気がするが、それもなにかの巡り合わせだろう。ともかく沼尻竜典が東京シティ・フィルをどう振るか、東京シティ・フィルがそれに応えてどんな演奏をするか、そんな興味のわく演奏会だった。

 1曲目は芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」。第2楽章が沼尻竜典らしいスリリングな演奏だったが、テンポが速かったのか、オーケストラに余裕がなく、指揮者についていくのに必死だったような気がする。

 それにしても、いつも思うのだが、この曲の第1楽章はなにかに似ている。それはなんだろう。あえていえば、ピエルネの「小牧神の入場」ではないだろうか。そんなことをいうと、当たらずといえども遠からずだね、と冷ややかにいわれそうだが、ピエルネ云々はともかくとして、芥川には珍しいエキゾチックな音調をどう考えたらいいのだろう。

 2曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏は小山実稚恵。当初は外国人ピアニストが弾く予定だったが、入国制限のために来日できず、小山実稚恵がピンチヒッターを引き受けた。そのことにたいする高関健の感謝の言葉がプログラムに掲載されていた。高関健の東京シティ・フィルにおけるリーダーシップが感じられた。

 小山実稚恵のピアノ独奏は、手の内に入った、堂々としたものだった。オーケストラは、第1楽章の第1主題が濃厚に味付けされ、入念な演奏だったが、その一方で、ところどころに響きの薄くなる箇所があった。

 3曲目はラフマニノフの「交響的舞曲」。これは名演だった。第1楽章の中間部のサクソフォンではじまる抒情的な部分を、サクソフォンのみならず、それを引き継ぐ木管も、やがて現れる弦も、情感豊かに歌いあげた。同様に第2楽章の寂しげなワルツも情緒纏綿としていた。もちろん、第1楽章と第3楽章の急速な部分は、歯切れのいいリズムで、畳みかけるような迫力があった。

 わたしは昔、新星日本交響楽団の定期会員だったので、沼尻竜典のデビュー当時から聴いているが、その頃と比べて、音楽の流れのよさと明晰さはそのままに、そこに表現の濃厚さが加わり、すっかり成長して、風格のきざしが窺えるように感じた。そしてもう一点感じたことは、高関健と沼尻竜典の個性のちがいだ。微妙な点になるが、リズムや歌い方、そして響きの構築に、高関健にはヴァイオリン出身者の、沼尻竜典にはピアノ出身者の、各々特有の音楽性を感じる。当夜の東京シティ・フィルの演奏にはいつもとちがう構造を感じた。
(2020.10.16.東京オペラシティ)
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シェイクスピア「リチャード二世」

2020年10月14日 | 演劇
 新国立劇場で「リチャード二世」が上演中だ。2009年の「ヘンリー六世」に始まるシェイクスピアの歴史劇シリーズの最終演目。上演順は「ヘンリー六世」三部作、「リチャード三世」(2012年)、「ヘンリー四世」二部作(2016年)、「ヘンリー五世」(2018年)と続いた。今回の「リチャード二世」は全8部の歴史劇の端緒となる出来事を描いている。その作品が最後に上演されたことで、2009年以来続いた歴史劇のすべてがスタート地点から照射されるような感覚になった。

 そしてもう一つ、最終演目がこの作品でよかったと思う点は、この作品が終幕に向かうにつれてどんどん内省的になるからだ。リチャード二世は愚かな王だったかもしれないが(プログラムに掲載された神奈川大学名誉教授の石井実樹子氏のエッセイ「愚王リチャード二世はエリザベス一世?――なまなましい政治劇」によると、「リチャード二世の失策のなかで、何よりも国民の怒りをかったのは「お友だち内閣」である。」とのこと)、そのリチャード二世が退位を余儀なくされるにおよんで、「王」ではない自分の無力さ、人間としての無内容さ、そして人々の非情さに目覚める。その過程が歴史劇全8部の白眉のように感じられた。

 上記の石井実樹子氏のエッセイで論じられているように、本作は「なまなましい政治劇」だ。寵臣を厚遇して高官に引き上げる「お友だち内閣」。フェイクニュース。側近による忖度。内政の混乱から国民の目を背けるための戦争の開始(本作では十字軍の遠征)。いずれもいまの日本の(あるいは世界の)寓意のようだ。それがいまから400年余りも前に書かれたことをどう考えたらいいのだろう。

 そんなリアルな問題と、権力者の没落――没落によってはじめて人間性に目覚める――その敗北のドラマの内面性、それらの二重の要素が本作を特別なものにする。

 リチャード二世を演じたのは岡本健一、リチャード二世に退位を迫る(面と向かって退位を迫るのではなく、自分の財産と地位の回復を求めるだけなのだが、それがリチャード二世の退位につながることを十分に心得ている)ボリングブルック役に浦井健治、リチャード二世の王妃役に中嶋朋子。これらの人々は「ヘンリー六世」以来の顔ぶれだ。その他、脇を固める役者たちも常連の方々。最終シーンですべての役者が舞台に現れたとき、それは「リチャード二世」の閉幕というよりも、11年間にわたるシェイクスピアの歴史劇シリーズの閉幕のように見えた。

 当シリーズをけん引したのは演出の鵜山仁だ。本作でも個々の役者の持ち味をよく引き出し、全体の流れを生んでいた。
(2020.10.13.新国立劇場中劇場)
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アーティゾン美術館のクレー・コレクション

2020年10月12日 | 美術
 アーティゾン美術館がパウル・クレー(1879‐1940)の作品24点を新規収蔵して、現在公開中だ。いかにもクレーらしい作品が入っている。以下、何点かご紹介したい。画像は下記のリンク先を参照願いたい(※)。

 「ストロベリーハウスの建築工事」(1921)は(クレーがこの時期よく描いた)折れ線を積み重ねた作品で、その折れ線は工事現場の柵のようだ。それが心地よいリズムを生む。画面の中心部は黄緑色が占め、その周辺にえんじ色が配されている。それらの2色には濃淡があり、全体的に緑のグラデーションと赤のグラデーションとの組み合わせのような画面だ。左側に「T.」が、右側に「H.」が描き込まれている。それらの文字が何を意味するかは(わたしには)不明。

 チラシ(↑)に使われている作品は「庭の幻影」(1925)。中心部の明るくなったところに数本の樹木と教会が見える。上部の赤い円は太陽。だが、それにしても、周囲の暗い部分は何だろう。めまいを起こしたような暗い視野に、ぼんやりと風景が映るような、不気味な感覚を覚える。そして何よりも特徴的な点は、画面一面にびっしり刻み込まれた横線だ。これは何を表すのだろう。わたしには鉄条網のように見えた。この作品は、鉄条網のこちら側から、向こう側の自由な社会を見た作品ではないだろうか、と。そうだとすると、なぜ画家は(そして鑑賞者は)鉄条網に囲われた中にいるのだろう。制作年は1925年なので、クレーはまだナチスの迫害を受けていない。伝記的な説明は難しいと思うが。

 「羊飼い」(1929)は今回わたしがもっとも感銘を受けた作品だ。青緑色の背景(背景というよりも光という感じがする。青緑色に揺れる不思議な光)の中に針金でできたような人物が立っている。右手には杖を持っている。人物の前を横切る線がある。人物の足元には1匹の動物と、それを連れた小さな人物がいる。それらの人物たちに向かって、右下から4つの動物か何かがしのびよっている。

 会場内のキャプションによれば、本作は新約聖書の「よき羊飼い」を描いたものとされている。中央に立つ人物はイエスで、狼から人間を守っている。イエスの前の横線は、イエスが狼に「ここから先には入ってはならない」といっている境界線か。イエスの胸には赤いハートが描かれている。それが何とも微笑ましい。制作年の1929年といえば、クレーはまだバウハウスに在籍中だが、ナチスの脅威は感じていたかもしれない。そんな伝記的な事項と結びつけて鑑賞したくなる。

 もう1点、「谷間の花」(1938)も強く印象に残った。この頃のクレーはすでに難病に苦しんでいた。そのクレーが谷間の花の生命力に胸をうたれた感覚が伝わる。
(2020.10.11.アーティゾン美術館)

(※)各作品の画像(本展のHP)
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鈴木優人/読響「峡谷から星たちへ…」

2020年10月07日 | 音楽
 読響のサントリー音楽賞受賞記念コンサートだが、コロナ禍のために、まず曲目がメシアンの「我らの主イエス・キリストの変容」から同「峡谷から星たちへ…」に変わり、次に指揮者がカンブルランから鈴木優人に変わった。だが、そういう変遷を微塵も感じさせないほど充実した、焦点の合った演奏会になった。

 カンブルランが振ったら、極度に張りつめた演奏になったかもしれないが、鈴木優人が振ると、清新で、暖かみのある演奏になった。それは個性の違いだが、ともかく代役という範疇をこえる演奏になった。これで読響と鈴木優人との関係が一層強固になったのではないかと感じられる演奏だった。

 ピアノ独奏は児玉桃だった。さすがに堂に入った演奏だ。「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」も「鳥のカタログ」も弾いてきた児玉桃の、メシアンの語法が手の内に入った演奏だった。「峡谷から星たちへ…」では2曲のピアノ・ソロがあるが(ちなみに全体は12曲からなる)、とくに第9曲「マネシツグミ」は流麗な名演だった。

 第6曲「星々のあいだを翔ける呼び声」のホルン・ソロは読響首席の日橋辰朗だった。これも見事というしかない演奏だ。星々への呼びかけの声とそのエコーという二層の構造が滑らかに交錯し、少しの危なげもなかった。

 「峡谷から星たちへ…」の全曲を生で聴くのは初めてだったが、生で聴くと、発見がいろいろあった。まず特殊なオーケストラ編成だ。木管楽器14、金管楽器9、打楽器5と弦楽器13がオーケストラ。そこにソロ楽器としてピアノ1、シロリンバ1とグロッケンシュピール1が入る。ソロ楽器を別にすると、オーケストラは総勢41人で、その内訳は木管楽器と弦楽器がほぼ同数だ。わたしたちに馴染みの、弦楽器の厚い層のうえに木管楽器と金管楽器が乗る音響ではなく、弦楽器・木管楽器・金管楽器が同等に並ぶ音響。その全体は(弦楽器の代わりに)ピアノが支え、シロリンバとグロッケンシュピールがそれを補助する。結果として、照度の高い、色彩豊かな、透明な音響が現れる。

 もう一つ、生で聴いておもしろかったのは、第8曲「復活させられた者たちとアルデバランの星の歌」でオンドマルトノのような音が聴こえたことだ。フルートを中心とした木管楽器がその音を作っていたと思う。同曲では他にも、どの楽器がどうやって作っているのかわからない微細な音が混じっていて、思わず耳をそばだてた。

 第7曲「ブライスキャニオンと赤橙色の岩々」では圧倒的なクライマックスが築かれた。一方、第12曲「ザイオンパークと天の都」では音圧の高まりがいまひとつだった。
(2020.10.6.サントリーホール)
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ブリテン「夏の夜の夢」

2020年10月05日 | 音楽
 新国立劇場が7カ月余りの休止期間をへてオペラ公演にこぎつけた。演目はブリテンの「夏の夜の夢」。オーケストラ編成が小さいので、オケピットは密にならない利点があるが、一方、児童合唱が入るので、(リハーサルでもステージでも)密にならない配慮が必要だ。その他、さまざまな問題が想像される。くわえて外国人の入国規制が続いているので、指揮者、制作スタッフおよび歌手の代替えが必要だ。それらのハードルを乗り越えて公演にこぎつけた大野和士監督以下関係者の皆さんの努力を讃えたい。

 予定されていた演目がブリテンのこの作品だったことも幸いだ。人はだれでも夢を見る。いや、夢を見たい。そんな願いに応えてくれるのが本作だ。シェイクスピアの戯曲の中でももっとも幸せな作品、そしてブリテンの音楽の中でももっとも幸せな音楽が本作だ。コロナ禍で疲れたわたしたちの心を癒してくれる。

 演出はブリュッセルのモネ劇場のために制作されたデイヴィッド・マクヴィカーの演出にもとづく。そこでは舞台をアテネの郊外の森から(たぶんアテネの大公シーシアスの屋敷の)屋根裏部屋に置き換えている。屋根の破れ目から大きな月がのぞく。その光に照らされて、妖精たちと、若い恋人たちと、職人たちの喜劇が展開する。

 前述のように外国人の入国規制のため、総勢15人の歌手のうち7人が来日できず、その関連で8つの配役が変更になったが、皆さん十分に準備して公演に臨んでいた。なかでも4人の恋人たちのうちの一人、ヘレナ役を歌った大隅智佳子が頭抜けていた。わたしは彼女のデビュー当時にワーグナーの「妖精」を聴いて以来、すっかりファンになったが、その才能がいまも健在なのが嬉しい。

 代替えの歌手ではもう一人、悪戯好きな妖精パックをつとめた河野鉄平に注目した。わたしには未知の歌手だったが、英語の台詞に無理がなく、しかも体の動きに切れがあった。じつは事前には、パック以外の役は日本人歌手でもつとまるだろうが、パックだけは難しいのではないかと思っていた。こんな歌手がいたとは驚きだ。

 一方、妖精の王のオベロンは、当初の予定通り、藤木大地が歌ったが、今回はいつもとくらべて精彩を欠いた。どうしたのだろう。不調だったのか。

 指揮は飯森範親が代役をつとめた。東京フィルからブリテンらしい音を引き出した。第一幕では慎重すぎる気がしたが、第二幕の後半、4人の恋人たちの大騒動の場面ではテンポよく進め、第三幕の幕開けの音楽、それに続く恋人たちの目覚めの四重唱、そして幕切れの妖精たちの合唱(TOKYO FM 少年合唱団)など、声楽陣の好演とあいまって、美しい演奏が続いた。
(2020.10.4.新国立劇場)
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