Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ピンチャー/東響:ピンチャー「河(ネハロート)」他

2021年08月28日 | 音楽
 サントリーホール・サマーフェスティバルの今年のテーマ作曲、マティアス・ピンチャー(1971‐)の管弦楽作品演奏会。オーケストラは東京交響楽団。

 わたしはドイツで2度ピンチャーの指揮するオーケストラ演奏会を聴いたことがある。一度目は2010年にカールスルーエでバーデン州立歌劇場のオーケストラを振った演奏会。二度目は2013年にフランクフルトでhr交響楽団を振った演奏会。とくに二度目は曲がB.A.ツィンマーマンの巨大な作品「ある若い詩人のためのレクイエム」だったので、強烈な印象を受けた。

 三度目になる今回は、舞台に登場するピンチャーのタキシード姿を見て(過去2回がどんな服装だったか覚えていないが)、恰幅がよく貫禄が付いたその姿に、見違えるような思いがした。いまではすっかり欧米の音楽界でエスタブリッシュメントの地位を築いた風格が漂っていた。

 1曲目はピンチャーが将来を嘱望する若手としてジュリアード音楽院での弟子のマシュー・シュルタイス(1997‐)の「コロンビア、年老いて」(2020)が演奏された。コロンビアとはアメリカ合衆国の雅称だそうだ(プログラム・ノートより)。だからだろうか、冒頭の音型は大航海時代を彷彿とさせる視覚的なイメージを感じさせた。全体に明るい音色で聴きやすい曲だ。

 2曲目はピンチャーのチェロとオーケストラのための「目覚め(ウン・デスペルタール)」(2016)。チェロ独奏は岡本侑也。ゆったりした時間の持続は、今フェスティバルで演奏された大アンサンブルのための「初めに(ベレシート)」(2013)やチェロとピアノのための「光の諸相」(2012~15)と共通する。「目覚め」の場合は、チェロの旋律の渋さに対して、オーケストラが意外に色彩的なことに注目した。

 3曲目はピンチャーのオーケストラ曲「河(ネハロート)」(2020)の世界初演。委嘱者はサントリーホールの他に、ドレスデンのザクセン州立歌劇場、ロサンゼルス・フィル、パリのフェスティバル・ドートンヌ、ラジオ・フランスと錚々たる名前が並んでいる。曲は「目覚め」とは異なり、劇的緊張に満ち、明暗のコントラストが鮮やかだ。倍音の解析・合成にもとづくスペクトル楽派を消化した世代の傑作ではないかと思った。

 4曲目はピンチャーが影響を受けた作曲家としてラヴェルの「スペイン狂詩曲」が演奏された。オーケストラの統率力は、冒頭で書いた2度の経験に照らしても、格段に上がっている。隠れた音型の発見もあった。
(2021.8.27.サントリーホール)
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ブーレーズ&ピンチャー

2021年08月26日 | 音楽
 サントリーホール・サマーフェスティバルの4日目は、18:00から小ホールでブーレーズ(1925‐2016)のピアノ曲2曲のコンサート、19:30から大ホールで今年のテーマ作曲家・ピンチャー(1971‐)の室内楽2曲のコンサートがあった。

 ブーレーズのコンサートは、今年のプロデューサー「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」(以下「EIC」)の創設者であり、また初代の音楽監督でもあったブーレーズを記念するものだろう。曲目は2台のピアノのための「構造」第2巻(1956、61)とピアノ独奏のための「ピアノ・ソナタ第2番」(1947~48)。演奏は、前者がディミトリ・ヴァシラキスと永野英樹、後者がヴァシラキス。二人ともEICのメンバーだ。

 「構造」第2巻の演奏は、なぜかピンとこなかった。一方、「ピアノ・ソナタ第2番」の演奏には豊かな流れがあり、上質な音楽を感じた。わたしは今までこの曲をCDや実演で何度か聴いてきたが、この演奏が一番しっくりきたように思う。

 ピンチャーの室内楽のコンサートでは、チェロとピアノのための「光の諸相 Profiles of Light」(2012~15)とソロ・トランペット、ソロ・ホルン、アンサンブルのための「音蝕 sonic eclipse」(2009~10)が演奏された。

 「光の諸相」は、第1部がピアノ独奏、第2部がチェロ独奏、第3部がチェロとピアノのデュオになっている。演奏は、チェロがエリック=マリア・クテュリエ(第2部と第3部)、ピアノが永野英樹(第1部)とディミトリ・ヴァシラキス(第3部)。

 クテュリエはEICのメンバーだが、名手ぞろいのメンバーの中で、わたしがもっとも強い印象を受けた奏者だ。前日までの3回のコンサートでも注目していたが、この「光の諸相」の演奏が決定的になった。人並外れた音楽への没入。それが音楽の深奥に迫る。「光の諸相」の第3部は前日に聴いた「初めに(ベレシート)」(2013)に通じる音楽だ。前日はよくわからないところがあったが、クテュリエの演奏でなにかがつかめた。

 「音蝕」は、第1部がソロ・トランペットと小編成のアンサンブル、第2部がソロ・ホルンと同アンサンブル、第3部がソロ・トランペット、ソロ・ホルンと同アンサンブルで演奏される。ソロ・トランペットとソロ・ホルンはEICのメンバーだ。名前は省略するが、舌を巻くほどうまい。アンサンブルは日本の若手~中堅奏者で編成された。皆さん優秀でよくまとまっていたが、EICと比較すると、EICのほうが個々の奏者のキャラが立っている。そこには超えがたい壁があるように感じた。
(2021.8.25.サントリーホール)
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ピンチャー/EIC:ピンチャー「初めに(ベレシート)」他

2021年08月25日 | 音楽
 アンサンブル・アンテルコンタンポラン(以下「EIC」)の演奏会の三日目は、音楽監督のマティアス・ピンチャーの指揮で5曲が演奏された。まさにEICの本領発揮の演奏会だった。

 1曲目はヘルムート・ラッヘンマン(1935‐)の「動き(硬直の前の)」(1983/84)。沼野雄司氏のプログラム・ノーツによると、「死に瀕し、背中を下にしてひっくり返っているカブトムシ。その脚はもがくように宙を引っ搔くが、虚しくも力尽き、やがて静寂が訪れる……」という曲。その説明だと、あるいは眉をひそめる向きもあるかもしれないが、けっして不吉な曲ではなく、むしろユーモラスで、生きがよく、粒子が飛び交うような曲だ。ラッヘンマンらしい噪音が精妙に構築される。EICの見事な演奏あってこそのおもしろさだ。

 2曲目はピエール・ブーレーズ(1925‐2016)の「メモリアル(…爆発的・固定的…オリジネル)」(1985)。一転して、ブーレーズのこの曲の、なんという上品さだろう。まさにフランス音楽の肌触りだ。ドビュッシーから連綿と続く伝統につながる曲。EICの真綿で包むような音色に魅了された。

 3曲目はマーク・アンドレ(1964‐)の「裂け目(リス)Ⅰ」(2015~17/19)。静謐な音の流れが延々と続く。そこに「あっ、これは何の音だろう」と思うような音が混じる。夜の山野で耳を澄ます曲のように聴こえた。もっとも、バルトークやシャリーノの夜の音楽とはちがい、規則性を持たない音の現れ方だ。まさに実演で聴くべき曲。

 4曲目はジェルジュ・リゲティ(1923‐2006)の「ピアノ協奏曲」(1985~88)。ピアノ独奏はEICのメンバーの永野英樹。全5楽章中、第4楽章はリゲティお得意の(人を食ったような)ナンセンス音楽だ。第5楽章は「3つの拍子、そして自然倍音と平均律が層を成し、圧倒的な渦が聴き手を包み込む」音楽(プログラム・ノーツ)。わたしの耳には無数の波濤が湧きたつ海のように聴こえた。

 5曲目はピンチャー(1971‐)の自作自演「初めに(ベレシート)」(2013)。プログラム・ノーツによれば、演奏時間は約35分。ベートーヴェンの「運命」とほぼ同じ長さだ。ベートーヴェンの「運命」は山あり谷ありのドラマだが、この曲は「ほぼ停滞した時間の中で、特殊奏法を駆使した抑制的なサウンドが続く」(プログラム・ノーツ)。だから聴くほうは大変な集中力が要求される。それは演奏する側も同じだろう。引き伸ばされた極小の音の安定感が求められる。同時に極大な音の瞬発力も必要だ。EICのような腕のいいアンサンブルでないと、この曲はサマにならないだろう。
(2021.8.24.サントリーホール)
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EIC:グリゼイ「時の渦(ヴォルテクス・テンポルム)」他

2021年08月24日 | 音楽
 アンサンブル・アンテルコンタンポラン(以下「EIC」)の演奏会の二日目は、EICのメンバーによる室内楽。全6曲のプログラムだが、なんといっても注目は、ジェラール・グリゼイ(1946‐98)の「時の渦(ヴォルテクス・テンポルム)」(1994‐96)だ。この曲はわたしにとって、一度は聴いてみたい念願の曲だった。演奏順とは異なるが(この曲は最後に演奏された)、まずこの曲から書きたい。

 この曲はピアノと5つの楽器(フルート、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラとチェロ)のための曲だ。3つの部分からなり、大雑把にいうと、急―緩―急の構成。CDで聴くと、ピアノが主導のように思っていたが、実演で聴くと、かならずしもそうではなかった。ただピアノの激烈なソロがあり、その激烈さはCDを超えていた。

 冒頭、渦を巻くような音型で始まる。その音型が(その「渦」が)グリゼイの代表作「音響空間」(1974‐85)のように垂直方向に積みあがるのではなく、水平方向に転がっていく。それが特徴だ。あらかじめ定められた到達目標はなく、音の運動にまかせて、どこに行くかわからないようなスリルがある。

 驚くほど解像度の高い演奏だった。視覚的なイメージとかなんとか、そんなフワッとしたものはなく、すべての音が明るみに出され、隅々まで照射された演奏だ。個々の奏者の名前は省くが、ピアノのセバスチャン・ヴィシャールの名前だけは書いておきたい。凄演という言葉があったかどうか、ともかくそんな言葉がふさわしい演奏だった。

 以下、アットランダムに記録すると、フルート、ヴィオラとハープのための曲が2曲演奏された。武満徹(1930‐96)の「そして、それが風であることを知った」(1992)とマティアス・ピンチャー(1971‐)の「ビヨンドⅡ(「明日に架ける橋」)」(2020)。同じ編成でありながら、音楽は真逆だ。武満徹のほうは、調和した世界を提示して、それが壊されるのを恐れているかのようだ。対してピンチャーのほうは、世界を切り裂き、すべてを粉々にした後、そこに残った破片を見つめるかのようだ。

 それにしても、いうまでもなく、フルート、ヴィオラとハープという編成はドビュッシーのソナタに由来するが、その編成を考案したドビュッシーの天才的な直観には、敬服するというか、舌を巻く。だから今でも多くの作曲家を挑発しているのだろう。

 他にクレール=メラニー・シニュベール(1973‐)の「ハナツリフネソウ」(2020)、バスチアン・ダヴィッド(1990‐)の「ピアノのためのソロ」(2020)、坂田直樹(1981‐)の「月の影を掬う」(2018)が演奏された。それぞれ楽しめた。
(2021.8.23.サントリーホール小ホール)
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ピンチャー/EIC:細川俊夫「二人静」他

2021年08月23日 | 音楽
 今年のサントリーホール・サマーフェスティバルは、パリの現代音楽演奏集団「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」とその音楽監督マティアス・ピンチャー(1971‐)のミニフェスティバルのようになった。

 初日は「東洋-西洋のスパーク」と題され、アンサンブル・アンテルコンタンポラン(以下「EIC」)が委嘱して作曲された細川俊夫(1955‐)のオペラ「二人静~海から来た少女」(2017)とマーラーの「大地の歌」(グレン・コーティーズ編曲)が演奏された。

 「二人静~海から来た少女」(以下「二人静」)は能の「二人静」に基づくオペラだ。台本は平田オリザによる。能の「二人静」は、源義経の愛人・静御前の霊が吉野の菜摘女(なつみおんな)にとりつき、供養を願う話だが、平田オリザは菜摘女を地中海のどこかの海辺に漂着した難民の少女(中東かアフリカからの難民)に置き換えた。静御前の悲劇と難民の少女の悲劇とが重なる。

 わたしはこのオペラを聴きながら、先日インターネットで見た写真を思い出した。その写真は、アフガニスタンが陥落し、多くの人々が国外に逃げようとカブール空港に殺到したとき、空港に置き去りにされた赤ん坊の写真だ。どんな事情で赤ん坊が置き去りにされたかは知る由もないが、その赤ん坊が今後どんな運命をたどるか、心を痛めた。

 そのような難民の悲劇はいまの地球上の至る所にあるにちがいない。このオペラはそれらの悲劇につながるオペラだ。静御前の霊は「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」(「入りにし人」とは源義経のこと)と歌い、少女に「あなたも北に向かうのでしょう。雪があなたの足跡を消してくれる」と語る。

 音楽は近年の細川俊夫のスタイルだ。ますます雄弁さを増している。息苦しいまでの音圧で迫ってくる。寡黙と雄弁、繊細さと豪胆さ、微細な音と野太い音、弛緩と緊張――それらの対照的な要素が同居している。40分程度の短いオペラだが、凝縮されたドラマになっている。EICの演奏はシャープで見事なものだった。少女役はソプラノのシェシュティン・アヴェモ、静御前役は能声楽の青木涼子。西洋音楽の歌唱と能声楽が協演する。違和感はなかった。

 「大地の歌」は室内アンサンブル(というより小編成のオーケストラ)のための編曲版だが(弦楽器を中心に日本の奏者が加わった)、演奏云々よりも、なぜこの曲がプログラムに組まれたのか、疑問が拭えなかった。細川俊夫の「二人静」は同じく細川俊夫のモノドラマ「大鴉」(2014)と「姉妹関係をなす作品」(プログラム・ノート)だそうなので、「大鴉」とのダブルビルはできなかったのかと思うが。
(2021.8.22.サントリーホール)
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「ルル」の台本を読み直す

2021年08月20日 | 音楽
 東京二期会が8月下旬に上演予定のオペラ「ルル」。コロナ感染者が急増中なので、無事に上演できるかどうか不安だが、心配しても仕方がないので、とりあえず台本を読み直した。すると今までとはちがう読み方をしている自分に気が付いた。このオペラのレッテルのような「ファム・ファタール」という言葉にリアリティを感じなかった。

 とくに第1幕はルルをめぐる医事顧問官、画家、シェーン博士の3人の男性のルルへの抑圧が、息苦しいほどに感じられた。ルルはそれらの男性の性的欲望にさらされ、また力による支配を受けている。とはいえ、ルルは一方的な被害者ではない。自分の魅力を知り尽くし、それを最大限に利用する術を心得ている。ルルは消費される存在だが、その中で生き抜く本能を身につけている。

 よくいわれることだが、ルルが愛した男性はシェーン博士だ。第1幕はシェーン博士に支配されていたルルが、やがてシェーン博士を屈服させ、シェーン博士を手に入れるドラマだ。だが、そもそも、なぜルルはシェーン博士を愛したのか。わたしは今回台本を読み直して、それはルルとシェーン博士が似ているからではないかと思った。身勝手さ、もっといえば一種の冷たさが、二人に共通している。だからルルはシェーン博士に惹かれたのではないか。言い換えれば、ルルは他の善良な男性では物足りなかったのだ。

 第2幕の後半から第3幕はルルの転落のドラマだ。今回の東京二期会の上演では、未完の第3幕は上演されない(第2幕の後に「ルル組曲」の抜粋が演奏される)。その第3幕ではルルがロンドンの街娼になり、切り裂きジャック(実在の人物)に殺される。切り裂きジャックはミソジニーの塊のようだ。ルルの末路にもフェミニズムが反映している。

 ルルを愛するゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、今でいうLGBTQのLだが、その面での解放は描かれていない(たぶん時代的な制約だろう)。一方、フェミニズムの観点では、第3幕の最後の独白「私はドイツに帰る。私は大学に入る。私は婦人の権利のため戦わねばならない。法律学を勉強しなければならない。」(渡辺護訳)が注目される。ゲシュヴィッツ伯爵令嬢はその独白の直後に切り裂きジャックに殺される。フェミニズムの芽生えの瞬間にその芽が摘まれる。

 「ルル」はフェミニズム・オペラだといったら、言い過ぎかもしれないが、少なくともその側面はあるだろう。だとすると、もう一歩踏み込んで考えなければならない。告発されているのはだれか、と。このオペラが1937年に初演されて以来、ファム・ファタールだとか、性愛表現だとかいって、このオペラを消費してきたわたしたち観客は、いったいどういう存在なのか。わたし自身、男性社会の意識構造に無自覚にこのオペラを観ていなかったか。今後このオペラを観るとき、わたしも安全な場所にはいないのだ。
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「宮本三郎、画家として Ⅰ」展

2021年08月16日 | 美術
 洋画家・宮本三郎(1905‐1974)に「飢渇」(1943)と「死の家族」(1950)という特異な絵画がある。「飢渇」は戦争画だが、一般の戦争画が戦意高揚のための勇壮な絵画であるのにたいして、「飢渇」は負傷した兵隊たちの悲惨な姿を描いている。また「死の家族」は戦死者の遺体を前に嘆き悲しむ婦女子を描いている。今はともかく当時としては珍しい作例ではないかと思う。

 いずれの作品も宮本三郎記念美術館(東京都世田谷区)の所蔵品だ。必ずしも常時展示されているわけではないが、いま開催中の「宮本三郎、画家として Ⅰ」展で展示中だ。わたしは以前見たことがあるが、もう一度見るために出かけた。

 だれもいない展示室でゆっくり見ることができた。「飢渇」(※画像は下記のリンク先で)は、左腕を包帯でまいた兵隊が、右手を地面につき、目の前の水たまりから水を飲もうとしている。水たまりに兵隊の顔が写っている。狂気のような目だ。ヘルメットの金属の輝きが生々しい。後方には瀕死の兵隊が倒れ、その兵隊に別の兵隊が水を飲ませようとしている。かれらの背後に自転車が転がっている。かれらは戦地を自転車で移動する銀輪部隊だ。移動中に襲われたのだろう。空にはうっすらと夕焼けが見える。戦闘が終わってからの時間の経過が感じられる。

 なんとも虚しさが漂う作品だ。戦地の実相を描いているのだろう。宮本三郎は藤田嗣治などとともに戦地に赴き、多数の戦争画を描いた。中でも東京国立近代美術館が所蔵する「山下、パーシバル両司令官会見図」(1942)(※同上)が有名だ。シンガポール陥落時の両司令官の会見の模様を描いた作品。堂々たる体躯の山下司令官にたいして、相手方のパーシバル司令官は貧弱な体型で描かれ、戦争画に特有の小児性が感じられる。それにひきかえ「飢渇」には戦争の真実が感じられる。

 「死の家族」(※同上)では死んだ男の裸体が横たわっている。戦死者だろう。黒衣の女が泣き崩れている。死んだ男の妻だろう。その女をいたわるように、もう一人の女が付き添っている。その女も戦争未亡人だろう。二人の女のあいだに幼児がいる。死んだ男の子どもだろう。幼児は心配そうに泣き崩れた女(その子の母)に触れている。背景には破壊された街が広がる。青い夜空が美しい。キリストの死を悼むピエタの図像を借りた作品だ。

 「飢渇」では地面についた兵隊の右手の先に白い花が咲いている。その花は兵隊の苦しみを慰めるように感じられる。また「死の家族」では幼児が夜空を見上げている。幼いながらも生きる意志を感じさせる。「飢渇」も「死の家族」も悲痛な作品ではあるが、小さな希望が埋めこまれている。
(2021.8.12.宮本三郎記念美術館)

(※)「飢渇」と「死の家族」の画像(本展のHP)
(※)「山下、パーシバル両司令官会見図」の画像
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桐野夏生「バラカ」

2021年08月12日 | 読書
 桐野夏生(1951‐)の「日没」(2020)を読み、衝撃を受けたので、他の作品もいくつか読んでみようと思った。多作家のようだ。名だたる文学賞の受賞作品も多いが、まずは「日没」の直前の「バラカ」(2016)を読んだ。「バラカ」は原発事故を扱った作品だ。発行に当たって、ある男性作家に推薦文を依頼したところ、「原発のような政治的なテーマは……」と断られたらしい。それが「日没」執筆の動機になったとのこと。

 単行本で640頁あまりの長編だ。少々たじろいだが、意を決して読み始めると、ストーリー展開が鮮やかなので、長さが気にならなかった。大きく分けて三部構成になっている。「大震災前」、「大震災」そして「大震災八年後」。さらに冒頭には「プロローグ」、末尾には「エピローグ」がついている。プロローグは物語の見事な導入になっている。エピローグは読者のハラハラ、ドキドキした気持ちを鎮めてくれる。

 物語は乳幼児の売買市場というショッキングなテーマから始まる。そこに東日本大震災が発生する。福島第一原発の一号機から四号機までのすべてが爆発し、東京をふくむ東日本一帯が居住できなくなる――という設定だが、パニック小説ではなく、原発推進派と原発反対派との鋭い対立がテーマになる。

 「バラカ」とは中東のドバイで売られた少女の名前だ。現地では「神の恩寵」を意味する。バラカを買ったのは日本人の女性だ。バラカは東京に連れてこられる。その後のバラカの数奇な運命がこの物語だ。どこかサスペンス映画を思わせる。ネタバレ厳禁だろうから、具体的な指摘は避けるが、都合のよい展開に思える箇所もなくはなかった。でも、映画だと思えば、あまり気にならなかった。

 ミソジニー(女性嫌悪)の怪物のような人物が登場する。その男がバラカにつきまとう。バラカだけではなく、周囲の女性を次々に不幸にする。ミソジニーが本作のもう一つのテーマだ。本作はミソジニーと、乳幼児の売買と、原発問題との三つのテーマが骨格となり、そこに日本で働く外国人労働者のテーマなどが絡む構成だ。

 たいへんな力作だと思う。本作の骨格の大きさにくらべると、「日没」は本作の副産物という気がする。もちろんそれは「日没」を貶める意味ではなく(本作を読んだ後でも「日没」の衝撃力は少しも減じない)、両作の制作過程を顧みた場合の思いにすぎないが。

 わたしは本作を読んでいるあいだ、前述の推薦文を断った男性作家のことが、頭から離れなかった。そういう作家は、いまの日本社会では、むしろ多数派かもしれない。そんな社会にあって、あえて本作を書いた桐野夏生の気骨を感じた。わたしは桐野夏生と同年生まれだが、だからだろうか、共通の問題意識を感じる。
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フェスタサマーミューザ:下野竜也/日本フィル

2021年08月08日 | 音楽
 東京では朝から台風10号の影響が出始め、ときおり激しい雨が降り、しばらくすると止むという天気が続いた。当日の演奏会はマチネー公演だったので、昼食後、早めに家を出てJRで川崎駅に向かった。川崎駅の手前で雨が降り出し、着いたときには激しい雨になった。駅のコンコースで様子を見た。少し小降りになったころを見計らって、小走りで会場のミューザ川崎に行った。

 当日は下野竜也指揮日本フィルの演奏会。プログラムはメインにベートーヴェンの劇音楽「エグモント」全曲を据え、前半にはウェーバーの「オベロン」序曲、ヴォーン・ウィリアムズの「グリーンスリーヴスによる幻想曲」そしてオットー・ニコライの「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲を置いたもの。

 前半と後半がどう関連するか、よくわからなかったが、下野竜也のプレトークと柴田克彦氏のプログラム・ノーツによれば、前半はシェイクスピアの戯曲によるもの、後半はゲーテの戯曲によるもので、全体としては二大文豪というコンセプトだそうだ。「グリーンスリーヴスによる幻想曲」はどうか?と思ったが、原曲が「ウィンザーの陽気な女房たち」で言及されているらしい。

 演奏だが、「オベロン」序曲でのホルンの安定感(首席奏者の信末さん)、「グリーンスリーヴスによる幻想曲」でのフルートの豊かな音色(首席奏者の真鍋さん)など、個別の奏者は光っていたが、全体としてはアンサンブルを整えるだけで終わったように思う。その中では「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲が一番興に乗った演奏だった。

 わたしは、いっそのこと、プログラム前半はベートーヴェンの交響曲でもやってくれたらよかったのにと思った。「エグモント」と同じころの作品なら、交響曲第6番「田園」あたりになるが、どれにするかは二の次にして、もっと演奏意欲を湧かせるプログラムを考えてほしかった。

 「エグモント」全曲はさすがに目的意識をもった演奏だった。序曲は重厚な音と正統的な形式感をもって演奏された。クレールヒェンの歌2曲を歌った石橋栄実は芯のある歌い方だった。語りをつとめた宮本益光はドラマティックだった。個別の奏者ではオーボエ(首席奏者の杉原さん)の表情豊かな演奏が印象的だった。トランペットの首席は東京シティ・フィルの松木さんがゲストで入った(日本フィルの橋本さんのお弟子さんだ)。

 良い演奏だったのだが、あえていえば、華がほしかった。がっしりと構築された手堅い演奏だが、そこを超える熱い共感とか、偉大さとか、なにかひと味がほしかった。
(2021.8.7.ミューザ川崎)
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フェスタサマーミューザ:バッティストーニ/東京フィル

2021年08月07日 | 音楽
 フェスタサマーミューザの演奏会は、例年は一つか二つしか行かないのだが、今年は興味を惹かれる演奏会が多く、五つの演奏会のチケットを買った。昨日はその中のバッティストーニ指揮東京フィルの演奏会。プログラムはオール・イタリア物。

 1曲目はヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」序曲。オペラティックで血の気が多く、しかも用意周到に設計された演奏だ。見事というほかない。バッティストーニの指揮で(オーケストラはもちろん東京フィルで)オペラ全曲を聴きたくなった。以前このオペラを観たのは2003年だった。当時は若杉弘がびわ湖ホールでヴェルディの初期のオペラを中心に毎年一演目ずつ上演していた。その一環だった。今度はバッティストーニの指揮で上演できないか、と。

 2曲目はレスピーギの組曲「シバの女王ベルギス」。わたしには未知の曲だが、柴田克彦氏のプログラム・ノーツによれば、「一般的にはレアなこの曲、日本の吹奏楽界では屈指の人気作となっている」とのこと。わたしは高校生のときまで吹奏楽をやっていたが、それはもう50年前のこと。曲目は大幅に変わっているのだろう。

 初めて聴くこの曲は、オリエンタルなムードが漂い、迫力にも事欠かない、演奏効果満点の曲だった。原曲はバレエ音楽だが、いまは組曲だけが残っているそうだ。そういわれてみると、たしかにバレエ音楽の出自が感じられるところがあった。

 第3曲の「戦いの踊り」(当日は順番を入れ替えて、2番目に演奏された。その変更は慣例らしい)では、戦いの太鼓に和太鼓が使われた。和太鼓だとどうしても、太鼓を叩いてから音が出るまでに、多少の時間を要する。そのタイムラグといったらよいか、アンサンブルの難しさが気になった。

 3曲目はニーノ・ロータのハープ協奏曲。ハープ独奏は吉野直子。わたしはもちろん初めて聴く。ニーノ・ロータといえば、数多くの映画音楽で有名だが、わたしはその中でも「ロミオとジュリエット」の記憶が鮮明だ。思春期に観たからだろう、ジュリエットを演じた女優に憧れ、音楽に酔った。そのニーノ・ロータが書いたハープ協奏曲は、明るく明快な音楽だが、展開に一筋縄ではいかないところがあり、その点がおもしろかった。吉野直子の演奏はこの曲の魅力を余すところなく伝えたと思う。アンコールにマルセル・トゥルニエの「朝に」という曲が演奏された。

 4曲目はレスピーギの「ローマの松」。これはもう、情熱的で躍動的、歌心があり、用意周到な設計を兼ね備えたバッティストーニの良さが詰まった演奏だった。
(2021.8.6.ミューザ川崎)
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桐野夏生「日没」

2021年08月03日 | 読書
 桐野夏生の「日没」の書評をどこかで読み、それ以来気になっていた。桐野夏生とはどんな作家か、なにも知らなかったが、「日没」を読んでみた。

 主人公の「マッツ夢井」はエンタメ作家だ。世間の良識やタブーに反する性愛の描写を得意とする。そんなマッツ夢井にある日「総務省文化局」の「文化文芸倫理向上委員会」(通称「ブンリン」)から召喚状が届く。じつは数カ月前に出頭の「願い書」が来たのだが、無視していた。そうしたら、今度は「召喚状」が届いたのだ。マッツ夢井は仕方なく千葉県と茨城県との県境の駅に出向く。マッツ夢井を出迎えた職員は、そこから車で一時間ほど茨城県側に入った海辺の「療養所」に連れていく。その療養所は作家を世間の良識に沿った作風に矯正する収容所だった。

 本書が発行されたのは2020年9月だ。初出は『文学』の2016年7・8月号~同年11・12月号と『世界』の2017年4月号~2020年3月号。それらの日付が気になったのは、「日没」で描かれたディストピアが、2021年6月に閉会した通常国会で争点となった入管法改正案(廃案になった)と土地利用規制法(強行採決されて可決した)により、現実味を帯びたように感じられるからだ。

 入管法改正案の審議では、名古屋の入管施設で亡くなったスリランカ人女性のウィシュマさんの死にいたる経緯が問題になった。7月末には出るはずだった法務省の最終報告書はまだ出されず、焦点のヴィデオの開示は依然として拒まれているが、それにもかかわらず漏れ伝わる入管施設の実態は、「日没」の収容所がすでに社会の片隅で現実のものになっていると思わせる。

 また土地利用規制法では、監視対象その他の運用が政府の意のままであることが問題視された。すでに成立した以上、今後の運用によっては「日没」の世界が現実のものになる可能性がある。たとえば「日没」では政府がある作家を拘束する根拠法は「ヘイトスピーチ法」であり、また収容所では作家同士の会話は厳禁され、会話した場合は「共謀罪」で罰せられる。法律の定義を少しずらすだけで、予期せぬ結果が招来される。

 「日没」では政府がある作家を収容対象と認定するのは、上記の「ブンリン」のホームページに書き込まれる読者からのメールに基づく。マッツ夢井の場合は、以前定期的に手紙を送ってくる読者がいて、その読者はマッツ夢井に作品の材料を提供しているつもりらしいが、平凡な材料なので無視していたので、ブンリンのホームページにメールを送られたようだ。現実社会でも、つい先ごろ、政府が各飲食店のコロナ対策の実施状況について、グルメサイトへの投稿によって情報収集しようとした。その発想は「日没」と似ている。「日没」で描かれたディストピア社会はすぐそこまで来ているようだ。
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