Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ベートーヴェン生誕250年にむけて

2019年12月29日 | 音楽
 鷹野晃氏の写真展「ベートーヴェンへの旅」が銀座のソニーイメージングギャラリーで開かれた。会期は12月27日で終了しているが、展示作品の一部で構成した動画がYoutubeにアップされているので(※)、ご紹介したい。ベートーヴェンゆかりのボンとウィーンの街並みや記念館が写っている。自然光のみで撮ったというそれらの写真は、わたしたちが現地に行ったときに目にする風景そのもの。旅行者目線で捉えた現地の日常風景といったらいいか。

 会場には鷹野氏ご本人もいらして、声をかけていただいた。手短に感想を述べてから、「地方でやる予定はないのですか」と尋ねると、2020年5月に宮崎県立美術館でやる予定とのこと。また、ベートーヴェン生誕250年なので、他の街でもやれないかと模索中だそうだ。

 ベートーヴェン生誕250年――2020年はわたしもベートーヴェンの作品を聴く機会が増えそうだ。だが、定期会員になっているオーケストラがベートーヴェンを演奏し、それを聴くのは別として、それ以外に自分の意思で演奏会(またはCD)を選択するとしたら、何を選ぶか。一口にベートーヴェンといっても、ベートーヴェンの作品は多種多様だ。どのジャンルのどの時期のものを選ぶか。それによってベートーヴェン像は大きく異なる。では、どれを選ぶか。

 吉田秀和の「私の好きな曲」は、脂の乗った時期の吉田秀和の力作だが、そこで取り上げられた26曲の中に、ベートーヴェンは4曲入っている。モーツァルトが2曲、その他の作曲家は1曲なので、ベートーヴェンの4曲は突出している。しかもその4曲は、弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品131、ピアノ・ソナタハ短調作品111、第九交響曲、弦楽四重奏曲作品59-1(ラズモフスキー第1番)と、傑作ぞろいというか、後期の各ジャンルの代表作3曲と中期の代表作1曲という、思わず唸ってしまうような選曲だ。

 吉田秀和はモーツァルトで出発し、晩年にはバッハの比重が高まったが、壮年期はベートーヴェンにも力を入れた。その反映が窺われる。

 わたしは鷹野晃氏の写真展に刺激されたのか、この数日間ベートーヴェンばかり聴いているが、主に聴くのは後期の弦楽四重奏曲と後期のピアノ・ソナタだ。それらの曲に耳を傾けながら、自分の聴き方が以前とは変わってきたことを自覚する。どの曲に惹かれるか、あるいはある曲のどの部分に惹かれるか、それが変わってきた。

 2020年はそんな内なる声に耳を澄まし、ベートーヴェンを通して自分探しをする年になるかもしれない。

(※)鷹野晃氏の写真展「ベートーヴェンへの旅」https://www.youtube.com/watch?v=Fean-mjPp-Q
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この世界の(さらにいくつもの)片隅に

2019年12月26日 | 映画
 「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観た。2016年に大ヒットした「この世界の片隅に」に“さらにいくつもの”カットを追加したもの。わたしは2016年のヴァージョンは観なかったが、その後、戦争中に呉海軍工廠で働いた亡父の記録がかなり判明したので、戦争中の呉を舞台にした本作を観る気になった。というよりも、正確にいうと、亡父の記録を調べる過程でさまざまなご指導をいただいた方(「ポツダム少尉 68年ぶりのご挨拶 呉の奇跡」の著者。同書は自費出版・非売品だが、全国140か所の公立図書館に収蔵されているそうだ)の強い推薦を受けたから。

 ストーリーは多くの方がご存じだろうが、念のために簡単に触れると、1944年(昭和19年)、18歳になった「すず」は呉に住む「周作」のもとに嫁ぐ。「すず」にも「周作」にも結婚前に心を寄せる異性がいたが、そのことは二人とも胸に秘めたまま、若い二人のぎこちない新婚生活が始まる。

 「すず」は「周作」の過去に、「周作」は「すず」の過去に、それぞれ気付く。一方、戦争は激化し、呉にも空襲がある。やがて広島に原爆が投下され、そのキノコ雲が呉からも見える。敗戦。その翌月に枕崎台風が襲い、人々を打ちのめす。「すず」と「周作」は廃墟となった広島の街に佇む。そこに戦災孤児の少女が現れる。二人はその少女を連れて呉に帰る。二人は生活再建の一歩を踏み出す。

 以上、「すず」と「周作」の心の襞が濃やかに描かれるので、呉という文脈を離れても鑑賞できる作品だが、そこに戦時中の呉というリアルな場所が加わり、そこに亡父がいたという事情から、わたしは本作のディテールに目をみはった。

 たとえば扱く葉(こくば=松の落葉)でお湯を沸かすシーン。亡父は1998年に亡くなったが、その前に残した俳句に、扱く葉で風呂をたいた想い出を詠んだものがある。また「すず」が呉の市街を歩くシーンに出てくる映画館。亡父の俳句にも映画館が出てくる。また、これは俳句ではないが、亡父は生前、戦艦大和を見たとか、原爆のキノコ雲を見たとか言っていたが、それらも本作に出てくる。

 亡父は末端の工員だった。労働の厳しさ、生活環境の劣悪さ、あるいは1945年(昭和20年)3月以降の空襲の激しさなど、過酷な体験をしただろうが、前述の俳句100句あまりには、のどかな日常しか出てこない。生前の話の中にも、過酷な想い出は出てこなかった。そんなものだろうか。そんな亡父の記憶と、本作の、戦争中ではあるが、その“片隅”の健気な日常とがシンクロするように感じた。アニメの淡い色調が穏やかな情感を醸し出し、また時々現れるドローイングの太い線が印象的だった。
(2019.12.25.丸の内TOEI)
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成川美術館&ポーラ美術館

2019年12月22日 | 美術
 箱根に行った。芦ノ湖の西岸を歩くつもりだったが、取りつきまで行くと、「通行止め」の表示があった。電話で観光案内所に確認すると、台風19号の影響で「まだそこまで手が回らない」とのこと。土砂崩れか何かがあったのだろう。仕方がないので諦めた。

 さて、どうしよう。宿はいつもの施設を取っているが、それまでの半日をどう過ごすか。選択肢はいろいろあったが、久しぶりに、というか何十年ぶりかで、成川美術館に行ってみようと思った。成川美術館は日本画の美術館だが、こんな機会でないと訪れることもないので、良い機会かもしれなかった。

 一番おもしろかった作品は、加山又造(1927‐2004)の「猫」(1976年)(※1)だ。大輪の2輪の牡丹をシャム猫が見ている。目を丸くして、まるで驚いているようだ。目の青さが愛嬌がある。左上から右下への対角線上に牡丹と猫が配置されている。そのラインが快い。もう一つ、それとの比較で、山本丘人(1900‐1986)の「星空の牡丹」(1971年)(※2)も良かった。やはり牡丹が2輪描かれているが、その描き方は、加山又造が花弁を一枚一枚描き分けているのに対して、綿あめのように膨らみをつけて描いている。牡丹の白が星空の漆黒との対比で艶やかさを増す。

 写真(↑)は成川美術館の喫茶室から撮ったもの。晴れていれば芦ノ湖の向こうに富士山が見えるが、この日は曇り空だった。

 翌日はポーラ美術館へ。「シュルレアリスムと絵画」展(※3)が始まったばかりだ。その題名はひじょうに正確で、フランスの詩人アンドレ・ブルトン(1896‐1966)を中心とするシュルレアリスム運動が、絵画にどのように及んだか、その関係と、その絵画は日本でどのように受容されたか、その軌跡とを辿ったもの。シュルレアリスム運動が起きてから約100年を記念した企画だ。

 会場内の説明文を引用すると、「第一次世界大戦に軍補医として従軍したアンドレ・ブルトンは、凄惨を極めた前線の光景を目の当たりにして、大量破壊兵器を生み出した近代性に疑問を抱きはじめました。それまで世界をより良く変えていくと信じてきた科学と理性に基づく合理的な近代性は、大きな破壊をもたらすことに気付きはじめたのです。」と。

 その反省に立ったシュルレアリスムとは、結局何だったのか。また、そこで提起された問題は、今では克服されたのか、それとも未解決のままなのか。そういった点をもっと掘り下げてほしかったが、本展はアウトラインをなぞるだけで終わったようだ。個別の作品では古賀春江(1895‐1933)の「白い貝殻」(1932)(※4)の詩情が印象的だった。
(2019.12.18.成川美術館&19.ポーラ美術館)

(※1)「猫」の画像http://www.narukawamuseum.co.jp/artcolumn/detail_156.html
(※2)「星空の牡丹」の画像http://www.narukawamuseum.co.jp/artcolumn/detail_157.html
(※3)(※4)「シュルレアリスムと絵画」展のHPと「白い貝殻」の画像https://www.polamuseum.or.jp/sp/surrealism/
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2019年の回顧

2019年12月20日 | 音楽
 2019年の音楽生活を振り返ると、一番大きな経験は、新国立劇場の新作オペラ「紫苑物語」の上演に接したことだ。傑作だとか、世界に通用するオペラだとか、そんな観点よりも、わたしたち聴衆を巻き込んで、新作オペラを制作するとは何か、その意味を問うイベントになった。

 毀誉褒貶が相半ばし、喧々諤々の議論となったが、それは制作チーム(作曲・西村朗、台本制作・佐々木幹郎、指揮(芸術監督)・大野和士、演出・笈田ヨシ、監修・長木誠司)の望むところだったろう。むしろ制作チームの勝利だったといえる。口角泡を飛ばして論難する人々を見て、制作チームはニンマリ笑ったにちがいない。

 わたしはといえば、これは異形の怪物だと思った。完成品というよりも、ワーク・イン・プログレスの観を呈していると思った。再演を熱望するが、再演の際には大胆な改訂があるかもしれない。そうあってほしいと思った。制作チームの面々は、どなたも多忙を極める方たちだから、いつまでもこの作品にかかわってもいられないだろうが、それにしても、もう一度この作品に取り組んでもらいたいと思った。

 一言だけいっておきたいのは、宗頼(バリトン)、千草(ソプラノ)、藤内(テノール)、うつろ姫(メゾソプラノ)の凄まじい四重唱は、けっしてこのまま埋もれさせたくないということ。沸騰するようなオーケストラに乗って、いや、オーケストラというより、泡立つ波濤のような音の群れに乗って、四重唱がまるで多頭の竜のように立ち上がったときの衝撃は、わたしが経験したことのないものだ。そこには斬新な価値があった。

 もう一つ、今年の音楽生活では、ジョージ・ベンジャミンのオペラ「リトゥン・オン・スキン」の日本初演も大きな出来事だった。その名をよく見かけるので、どんなオペラだろうと、ずっと気になっていた作品だが、それが今年のサントリーホール・サマーフェスティバルで上演された。

 個々の名前は省くが、作品(台本、音楽)、演奏(歌手、オーケストラ、指揮者)ともにすばらしく、わたしの期待は十二分に満たされた。それにしても「リトゥン・オン・スキン」は、作品・演奏の手際の良さで「紫苑物語」とは対照的だった。どちらがいいとか悪いとか、そういうことではなくて、対極にあるサンプルとして、今年のわたしの経験の双璧を成した。

 あえてもう一つ加えると、新国立劇場の「トゥーランドット」の閉塞的な地下世界の退廃(それは原発事故後の地下シェルターを暗示した)も衝撃的だった。以上3作品の上演に携わった大野和士には、わたしの中では、マン・オブ・ザ・イヤー賞を贈りたい気持ちだ。
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アラン・ギルバート/都響

2019年12月17日 | 音楽
 アラン・ギルバートが都響を指揮したマーラーの交響曲第6番「悲劇的」は、きわめて密度の濃い演奏だった。演奏時間約80分を息つく暇もなく聴かせ、しかも聴き終わったときに疲れを感じさせなかった。それほどまでに濃密で、大きな起伏を描き、ドラマを雄弁に語る演奏だった。とりわけ第一ヴァイオリンの熱量のある音は際立っていた。その音は都響としても見事な出来だが、在京オーケストラの中でも独自の個性を示した。

 今回のアラン・ギルバートの客演指揮は、先日のリスト(ジョン・アダムズ編曲)、バルトーク、トーマス・アデスおよびハイドンのプログラムと合わせて、見事な成果を挙げ、アラン・ギルバートと都響の一体感がまた一つ上のステージに上ったことを感じさせた。

 マーラーの交響曲第6番では、第2楽章と第3楽章はアンダンテ・モデラート→スケルツォの順で演奏された(この点については後で触れる)。また第4楽章のハンマーは3回叩かれた。その3回目は、「あっ、ここだな」と思った箇所では3人のシンバルが鳴らされ、その後のエネルギーが減衰する箇所で力なく叩かれた。

 それにしても、これはなんという交響曲だろうと思った。たとえていえば、4章からなる長編小説のような音楽だ。しかもその構成が変わっている。音楽はもちろん、小説でも類例を見ない構成だ。

 第1章は「死の行進」(第1主題)と「愛のテーマ」(第2主題)という二つのテーマが絡み合って進む。その合間に「ファンファーレ」と「カウベル」という二つのエピソードが挟まる。第2章では第1章とは無関係なストーリーが進む。その途中に「カウベル」のエピソードが顔を出して、第1章との関連を確保する。

 第3章では「死の行進」のテーマがパロディのように変形されて進む。第2章との関連は乏しい。第2章と第3章とは順番が逆になっても問題が生じない。入れ替え可能だ。第4章では既出のすべてのテーマとエピソードがなだれ込み、混乱の坩堝の中でドストエフスキー的な苦悩と闘いのドラマが進行する。

 具体的には、第4章は「ファンファーレ」のエピソードで開始される。直後に「愛のテーマ」の変形のようなテーマが登場する。「死の行進」の変形されたテーマが始まり、主人公の闘いのドラマが語られる。ついに斃れた主人公は、「愛のテーマ」を幻視して力尽きる。弔いの静けさが広がり、「完」の一字が印される。

 以上のように、第4章に圧倒的な比重がかかり、前の3章はそれを準備する異例の構成だ。
(2019.12.16.サントリーホール)
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広上淳一/日本フィル「第九」

2019年12月15日 | 音楽
 年の瀬の「第九」の季節がやってきた。昨夜は日本フィル横浜定期の「第九」へ。指揮は広上淳一。前プロはヨハン・クリスチャン・バッハの「シンフォニア 変ロ長調op.18-2」だった。わたしはヨハン・クリスチャン・バッハとかカール・フィリップ・エマヌエル・バッハとか、前古典派といわれる作曲家が好きなのだが、在京オーケストラを主なフィールドにしているため、それらの作曲家を聴く機会はあまりない。今回はひじょうに楽しみにしていたのだが、残念ながら演奏は大柄で、恰幅が良すぎた。

 「第九」ではソプラノ・中村恵理、カウンターテナー・藤木大地、テノール・吉田浩之、バリトン・大西宇宙(「宇宙」は「たかおき」と読む)という豪華なソリストが注目の的だった。世界に通用する今が旬の歌手3人とベテラン1人の布陣。とくにアルトの代わりにカウンターテナーが加わることによる音色の変化は、当夜の聴きものの一つだった。

 だが、とあえていうが、「第九」の本領は合唱にあるとつくづく思った。本領という言葉は我ながらこなれていないので、かみ砕いていうと、ベートーヴェンが本作を通じて表現しようとした理念は、合唱に表現されているということ。

 その理念とは何か。シラーの詩「歓喜に寄す」を通じて呼びかける「全てのひとは兄弟になる」ということだ(以下、訳詞はインターネット上に公開されている神崎正英氏の訳による。日本フィルのプログラムに掲載された訳詞の一部には疑問が残った)。

 「全てのひとは兄弟になる」という詩句は第7行に出てくるのだが、その前の第5行と第6行には「あなたの魔法の力は再び結びつける」(第5行)、「世の中の時流が厳しく分け隔てていたものを」(第6行)とある。神崎氏が「世の中の時流」と訳出した語句はModeだが、その語句について神崎氏は「Modeはシラーが書いた時とベートーベンが曲をつけた時で背景も異なってきているが、専制君主制とか革命の混乱とか、いろいろな社会的、人間的な関係。」と注釈している。

 今の世界でも分断が進んでいるが(日本もその例外ではない)、そのような状況下で、この詩句はリアリティを増している。たとえ現世ではいがみ合っていても、天上の世界ではすべての人々が兄弟となり、連帯を取り戻す。その希求が、シラーが書き、ベートーヴェンが作曲したこの詩句に込められている。夜空に打ち上げられた花火を仰ぎ見るような一瞬の光輝かもしれないが、「第九」はそのような理念を高々と掲げ、わたしたちはそれに打たれる。

 当夜の合唱は東京音楽大学の皆さんだった。さすがにアマチュア合唱団とは一線を画す水準の高さだった。
(2019.12.14.横浜みなとみらいホール)
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友人を悼む

2019年12月13日 | 身辺雑記
 高校時代の友人が今年2月にフランスのリヨンで亡くなった。友人は2年ほど前にリタイアしてから、自分のためにお金を使うんだといって、毎月のように海外旅行に出かけた。個人旅行ではなく、添乗員が同行するツアーに参加して、そのようなツアーで行く観光地をつぶさに回った。旅行から帰ると、写真を見せながら、現地の風物や社会状況の話をした。そのときの友人は楽しそうだった。

 今年の2月にはフランスに行った。フランスに行くという話は聞いていた。そんなある日、奥様から電話がかかってきた、「主人が亡くなったんです」と。えっ、と驚いた。詳しい状況を聞きたかったが、奥様もわからない様子だった。わかっていることは、リヨンのホテルで亡くなったということ。遺体はまだ日本に帰ってきていないが、葬儀の日取りを決めたこと。ただ、遺体が間に合うかどうかはわからない‥。

 奥様も途方に暮れているようだった。何度か電話で話すうちにわかってきたのだが、友人はリヨンのホテルに泊まっていて(一人部屋)、朝、集合時間に現れないので、添乗員が見に行ったところ、部屋で倒れていたとのこと。ツアーはその日の予定があるので、友人の処理を警察に託して、ホテルを出発した。警察は司法解剖をした後、遺体を日本に送るか、現地で荼毘にふすか、その判断を旅行会社経由で奥様に求めてきたそうだ。

 奥様は遺体を日本に送るよう求め、結局、遺体は葬儀の直前に到着した。遺体についてきた死亡診断書にはフランス語で「腸に細菌がついた」とだけ書いてあったそうだ。死因についてはそれ以上のことはわからない。奥様もわたしたちも、友人が亡くなったという事実だけを受け入れざるを得なかった。

 わたしはそれ以来、友人の死についてモヤモヤした状態が続いていたが、10月になって「あっ、これだ!」とわかる事態が起きた。わたし自身が下腹部に激痛を起こし、救急車で病院に搬送された。鼠径ヘルニアの嵌頓という診断だった。深夜だったが、消化器外科の当直医がいて、整復に成功した。その際の当直医の説明によると、整復ができなかった場合は緊急手術になり、手遅れになると腸が壊死して、敗血症になり、重篤の状態になる(死ぬ)可能性もあったそうだ。

 友人はこれだったのではないかと思った。友人は添乗員の部屋に電話をした形跡があるそうだ。だが、添乗員は出なかったのだろう。もし添乗員が電話に出ていたら、と思わないでもない。ともかく友人は一晩のうちに亡くなった。奥様の話によると、友人は鼠径ヘルニアを自覚していて、旅行前に奥様に「死ぬ場合もあるんだぞ」といったそうだ。旅行後には病院の予約を入れていたというが‥。
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アラン・ギルバート/都響

2019年12月09日 | 音楽
 アラン・ギルバートの、一曲一曲は小ぶりだが、なんとも物凄いプログラム。前半の1曲目はリストのピアノ曲「悲しみのゴンドラ」(1885年/第3稿)をジョン・アダムズ(1947‐)がオーケストラ用に編曲したもの。沈鬱なトーンに覆われている。いうまでもないが、「悲しみのゴンドラ」は死期の迫ったワーグナーのためにリストが書いた曲なので、ワーグナーつながりから、ジョン・アダムズのオーケストラ曲「ハルモニーレーレ」(1984年)の第2曲「アンフォルタスの傷」との関連を想った。

 2曲目はバルトークのヴァイオリン協奏曲第1番。ヴァイオリン独奏は矢部達哉。甘美な音色で明瞭なラインを描く演奏だ。オーケストラとの呼吸もぴったり。バルトーク初期の曲だが、硬さとか若書きとか、そんなことを感じさせずに、緊張感を持続し、終始おもしろく聴かせた。

 プログラム後半は1曲目がトーマス・アデス(1971‐)の「クープランからの3つの習作」(2006年)。クープランのクラヴサン曲集から3曲を選んで、室内オーケストラ用に編曲したものだが、小室敬幸氏のプログラム・ノーツを引用すると、「クラヴサンで演奏する場合の装飾やリズムのずれを複雑なリズムとして記譜。」(第1曲「気晴らし」)、「演奏上の微妙なアゴーギグ(テンポの揺れ)を3連符と5連符の中間という指示をすることで記譜している。(中略)その揺れも複雑なリズムとして楽譜に書かれているのだ。」(第3曲「魂の苦しみ」)。

 アデスの作品の、どこかギクシャクした、しかし推進力があり、聴き手を覚醒させるリズムは、(小室氏が指摘する)そのような記譜からくるのかもしれない。聴き手はいいが、演奏する側は神経がすり減り、わたしだったら発狂するかもしれないが。

 そのようなアデスの、一度聴いたら病みつきになるような諸作品は、わたしの経験では、エッジの立った音で演奏されることが多い気がするが、今回はソフトな精妙この上ない音で演奏された。舞台上で室内オーケストラから立ち昇ってくる音は、陽炎のように揺れ、つかみどころがなく、微光を放っていた。

 余談ながら、小室氏のプログラム・ノーツは、アダムズ編曲の「悲しみのゴンドラ」とアデスの「クープランからの3つの習作」への適切な案内役を果たしてくれた。

 後半の2曲目はハイドンの交響曲第90番。アラン・ギルバートはマーラーなどの大曲中心のイメージがあるが、ハイドンも、けっして大味にならずに、生彩ある演奏だった。都響は精緻なアンサンブルで応えた。弦の編成は12‐10‐8‐6‐4だった。
(2019.12.8.東京芸術劇場)
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リープライヒ/日本フィル

2019年12月08日 | 音楽
 私事で申し訳ないが、去る12月3日に手術をした。全身麻酔で4時間かかる手術だった。事前に医師からは「何もなければ、週末には退院できるでしょう」といわれていた。そこで、日本フィルの12月6日(金)の定期は7日(土)に振り替えた。結果、7日(土)の定期を無事に聴くことができた。

 指揮はアレクサンダー・リープライヒ。3月の定期に引き続き2度目の登場だ。今回の1曲目はモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲。妙に余裕のない演奏だった。前述の通り、定期の日にちを振り替えたので、いつもの席とは違うから、耳慣れないオーケストラとの距離感やバランス感覚のせいかと思ったが、それだけでもなさそうだった。

 2曲目はルトスワフスキの「オーケストラのための書」。鮮やかな演奏だった。わたしの振替席はLBブロック(ステージの左横)だったので、指揮者の指揮ぶりがよく見えたが、それを見ていると、じつに細かく進行管理していることがわかった。この曲はこうやって演奏するのかと目をみはった。

 3曲目はリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。どのパートもたっぷり歌い、それらが積み重なってシュトラウス独特のサウンドを生みだす。これは名演だった。とくに「英雄の戦場」までの前半部分では音楽が高揚し、それに息をのんでいると、さらに高揚する瞬間があり、シュトラウスの醍醐味を味わった。「英雄の業績」以降の後半部分でも音楽が停滞せずに、流れがよかった。

 思えば日本フィルは、単発的にはシュトラウスの作品を何度も演奏しているが、集中的に取り組んだことはあまりなかった。たっぷりとしたシュトラウスのサウンドに意識的に取り組むよい機会かもしれない。もちろんそれは、シュトラウスに造詣の深いリープライヒが今後も継続的に日本フィルを振るなら、という条件付きだが。

 リープライヒの生年月日を調べたら、1968年3月25日生まれだった(生地はドイツ・バイエルン州のレーゲンスブルク)。今は51歳。働き盛りの年齢だ。現にヨーロッパ各地で活発な客演活動を続け、また固定的なポストをいくつか兼務している。今後、日本フィルとの活動が継続するかどうか、期待をもって見守りたい。

 今回のコンサートマスターは木野雅之氏。木野氏は1993年3月に新任のコンサートマスターとして「英雄の生涯」を演奏した。指揮はジェームズ・ロッホランで、それは名演だったのだが、そのときの木野氏に比べると、今回は枯れてきたというか、「英雄の伴侶」での色気も野心もある伴侶より、「英雄の隠遁と完成」での老妻のほうに味があった。
(2019.12.7.サントリーホール)
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鈴木優人/N響

2019年12月02日 | 音楽
 鈴木優人のN響初登場はキリスト教(カトリック&プロテスタント)とユダヤ教関連のプログラム。1曲目はメシアンの「忘れられたささげもの」。メシアン最初期の曲だ。メシアンというと、わたしはすっかりカンブルラン/読響の演奏が刷り込まれている(もちろんいい意味で)。「忘れられたささげもの」も2017年4月に聴いたが、それに比べると、鈴木優人の音は湿度が高い。カンブルランの恍惚感もない。それは個性とか何とか、さまざまな要因によるのだろう。

 2曲目はチェロの二コラ・アルトシュテットをソリストに迎えて、ブロッホのヘブライ狂詩曲「ソロモン」。ユダヤ色が濃厚な曲だ。アルトシュテットは深々とした音でたっぷり歌った。一方、オーケストラの方は、よく鳴ってはいるのだが、なにをしたいのか、焦点が合わなかった。

 アルトシュテットのアンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第5番から第4曲「サラバンド」。重音がまったく出てこない特異な曲だが、それをアルトシュテットの演奏で聴くと、バッハというよりも、世界のどこかの不思議な曲のように聴こえた。

 3曲目はコレッリの合奏協奏曲第8番「クリスマス協奏曲」。元々は独奏楽器群(ヴァイオリン2本とチェロ1本)と弦楽オーケストラ、そして通奏低音のための曲だが、鈴木優人はそこにオーボエ2本とファゴット1本を加えた。基本的にはオーボエ2本は独奏楽器のヴァイオリン2本を補強し、ファゴットは独奏楽器のチェロを補強したが、そうだと思って聴いていると、第3楽章の冒頭はオーボエ2本とファゴット1本だけで始まり、ハッとさせた。

 弦楽オーケストラは8‐8‐6‐4‐3の編成。通奏低音にはチェンバロ(鈴木優人の弾き振り)とオルガンが加わり、即興的な動きをした。独奏ヴァイオリンの一人はゲストコンサートマスターのエシュケナージが務めて澄んだ音を聴かせた。エシェケナージ以外の弦楽器群も美しかった。N響もこの時代の音楽をもっとやってくれないか、と思った。

 4曲目はメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」。「ホグウッド校訂ベーレンライター版の初稿(1830年稿)」での演奏で、「現行版(1832年稿)との大きな違いは、フルートによるレチタティーヴォが第4楽章を導く点」(星野宏美氏のプログラム・ノーツより)。第3楽章が短いので、第3楽章と第4楽章の間にブリッジをかけるレチタティーヴォが効果的だった。全体的には、弦の編成が14‐14‐12‐10‐8と低音に比重がかかり、オーケストラが堂々と鳴る中で、メンデルスゾーンの伸びやかな面と劇的な面が漏れなく表現された。
(2019.12.1.NHKホール)
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